第1話:爆発する理科大学生(1)
王都の朝。陽だまり獣医院のリビングは、いつものように穏やかな光に満ちていた。
だが、その平穏は、ナラティブ・ヴェリタスの何気ない一言によって、不可逆的に崩れ去ることになる。
「……お母様。また徹夜ですの?」
ナラは、ダイニングテーブルを占拠する羊皮紙の山と、髪を振り乱して計算式と格闘するエラーラ・ヴェリタスを見て、呆れ半分に声をかけた。
エラの目の下には濃いクマがあり、カップの中のコーヒーは泥のように煮詰まっている。
「ああ……計算が合わない……論理的に考えて、私の脳内シミュレーションと現実の観測データにズレが生じている……」
「ふーん。……大変ですわね?」
ナラは優雅に紅茶を啜った。
スラム育ちで学のない彼女にとって、机に向かってペンを動かすだけの作業は、肉体労働に比べれば「楽な遊び」のように見えていたのだ。
「でも、お母様は天才で、飛び級で大学を卒業なさったんでしょう? ……だったら、そんな紙切れ一枚の計算なんて、お茶の子さいさいなんじゃなくって?」
ナラは、悪気なく続けた。
「学校なんて、紙を広げてただ座っていればいいし……。泥水を啜って生きることに比べれば、温室のような『楽園』だったんじゃありませんの?」
ピタリ。
エラのペンの音が止まった。
「……ナラ君?」
エラーラが顔を上げた。
その表情は、笑っていた。
聖母のように穏やかで、そして能面のように感情のない笑顔。
「……私は……怒ってないよ」
「え?」
「君が、学問という深淵を『座っているだけの楽園』と表現したことについて……怒ってないよ?」
エラーラの眼鏡が、キラリと冷たく光った。
ナラの背筋に、寒気が走る。
生存本能が警鐘を鳴らしている。これは、猛獣の檻に入った時と同じ感覚だ。
「そ、そうですか。ならよかったですわ……」
「ああ。怒ってないよ。」
エラーラは静かに立ち上がった。
その手には、怪しげなヘッドギアのような魔導具が握られていた。
「ただね、君は義務教育を受けていない。……これでは、私の娘として教養に欠ける。だから、少しばかり『体験学習』をしてもらおうと思ってね……」
「た、体験……?」
「私の母校、『東都理科大学』のカリキュラムをね。……ただし、難易度と君の学力は、私の主観体感時間に基づく『真実』モードだ」
エラーラは、笑顔のまま一瞬で距離を詰め、ナラの頭にヘッドギアを装着した。
「ちょ、何ですのこれ! 外しなさい!」
「安心したまえ。……卒業するまでは、絶対に覚めない仕様だ。君なら、きっと『楽園』を楽しめるはずさ」
「お母様ッ!?」
「行ってらっしゃい。……真理の門へ」
エラーラがスイッチを押した。
ナラの意識が、ブラックホールに吸い込まれるように暗転した。
「……ッ!」
ナラが目を開けると、そこは巨大な石造りの門の前だった。
見上げれば、威圧的な校舎が城のようにそびえ立っている。
『東都理科大学』。
この国における最高学府であり、天才たちの墓場。
「……あら? 体が……」
ナラは自分の手を見た。小さい。
鏡を見ると、そこには12歳くらいの姿になった自分がいた。
飛び級で入学した設定なのだ。
「ふん。……子供扱いなんて心外ですけれど。まあいいわ」
ナラは、真新しい制服の埃を払い、自信満々に胸を張った。
「勉強? ペーパーテスト? ……あたしを誰だと思って?こんな子供だまし、3日で卒業して見せますわ!」
ナラは、意気揚々と校門をくぐった。
それが、終わらない悪夢の入り口だとも知らずに。
「……は?」
オリエンテーション初日。
ナラは配られた時間割表を見て、絶句した。
月曜日から土曜日まで。
朝9時の1限から、夕方6時の5限まで。
『魔導微積分』『量子精霊力学』『古代ルーン言語学』『錬金術基礎』……。
マス目が、びっしりと埋まっている。
空きコマ? 昼休み? そんな概念は存在しない。
「な、何ですのこれ……? トイレに行く時間もありませんわよ!?」
授業が始まる。
教室には、分厚い眼鏡をかけた男たちと、ボサボサ頭の女たちが、死んだような目で座っている。
キラキラしたキャンパスライフなど、どこにもない。
教授が入ってくる。
「えー、教科書は購入しましたかな? 『基礎魔導物理学』上下巻、および演習書、参考資料……」
ナラは購買部に行った。
そして、レジの前で悲鳴を上げた。
「一冊、金貨30枚(約3万円)!? ぼったくりですわ!しかも、教授の自費出版……ぼったくりですわ!」
……それが、10教科分ある。
ナラの財布には、そんな大金はない。
バイトをしようにも、朝から晩まで授業だ。
どうする?
「……ランチを、抜くしかありませんわね」
ナラは、昼食代を削り、睡眠時間を削り、教科書を買った。
スラム時代以来の飢餓感。
だが、本当の地獄はここからだった。
授業の内容が、全く理解できない。
教授が黒板に書く数式は、呪文にしか見えない。
「ここは高校で習った範囲だから飛ばすぞ」と言われるが、ナラは義務教育すら受けていない。
「ま、待ってくださいまし! その記号は何ですの!?」
「静かに。授業の妨げだ」
置いていかれる。
周囲の学生たちがカリカリとペンを走らせる中、ナラだけが白紙のノートを前に冷や汗を流す。
「……嘘でしょ。あたしが……ついていけない?」
プライドが削られる音がした。
肉体的な暴力なら耐えられる。だが、この「無知であることの惨めさ」は、ナラの精神を鋭利な刃物のように切り刻んだ。
その夜。
ナラは寮の狭い部屋で、辞書を片手に教科書と格闘していた。
1ページ進むのに、3時間かかる。
「……こんなの、ただの紙切れじゃない。……なんで、こんなに重いのよ……」
窓の外は、漆黒の闇。
獣医院の温かいベッドが恋しい。エラの淹れたコーヒーが飲みたい。
でも、帰れない。
卒業するまでは、この孤独な牢獄から出られない。
ナラは、涙をこらえてペンを握った。
まだ、1年目の春だった。




