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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
爆発する理科大学生
73/212

第2話:爆発する理科大学生(2)

進級できたのは奇跡だった。

だが、2年目からは「実験」が始まった。それは、精神を破壊するルーティンワークの始まりだった。

午後の実験『スライムの粘度と魔力伝導率の測定』。

実験自体は、18時に終わる。

だが、そこからが本当の戦いだった。


「……考察。なぜ理論値とズレが生じたのか」


深夜2時。図書館の自習室。

ナラは、羊皮紙に向かってペンを走らせていた。

教授の指定は「手書き厳守。修正魔法の使用禁止。一文字でも間違えたら最初から書き直し」。


「手が……!手首が千切れそうですわ……!」


腱鞘炎の激痛。

書き上げたレポートを見直す。

データの数値が、教科書の理論値と合わない。

実験ミスか? 計測誤差か?

それとも、この世界の理が間違っているのか?


「捏造!…………しちゃ、ダメかしら」


悪魔の囁き。

数値をちょっと書き換えれば、完璧なグラフができる。早く寝られる。

だが、ナラは首を振った。

それは、エラーラが最も嫌う「科学への背信」だ。

そんなことをすれば、二度とお母様の顔を見られない気がした。


「……うぅ……」


ナラは、徹夜で「誤差の原因」を論理的に構築し続けた。

気温、湿度、魔力干渉、スライムの個体差。

ありとあらゆる可能性を検証し、文章にする。

窓の外が白んでくる。

朝だ。

そのまま、1限の授業へ向かう。

ふらふらだ。意識が飛ぶ。

講義の内容が頭に入ってこない。

そして、恐れていたことが起きた。

『必修科目・魔導熱力学』の単位を、落とした。


「……えふ、はんてい…?」


掲示板の前で、ナラは膝から崩れ落ちた。

この科目を落とせば、進級できない。

つまり、留年だ。


「嘘……嘘よ……! あたしが……落第?」


同級生たちは、先へと進んでいく。

ナラだけが、取り残される。

新しい1年生が入ってくる。彼らはナラを、「先輩」「長老」……そして「おばさん」と呼んだ。

「落ちこぼれ」を見る視線が、背中に刺さる。


「……あは。……あはは」


ナラは乾いた笑いを漏らした。

スラムで生き抜いたあたしが。

誰よりも強かったあたしが。

たかだか、紙きれ一枚で、人生を否定されるなんて。

そこからの記憶は、泥沼のように混濁している。

ナラは、大学という名の迷宮を彷徨っていた。

友達は、いない。

皆、卒業していくか、耐えきれずに退学して消えていくか、あるいは、周りを巻き込みながら唐突に行方不明になった。

残ったのは、ナラと、同じように留年を繰り返す、死んだ魚のような目をした「ぬし」たちだけ。


「……先輩。過去問、あります?」


「……ない。教授が変わった」


情報戦。

この大学では、過去の試験問題を入手できるかどうかが、生死を分ける。

だが、孤立しているナラには情報が回ってこない。

真面目に勉強しても、傾向が変われば解けない理不尽。

魔導演算機の授業では、環境構築だけで3日徹夜した。

マニュアルは古代語。


「エラー!?なぜ動きませんの!? あたしの魔力は完璧なはずなのに!」


画面に映る文字が、ナラの神経をやすりで削る。

ナラは、ボロボロだった。

肌は荒れ、目の下には消えないクマ。

かつての「一流のレディ」の輝きは見る影もない。

鏡に映るのは、薄汚れた白衣を着て、ブツブツと数式を呟く、陰気な女。


「……帰りたい」


ナラは、実験室の隅で膝を抱えた。


「お母様……。ごめんなさい……。勉強なんて簡単だなんて言って、ごめんなさい……」


謝っても、誰も助けてくれない。

ここは、自分の力で「解」を出さなければ、絶対に出られない檻なのだ。

留年を重ね、ようやく4年生(通算7年目)になったナラを待っていたのは、最後の関門だった。

研究室配属。

ナラが配属されたのは、学内で最も恐れられる「アビス研究室」。

教授は、エラーラの恩師でもある、伝説の鬼教授だった。


「我が研究室に、休みという概念はない」


教授は、初日にそう宣言した。


「魔獣細胞の培養は24時間体制だ。……君たちは、今日からここで寝起きしなさい」


拘束時間は、朝9時から翌朝9時まで。

つまり、帰れない。

研究室の床に寝袋を敷き、交代で細胞の世話をする。

風呂は3日に一度、実験用シャワーを浴びるだけ。

食事は、保存食のみ。


「……あたしは、人間ですか?……」


ナラは、培養液をかき混ぜながら呟いた。


「奴隷じゃ……ありませんのよ……」


就職活動?

そんなものをする暇はない。

「就活で実験を休みます」と言おうものなら、教授から「君は真理の探究よりも、自分の生活を優先するのかね?」と氷のような視線を浴びせられる。

ナラは、精神の限界を迎えていた。

ある夜、フラスコを振っていると、涙が止まらなくなった。


「……なんで……」


なんで、こんなことをしているんだろう。

こんな粉末の重さを量って、何になるの?

この数値が、世界を救うの?

ただの自己満足じゃないの?

