第2話:爆発する理科大学生(2)
進級できたのは奇跡だった。
だが、2年目からは「実験」が始まった。それは、精神を破壊するルーティンワークの始まりだった。
午後の実験『スライムの粘度と魔力伝導率の測定』。
実験自体は、18時に終わる。
だが、そこからが本当の戦いだった。
「……考察。なぜ理論値とズレが生じたのか」
深夜2時。図書館の自習室。
ナラは、羊皮紙に向かってペンを走らせていた。
教授の指定は「手書き厳守。修正魔法の使用禁止。一文字でも間違えたら最初から書き直し」。
「手が……!手首が千切れそうですわ……!」
腱鞘炎の激痛。
書き上げたレポートを見直す。
データの数値が、教科書の理論値と合わない。
実験ミスか? 計測誤差か?
それとも、この世界の理が間違っているのか?
「捏造!…………しちゃ、ダメかしら」
悪魔の囁き。
数値をちょっと書き換えれば、完璧なグラフができる。早く寝られる。
だが、ナラは首を振った。
それは、エラーラが最も嫌う「科学への背信」だ。
そんなことをすれば、二度とお母様の顔を見られない気がした。
「……うぅ……」
ナラは、徹夜で「誤差の原因」を論理的に構築し続けた。
気温、湿度、魔力干渉、スライムの個体差。
ありとあらゆる可能性を検証し、文章にする。
窓の外が白んでくる。
朝だ。
そのまま、1限の授業へ向かう。
ふらふらだ。意識が飛ぶ。
講義の内容が頭に入ってこない。
そして、恐れていたことが起きた。
『必修科目・魔導熱力学』の単位を、落とした。
「……えふ、はんてい…?」
掲示板の前で、ナラは膝から崩れ落ちた。
この科目を落とせば、進級できない。
つまり、留年だ。
「嘘……嘘よ……! あたしが……落第?」
同級生たちは、先へと進んでいく。
ナラだけが、取り残される。
新しい1年生が入ってくる。彼らはナラを、「先輩」「長老」……そして「おばさん」と呼んだ。
「落ちこぼれ」を見る視線が、背中に刺さる。
「……あは。……あはは」
ナラは乾いた笑いを漏らした。
スラムで生き抜いたあたしが。
誰よりも強かったあたしが。
たかだか、紙きれ一枚で、人生を否定されるなんて。
そこからの記憶は、泥沼のように混濁している。
ナラは、大学という名の迷宮を彷徨っていた。
友達は、いない。
皆、卒業していくか、耐えきれずに退学して消えていくか、あるいは、周りを巻き込みながら唐突に行方不明になった。
残ったのは、ナラと、同じように留年を繰り返す、死んだ魚のような目をした「主」たちだけ。
「……先輩。過去問、あります?」
「……ない。教授が変わった」
情報戦。
この大学では、過去の試験問題を入手できるかどうかが、生死を分ける。
だが、孤立しているナラには情報が回ってこない。
真面目に勉強しても、傾向が変われば解けない理不尽。
魔導演算機の授業では、環境構築だけで3日徹夜した。
マニュアルは古代語。
「エラー!?なぜ動きませんの!? あたしの魔力は完璧なはずなのに!」
画面に映る文字が、ナラの神経をやすりで削る。
ナラは、ボロボロだった。
肌は荒れ、目の下には消えないクマ。
かつての「一流のレディ」の輝きは見る影もない。
鏡に映るのは、薄汚れた白衣を着て、ブツブツと数式を呟く、陰気な女。
「……帰りたい」
ナラは、実験室の隅で膝を抱えた。
「お母様……。ごめんなさい……。勉強なんて簡単だなんて言って、ごめんなさい……」
謝っても、誰も助けてくれない。
ここは、自分の力で「解」を出さなければ、絶対に出られない檻なのだ。
留年を重ね、ようやく4年生(通算7年目)になったナラを待っていたのは、最後の関門だった。
研究室配属。
ナラが配属されたのは、学内で最も恐れられる「アビス研究室」。
教授は、エラーラの恩師でもある、伝説の鬼教授だった。
「我が研究室に、休みという概念はない」
教授は、初日にそう宣言した。
「魔獣細胞の培養は24時間体制だ。……君たちは、今日からここで寝起きしなさい」
拘束時間は、朝9時から翌朝9時まで。
つまり、帰れない。
研究室の床に寝袋を敷き、交代で細胞の世話をする。
風呂は3日に一度、実験用シャワーを浴びるだけ。
食事は、保存食のみ。
「……あたしは、人間ですか?……」
ナラは、培養液をかき混ぜながら呟いた。
「奴隷じゃ……ありませんのよ……」
就職活動?
そんなものをする暇はない。
「就活で実験を休みます」と言おうものなら、教授から「君は真理の探究よりも、自分の生活を優先するのかね?」と氷のような視線を浴びせられる。
ナラは、精神の限界を迎えていた。
ある夜、フラスコを振っていると、涙が止まらなくなった。
「……なんで……」
なんで、こんなことをしているんだろう。
こんな粉末の重さを量って、何になるの?
この数値が、世界を救うの?
ただの自己満足じゃないの?
