第8話:画伯の炎と、闘志の炎!
王都の朝は、血の色に染まっていた。
……と言っても、実際に血が流れたわけでは、ない。
一夜にして、街中の白い壁、石畳、そして広場の噴水までもが、ベットリとした赤いペンキで塗りたくられていたのだ。
それは単なる落書きのレベルを超えていた。まるで巨大な筆で、街というキャンバスを赤一色に塗り潰そうとするかのような、狂気じみた執念を感じさせる「怪奇」だった。
「まったく。……趣味が悪いですわね」
獣医院の二階。
ナラティブ・ヴェリタスは、窓から見える赤い街並みを見下ろし、心底嫌そうに眉をひそめた。
彼女の手には、今朝届いたばかりの新聞が握られている。一面の見出しは『赤の怪人、現る! 芸術テロか?』。
「色彩感覚が欠落していますわ。赤一色なんて、品性がありませんことよ?」
「ふむ。だが、この赤はただの顔料ではないねぇ」
実験台の向こうから、エラーラ・ヴェリタスが顔を出した。
彼女は、窓枠に付着していた赤い塗料をピンセットで採取し、顕微鏡で覗き込んでいる。
「フム?……このスペクトル反応……。強い『情念』が練り込まれている。これは、描きたくても描けなかった者の、血の涙だよ」
エラは顕微鏡から目を離し、静かに言った。
その表情には、いつものマッドサイエンティスト的な興奮よりも、もっと深く、静謐な「怒り」のようなものが滲んでいた。
そこへ、ドタドタと階段を駆け上がってくる足音が響く。
カレル警部だ。
「エ、エラーラ君! 大変だ!『赤の怪人』が美術館に現れた! 警備員の手には負えん、至急頼む!」
ナラは立ち上がり、漆黒のドレスの袖をまくった。
「行きましょう、お母様。……街を汚す不届き者に、清掃代を請求しなくてはなりませんわ」
「ああ。……芸術への冒涜は、科学への冒涜と同義だ。徹底的に解明しよう」
エラーラは白衣を翻し、巨大な分析機材を背負った。
その背中は、いつになく大きく、頼もしく見えた。
現場となった王都立美術館は、惨状を極めていた。
美しい大理石のホールが、赤いペンキの海と化している。
その中心に、不定形の「何か」がいた。
ドロドロに溶けた絵の具が集まり、人の形を成している。
右手に巨大な筆、左手にはパレットを持った、真っ赤な巨人。
顔のあるべき場所には目も鼻もなく、ただぽっかりと開いた空洞が、絶望の叫びを上げているようだった。
『アカ……アカ……。ゼンブ、アカデ、ヌリツブセ……』
「ヒィィッ! 近寄るな!」
警備員たちが腰を抜かして逃げ惑う。
怪人が筆を振るうと、赤い飛沫が散弾のように飛び散り、触れた場所を腐食させていく。
「ごめんあそばせッ!!」
ナラが、美術館の天窓を蹴り破ってエントリーした。
ガラスの雨と共に着地し、即座に鉄扇を展開して赤い飛沫を弾く。
「美術館で暴れるなんて、まったく!マナー違反もいいところですわよ! 入場料は払ったのかしら!?」
『ウガアアアアッ!!』
怪人が咆哮し、巨大な筆をナラに叩きつける。
ナラはステップで回避し、カウンターの回し蹴りを怪人の脇腹に叩き込む。
「くっ……!?」
手応えがない。
蹴った足が絵の具の中にめり込み、逆に捕らえられてしまった。
粘着質な赤が、ナラの足を這い上がってくる。
「離しなさい! 不潔な!」
『オマエモ……アカニナレ……!』
怪人がパレットを振り上げ、ナラを押しつぶそうとする。
「させないよ?」
凛とした声が響いた。
怪人の腕が、見えない衝撃波によって弾き飛ばされた。
入り口に、エラーラが立っていた。
手には、複雑な幾何学模様が刻まれた魔導砲が握られている。
