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【5位】異世界探偵ナラティブ・ヴェリタス  作者: り|20↑|札幌
ナラティブ・ヴェリタス短編集
8/73

第8話:画伯の炎と、闘志の炎!

王都の朝は、血の色に染まっていた。

……と言っても、実際に血が流れたわけでは、ない。

一夜にして、街中の白い壁、石畳、そして広場の噴水までもが、ベットリとした赤いペンキで塗りたくられていたのだ。

それは単なる落書きのレベルを超えていた。まるで巨大な筆で、街というキャンバスを赤一色に塗り潰そうとするかのような、狂気じみた執念を感じさせる「怪奇」だった。


「まったく。……趣味が悪いですわね」


獣医院の二階。

ナラティブ・ヴェリタスは、窓から見える赤い街並みを見下ろし、心底嫌そうに眉をひそめた。

彼女の手には、今朝届いたばかりの新聞が握られている。一面の見出しは『赤の怪人、現る! 芸術テロか?』。


「色彩感覚が欠落していますわ。赤一色なんて、品性がありませんことよ?」


「ふむ。だが、この赤はただの顔料ではないねぇ」


実験台の向こうから、エラーラ・ヴェリタスが顔を出した。

彼女は、窓枠に付着していた赤い塗料をピンセットで採取し、顕微鏡で覗き込んでいる。


「フム?……このスペクトル反応……。強い『情念』が練り込まれている。これは、描きたくても描けなかった者の、血の涙だよ」


エラは顕微鏡から目を離し、静かに言った。

その表情には、いつものマッドサイエンティスト的な興奮よりも、もっと深く、静謐な「怒り」のようなものが滲んでいた。

そこへ、ドタドタと階段を駆け上がってくる足音が響く。

カレル警部だ。


「エ、エラーラ君! 大変だ!『赤の怪人』が美術館に現れた! 警備員の手には負えん、至急頼む!」


ナラは立ち上がり、漆黒のドレスの袖をまくった。


「行きましょう、お母様。……街を汚す不届き者に、清掃代を請求しなくてはなりませんわ」


「ああ。……芸術への冒涜は、科学への冒涜と同義だ。徹底的に解明しよう」


エラーラは白衣を翻し、巨大な分析機材を背負った。

その背中は、いつになく大きく、頼もしく見えた。


現場となった王都立美術館は、惨状を極めていた。

美しい大理石のホールが、赤いペンキの海と化している。

その中心に、不定形の「何か」がいた。

ドロドロに溶けた絵の具が集まり、人の形を成している。

右手に巨大な筆、左手にはパレットを持った、真っ赤な巨人。

顔のあるべき場所には目も鼻もなく、ただぽっかりと開いた空洞が、絶望の叫びを上げているようだった。


『アカ……アカ……。ゼンブ、アカデ、ヌリツブセ……』


「ヒィィッ! 近寄るな!」


警備員たちが腰を抜かして逃げ惑う。

怪人が筆を振るうと、赤い飛沫が散弾のように飛び散り、触れた場所を腐食させていく。


「ごめんあそばせッ!!」


ナラが、美術館の天窓を蹴り破ってエントリーした。

ガラスの雨と共に着地し、即座に鉄扇を展開して赤い飛沫を弾く。


「美術館で暴れるなんて、まったく!マナー違反もいいところですわよ! 入場料は払ったのかしら!?」


『ウガアアアアッ!!』


怪人が咆哮し、巨大な筆をナラに叩きつける。

ナラはステップで回避し、カウンターの回し蹴りを怪人の脇腹に叩き込む。


「くっ……!?」


手応えがない。

蹴った足が絵の具の中にめり込み、逆に捕らえられてしまった。

粘着質な赤が、ナラの足を這い上がってくる。


「離しなさい! 不潔な!」


『オマエモ……アカニナレ……!』


怪人がパレットを振り上げ、ナラを押しつぶそうとする。


「させないよ?」


凛とした声が響いた。

