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第1話:おかあさんの最期の予定(1)

王都の朝は、いつものように騒がしく、そしてどこか獣の臭いがする。

だが、今日の獣医院の二階、あたしたちの城には、いつもとは違う種類の甘ったるく、そして息苦しい空気が充満していた。


「……あらあら、ナラちゃん。また襟が曲がっていてよ? いいこいいこ、直してあげるわね」


「触らないでくださる!? 自分でできますわ!」


漆黒のドレススーツに身を包んだナラティブ・ヴェリタスは、背後から伸びてくる手を鉄扇でピシャリと払いのけた。

だが、その手――白く、ふっくらとした美しい手は、鉄扇の軌道を柳のように受け流し、あろうことかナラの頭を優しく撫で回した。


「まあまあ、照れ屋さんなんだから。……ナラちゃんは、いつまで経っても手がかかる『妹』みたいなものねぇ」


「誰が妹ですかッ!あたしは孤高の一流レディですわ!」


ナラが毛を逆立てた猫のように威嚇する相手。

それは、この部屋に我が物顔で居座っている、一人の女性だった。

マキナ。

ナラと同じくらいの背丈だが、その肢体は豊満で、すべてを包み込むような母性的なオーラを放っている。

ふわふわとした栗色の髪、糸を細めたような穏やかな瞳。

彼女はナラの「自称・親友」であり、そしてナラが唯一、ペースを乱される天敵でもあった。


「マキナ! あんた、いつまでここにいるつもり? お母様の研究の邪魔になりますわよ!」


「あら、人聞きが悪いわねぇ。私はエラーラさんのお手伝いに来たのよ? ……さ、見てごらんなさい」


マキナは、ゆったりとした仕草で部屋を示した。

そこは、いつもの雑然とした実験室ではなかった。

床は鏡のように磨き上げられ、散乱していた書物は背表紙の色ごとに美しく整頓され、空気中にはラベンダーのアロマが漂っている。


「な、ななな……ッ!?」


ナラは絶句した。

あたしが掃除しても、三日もあればゴミ溜めに戻るこの部屋が、まるで王宮の客室のようになっている。


「完璧でしょう? ナラちゃんのお掃除も一生懸命で可愛らしいけれど……やっぱり、詰めが甘いのよねぇ」


マキナはクスクスと笑う。

奥の実験台で、白衣のエラーラ・ヴェリタスが、感嘆の声を上げていた。


「素晴らしい!マキナ君!私の実験器具が一切の誤差もなく洗浄、配置されている! これなら実験効率が300%向上するぞ!」


「うふふ。お役に立てて嬉しいわ、エラーラさん。……後で肩もお揉みしますわね」


「お、お母様!?」


ナラが悲鳴を上げる。


「騙されてはいけません!これは、あたしの居場所を奪おうとする高度な侵略行為ですわ!」


「何を言っているんだナラ君。論理的に考えて、彼女の家事スキルは君を凌駕している。……これは、認めざるを得ない事実ヴェリタスだよ」


「ぐぬぬ……ッ!」


ナラは唇を噛んだ。

悔しい。

スラム育ちのナラは、家事や裁縫といった「生活スキル」を、血の滲むような努力で身につけた。それは、エラと暮らすための必須技能であり、彼女のプライドの一部だ。

だが、マキナのそれは次元が違う。

努力の跡が見えない。汗一つかかず、呼吸をするように「完璧」を遂行する。

まるで、そのためだけに生まれてきた精密機械のように。


「勝負ですわ、マキナ!」


ナラは、鉄扇をビシッと突きつけた。


「今日のランチ……どちらがより『お母様の舌を満足させられるか』で、白黒はっきりつけようじゃありませんの!」


「あらあら。……いいわよ? ナラちゃんの成長、見せてもらうわねぇ」


マキナは余裕の笑みで受けて立った。

キッチンは、戦場と化した。

ナラは、エラーラの好物を熟知している。

栄養バランスと、ジャンクな味の絶妙な融合。

「特製薬膳カレー」を作るべく、ナラは包丁を振るう。

目にも止まらぬ速さで野菜を刻む。


「どうです! このスピード!」


「速いだけじゃダメよぉ、ナラちゃん。……料理は『愛情』よ」


マキナは、信じられないほど優雅な手つきで、オムレツを作っていた。

卵を割る音さえ、音楽のように心地よい。

フライパンを振るう動作には一切の無駄がなく、まるでダンスを踊っているようだ。

そして、出来上がったオムレツは……黄金色に輝き、見るからにふわふわと揺れている。


「……完成」


食卓に並べられた二つの料理。

ケンジ、アリア、ゴウ、ルル、そしてエラーラが審査員だ。


「いただきます!」


全員が、まずナラのカレーを食べる。


「うん!美味しい!やっぱりナラさんの味だ!」


「スパイスが効いてて最高だね!」


好評だ。ナラはドヤ顔をする。

次に、マキナのオムレツ。

ナイフを入れると、半熟の卵がトロリと溢れ出す。


「……!」


一口食べた瞬間、全員の動きが止まった。


「な、なんだこれは……」


ケンジが呟く。


「口の中で……溶けた……?」


「優しい……。お母さんのお腹の中にいるみたい……」


ルルがうっとりとして涙を流す。

エラーラは、一口食べて、スプーンを置いた。

そして、真剣な顔でマキナを見た。


「……成分分析、不能だ。加熱時間、塩分濃度、空気の含有量……全てが『理論値』を叩き出している……これは、芸術だよ!」