「お母様!」
「ナラ君! そのまま抑えていろ! 解析する!」
エラーラは、恐れることなく怪人に歩み寄った。
普通なら、恐怖で足がすくむような異形の怪物だ。
だが、エラーラの瞳には、恐怖など微塵もない。あるのは、対象を理解しようとする「知性」の光だけ。
「悲しい色だねぇ……」
エラーラは、怪人のドロドロとした身体に、素手で触れた。
赤い絵の具が、彼女の白衣を汚す。
だが、彼女は気にしなかった。
「創造とは、世界への愛だ。……君は、世界を愛していたはずだろう? なぜ、こんな単色で塗りつぶそうとする?」
『……ウルサイ……。オレノ……エヲ……カエセ……』
怪人の動きが止まる。
エラーラの「共感」が、怪異の核に触れたのだ。
彼女は科学者だが、冷血ではない。
むしろ、誰よりも深く「人の営み」を愛しているからこそ、彼女の科学という魔法は、人を救う力を持つのだ。
「……聞こえるよ。君の叫びが」
エラーラは、怪人の胸に『因果抽出式・時間逆行注射器』を突き刺した。
「成分、抽出!」
赤い液体が吸い上げられ、怪人が霧散していく。
後に残ったのは、一枚の焼け焦げたスケッチブックの切れ端だった。
「……解析完了だ」
エラは、シリンジの中の赤い液体を見つめ、沈痛な面持ちで言った。
「彼の名は、レオ。……10年前、この街で最も才能があった貧乏画家だ」
モニターに映し出された過去の映像。
そこには、粗末なアトリエで、楽しそうに絵を描く青年の姿があった。
彼は貧しかったが、その瞳は希望に燃えていた。
だが、ある夜。
一人の男がアトリエを訪れる。
悪徳画商、ガストン。
彼はレオの才能に目をつけたが、レオが「自分の絵は金のために描くんじゃない」と契約を拒否したことに激怒した。
「ガストンは……レオのアトリエに火を放った」
映像の中で、炎がアトリエを包む。
レオは必死にキャンバスを守ろうとしたが、ガストンに殴り倒され、描き上げたばかりの傑作が燃えるのを、ただ泣きながら見ているしかなかった。
「……彼は絶望し、二度と筆を握らなかった。そして先月、失意のうちに病死した」
エラの手が、震えていた。
それは恐怖ではない。
才能ある若者の未来を、たかが、金とプライドのために踏みにじった男への、静かなる激怒だ。
エラーラは、ナラの方を向いた。
その黄金の瞳が、鋭く光る。
エラーラはシリンジをナラに向けた。
「芸術は、人間の魂の証明だ。それを焼くということは、人間を、人間性を否定することと同義だ。……私は科学者、いや、人間として、そんな蛮行を許さない」
ナラは、エラーラの怒りを受け取った。
いつもは飄々としている母が、これほどまでに他人の痛みに寄り添い、怒っている。
その「強さ」と「優しさ」が、ナラの心を震わせた。
「……任せて、お母様」
ナラは首を差し出した。
「あたしが、最高の『赤』を塗り直してきてあげるわ」
赤い液体が魔導回路へ注入される。
ナラの意識が、炎の夜へと飛んだ。
熱い。
焦げ臭い匂いが鼻をつく。
ナラが目を開けると、そこは燃え盛るアトリエの中だった。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
煙が充満している。
部屋の隅で、青年レオが頭から血を流して倒れている。
そして、その前で、肥満体の男――ガストンが、松明を持って笑っていた。
「へっ! 生意気なガキが! 燃えちまえ! 俺に従わない才能なんざ、ゴミ屑だ!」
ガストンが、最後の一枚――レオが魂を込めて描いた「虹の架かる街」の絵に、松明を投げようとした。
(させないッ!)