ナラは、窓の外を見た。
王都の夜景が輝いている。あそこには、普通の生活がある。
笑って、食べて、愛し合う人たちがいる。
あたしだけが、世界から切り離されている。
「……やめたい」
ナラは、フラスコを床に叩きつけそうになった。
その時。
フラスコの中の液体が、微かに発光した。
「……あ?」
ナラは手を止めた。
青白い光。
それは、ナラが半年間、何千回と失敗し続けてきた実験の、「成功」の光だった。
理論値通りの反応。
教科書に書いてあった通りの、美しい結晶構造。
「……綺麗」
ナラは、息を呑んだ。
薄汚い実験室の、薄暗い片隅で。
その小さな光だけが、世界で一番純粋なものに見えた。
ナラの胸が、高鳴った。
これが、「真理」か。
お母様が、命を懸けて追い求めていた景色か。
混沌とした世界の中に隠された、揺るぎない法則。
それを見つけ出した瞬間の、背筋が震えるような感動。
「わかった」という快感。
未知が既知に変わる瞬間の、脳髄が痺れるような興奮。
「……すごい」
ナラは、涙を流しながら笑った。
「科学って……こんなに、美しいのね」
苦しみも、孤独も、寝不足も。
この一瞬の光を見るためなら、耐えられるかもしれない。
ナラは初めて、エラーラが「マッドサイエンティスト」である理由を理解した。
これは、毒だ。
一度知ってしまえば、もう戻れない、知的な麻薬だ。
「……もう少しだけ、やってみますわ」
ナラは、フラスコを抱きしめた。
彼女の瞳に、かつての「修羅」の光とは違う、静かで強い「探究者」の光が宿った。
8年目。
ナラは、卒業論文の執筆に取り掛かっていた。
テーマは『スラム環境における魔力汚染の浄化プロセス』。
自身の原点であるスラムを、科学の力で救うための研究だ。
ナラは書いた。
来る日も来る日も、魔導タイプライターを叩き続けた。
論理の矛盾を潰し、データを検証し、反証に耐えうる「真実」を積み上げていく。
それは、魔獣と戦うよりも遥かに過酷な、自分自身との戦いだった。
そして、ついに迎えた卒業諮問会。
並み居る教授陣の前で、ナラは壇上に立った。
12歳(中身は8年歳を取っている)の少女は、もう震えていなかった。
その瞳は、理性の光で満ちていた。
「……以上が、本研究の結論です」
ナラは、堂々と発表を終えた。
沈黙。
そして、あのアビス教授が、ゆっくりと口を開いた。
「……悪くないね」
教授は、眼鏡を押し上げた。
「君の仮説には、独創性と、泥臭い実証データがあるかもね……ん、合格」
「……!」
拍手は、ない。
だが、教授のその一言は、どんな喝采よりも重かった。
「……ありがとうございます!」
ナラは、深々と頭を下げた。
8年。
長かった。本当に、長かった。
でも、無駄じゃなかった。
卒業式。
ナラは、角帽を空に投げた。
「終わったぁぁぁぁっ!!!」
光が、視界を覆う。
仮想空間が崩壊し、現実へと帰還する。
「……ッ!!!」
ナラは、ソファの上で飛び起きた。
全身汗だく。心臓が早鐘を打っている。
目の前には、いつもの獣医院のリビング。
時計を見る。
午後3時。
「体験学習」を始めてから、わずか5分しか経っていなかった。
「……5分?」
ナラは、自分の手を見た。
ペンだこはない。肌も荒れていない。
だが、脳裏には8年分の疲労と、知識の重みが焼き付いている。
「お目覚めかね、ナラ君」
エラーラが、コーヒーを飲んでいた。
その姿を見た瞬間、ナラは涙が止まらなくなった。
「……お母様……」
「どうだった? 『楽園』の居心地は」
エラーラは、悪戯っぽく笑った。
だが、ナラは笑えなかった。
彼女は、ガタガタと震えながら、エラの足元に崩れ落ちた。
「……化け物ですわ」
ナラは、心の底からの敬意と、畏怖を込めて言った。
「お母様…は……あんな地獄を……それも『飛び級』というさらに過酷な条件で、トップの成績で駆け抜けてきたのですか……?」
ただ本を読んでいたわけではない。
血反吐を吐き、睡眠を削り、青春をドブに捨てて。
孤独とプレッシャーの中で、たった一人で「知性」という武器を磨き上げてきたのだ。
その精神力は、ナラが知るどんな戦士よりも強靭だ。
「怒ってないよ」
エラーラは、カップを置いて、ナラの頭を撫でた。
「ただ……。科学への道は平坦ではないと、知ってほしかっただけさ」
エラーラの手は、優しかった。
その手もまた、かつてインクと薬品で汚れ、傷ついてきた手なのだ。
「……ごめんなさい。……あたし、何も知らなくて」
「いいさ。……君には、君の戦場があった。私には、私の戦場があった。それだけのことだよ」
エラーラは、ナラを抱き寄せた。
「それに……。君が『知る喜び』を感じた瞬間があっただろう?」
「……ええ」
ナラは思い出した。
あの実験室で見た、青白い光を。
世界の秘密に触れた、あの震えるような感動を。
「あれが、私の生きる糧だ。……あれがあるから、私はどんな地獄でも歩ける」
「……分かりますわ」
ナラは、涙を拭った。
そして、立ち上がった。
「お母様。……コーヒー、淹れ直しますわ」
「おや? さっき淹れたばかりだが」
「ぬるいですもの」
ナラは、キッチンに立った。
その背中は、少しだけ大きく見えた。
ただの「世間知らずのお嬢様」ではない。
知性の重みと、学ぶことの尊さを知った、一人の「学生」の背中だった。
「……今度は、最高に甘いケーキも焼いてあげますわ」
「ほう! それは楽しみだ! 脳が糖分を求めている!」
「ええ。……あんたの頭脳には、それだけの価値がありますもの」
ナラは、丁寧にコーヒーをドリップした。
香りが広がる。
それは、苦くて、でも奥底に甘みのある、大人の味だった。




