第2話:おかあさんの最期の予定(2)
翌日は、不気味なほど晴れ渡っていた。
ナラは、マキナと腕を組んで王都のメインストリートを歩いていた。
「あらあら、ナラちゃん。このリボン、きっとお似合いよ?」
「子供っぽいのは嫌いですわ。……でも、マキナが言うなら試着くらいはしてあげます」
平和なショッピング。甘い会話。
昨夜の違和感など、陽光の中に溶けてしまったかのようだった。
その時だった。
通りの向こうから、幸せな鐘の音が響いてきた。
結婚式のパレードだ。
純白のドレスに身を包んだ花嫁と、誇らしげな花婿が、魔導車に乗って手を振っている。
フラワーシャワーが舞い、人々が祝福の声を上げる。
「まあ、素敵ねぇ。幸せそう」
マキナが微笑む。
「ふん。……まあ、悪くはない景色ですわね」
ナラも、少しだけ口元を緩めた。
だが。
魔導車がナラたちの目の前を通り過ぎようとした、その瞬間。
花嫁が、ふと、空を見上げた。
そして、ふと、気軽に……
後続の魔導車の車輪の前に、自ら身を投げ出した。
悲鳴を上げる間もなかった。
巨大な木製の車輪が、花嫁の細い体を巻き込み、石畳との間で擂り潰した。
純白のドレスが、一瞬で鮮血と内臓の色に染まる。
花嫁の体は、車軸に絡まり、雑巾を絞るようにねじ切れていく。
その顔は、車輪の隙間からこちらを見ていた。
苦悶の表情ではない。
満面の、幸せそうな笑顔のまま、眼球が飛び出し、顎が砕けていた。
「ギャアアアアアアアッ!!」
花婿が絶叫し、観衆がパニックになって騒ぎ出す。
観衆の足が、さらに花嫁の残骸を踏み砕く。
「……え?」
ナラは、返り血を浴びた頬を拭うことも忘れて、凍りついた。
なぜ?
幸せの絶頂で。自殺する理由なんてないはずなのに。
まるで「役目は終わった」とでも言うように、彼女はスイッチを切ったのだ。
それは、始まりの合図だった。
その日、王都中で「理解不能な死」が連鎖した。
ナラとマキナが駆けつける先々で、人々はゴミを捨てるような手軽さで、自分の命を捨てていった。
あまりにも、多くの死。
ナラの記憶は混濁した。
だが、その中でも特に凄惨で、人間の尊厳を根底から踏みにじるような以下の二つの死に様だけは、脳裏に焼き付いて、離れなかった。
王都の中央時計塔。
ナラたちが通報を受けて駆けつけると、そこには点検作業員の男がいた。
彼は、塔の巨大な歯車の前に立っていた。
「危ない! 下がりなさい!」
ナラが叫ぶ。
だが、男はナラを見て、ペコリと会釈をした。
「……時間だ」
そう呟くと、彼は服を脱ぎ始めた。全裸になる。
そして、ゆっくりと回転する巨大なギアの噛み合わせ部分に、頭から突っ込んでいった。
人間の体など、巨大な機械の前ではトマトと同じだ。
頭が潰れ、肩が砕け、男の肉体は歯車の「潤滑油」となって擦り潰されていく。
男は死ぬ間際まで、手足をバタつかせ、自ら奥へ奥へと進もうとしていた。
まるで、自分は人間ではなく、最初からこの機械の「部品」であったかのように。
千切れ飛んだ男の目玉が、ナラの足元に転がってきた。
尊厳の欠片もない、ただの肉塊としての死。
広場の大道芸。
多くの子供たちが見守る中、一人のジャグラーが剣を飲み込む芸を披露していた。
観客が拍手する。
ジャグラーは剣を口に入れた。
そこまでは芸だった。
だが、彼はそこで止めなかった。
グッ、ググッ、ズボォッ!