怪人の腕が、見えない衝撃波によって弾き飛ばされた。

入り口に、エラーラが立っていた。

手には、複雑な幾何学模様が刻まれた魔導砲が握られている。


「お母様!」


「ナラ君! そのまま抑えていろ! 解析する!」


エラーラは、恐れることなく怪人に歩み寄った。

普通なら、恐怖で足がすくむような異形の怪物だ。

だが、エラーラの瞳には、恐怖など微塵もない。あるのは、対象を理解しようとする「知性」の光だけ。


「悲しい色だねぇ……」


エラーラは、怪人のドロドロとした身体に、素手で触れた。

赤い絵の具が、彼女の白衣を汚す。

だが、彼女は気にしなかった。


「創造とは、世界への愛だ。……君は、世界を愛していたはずだろう? なぜ、こんな単色で塗りつぶそうとする?」


『……ウルサイ……。オレノ……エヲ……カエセ……』


怪人の動きが止まる。

エラーラの「共感」が、怪異の核に触れたのだ。

彼女は科学者だが、冷血ではない。

むしろ、誰よりも深く「人の営み」を愛しているからこそ、彼女の科学という魔法は、人を救う力を持つのだ。


「……聞こえるよ。君の叫びが」


エラーラは、怪人の胸に『因果抽出式・時間逆行注射器』を突き刺した。


「成分、抽出!」


赤い液体が吸い上げられ、怪人が霧散していく。

後に残ったのは、一枚の焼け焦げたスケッチブックの切れ端だった。


「……解析完了だ」


エラは、シリンジの中の赤い液体を見つめ、沈痛な面持ちで言った。


「彼の名は、レオ。……10年前、この街で最も才能があった貧乏画家だ」


モニターに映し出された過去の映像。

そこには、粗末なアトリエで、楽しそうに絵を描く青年の姿があった。

彼は貧しかったが、その瞳は希望に燃えていた。

だが、ある夜。

一人の男がアトリエを訪れる。

悪徳画商、ガストン。

彼はレオの才能に目をつけたが、レオが「自分の絵は金のために描くんじゃない」と契約を拒否したことに激怒した。


「ガストンは……レオのアトリエに火を放った」


映像の中で、炎がアトリエを包む。

レオは必死にキャンバスを守ろうとしたが、ガストンに殴り倒され、描き上げたばかりの傑作が燃えるのを、ただ泣きながら見ているしかなかった。


「……彼は絶望し、二度と筆を握らなかった。そして先月、失意のうちに病死した」


エラの手が、震えていた。

それは恐怖ではない。

才能ある若者の未来を、たかが、金とプライドのために踏みにじった男への、静かなる激怒だ。

エラーラは、ナラの方を向いた。

その黄金の瞳が、鋭く光る。

エラーラはシリンジをナラに向けた。


「芸術は、人間の魂の証明だ。それを焼くということは、人間を、人間性を否定することと同義だ。……私は科学者、いや、人間として、そんな蛮行を許さない」


ナラは、エラーラの怒りを受け取った。

いつもは飄々としている母が、これほどまでに他人の痛みに寄り添い、怒っている。

その「強さ」と「優しさ」が、ナラの心を震わせた。


「……任せて、お母様」


ナラは首を差し出した。


「あたしが、最高の『赤』を塗り直してきてあげるわ」


赤い液体が魔導回路へ注入される。

ナラの意識が、炎の夜へと飛んだ。


熱い。

焦げ臭い匂いが鼻をつく。

ナラが目を開けると、そこは燃え盛るアトリエの中だった。


「ゲホッ、ゲホッ……!」


煙が充満している。

部屋の隅で、青年レオが頭から血を流して倒れている。

そして、その前で、肥満体の男――ガストンが、松明を持って笑っていた。


「へっ! 生意気なガキが! 燃えちまえ! 俺に従わない才能なんざ、ゴミ屑だ!」


ガストンが、最後の一枚――レオが魂を込めて描いた「虹の架かる街」の絵に、松明を投げようとした。


(させないッ!)


