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第2話:悪魔の悪夢の乳母車(2)

獣病院の朝は、生ゴミの腐臭と共に始まった。


「……素晴らしいね。我が家の玄関が、現代アートの実験場になっている」


エラーラは、玄関前に積み上げられたゴミの山を、まるで新種の菌類でも見るかのように観察していた。

生卵、動物の死骸、そして赤文字で『人殺し』『特権階級の豚』と書かれた張り紙。

あたし、ナラは、こめかみに青筋を浮かべながら、その惨状を見つめていた。


「お母様、感心していないで片付けを手伝って! 衛生環境が最悪ですわ!」


「私は忙しいんだよ。このゴミの配置には、投棄した人間たちの『集団無意識』によるカオス理論が働いている気がしてね……」


エラーラは興味深そうに写真を撮り、さっさと奥の研究室へ引っ込んでしまった。

あたしは一人、溜息をつきながらデッキブラシを握った。

あの日、パン屋が焼け落ちてから数日。

事態は沈静化するどころか、膿が破裂したように悪化していた。

その中心にいるのは、あの女、ミナだ。

彼女は今や、街の「ヒロイン」だった。


『虐待者の血を引く男の麻薬密売を勇気を持って告発し、その報復として魔導学者ヴェリタス家から脅されている悲劇のシングルマザー』


もう、滅茶苦茶である。

だが、それが、彼女が井戸端会議で拡散した、新しい「物語」だった。


「見て! あの女よ! ヴェリタスの!」


「怖い……ミナさんをいじめてる人だ……」


通りがかる人々が、ゴミを掃除するあたしを指差し、ひそひそと噂する。

彼らは真実など知らない。知ろうともしない。

ただ、ミナが涙ながらに語る「分かりやすいかわいそうな話」を消費し、義憤に駆られる自分に酔っているだけだ。

その時、重厚な魔導車がゴミの山の前に停まった。

降りてきたのは、疲れ切った顔のカレル警部だ。


「……やれやれ。ひどいもんですな」


「警部。公務執行妨害でこの野次馬どもを逮捕できませんの?」


「『表現の自由』とやらが厄介でね。それに、今の彼らに手を出せば、警察も『権力の犬』として火だるまにされる。……ところで、今日は知らせに来たんですよ」


警部は帽子を取り、バツが悪そうに言った。


「ハンスが、釈放された。」


「はああああ?」


あたしはブラシを取り落としそうになった。

あの大量の麻薬原料が見つかったのに?


「証拠不十分。あの家から見つかった魔香の原料は、鑑定の結果、数十年前に精製された古いものだと判明しました。つまり、父親の遺品である可能性が高い。ハンス本人の指紋も検出されず、彼がそれを販売していたという決定的な証拠も出なかった」


