第7話:過去の鍵盤と、未来の友情!
石畳を叩く雨音が、街全体のBGMのように響き渡る夜。
獣医院の二階のドアが激しく叩かれた。
「た、助けてください! 呪われているんです!」
転がり込んできたのは、地元の音楽学校に通う女子学生だった。
顔面蒼白で、制服は雨でぐっしょりと濡れている。
「あら?ずいぶんと慌てたご様子ですわね。……まずは紅茶でもいかが?」
漆黒のドレススーツに身を包んだナラティブ・ヴェリタスは、優雅に足を組み替え、湯気の立つカップを差し出した。
その所作は深窓の令嬢そのものだが、テーブルの端には護身用の鉄扇が無造作に置かれている。
「そ、そんな場合じゃ……! 出たんです! 音楽室に!」
学生は震えながら訴えた。
「夜になると、誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえるんです。……でも、それは曲じゃない。鍵盤を叩きつけるような不協和音と、『痛い、痛い』って啜り泣く声が……!」
「ふむ。典型的なポルターガイスト現象だね」
奥の実験室から、白衣のマッドサイエンティスト、エラーラ・ヴェリタスが顔を出した。
手には怪しげな液体が入ったフラスコを持ち、ゴーグル越しに興味深そうな視線を向けている。
「恐怖係数は測定不能寸前か。……ナラ君、これは『強い未練』の匂いがするよ?」
「……ええ。感じますわ」
ナラは立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。
彼女の瞳には、依頼人への同情と、見えない敵への静かな怒りが宿っていた。
「才能ある若者の未来を、過去の亡霊が邪魔をするなんて……。三流以下の所業ですこと」
ナラは鉄扇を懐にしまい、ドレスの裾を払った。
「行きましょう、お母様。……その下手くそな演奏会、あたしが『物理的』に終演させて差し上げますわ」
深夜の音楽学校。
廊下は静まり返り、雨音だけが響いている。
だが、第3音楽室の前まで来ると、その静寂は破られた。
調律の狂ったピアノを拳で叩きつけるような、耳障りな轟音。
そして、湿っぽい、女の泣き声。
『……ヒイテハ……イケナイ……。オマエモ……オレテシマエ……』
「……趣味の悪い曲ね!」
ナラは眉をひそめ、躊躇なくドアを蹴り開けた。
「ごめんあそばせッ!!」
室内には、異様な光景が広がっていた。
グランドピアノの周りに、黒い霧のようなものが渦巻いている。
霧は人の形を成し、長く伸びた腕で、見えない誰かの指をピアノの蓋で押し潰そうとする動作を繰り返していた。
『ユルサナイ……。ワタシヨリ……ウマイナンテ……』
怨霊がナラたちに気づき、その虚ろな顔を向けた。
目があるべき場所は空洞で、口からは嫉妬と絶望の黒い泥が垂れ流されている。
「キャアアアッ!」
ついてきた依頼人の学生が悲鳴を上げる。
「お下がりなさい!」
ナラは一歩前に出た。
その立ち姿は、怪物相手でも微塵も揺るがない。
「嫉妬に狂って化けて出るなんて、まったく、見苦しいにも程がありますわよ!」
ナラは鉄扇を展開した。
怨霊が咆哮し、黒い触手を伸ばしてくる。
「ハッ!」
ナラは舞うように触手を避け、ピアノの上へと跳躍した。
そして、怨霊の脳天めがけて鉄扇を振り下ろした。
「静粛になさいッ!!」
打撃音が響くが、手応えは軽い。
霧を払っただけだ。怨霊は一瞬霧散したが、すぐに再結集し、さらに巨大化してナラに襲いかかる。
『オマエモ……ツブシテヤル……!』
「くっ……! やっぱり、物理攻撃だけじゃ分からず屋ですのね!」
ナラはバックステップで距離を取り、エラに叫んだ。
「お母様!準備は!?」
「ああ!完了しているとも!」
エラーラが、巨大な装置『因果抽出式・時間逆行注射器』を構えて飛び出した。
「ナラ君、奴の動きを止めろ! 核を吸い出す!」
「了解ですわ! ……ちょっと乱暴になりますけれど!」
ナラはドレスの裾をまくり上げると、怨霊の懐にスライディングで飛び込んだ。
そして、実体のないはずの霧の腕を、気合と魔力で無理やり「掴んだ」。
「捕まえましたわよ、この騒音女!」
ナラは怨霊を背負い投げの要領で地面に叩きつける。
その隙に、エラーラがシリンジの針を怨霊の胸に突き刺した。