ナラは動いた。
ドレスの裾が燃えるのも構わず、炎の中を突っ切る。
「お待ちなさい、この三流ブタ野郎ッ!!」
ナラは、床に転がっていたペンキの缶を拾い上げ、ガストンの後頭部めがけてフルスイングした。
「ぶべっ!?」
ペンキ缶がひしゃげ、真っ赤な塗料がガストンの頭から全身にぶちまけられた。
「あ、あちぃ! な、なんだ!? 血か!?」
ガストンがパニックになって叫ぶ。
「いいえ、ただのペンキですわ。……でも、あんたの薄汚い心根にはお似合いの色ね!」
ナラは仁王立ちし、ガストンを見下ろした。
炎の赤と、ペンキの赤。
その中で、漆黒のドレスを着たナラは、まさに復讐の女神のようだった。
「だ、誰だ貴様は!?」
「通りすがりの美術評論家よ!」
ナラは、近くにあったモップを掴み、さらに別のペンキ缶を次々と蹴り飛ばしてぶちまけた。
「あんたには色彩感覚が足りてないみたいだから、あたしが教育してあげるわ!」
「ひぃっ! やめろ!」
ナラはモップに極彩色の絵の具をたっぷりとつけ、ガストンの顔面に押し付けた。
「ほら! もっとカラフルになりなさい! 芸術は爆発ですのよォッ!!」
ナラはモップを振り回し、ガストンをキャンバスのように塗りたくった。
顔も、服も、脂ぎった腹も、すべてが滅茶苦茶な色に染まっていく。
「ぐえぇぇ……目が、目がぁ……」
「さっさと消えなさい! 二度と絵筆に触るんじゃないわよ!」
ナラは最後の一撃として、ガストンの腹に前蹴りを叩き込んだ。
ガストンは叫びながら、窓を突き破って外の池に落ちた。
「ふん。……洗い流してきなさい」
ナラは、荒い息を吐きながら振り返った。
そこには、呆然とこちらを見ているレオがいた。
火の手が迫っている。
「立てる?」
ナラはレオに手を差し伸べた。
「あ……あぁ……僕の絵が……」
レオは、燃えかけている絵を見つめていた。
「バカね」
ナラは、レオの胸ぐらを掴んで立たせた。
「絵なんて、また描けばいいじゃない。……あんたの手が生きてる限り、何度だって描けるわよ」
ナラは、レオの手を取った。
絵の具と煤で汚れた、職人の手。
「この手はね、世界を彩るためにあるの。……絶望なんかで汚しちゃダメよ」
「……っ!」
レオの瞳に、涙が溢れた。
絶望の淵で、彼は見たのだ。
炎よりも熱く、鮮烈な「生」の色を。
「行きましょう。……外の世界は、あんたが思うよりずっと広くて、カラフルよ」
ナラはレオを抱え、炎の中から脱出した。
外の空気は冷たく、そして星空が綺麗だった。
レオは、ナラを見上げて言った。
「……ありがとう。……貴女は、まるで夜空のような人だ」
「あら。……褒め言葉として受け取っておくわ」
ナラの体が光に包まれる。
タイムリミットだ。
「描きなさい、レオ。……あたしが守ったその才能、無駄にしたら承知しませんわよ?」
ナラは最後にウィンクをして、光の中に消えた。
「……おかえり、ナラ君」
目が覚めると、美術館の床だった。
全身が筋肉痛で悲鳴を上げている。
「……ふぅ。ただいま、お母様」
エラーラが、ハンカチでナラの顔についたペンキを拭ってくれた。
その目は、とても優しい。
「で……どうなった?」
「周りを見てみたまえよ」
エラーラが指差した。
美術館の壁には、先ほどまでの赤い惨状は消え失せ、代わりに数々の美しい絵画が飾られていた。
風景画、人物画、抽象画。
どれも、生きる喜びに満ちた、鮮やかな色彩の絵だ。
そして、ホールの中央には、一枚の大きな肖像画が飾られていた。
タイトルは『救済の黒い女神』。
炎の中で微笑む、黒いドレスの女性の絵。
その顔は、ナラにそっくりだった。
「……レオは、あの日から描き続けたんだね」
エラーラが絵を見上げて言った。
「彼は生涯現役で、数多くの名作を残した。……この美術館は、彼の功績を称えて建てられたものに変わっているよ」
ナラは、絵の中の自分と目が合った。
そこには、強くて、美しくて、そして少し寂しげな女性が描かれていた。
「……美化しすぎよ。あたしはもっと、ガサツで乱暴者だわ」
ナラは照れくさそうに鼻をこすった。
「いいや?画家の目には、君の『本質』が見えていたのさ」
エラーラは、ナラの肩を抱いた。
「強くて、優しくて、誰かのために怒れる……最高に美しい女性だとね」
エラーラの言葉が、ナラの胸に染み渡る。
この人は、いつもそうだ。
ナラが自分でさえ認められない部分を、肯定し、愛してくれる。
その「共感力」こそが、エラーラ・ヴェリタスの本当の強さなのだ。
「……ありがとう、お母様」
ナラは、エラーラの肩に頭を預けた。
「あんたが背中を押してくれたから、描けた物語よ」
「ふふ。合作だね」
二人は、色彩豊かな美術館の中を、ゆっくりと歩き出した。
「さて、ナラ君。事件も解決したことだし、報酬代わりに美術館のカフェで高いケーキでも食べようか」
「賛成ですわ! ……でも、ドレスがペンキまみれですのよ?」
「構わんさ! 君は今、芸術の一部なのだから!」
「もう! ……適当なこと言って!」
二人の笑い声が、レオの絵たちに囲まれて響き渡る。
奪われた色は戻り、世界はまた少しだけ鮮やかになった。
王都外れの、獣医病院の2階。
そこには、今日もまた、誰かの「物語」を取り戻すための、温かい灯火が灯っている。