「でも、彼は店主でしょう!? 管理責任は……」


「『知らなかった』の一点張りで、それを覆す証拠がない。法律というのは、時に無能でしてね」


警部はため息をつき、去っていった。

後に残されたのは、やり場のない怒りと、嫌な予感だけだった。

その予感は、すぐに現実のものとなった。

その日の夕暮れ。

玄関のチャイムが、執拗に鳴らされた。

モニターなどない。あたしがドアを開けると、そこには幽霊のように痩せこけた男が立っていた。

ハンスだった。


「……なんの用ですの?」


あたしは警戒して鉄扇に手をかけた。

ハンスは、焦点の合わない目でじっとあたしを見上げた。怒り狂っているわけでも、謝罪に来たわけでもない。

ただ、ひどく「粘着質」な空気を纏っていた。


「店が……なくなったんです」


「……ええ。燃やされましたからね」


「住む場所も、金も、全部燃えた。……あんたたちが、助けてくれなかったから」


「はぁ!? ふざけないで! あたしは止めようとしましたわ! そもそも、あなたが麻薬なんか持っているから……」


「俺は知らない!!」


ハンスが突然叫んだ。

その大声に、近所の野次馬たちが「何事か」と集まり始める。ハンスは、急に弱々しい声色を作って、涙を流してみせた。


「俺は……被害者なんだ。親父が勝手にやったことだ。俺はただ、真面目にパンを焼いていただけなのに……ヴェリタス様は、俺を見捨てた……」


「ちょっと、あんた……」


「おい、あれハンスさんじゃないか?」


「かわいそうに」


「やっぱりヴェリタス家が圧力を……」


野次馬たちの視線が、針のようにあたしに突き刺さる。

ハンスは、その視線を背に受けて、ニタリと笑った気がした。いや、笑っていない。彼はただ、本能的に「自分が弱者に見えるポジション」を確保したのだ。


「……帰ってください。これ以上騒ぐなら、警察を呼びます」


あたしはドアを叩きつけた。

心臓が早鐘を打つ。

あいつは、弱い。弱いが故に、恥も外聞もなく、他人の良心や世間体に寄生しようとしている。

翌日から、ハンスの「出勤」が始まった。

彼は毎日、獣病院の前に座り込んだ。何も言わず、ただじっと、恨めしそうな目で二階を見上げ続ける。

それだけで、近所の噂は加速した。『ヴェリタス家が孤児院出身の青年を追い詰めている』と。

だが、地獄はそこでは終わらなかった。

「正義の女神」気取りのミナが、新たな爆弾を持ってきたのだ。

ある午後、ミナが数人の取り巻きを引き連れて、座り込みをするハンスの元へやってきた。

彼女の腕には、布に包まれた「何か」が抱えられている。


「ハンスさん……!」


ミナは、カメラを構えた取り巻きの前で、ドラマチックにハンスに駆け寄った。

ハンスはビクリと震え、後ずさる。


「く、来るな! お前、俺の店を……!」


「誤解よ! あれは事故だったの! 私はただ、社会の、皆の正義のために声を上げただけ。……でもね、私、ずっと苦しかったの」


ミナは涙を拭い、腕の中の包みを開いた。

そこには、赤ん坊がいた。

まだ首も座らないような、小さな命。


「……え?」


窓から覗いていたあたしは、言葉を失った。


「この子はね、あなたの子よ。ハンス」


「は……はあ!? 何言ってんだお前! 俺たちは半年前に別れて……」


「そうよ。別れた後に気づいたの。でも、言えなかった。あなたが経済的に不安定で、しかも……あんなお父様の息子だから。この子に『汚れた血』が遺伝するのが怖くて……私、一人で産んで、育てようと思ったの」


ミナの論理は、相変わらず破綻していた。

「汚れた血」と罵って店を焼かせた相手に、今さら「あなたの子だ」と告げる。その神経が理解できない。


「でも、分かったの。子供には父親が必要だって。ハンスさん、あなた今は辛いでしょうけど、私たちが支えるわ。だから……やり直しましょう?」


ミナは聖母のような微笑みを浮かべている。

だが、あたしには見えた。彼女の瞳の奥にある、冷徹な計算が。

彼女は、ハンスを愛してなどいない。

彼女は「シングルマザーの活動家」として新しい寄生先を探していたが、見つからなかったのだ。

……あるいは、悪評が広まって相手にされなかったか。


だから、手詰まりになって、「燃やしてしまったけれど土地だけは持っている」元男のところへ戻ってきたのだ。

「子供」という最強の人質を使って。


「ふ、ふざけるな!」


ハンスが叫んだ。


「お前が煽ったせいで店が燃えたんだぞ!お前が放火したようなものだぞ!俺は無一文だ!なのになんで今さら……!」


「あら?…ひどいわね。過去のことをいつまでもネチネチと……男らしくないわね。私は『未来』の話をしているのよ?この子の『未来』のために、過去を水に流して、手を取り合うべきじゃない?」


「か、過去!?…過去って、過去って数日前だろうが!」


「なんて冷たい人!皆さん聞きました!?これがこの男の本性なんです!自分の子供を見捨てるような男だから、あの店も燃やされるのをただ黙って見捨てたんですよ!」


ミナが叫ぶと、取り巻きたちが「最低!」「鬼!」とハヤし立てる。

ハンスは顔を真っ赤にして、逃げるようにその場を去った。ミナはそれを「勝利」と受け取り、凱旋パレードのように去っていく。


その夜。

獣病院の裏口で、物音がした。

あたしが向かうと、そこにはハンスがいた。

昼間の強気な態度は消え失せ、雨に濡れた犬のような姿で震えている。


「……入れてくれ」


「不法侵入ですわよ……」


「頼む、ナラさん。……話を聞いてくれ」


あまりに惨めな姿に、あたしは毒気を抜かれ、渋々彼を勝手口に入れた。

リビングには、相変わらずエラーラがいて、怪しげな粘液の実験をしている。


「おやぁ、昼間のパパじゃないか。感動の再会はどうだったんだい?『お父様』」


エラーラは皮肉たっぷりに笑う。ハンスは、コーヒーを差し出されても手を付けず、ガタガタと震えながら口を開いた。


「あの女……ミナは、悪魔だ」


「知ってますわ。で、どうするつもり?養育費でも払うの?」


「払えるわけないだろ! 店も金もないのに!」


ハンスはテーブルを叩いた。


「あいつ、俺を捨てるために『社会運動』を始めたんだ。俺が貧乏で、パッとしないからって、俺を『悪者』にして、自分は『被害者』になって、同情を引いて金持ちの男を捕まえようとしたんだ。……でも、うまくいかなかったんだろ。だから戻ってきたんだ。俺の土地目当てで!」


「随分と詳しい分析だねぇ。君もようやく、観察眼が育ってきたじゃないか」


エラーラが感心したように言う。

ハンスは、充血した目でエラーラを睨み、そして、すがるようにあたしを見た。


「ナラさん。あんたには、俺を助ける義務があるよな?」


「……はい?」


「あんたの母親、エラーラ様のせいで、俺の親父はおかしくなった。親父は虐待が趣味だった。幼少期のエラーラ様が、俺の親父の虐待から逃れた。そのせいで、巡り巡って俺はこんな人生だ。今回だって、あんたたちがもっと早く魔法で暴徒を追い払ってれば、店は燃えなかった。つまり、ナラさん。エラーラ様の一番弟子であるあんたが、俺を支える義務があるんだ。」