「成分、抽出!」
怨霊が悲鳴を上げ、シリンジの中にどす黒い液体が吸い上げられていく。
霧が晴れ、後に残ったのは静寂だけ。
「ふぅ……。大漁だねぇ」
エラーラは、シリンジの中身を分析機にかけた。
モニターに、過去の映像が断片的に映し出される。
「……なるほど。これはひどい」
エラーラの声が、怒りで低くなる。
「被害者の名前はリーゼ。50年前、この学校にいた天才ピアニストだ。……そして加害者は、彼女の親友でありライバルだったヒルデ」
映像には、コンクール直前の音楽室が映っていた。
才能に嫉妬したヒルデが、練習中のリーゼに近づき、グランドピアノの重い蓋を――。
「……指を、潰したのね」
ナラが、ギリッと唇を噛んだ。
ピアニストにとっての指。それは、命そのものだ。
それを奪うということは、彼女の物語を、そこで強制終了させるということ。
「リーゼは二度とピアノを弾けなくなり、失意のうちに学校を去った。……この怨霊は、ヒルデの成れの果てか、あるいは……」
エラーラは、抽出した液体を黄金色に精製し、ナラの方を向いた。
「どちらにせよ、これは書き換える必要がある。……こんなバッドエンドは、私の美学に反するからね」
エラーラは、シリンジの針をナラの首筋に向けた。
「準備はいいかい、ナラ君? 飛び先は50年前。コンクール前日の放課後だ」
ナラは、首を差し出しながら、静かに頷いた。
その瞳は、燃えるように熱かった。
「ええ。……人の夢を踏みにじるなんて、あたしが一番嫌いな行為ですもの」
ナラには、過去がない。
だからこそ、誰かの「未来」が、他人の悪意によって理不尽に奪われることが許せなかった。
生きがい。情熱。物語。
それらは、泥の中から必死に拾い上げるべき宝石であって、誰かに砕かれていいものではない。
「行ってきますわ。……一流の『調律』をしてきます」
黄金の液体がナラの魔導回路に注入される。
世界が回転し、ナラの意識は時空を超えた。
目を開けると、そこは夕暮れの音楽室だった。
窓の外では、50年前の雨が降っている。
ピアノの前に、一人の少女が座っていた。
リーゼだ。
彼女は、一心不乱に鍵盤を叩いていた。その音色は、優しく、そして力強い。
世界への愛と、未来への希望に満ちた旋律。
ナラは、部屋の隅で息を潜めた。
そこへ、もう一人の少女が入ってきた。
ヒルデだ。
彼女の顔は、嫉妬で歪んでいた。手には、重そうな楽譜の束を持っているが、その目はピアノの「蓋」に釘付けになっている。
「……リーゼ」
ヒルデが声をかける。
「あ、ヒルデ。どうしたの?」
リーゼが屈託のない笑顔で振り返る。
「少し、休んだら? ……疲れているでしょう?」
ヒルデは、ゆっくりとピアノに近づく。
リーゼの手は、鍵盤の上にある。
ヒルデの手が、支え棒に伸びる。
ヒルデが支え棒を外し、数十キロある重い蓋が、リーゼの指めがけて落下した――。
ガシィッ!!!!
轟音は、しなかった。
代わりに、骨が軋むような音が響いた。
「……え?」
「なっ……!?」
リーゼとヒルデが、同時に息を呑んだ。
落下する蓋と、リーゼの指の間。
そこに、漆黒のドレスを着た女が割り込んでいた。
ナラティブ・ヴェリタスは、片手一本で、落下する蓋を受け止めていたのだ。
「……ごめんあそばせ?」
ナラは、ギリギリと音を立てて蓋を持ち上げ、元の位置に戻した。
そして、優雅に、しかし絶対零度の視線でヒルデを見下ろした。
「あら、手が滑ったのかしら? ……それとも、心が滑ったのかしら?」
「だ、誰……!?」
ヒルデが後ずさる。
「通りすがりの調律師ですわ」
ナラは、ゆっくりとヒルデに歩み寄った。
その迫力に、ヒルデは腰を抜かしてへたり込む。
「あ、あなたが……リーゼの邪魔をするから……!」
ヒルデは錯乱して叫んだ。
「こいつがいなければ! 私が一番になれたのに! こいつの指さえなければ!」
「……お黙りなさいッ!!」
ナラの平手打ちが、ヒルデの頬を張った。
乾いた音が、音楽室に響き渡る。
「痛いでしょう? ……でもね、あんたがやろうとしたことは、もっと痛いわよ」
ナラは、ヒルデの胸ぐらを掴み、引き寄せた。
