第1話:悪魔の悪夢の乳母車(1)
私の身の回りで起きた事実に基づくホラーです。
王都の片隅、獣病院の二階。
「ねえ、お母様。この黒い炭のような物体は、まさか朝食のパンではありませんわよね?」
ナラティブ・ヴェリタスは、テーブルの上に鎮座する「それ」を鉄扇の先で突いた。
白衣を纏った銀髪の魔導学者、エラーラ・ヴェリタスは、「それ」を覗き込みながら、楽しげに口角を吊り上げた。
「観察眼が鋭いねぇ、ナラくん! それはパンの形状を模した『可食性炭素ブロック』だよ。栄養価と消化効率を極限まで追求した結果、味覚というノイズを排除することに成功したのさ」
「……ゴミ箱へ直行ですわ。あたしは優雅な朝を所望しているの」
「やれやれ。君のその前時代的な食への執着は、進化の妨げになると思うんだがねぇ」
エラーラは肩をすくめ、粘度の高いコーヒーを啜った。
平和ではないが、日常ではある。
その空気が、階下からのドタドタという無遠慮な足音で引き裂かれた。
「ヴェリタス先生! 助けてください! 殺される! あいつら、話が通じないんです!」
転がり込んできたのは、小麦粉と脂汗にまみれた小男、ハンスだった。
かつてエラーラが収容されていた孤児院の、院長の息子。
親の死後、細々とパン屋を営んでいるはずの彼の目は、恐怖で白目が剥き出しになっていた。
「お、落ち着きたまえよ。実験動物のハムスターでも、もう少し冷静に餌を食べるよ?」
エラーラは興味なさそうに言ったが、ハンスは彼女の足にすがりついた。
「店の前に……女が!近所の連中を引き連れて! 俺が孤児院の院長の、『虐待者』の息子だから、店を潰す権利があるって……!」
「権利?奇妙な論理だね。親の罪が子に受け継がれる、とでも?」
「理屈なんてもう、聞いてくれないんです! 俺を見ると『気持ち悪い』って……ただそれだけで、石を!」
窓の外から、不協和音のような怒号が漏れ聞こえてくる。
あたしは溜息をつき、鉄扇を腰に差した。
「お母様はそこで炭でも食べてらっしゃい。あたしが外を掃いてきますわ」
「おや?君が出るのかい?君の管轄外だと思うけれど」
「精神衛生上の清掃ですの。……行きましょう、ハンスさん」
あたしは震える男を連れて、現場であるパン屋「陽だまり亭」へ向かった。
そこにあったのは、明確な「悪意」の塊ではなく、もっと質の悪い……腐った「善意」の掃き溜めだった。
店のシャッターには『生理的に無理』『空気汚染源』『子供たちの敵』といった、支離滅裂な落書きがスプレーで殴り書きされている。
集まっているのは数十人の男女。主婦、無職の男、学生。彼らは一様に、魔導端末を掲げ、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、店に向かってゴミを投げつけていた。
「あ、出てきた!息子だ!虐待魔の子供だ!」
「怖い!こっち見た!視線で殴られた気分!」
「俺たちに賠償しろ!俺たちの気分を悪くした慰謝料を払え!」
リーダー格らしき女が、金切り声を上げた。
派手なメイクに、流行りの服を着崩した女。名前は確か、ミナ。
彼女は「正義感」に燃えているのではない。ただ、安全圏から他人を殴る快感に酔いしれているだけだ。その証拠に、彼女の言葉には一貫性がまるでなかった。
「皆さん聞いて!こいつ、昨日私が挨拶したのに無視したのよ!孤児院の院長の息子だからって、私たちを見下してるの!」
「そうだそうだ!」
「パンの形がいやらしい!」
「店から異臭がする権利を侵害された!」
群衆が呼応する。彼らはハンスが何をしたかなどどうでもいい。ただ「叩いてもいい認定」をされたサンドバッグを、ストレス発散のために殴りたいだけだ。
