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第1話:人喰い鰐と偏見の正義(1)

王都の南、高温多湿な密林地帯に位置する都市国家「南都」。

ねっとりとした湿気が肌にまとわりつくこの街は、今、年に一度の祝祭に沸き立っていた。

円形闘技場。

石造りの観客席は、正装した市民たちで埋め尽くされている。彼らは皆、恍惚とした表情でアリーナの中央を見つめていた。

そこには、巨大な檻が置かれ、中には巨獣――『聖鰐(ワニ)』が鎮座している。硬質な鱗に覆われた皮膚、鋭い爪、そして何でも噛み砕く巨大な顎。


「……趣味の悪いショーですわね」


観客席の片隅で、漆黒のドレススーツに身を包んだナラティブ・ヴェリタスは、扇子で口元を覆いながら不快げに眉をひそめた。

隣には、この土地特有の植物サンプルを採取しに来た、白衣の賢者エラーラ・ヴェリタスがいる。


「静かにしたまえ、ナラ君。……始まるよ」


銅鑼が鳴り響く。

ゲートが開き、花飾りをつけた一人の若者が、アリーナへと歩み出た。

彼は震えていなかった。むしろ、誇らしげに胸を張り、聖鰐の前へと進み出る。


「おお……選ばれし者よ……」


「神と一つになるのだ……」


観客が祈りを捧げる中、若者は自ら聖鰐の口の中に頭を突っ込んだ。

湿った音が響き、若者の上半身が消失した。

聖鰐が喉を鳴らし、嚥下する。

咀嚼はしない。丸呑みだ。

胃袋の中で、若者は生きたまま消化液に溶かされ、長い時間をかけて死に至る。


「これで今年も豊作だ!」


市民たちは涙を流して感動し、抱き合って喜んでいる。

そこには悲壮感など微塵もない。あるのは、崇高な儀式を完遂したという達成感と、神への感謝のみ。


「……吐き気がしますわ」


ナラは席を立った。


「あれが『名誉』? ……ただの残酷な生贄じゃないの。未開の野蛮人ですわ!」


「野蛮、か」


エラーラは、興奮する群衆を冷徹な目で観察しながら呟いた。


「……彼らにとっては、私たちの方が『神を恐れぬ野蛮人』に見えているかもしれないよ」



その夜。

ナラとエラーラは、湿地帯特有の高床式住居が並ぶ路地裏を歩いていた。


「助けて……!」


突如、泥だらけの青年が、ナラの足元に転がり込んできた。

痩せこけた体。恐怖で見開かれた目。

彼は、明日の儀式で捧げられる予定の「供物」だった。


「……死にたくない!食べられたくない!」


青年の名はジロ。

彼は、この国では極めて稀な「死を恐れる」という感性を持ってしまった逸脱者だった。


「……落ち着きなさい」


ナラは、泥だらけのジロを助け起こした。

その腕は小枝のように細く、震えが止まらない。


「追手が来ます……! 兄さんが……村のみんなが……!」


路地の向こうから、松明の明かりが近づいてくる。

現れたのは、屈強な男たちだった。先頭に立つのは、ジロの兄サブロ。

彼らの顔には、明確な殺意があった。

だが、それは憎しみによるものではない。「汚物を消毒しなければならない」という、衛生的な義務感による殺意だ。


「ジロ! 戻るんだ!」


サブロが叫ぶ。


「お前は選ばれたんだぞ! 聖鰐様の血肉になれるんだ! なぜその幸福を拒絶する!」


「嫌だ……! 僕は生きたい!」


「なんてことだ……。お前は、心を病んでしまったのか?」


サブロは本気で嘆いていた。

「死にたくない」という感情が、彼には理解できないのだ。

この国では、幼い頃から「個人の命は神(鰐)からの借り物であり、返すのが当然の義務」と教え込まれている。

だから、ジロの逃亡は、現代日本で言えば「裸で街を走り回る」のと同じくらい、理解不能で恥ずべき「狂気」なのだ。


「……下がりなさい」


ナラは、ジロを背に庇い、サブロたちの前に立ちはだかった。


「弟さんは嫌だと言ってますわ。……無理強いするのは暴力よ」


「暴力? ……何を言っているのですか、異邦人の方」


サブロは、キョトンとした顔をした。


「我々は、彼らに生かされている。恩を返すのは当然の『常識』でしょう? ……あなた方の国では、税金を払うのを『暴力』と言うのですか?」


「……っ」


ナラは言葉に詰まる。


「これは契約なのです。……彼が逃げれば、神はお怒りになる。そうなれば何千人も死ぬのです。……彼一人のワガママで、村を滅ぼせと言うのですか?」


サブロの主張は、この国の「論理」において完璧に正しかった。

多数を救うための少数の犠牲。社会契約説。

だが、ナラには受け入れられない。

目の前で震える一人の人間を見殺しにすることなど、あたしの美学に反する。


「……うるさいわね」


ナラは、鉄扇を抜き放った。パチン、と音が響く。


「理屈なんてどうでもいいわ。……この子は『生きたい』と言った。その願いを邪魔するなら、神様だろうが全員ぶっ飛ばして……」


「待て!」


ナラが踏み込もうとした瞬間。

横から伸びてきた手が、ナラの腕をガシリと掴んだ。

エラーラだった。


「え……お母様? 放して、あいつらを……」


「ならん!」


エラーラは、いつになく厳しい声で言った。

その黄金の瞳は、サブロたちではなく、ナラを射抜いていた。


「ナラ君。……手を引くんだ」


「はぁ!? 何を言って……!」


「君は、『まだ』この件に介入してはならない。我々は去る」


「正気!? 見殺しにするの!?」


ナラが激昂する。

だが、エラーラは微動だにしなかった。


「感情で動くな。……頭を使え、ナラティブ。よく考えるんだ。君が今しようとしていることは、『正義』ではない」


エラーラは、サブロたちに「少し待ってくれ」と目配せをし、ナラを路地の隅へと引きずっていった。


「……離してよ! あたしはあの子を救う!」


「救う? ……君は、今からする自分の行動が、本当に『相手』の『救い』になると、本気で思っているのか?」


エラーラは、ナラを壁に押し付けた。

その顔は、冷徹な教師の顔だった。


「君は、自分の『常識』が、世界のどこでも、どの時代でも通用する、宇宙の真理だとでも思っているのかね?」


「……え?」


「いいかい、ナラ。……これから私が話すことを、よく聞きなさい。これは『道徳』ではない。『知性』の話だ……」


雨が降り始めた。

冷たい雨が、ナラの熱くなった頭を冷やす。

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