「あんた、音楽が好きなんでしょう? ピアノが好きで、一番になりたかったんでしょう?」
「う、うぅ……」
「だったら、なんでその手で音楽を汚すのよ! ライバルを潰して手に入れた一番に、いったい、何の価値があるの!?」
ナラの言葉は、怒りというよりも、深い悲しみを含んでいた。
彼女は知っている。
自分を卑下し、他人を妬み、そうして自分自身の物語まで腐らせてしまうことの虚しさを。
「一流の人間はね……相手を引きずり下ろすんじゃないの。自分を磨くのよ! ……あんたのその手は、人を傷つけるためじゃなく、美しい音を奏でるためについてるんでしょッ!!」
ナラは、ヒルデの手を強く握りしめた。
その熱が、ヒルデの凍りついた心に流れ込む。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ッ!」
ヒルデは泣き崩れた。
嫉妬の鬼が落ち、ただの音楽を愛する少女に戻った瞬間だった。
ナラは、ヒルデを離し、ピアノの前に座るリーゼの方を向いた。
リーゼは、震えながらナラを見つめていた。
「……あの……助けてくれて……」
「礼には及びませんわ」
ナラは、リーゼの、無事だった指に触れた。
細く、しなやかな、才能に溢れた指。
「いい指ね。……これからも、弾き続けなさい」
ナラの体が、光に包まれ始める。
タイムリミットだ。
「あんたの物語は、ここじゃ終わらない。……世界中に、その音色を響かせておやりなさい」
「は、はいっ……!」
リーゼの力強い返事を聞き届け、ナラの視界は光に満たされた。
「……はっ!」
ナラが目を開けると、現代の獣医院だった。
全身に、鉛のような倦怠感がのしかかる。
「おかえり、ナラ君」
エラーラが、温かいタオルを持って待っていた。
ナラはタオルを受け取り、顔を拭う。
「街は……どうなった?」
「耳を、澄ませてごらん」
エラーラが窓を開けた。
雨上がりの夜空に、どこからかピアノの音色が流れてきた。
それは、街の広場にある巨大なスクリーンからの中継だった。
『本日は、伝説のピアニスト・リーゼ女史の引退記念コンサートです。彼女は50年間、一度も休むことなく、世界中の人々に希望の音楽を届けてきました……』
画面には、年老いた、しかし気品あふれる女性が映っている。
その指は、皺だらけだが、力強く鍵盤を叩いていた。
そして、客席の最前列には、同じく年老いた女性――ヒルデが、涙を流して拍手を送っている姿があった。
二人は、親友として、ライバルとして、生涯を共に歩んだのだ。
「……ふふ。ハッピーエンドね」
ナラは、窓枠に肘をつき、満足げに微笑んだ。
あの時、リーゼの指が砕かれていたら、この美しい音楽は生まれなかった。
二人の友情も、生まれなかった。
「君が守ったんだよ、ナラ」
エラーラが、ナラの隣に立ち、コーヒーを差し出した。
砂糖とミルクたっぷりの、甘いカフェオレ。
「君の優しさと強さが、壊れかけた物語を繋ぎ止めたんだ」
「……よしてよ。あたしは、気に食わない演奏を止めただけよ」
ナラは照れ隠しにカップを受け取り、一口飲んだ。
甘い。
過去での緊張が、甘さと共に溶けていく。
「……でも、悪くない気分ね」
ナラは、エラーラの方を向いた。
月明かりに照らされたエラの横顔は、いつもより美しく見えた。
(あたしにも、守れた。……あたしには過去がないけれど、誰かの過去は、守ることができる)
それは、ナラにとっての救いでもあった。
自分がここにいる意味。エラーラの娘として、この力を振るう意義。
「ねえ、お母様」
「なんだい?」
「あたしのピアノも、聞いてくださる?」
「おや? 君、弾けるのかね?」
「ええ。……ね、『猫踏んじゃった』だけですけど」
「なるほど!それは期待大だね!」
エラが吹き出し、ナラもつられて笑った。
二人の笑い声が、リーゼのピアノの音色と重なり、夜の街に溶けていく。
壊された鍵盤は直り、沈黙は破られた。
ナラティブ・ヴェリタス。
彼女は今日も、誰かの物語を取り戻し、そして自分自身の物語を、愛する人と共に紡いでいく。
「さあ、お母様! 夜食にしますわよ! 今日は特大のプリンが食べたい気分ですの!」
「了解だ! 糖分は脳のガソリンだからね!」
騒がしくも温かい夜が、更けていく。