「おだまりなさい!何ですの、この低俗な騒ぎは!」
あたしは鉄扇を開き、群衆の前に立ちはだかった。
一瞬、場が静まり返る。
ミナが、値踏みするようなねっとりとした視線をあたしに向けた。
「あらぁ? あんた、誰? ……あ!…ああ!知ってるわ!『孤児院』出身のエラーラ・ヴェリタスの腰巾着!ナラとかいう生意気な女!」
「ヴェリタス家のナラですわ。法的根拠のない営業妨害は、即刻やめていただきまして?」
「法的? ハッ! 笑わせないでよ! 私たちには『権利』があるのよ!」
ミナは胸を張り、あたしの鼻先で指を突き立てた。
「こいつの店があるだけで、私たちは精神的に被害を受けているの!不快にさせられた時点で、それは暴力よ!被害者は私たちなの!だから、私たちがこいつをどうしようと、それは正当防衛なのよ!」
周りの連中も、深く頷いている。
「エラーラだって同罪よ!あの女、『孤児院』を抜け出すために、自分だけ金持ちに買われて逃げたんでしょ?仲間を見殺しにしたくせに、今さら被害者ヅラして……ムカつくのよ、あの澄ました顔が!」
「そうだ!エラーラを出せ!土下座させろ!」
「俺たちの気分を害した責任を取れ!」
「……話になりませんわね」
あたしは頭痛を覚えた。こいつらには文脈がない。
過去の事実関係などどうでもよく、ただ「今、自分が気に入らない」という感情だけが絶対的な正義なのだ。
「いい加減になさい。これ以上続けるなら、あたしにも考えが……」
「はい!脅された!暴力よ!権力者が市民を弾圧してるわ!」
ミナが大げさにのけぞり、悲鳴を上げる。
それを合図に、群衆のタガが外れた。
「やっちまえ!」
「正当防衛だ!」
「消毒してやる!」
誰かが、火のついたボロ布を店の中に投げ込んだ。
ガラスが割れる音。
乾燥したパン屋の店内は、瞬く間に火の海となった。
「あ……あぁ……俺の店……!」
ハンスが膝から崩れ落ちる。
だが、群衆は逃げない。燃え上がる炎を背景に、楽しそうに記念撮影を始めている。
「燃えて面白い」「浄化完了」などと言いながら。
彼らにとって、他人の人生は、退屈な日常を彩るコンテンツに過ぎないのだ。
「……ッ、消火を!」
あたしが魔術を使えないのがこれほど悔しいと思ったことはない。
慌てて井戸へ走ろうとした時、けたたましい笛の音と共に、王都警察が駆けつけた。
「全員動くな!放火の現行犯だぞ!」
茶色のコートに身を包んだ、恰幅のいい男。カレル・オータム警部だ。
彼は燃える店と、ヘラヘラ笑う群衆を見て、心底うんざりした表情を浮かべた。
「……まったく、君たちは。ここはキャンプファイアー場じゃないんだぞ」
警官隊が水魔法で消火にあたる。
火はすぐに消し止められたが、店は半壊し、黒い煤に覆われていた。
ミナは、警察が来ても悪びれる様子もなく、むしろ被害者面をして警部に詰め寄った。
「警部さん!遅いじゃないの!私たちがこんなに精神的苦痛を受けてるのに、この店主を逮捕してくれないから、市民の手で解決するしかなかったのよ!……まさか、加害者の味方をするんですか?」
「……ナラ君?放火は解決策にならんよ。……署で話を聞こうか」
「はぁ?なんでよ?なんで私が!?私は被害者よ!?」
その時、焼け跡を調べていた警官の一人が、声を上げた。
「警部! ……これを見てください!」
警官が運び出してきたのは、店の奥から見つかった、焼け焦げた木箱だった。
衝撃で蓋が壊れ、中からこぼれ落ちていたのは……小麦粉ではない。
毒々しい紫色に輝く、結晶片。
王都で蔓延する違法幻覚剤、『魔香』の原料だった。
「……ほう」
カレル警部の目が鋭く細められた。
あたしは息を呑んだ。あの気弱なハンスが?