ナラは動いた。

ドレスの裾が燃えるのも構わず、炎の中を突っ切る。


「お待ちなさい、この三流ブタ野郎ッ!!」


ナラは、床に転がっていたペンキの缶を拾い上げ、ガストンの後頭部めがけてフルスイングした。


「ぶべっ!?」


ペンキ缶がひしゃげ、真っ赤な塗料がガストンの頭から全身にぶちまけられた。


「あ、あちぃ! な、なんだ!? 血か!?」


ガストンがパニックになって叫ぶ。


「いいえ、ただのペンキですわ。……でも、あんたの薄汚い心根にはお似合いの色ね!」


ナラは仁王立ちし、ガストンを見下ろした。

炎の赤と、ペンキの赤。

その中で、漆黒のドレスを着たナラは、まさに復讐の女神のようだった。


「だ、誰だ貴様は!?」


「通りすがりの美術評論家よ!」


ナラは、近くにあったモップを掴み、さらに別のペンキ缶を次々と蹴り飛ばしてぶちまけた。


「あんたには色彩感覚が足りてないみたいだから、あたしが教育してあげるわ!」


「ひぃっ! やめろ!」


ナラはモップに極彩色の絵の具をたっぷりとつけ、ガストンの顔面に押し付けた。


「ほら! もっとカラフルになりなさい! 芸術は爆発ですのよォッ!!」


ナラはモップを振り回し、ガストンをキャンバスのように塗りたくった。

顔も、服も、脂ぎった腹も、すべてが滅茶苦茶な色に染まっていく。


「ぐえぇぇ……目が、目がぁ……」


「さっさと消えなさい! 二度と絵筆に触るんじゃないわよ!」


ナラは最後の一撃として、ガストンの腹に前蹴りを叩き込んだ。

ガストンは叫びながら、窓を突き破って外の池に落ちた。


「ふん。……洗い流してきなさい」


ナラは、荒い息を吐きながら振り返った。

そこには、呆然とこちらを見ているレオがいた。

火の手が迫っている。


「立てる?」


ナラはレオに手を差し伸べた。


「あ……あぁ……僕の絵が……」


レオは、燃えかけている絵を見つめていた。


「バカね」


ナラは、レオの胸ぐらを掴んで立たせた。


「絵なんて、また描けばいいじゃない。……あんたの手が生きてる限り、何度だって描けるわよ」


ナラは、レオの手を取った。

絵の具と煤で汚れた、職人の手。


「この手はね、世界を彩るためにあるの。……絶望なんかで汚しちゃダメよ」


「……っ!」


レオの瞳に、涙が溢れた。

絶望の淵で、彼は見たのだ。

炎よりも熱く、鮮烈な「生」の色を。


「行きましょう。……外の世界は、あんたが思うよりずっと広くて、カラフルよ」


ナラはレオを抱え、炎の中から脱出した。

外の空気は冷たく、そして星空が綺麗だった。

レオは、ナラを見上げて言った。


「……ありがとう。……貴女は、まるで夜空のような人だ」


「あら。……褒め言葉として受け取っておくわ」


ナラの体が光に包まれる。

タイムリミットだ。


「描きなさい、レオ。……あたしが守ったその才能、無駄にしたら承知しませんわよ?」


ナラは最後にウィンクをして、光の中に消えた。


「……おかえり、ナラ君」


目が覚めると、美術館の床だった。

全身が筋肉痛で悲鳴を上げている。


「……ふぅ。ただいま、お母様」


エラーラが、ハンカチでナラの顔についたペンキを拭ってくれた。

その目は、とても優しい。


「で……どうなった?」


「周りを見てみたまえよ」


エラーラが指差した。

美術館の壁には、先ほどまでの赤い惨状は消え失せ、代わりに数々の美しい絵画が飾られていた。

風景画、人物画、抽象画。

どれも、生きる喜びに満ちた、鮮やかな色彩の絵だ。

そして、ホールの中央には、一枚の大きな肖像画が飾られていた。

タイトルは『救済の黒い女神』。

炎の中で微笑む、黒いドレスの女性の絵。

その顔は、ナラにそっくりだった。


「……レオは、あの日から描き続けたんだね」


エラーラが絵を見上げて言った。


「彼は生涯現役で、数多くの名作を残した。……この美術館は、彼の功績を称えて建てられたものに変わっているよ」


ナラは、絵の中の自分と目が合った。

そこには、強くて、美しくて、そして少し寂しげな女性が描かれていた。


「……美化しすぎよ。あたしはもっと、ガサツで乱暴者だわ」


ナラは照れくさそうに鼻をこすった。


「いいや?画家の目には、君の『本質』が見えていたのさ」


エラーラは、ナラの肩を抱いた。


「強くて、優しくて、誰かのために怒れる……最高に美しい女性だとね」


エラーラの言葉が、ナラの胸に染み渡る。

この人は、いつもそうだ。

ナラが自分でさえ認められない部分を、肯定し、愛してくれる。

その「共感力」こそが、エラーラ・ヴェリタスの本当の強さなのだ。


「……ありがとう、お母様」


ナラは、エラーラの肩に頭を預けた。


「あんたが背中を押してくれたから、描けた物語よ」

「ふふ。合作だね」


二人は、色彩豊かな美術館の中を、ゆっくりと歩き出した。


「さて、ナラ君。事件も解決したことだし、報酬代わりに美術館のカフェで高いケーキでも食べようか」


「賛成ですわ! ……でも、ドレスがペンキまみれですのよ?」


「構わんさ! 君は今、芸術の一部なのだから!」


「もう! ……適当なこと言って!」


二人の笑い声が、レオの絵たちに囲まれて響き渡る。

奪われた色は戻り、世界はまた少しだけ鮮やかになった。

王都外れの、獣医病院の2階。

そこには、今日もまた、誰かの「物語」を取り戻すための、温かい灯火が灯っている。

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