「言いがかりも甚だしいですわね! 麻薬を持っていたのは……」


「うるさいッ!!」


ハンスが絶叫した。

その声には、理屈を超えた、どす黒い欲望が渦巻いていた。


「俺は被害者なんだよ!お前ら強者が、俺みたいな弱者を踏みにじったんだ!だから、責任を取れよ!……取らないのなら……『じゃあ』殺すぞ!」


彼は、ずいとあたしに顔を近づけた。

腐った果実のような、甘ったるい腐臭がした。


「分かった。『じゃあ』愛してるから!……あの女とガキを、追い払ってくれ。俺はあんなのいらない。結婚なんてしたくない。……だから代わりに、あんたが俺と結婚して、本当の俺の子供を産むべきだ!」


「…………?」


思考が停止した。

この男、今、何を、言った?


「あんたは綺麗だ。金もある。家もある。俺を養えるだろ?それが『償い』ってもんだろ?俺はパン屋を再建したいんじゃない。ただ、楽がしたいんだ。この地獄から抜け出したいんだ。もう働きたくないんだよ!頼む!……『じゃあ』愛してる!愛してるから!」


ハンスの目は本気だった。

彼は、ミナへの恐怖と、人生への絶望を、すべて「他者への依存」で解決しようとしている。

ミナが「正義」を盾にするなら、ハンスは「弱者」を盾にする。

どちらも、自分の足で立つ気などさらさらない。他人のリソースを食い潰すことしか考えていない。


「……お断りします。二度と敷居を跨がないで」


あたしは冷徹に言い放ち、鉄扇で出口を指し示した。


「そうか……そう言うんだな……」


ハンスは、意外なほどあっさりと引き下がった。

だが、その去り際の視線は、今までで一番粘着質で、湿っていた。


「覚えてろよ。……俺には『権利』があるんだ。幸せになる権利がな」


翌日から、本当の地獄が始まった。

表では、ミナが乳母車を押してデモ行進を行う。

『ヴェリタス家は片親を弾圧するな! 子供の未来を守れ!』とシュプレヒコールを上げ、あたしたちの家の壁に腐ったトマトを投げつける。

彼女にとって、赤ん坊は「最強の盾」であり「集金装置」だった。

そして裏では、ハンスが現れる。

彼は姿を見せず、手紙や無言電話、そして奇妙な供物を置いていくようになった。

郵便受けには、焼け焦げたパンと共に、歪んだ文字で書かれた手紙が入っている。


『今日の、ナラさん、綺麗だった。俺の、ために、着飾って、くれたん、だネ』


『ミナが、うるさい。あいつを、消して、くれたら、俺たち、一緒に、なれるネ』


『他の、男と、話さないで、くれ。俺が、傷つく、から』


ストーキングだ。

それも、恋愛感情ですらない。

「お前は俺の手先になるべきだ」という、一方的な妄想による支配欲。

ある日、あたしが買い物に出ると、路地裏からハンスがぬらりと現れた。

彼は、ニタニタと笑いながら、あたしの後をついてくる。


「ナラさん。じゃあ、ナラさんじゃなくていいからさ、他の『俺が使う用の女』、紹介してよ!いないなら、『じゃあ』あんたでいいよ」


「はああああ?……け、警察を呼びますわよ!」


「呼べばいいさ。俺はただ道を歩いてるだけだ。……それに、警察は『かわいそうな被害者』の俺に優しいからな」


ハンスは知っていた。

法の抜け穴も、人の心の隙間も。

彼は愚者だが、寄生虫としての悪意の生存本能だけは異常に発達していた。

表からは「正義の母」ミナの圧力が。

裏からは「哀れな被害者」ハンスの粘着が。

二人は互いに憎み合っているようで、その実、共謀してあたしたちを追い詰めている。

「責任を取れ」「金を出せ」「愛せ」「優遇しろ」。


「……お母様。これ、一体……どうすれば終わりますの?」


その夜、疲れ果てたあたしは、リビングで呟いた。

窓の外からは、ミナの演説と、ハンスの潜む気配が同時に感じられる。

エラーラは、フラスコの中の液体を揺らしながら、淡々と答えた。


「終わらないよ、ナラくん」


彼女は、冷徹な事実を告げるように言った。


「彼らに『終わり』はない。彼らの欲望は底の抜けたバケツだ。注げば注ぐほど、彼らは『もっと』と叫ぶ。理屈も、対話も、解決も望んでいない。他人の君が、解決しようとすること自体が間違いなんだ。彼らはただ『今、自分が満たされること』だけを求めて、永遠に暴走し続ける永久機関さ」


「…………」


エラーラは、窓の外の闇を見つめた。


「ドラゴンよりタチが悪いね。ドラゴンなら剣で殺せるが……彼らは『人権』という無敵の鎧を着たゾンビだ。殺すこともできず、逃げれば追いかけてくる。……さて、どうしたものかねぇ」


外で、赤ん坊の泣き声が響いた。

それは、この欲望と欺瞞に満ちた悪夢の連鎖が、次の世代へと継承されたことを告げる、絶望のサイレンだった。

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