ハンスは顔面蒼白になり、首を激しく横に振った。
「ち、違う! 俺は知らない! それは……父さんが昔隠していたもので……俺は本当に、触ってないんだ!」
「……言い分はあるかね? ハンス君」
警部が手錠を取り出す。
その瞬間、場の空気が一変した。
さっきまで「ハンスへの不快感」だけで暴れていたミナが、掌を返したように目を輝かせたのだ。
「やっぱり!ほら見たこと!?私の直感は正しかったのよ!」
彼女は警部の隣にすり寄り、勝ち誇った顔で群衆とあたしを見回した。
「私、なんとなく分かってたのよねぇ。こいつが犯罪者だって!だから体を張って『麻薬』の告発をしていたのよ!ねぇ警部さん、私、捜査協力よね?感謝状モノよね?」
さっきまで放火を扇動していた女が、一瞬にして「警察に協力した勇敢な市民」という役柄に乗り移った。
彼女には、加害という『手段』があるだけだ。
彼女には、目的や動機や理由といった『文脈』は、なかった。
過去の発言との整合性など欠片もない。あるのは「自分は常に正しい側にいる」という強固な妄想だけ。
「ああ!……君の処遇は後で決める。その前に、まずは彼だ」
カレル警部はハンスの手首に手錠をかけた。
「連行しろ」
「待ってくれ!信じてくれ!警部さん!ナラさん!誰か!誰でもいい!エラーラ様!エラーラ様なら分かってくれるはずだ!うわあああ!」
ハンスが泣き叫びながら、護送車へと引きずられていく。
群衆は、今度は「麻薬密売人への正義の鉄槌」という新しい娯楽に興奮し、ハンスに石を投げ始めた。
ミナは、連行されるハンスを一瞥もしない。
彼女の興味はすでに、次の「獲物」に移っていた。
彼女はゆっくりと、あたしの方へ向き直った。その目は、爬虫類のように冷たく、それでいて粘着質な熱を帯びていた。
「ねえ、ナラさんだっけ? ……あんたたち、知ってたんでしょ?」
「……は?」
「とぼけないでよ。エラーラは『大賢者』なんでしょ? ハンスが麻薬を持ってること、知ってて庇ってたんじゃないの? ……もしかして、グル?」
根拠などない。論理もない。
ただ「そうだったら面白い」「そうだったら攻撃できる」という欲望だけが、彼女の口を動かしている。
「……妄想も大概になさい」
「あら、怖い顔。……でも、『火のない所に煙は立たない』って言うじゃない? 虐待者の息子と、それを見捨てた魔導学者。なーんか……怪しいわよねぇ。ねぇ、皆さん?」
群衆の視線が、一斉にあたしに突き刺さる。
それは、断罪の視線ではない。
新しいオモチャを見つけた子供の、無邪気で残酷な視線だった。
ミナは、あたしの耳元で、嘲笑うように囁いた。
「次は、あんたたちが『燃える』番かもね?……『火のないところに煙は立たない』。煙(疑惑)だけを起こすことは出来ない。ただね、火(証拠)は起こせる。まあ……楽しみにしてて」
彼女は踵を返し、警部たちに向かって「私が目撃者ですぅ!」と猫なで声でアピールし始めた。
あたしは、焼け焦げたパンの臭いの中で、背筋が凍るのを感じた。
この世界には、正義の勇者も、悪の魔王もいない。
ここにいるのは、退屈を持て余し、他人の不幸を蜜の味とする、名もなき隣人たちだけ。
だが、その底なしの「軽さ」こそが、どんな魔術よりも、恐ろしかった。