彼は、柄まで完全に飲み込むと、さらに上から拳で剣を押し込んだのだ。
「お、おい!?」
観客がどよめく。
ジャグラーは、笑顔のまま、二本目の剣を手に取った。
そして、一本目の剣をさらに奥へ押し込むように、二本目を突き刺した。
胃袋を突き破り、腸を裂き、剣先が肛門や脇腹から突き出す。
それでも彼は止まらない。三本、四本。
彼は自らを「剣山」に変えながら、血の泡を吹いて笑い続けた。
最後に彼は、自分の腹を自分で引き裂き、内臓を観客席にばら撒いて倒れた。
子供たちの悲鳴と、血の臭い。
彼は、自分を「見世物」として消費し尽くして死んだのだ。
獣医院に戻ったナラは、トイレで嘔吐した。
胃の中身が空になっても、震えが止まらない。
「……異常事態だ」
リビングでは、エラーラが深刻な顔でモニターを見ていた。
王都全域で、自殺率が数千倍に跳ね上がっている。
「共通点はない。年齢も性別も、境遇も。……ただ一点を除いて。……彼らには生きる執着、即ち『物語』が欠落していた」
「物語……?」
ナラが、青ざめた顔で聞く。
「ああ。彼らは、社会という物語の中の歯車として、主人公を引き立てるための『モブ・キャラクター』として漫然と生きていた。……そして、ふと、気づいてしまったんだ。自分がわざわざ生きている『理由』はないよね、と……」
エラーラは、冷徹な事実を告げた。
「絶望じゃない。悲しみでもない。ただ、飽きたんだ。……『理由』がなくなったから、やめた。単なる、それだけの現象だよ」
「……そんな」
ナラは、戦慄した。
理由がない。それが一番恐ろしい。
悩みがあるなら相談に乗れる。敵がいるなら倒せる。
だが、「なんとなく死にたい」という、生存本能の欠如に対しては……どんな救済も届かない。
「……あら。でも、少し分かる気がするわ」
部屋の隅で、マキナが紅茶を淹れながら呟いた。
その手つきは、相変わらず完璧で優雅だ。
「……マキナ?」
「物語が終わった本を閉じるのに、『理由』なんていらないでしょう?」
マキナは、微笑んだ。
「役目を終えた舞台装置が片付けられるのは、当然のことよ。……彼らはただ、満足して退場したの」
「……な、何を……」
ナラは、マキナに歩み寄った。
マキナの瞳。
いつもナラを映し、ナラを愛でていたその瞳の奥に、ナラは初めて「虚無」を見た。
この子は、満たされているのではない。
「空っぽ」なのだ。
ナラを守る、ナラの世話を焼く、という「設定」だけで動いている。
もし、その設定がなくなったら?
あるいは、「役目は終わった」と判断してしまったら?
ナラの脳裏に、あの花嫁の死に顔がよぎる。
あの大道芸人の、空虚な腹がよぎる。
そして、それが目の前のマキナと重なる。
(……嫌)
ナラは、衝動的にマキナに抱きついた。
ガシッ。
「あらあら、ナラちゃん? 甘えん坊さんねぇ」
マキナは、驚くこともなく、慣れた手つきでナラの頭を撫でた。
「いいこ、いいこ」
その手は温かい。柔らかい。
紛れもなく、生きている人間の感触だ。
でも、ナラは震えが止まらなかった。
「……いなくならないで」
ナラは、マキナの服を握りしめた。
「死なないで……! 勝手に、終わらせないで……!」
「……ナラちゃん?」
「あんたはモブじゃないわ! あたしのライバルで、親友で、家族よ! ……理由はあるわ! ここにあるわよ!」
ナラは必死だった。
マキナを、この世界に繋ぎ止めようと。
「生」という重力で、彼女の魂を縛り付けようと。
「……お願い。……ずっと、一緒にいて」
ナラの懇願に、マキナは少しだけ困ったように、そして嬉しそうに目を細めた。
「……ふふ。変なナラちゃん」
マキナは、ナラを抱きしめ返した。
その力は強く、包容力に満ちていた。
「大丈夫よ。……私は、ナラちゃんが望む限り、ここにいるわ」
「……ほんと?」
「ええ。……貴女が私の『理由』だもの」
その言葉に、ナラは少しだけ安堵した。
だが、同時に不安も残った。
「ナラちゃんが望む限り」
「理由」
それは裏を返せば、ナラがいなくなれば、あるいはナラが自立すれば、マキナは存在する理由を失うということではないのか。
不安が、呼吸を急がせる。
ナラは、マキナを連れて、走り出した。
ナラは、時計塔の屋上にいた。
眼下には、無数の「意味のない死」で彩られた街が広がっている。
隣には、マキナがいた。
彼女は、夕陽を浴びて、いつものようにおっとりと微笑んでいた。
「……ひどい、夕焼けね」