ナラは、窓の外を見た。

王都の夜景が輝いている。あそこには、普通の生活がある。

笑って、食べて、愛し合う人たちがいる。

あたしだけが、世界から切り離されている。


「……やめたい」


ナラは、フラスコを床に叩きつけそうになった。

その時。

フラスコの中の液体が、微かに発光した。


「……あ?」


ナラは手を止めた。

青白い光。

それは、ナラが半年間、何千回と失敗し続けてきた実験の、「成功」の光だった。

理論値通りの反応。

教科書に書いてあった通りの、美しい結晶構造。


「……綺麗」


ナラは、息を呑んだ。

薄汚い実験室の、薄暗い片隅で。

その小さな光だけが、世界で一番純粋なものに見えた。

ナラの胸が、高鳴った。

これが、「真理」か。

お母様が、命を懸けて追い求めていた景色か。

混沌とした世界の中に隠された、揺るぎない法則。

それを見つけ出した瞬間の、背筋が震えるような感動。

「わかった」という快感。

未知が既知に変わる瞬間の、脳髄が痺れるような興奮。


「……すごい」


ナラは、涙を流しながら笑った。


「科学って……こんなに、美しいのね」


苦しみも、孤独も、寝不足も。

この一瞬の光を見るためなら、耐えられるかもしれない。

ナラは初めて、エラーラが「マッドサイエンティスト」である理由を理解した。

これは、毒だ。

一度知ってしまえば、もう戻れない、知的な麻薬だ。


「……もう少しだけ、やってみますわ」


ナラは、フラスコを抱きしめた。

彼女の瞳に、かつての「修羅」の光とは違う、静かで強い「探究者」の光が宿った。


8年目。

ナラは、卒業論文の執筆に取り掛かっていた。

テーマは『スラム環境における魔力汚染の浄化プロセス』。

自身の原点であるスラムを、科学の力で救うための研究だ。

ナラは書いた。

来る日も来る日も、魔導タイプライターを叩き続けた。

論理の矛盾を潰し、データを検証し、反証に耐えうる「真実」を積み上げていく。

それは、魔獣と戦うよりも遥かに過酷な、自分自身との戦いだった。

そして、ついに迎えた卒業諮問会。

並み居る教授陣の前で、ナラは壇上に立った。

12歳(中身は8年歳を取っている)の少女は、もう震えていなかった。

その瞳は、理性の光で満ちていた。


「……以上が、本研究の結論です」


ナラは、堂々と発表を終えた。

沈黙。

そして、あのアビス教授が、ゆっくりと口を開いた。


「……悪くないね」


教授は、眼鏡を押し上げた。


「君の仮説には、独創性と、泥臭い実証データがあるかもね……ん、合格」


「……!」


拍手は、ない。

だが、教授のその一言は、どんな喝采よりも重かった。


「……ありがとうございます!」


ナラは、深々と頭を下げた。

8年。

長かった。本当に、長かった。

でも、無駄じゃなかった。

卒業式。

ナラは、角帽を空に投げた。


「終わったぁぁぁぁっ!!!」


光が、視界を覆う。

仮想空間が崩壊し、現実へと帰還する。


「……ッ!!!」


ナラは、ソファの上で飛び起きた。

全身汗だく。心臓が早鐘を打っている。

目の前には、いつもの獣医院のリビング。

時計を見る。

午後3時。

「体験学習」を始めてから、わずか5分しか経っていなかった。


「……5分?」


ナラは、自分の手を見た。

ペンだこはない。肌も荒れていない。

だが、脳裏には8年分の疲労と、知識の重みが焼き付いている。


「お目覚めかね、ナラ君」


エラーラが、コーヒーを飲んでいた。

その姿を見た瞬間、ナラは涙が止まらなくなった。


「……お母様……」


「どうだった? 『楽園』の居心地は」


エラーラは、悪戯っぽく笑った。

だが、ナラは笑えなかった。

彼女は、ガタガタと震えながら、エラの足元に崩れ落ちた。


「……化け物ですわ」


ナラは、心の底からの敬意と、畏怖を込めて言った。


「お母様…は……あんな地獄を……それも『飛び級』というさらに過酷な条件で、トップの成績で駆け抜けてきたのですか……?」


ただ本を読んでいたわけではない。

血反吐を吐き、睡眠を削り、青春をドブに捨てて。

孤独とプレッシャーの中で、たった一人で「知性」という武器を磨き上げてきたのだ。

その精神力は、ナラが知るどんな戦士よりも強靭だ。


「怒ってないよ」


エラーラは、カップを置いて、ナラの頭を撫でた。


「ただ……。科学への道は平坦ではないと、知ってほしかっただけさ」


エラーラの手は、優しかった。

その手もまた、かつてインクと薬品で汚れ、傷ついてきた手なのだ。


「……ごめんなさい。……あたし、何も知らなくて」


「いいさ。……君には、君の戦場があった。私には、私の戦場があった。それだけのことだよ」


エラーラは、ナラを抱き寄せた。


「それに……。君が『知る喜び』を感じた瞬間があっただろう?」


「……ええ」


ナラは思い出した。

あの実験室で見た、青白い光を。

世界の秘密に触れた、あの震えるような感動を。


「あれが、私の生きる糧だ。……あれがあるから、私はどんな地獄でも歩ける」


「……分かりますわ」



ナラは、涙を拭った。

そして、立ち上がった。


「お母様。……コーヒー、淹れ直しますわ」


「おや? さっき淹れたばかりだが」


「ぬるいですもの」


ナラは、キッチンに立った。

その背中は、少しだけ大きく見えた。

ただの「世間知らずのお嬢様」ではない。

知性の重みと、学ぶことの尊さを知った、一人の「学生」の背中だった。


「……今度は、最高に甘いケーキも焼いてあげますわ」


「ほう! それは楽しみだ! 脳が糖分を求めている!」


「ええ。……あんたの頭脳には、それだけの価値がありますもの」


ナラは、丁寧にコーヒーをドリップした。

香りが広がる。

それは、苦くて、でも奥底に甘みのある、大人の味だった。

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