マキナが呟く。
「まるで、世界のエンドロールみたい」
「……終わらせないわ」
ナラは、手すりを強く握りしめた。
彼女のドレスは泥と返り血で汚れているが、その瞳だけは諦めを知らずに燃えていた。
「原因は必ずある。……怪異か、呪いか、あるいは病か。……解き明かしてみせる」
ナラは、マキナの方を向かずに言った。
彼女は怖かったのだ。
この得体の知れない「死の連鎖」に、大切な親友を巻き込むことが。
マキナには、ここで待っていてほしい。安全な場所で、いつものように笑っていてほしい。
だから、ナラは言った。
彼女なりの、最大の愛情と覚悟を込めて。
「マキナ。……もう、『あんたは来ないで』」
「あら? どうして?」
「これは、あたしの仕事よ。あんたが大切だから!……だから、この事件、『あたし一人で』解き明かしてみせるわ!」
ナラは、断言した。
自分一人で背負う。その覚悟こそが、ヒロインの条件だと信じて。
だが。
その言葉が、最後の「引き金」だった。
マキナの動きが、ピタリと止まった。
「……そう」
マキナの声から、温度が消えた。
悲しみではない。失望でもない。
ただ、「納得」だけがあった。
「ナラちゃんは、もう一人で大丈夫なのね。……私がいなくても、立派に物語を紡げるのね」
「え?」
ナラが振り返ると、マキナは満面の笑みを浮かべていた。
それは、手のかかる子供が自立した時のような、完璧な聖母の微笑み。
そして同時に、役目を終えた人形が箱に戻される時の、無機質な安らぎだった。
「よかった。……安心したわ」
マキナは、時計塔の巨大な文字盤の前に歩み寄った。
そこには、長針と短針が噛み合う、巨大な歯車が剥き出しになって回転している。
「マキナ……? 何をして……」
「いいこ、いいこ。……私のナラちゃん」
マキナは、ナラに向かって手を振った。
「私の物語は……『貴女を一人前のレディにすること』だったの。……でも、貴女はもう一人で戦える」
マキナは、回転する歯車に手をかけた。
「だから……ここで、おしまい。」
「――ッ!?」
ナラの思考が凍りついた。
止める間もなかった。
マキナは、躊躇いもなく、スキップをするような軽やかさで。
巨大な鋼鉄の歯車の隙間に、自ら頭から飛び込んだ。
絶叫すら、あげる暇はなかった。
数トンの鉄塊が噛み合う圧力。
マキナの美しい頭部が、スイカのように弾け飛んだ。
脳漿と鮮血が、ナラの顔面に降り注ぐ。
だが、歯車は止まらない。
マキナの体は、機械に巻き込まれ、引きずり込まれていく。
肩が砕け、背骨が折れ、肋骨が皮膚を突き破って飛び出す。
五体満足だった美女が、見るも無残なミンチと化して、機械の隙間からボトボトと零れ落ちていく。
「あ……あ……あぁ……!!」
ナラは、腰を抜かした。
目の前の、光景が、信じられなかった。
親友が。ライバルが。
ついさっきまで紅茶を淹れていた手が、今はただの肉片となって回転している。
そして。
歯車の隙間に挟まった、マキナの「顔の下半分」だけが、ナラの方を向いていた。
顎は砕け、舌が垂れ下がっている。
それでも。
その唇は、確かに三日月型に吊り上がっていた。
『…………』
彼女は、笑っていた。
死ぬ瞬間まで。
いや、死ぬこと自体が「喜び」であるかのように。
完璧な役目を終え、舞台から退場できることを祝福するように。
次の回転で、その笑顔もすり潰され、完全に消滅した。
「マキナぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
ナラは、歯車の下に駆け寄った。
落ちてきた肉片をかき集める。
温かい。まだ温かい。
でも、もう戻らない。
あたしのマキナ。あたしのお母さん代わり。あたしの友達。
「なんでよ……! なんで……! 解決するって言ったじゃない! 一緒に帰るって……!」
ナラは慟哭した。
涙が血と混ざり合い、視界を赤く染める。
悲しい。辛い。寂しい。
胸が張り裂けそうだ。
だが。
その涙が、ふと止まった。
ナラの脳裏に、ある思考がよぎった瞬間。
彼女の背筋を、氷柱のような悪寒が貫いたのだ。
(……待って)
ナラは、手の中にある肉片を見つめた。
これは自殺だ。
でも、なぜ「今」だった?
『あたし一人で解き明かしてみせるわ!』
あたしがそう言った直後だった。
あたしが「一人でできる」と宣言した瞬間、彼女は「安心した」と言って飛び込んだ。
(あたしが……殺した?)
いいえ、違う。
そうじゃない。もっと根本的な、恐ろしい事実。
ナラは、これまでに死んでいった人々を思い出した。
彼らの最期の瞬間を。
彼は、今日の魚をすべて売り切った直後だった。
『ああ、全部売れた。……もう売るものがないな』
そう言って、彼は満足げに自分の出刃包丁で首を切った。
彼は、店にあった最後の本を読み終えた瞬間だった。
『読みたい本がなくなった。……続きはもうないのか』
そう言って、本棚の下敷きになって死んだ。
彼女は、最後の客を見送った後だった。
『店じまいだね。……もう、誰も来ないね』
そう言って、酒樽の中に飛び込んで溺死した。
彼らに共通していたのは、「絶望」ではない。
「目的の消失」だ。
彼らは、それぞれの役割を持っていた。
魚を売る。本を読む。客をもてなす。
だが、そのタスクが完了した瞬間、あるいは「これ以上先がない」と悟った瞬間。
彼らにとって、「生き続ける理由」が消滅したのだ。
彼らは人間ではなかったのか?
いいえ、人間だ。
だが、彼らは「物語を持たない人間」だった。
自分の人生を、自分で切り開く意志を持たず、ただ与えられた「役割」や「設定」だけで生きていた。
だから、設定が終われば、彼らの人生も終わるのだ。
エンドロールが流れた映画の登場人物が、その後の時間を生きられないように。
そして、マキナも。
(あの子の物語は……『ナラを守る』ことだけだった)
それ以外に、何もなかった。
自分の夢も、欲望も、未来への展望も。
彼女の中身は、最初から空っぽだった。
だから、ナラが「一人で大丈夫」と言った瞬間。
彼女の存在意義は消失した。
「守る対象」を失った守護者は、ただの舞台装置に戻り、撤去されたのだ。
「……ひいッ、ぁ……」
ナラの涙が、乾いた。
代わりに、歯の根が合わないほどの震えが襲ってきた。
悲しみではない。
底知れない「戦慄」と「恐怖」。
あの子は、あたしを愛して死んだんじゃない。
あたしのせいで絶望して死んだのでもない。
ただ、「出番が終わったから消えた」。
それだけなのだ。
あんなに凄惨な死に方をしたのに。
あんなに痛かったはずなのに。
彼女にとっては、スイッチを切るのと変わらない、事務的な処理だったのだ。
「……嘘よ……」
ナラは後ずさった。
マキナの肉片が、ただの「モノ」に見えてくる。
「……人間じゃ……ない……?」
いいえ、人間だ。
物語を持たない人間は、こうなるのだ。
生きる執着がない。明日への渇望がない。
文脈が切れれば、生存本能さえ機能しなくなる。
日が沈んだ。
王都の自殺騒動は、唐突に止まった。
怪異が倒されたわけでも、事件が解決したわけでもない。
ただ、「死ぬ役」が全員死に絶えた。
ただ、「生きる役」が全員生き残った。
ナラは、獣医院に帰らなかった。
帰れなかった。
街の広場のベンチで、膝を抱えて震えていた。
エラーラが迎えに来た。
「……ナラ君?」
ナラは顔を上げた。
その目は、深く落ち窪み、恐怖に染まっていた。
「……お母様」
「……マキナ君は?」
「……終わったわ」
ナラは、掠れた声で言った。
「あの子の物語は……終わったの」
ナラは、自分の胸を強く掴んだ。
心臓が動いている。
怖い。
もし、あたしの物語が終わったら?
もし、あたしが「生きる意味」を見失ったら?
あたしも、あんな風に、笑いながらミンチになるの?
「……怖い」
ナラは、エラーラに縋り付いた。
「物語がなきゃ……人間は死ぬのね?」
ご飯を食べても、暖かくしても、愛されていても。
自分の中に「明日も生きたい」という、理屈を超えた「物語」がなければ。
人は、簡単に壊れてしまう。
生きていても、死んでいても、同じになるのだ。
「……そうかもしれないね」
エラーラは、ナラを抱きしめた。
彼女の体温だけが、ナラを現実に繋ぎ止めていた。
「だから、私たちは紡ぐんだよ。……意味のない日常に、無理やりにでも、意味を見出して」
エラーラは、夜空を見上げた。
星が輝いている。
あの星の一つ一つに物語があるように、地上の人間にも物語が必要なのだ。
「……帰りましょう、ナラ」
「……ええ」
ナラは立ち上がった。
足は重い。恐怖は消えない。
けれど。
ナラは歩き出した。
あたしは生きる。
泥まみれでも、無様でも、理由なんて後付けでもいい。
絶対に、自分の物語を「完結」なんかさせない。
死ぬその瞬間まで、もがき続け、書き続けてやる。
それが、残された者の義務であり、呪いなのだから。