「あらあら、お粗末様でした」


マキナは微笑んだ。

勝ち誇るわけでもなく、当然のことのように。


「……負けましたわ」


ナラは、ガックリと肩を落とした。

味だけではない。その「完璧さ」に、圧倒されたのだ。


「落ち込まないで、ナラちゃん」


マキナは、ナラの皿に、自分のオムレツを切り分けて乗せた。


「ナラちゃんのカレーも、とっても情熱的で素敵だったわよ? ……いいこ、いいこ」


マキナはナラを後ろから抱きしめ、頭を撫でた。

その体温。匂い。柔らかさ。

悔しいけれど、心地よい。

ナラは、抵抗する気力を奪われ、されるがままになった。


「……あんたには、敵いませんわ」


「うふふ。だって私、ナラちゃんのためなら何だってできるもの」


その言葉に、ナラはふと、顔を上げた。


午後。

お茶の時間。

マキナが淹れた完璧な紅茶を飲みながら、情報屋のルルが、マキナに話しかけた。


「あの……マキナさん」


ルルは、いつもの古着姿で、部屋の隅からマキナを観察していた。

彼女は情報屋としての直感で、マキナに対して微かな「違和感」を抱いていたのだ。


「マキナさんは……将来の夢とか、あるんですか?」


「夢?」


マキナは、ティーポットを置き、小首を傾げた。

その仕草は完璧に可愛らしく、隙がない。


「そうねぇ。……ナラちゃんが立派なレディになるのを、一番近くで見届けることかしら」


「……それは、ナラさんの話ですよね?」


ルルは食い下がった。


「マキナさん『自身』のことです。……例えば、好きなお店を持ちたいとか、誰かと結婚したいとか、世界一周したいとか……」


ナラも、興味を持ってマキナを見た。

そういえば、マキナの過去や、個人的な願望を聞いたことがない。

彼女はいつも、ナラの周りにいて、ナラの世話を焼いているだけだ。

マキナは、少し考えるようなポーズをとった。

そして、花の咲くような笑顔で答えた。


「……特に、ないわね」


「え?」


「私自身のことは……特にないの。今のままで、十分に満たされているもの」


その言葉は、あまりにも軽やかだった。

悩みも、葛藤も、渇望もない。

透明な水のような、純粋な。


「ナラちゃんがいて、エラーラさんがいて、みんなが笑っている。……それだけで、私の世界は『完成』しているのよ」


「……欲がないのね、あんたは」


ナラが呆れたように言う。


「あら、欲張りよ? ……ナラちゃんの笑顔を独り占めしたいもの」


マキナはナラの頬をつついた。

ナラは「やめなさい」と笑ったが、ルルだけは笑わなかった。


(……変だ)


ルルは思った。

人間には、必ず「物語ナラティブ」がある。

過去があり、傷があり、満たされない穴があるからこそ、明日に向かって動こうとする。

ナラには、スラムでの過去と、生きる執着がある。

エラーラには、探究心と、背負った罪がある。

私にだって、コンプレックスやナラさんへの執着がある。

でも、マキナにはそれがない。

彼女は「今、ここ」で完璧に機能している。


「……マキナさん。……昔の話、聞かせてもらえませんか?」


「昔?」


「ええ。……ナラさんと会う前、何をしていたんですか?」


一瞬。

ほんの一瞬だけ、マキナの笑顔が固まった気がした。

だが、すぐにまた、柔らかい表情に戻る。


「……ふふ。退屈な話よ」


マキナは、紅茶を注ぎ足した。


「ただ、待っていたの。……ナラちゃんみたいな、素敵な人に出会えるのをね」


その答えは、答えになっていなかった。

だが、それ以上踏み込めないような、つるりとした拒絶がそこにはあった。

夕暮れ。

マキナが帰る時間になった。


「じゃあね、ナラちゃん。……明日は、一緒にお買い物に行きましょうね」


玄関先で、マキナはナラに抱きついた。

いつもの、過剰なスキンシップ。


「はいはい。……気をつけて帰りなさいよ」


ナラは素っ気なく返したが、その手はマキナの背中に回されていた。


「大好きよ、ナラちゃん」


マキナは、ナラの耳元で囁いた。

その声は、甘く、温かく、そして……どこか空虚に響いた。

マキナが去った後。

ナラは、自分の手を見つめていた。


「……あの子、本当に完璧ね」


「ふむ。非の打ち所がない」


エラが同意する。


「でも……」


ナラは、胸の奥に引っかかっている違和感を言葉にした。


「時々、思うのですわ。……あの子、本当に『生きている』のかしらって」


「どういう意味だい?」


「分かりません。……ただ、あまりにも綺麗すぎて。……泥の匂いがしないんです」


ナラは、自分のドレスの裾についた小さなシミを見た。

生活の汚れ。戦いの痕跡。

それが、生きている証だと思っていた。

だが、マキナにはそれがない。

常に新品のように美しく、傷つかず、汚れない。


「……ま、考えすぎですわね」


ナラは首を振った。

親友を疑うなんて、一流のレディ失格だ。

彼女はただ、育ちが良くて、性格が良いだけなのだ。


「お母様。……夕飯、まだ入ります?」


「マキナ君の料理で満腹だが……ナラ君の淹れたコーヒーなら、別腹だ」


「ふふ。……じゃあ、とびきり苦いのを淹れてあげますわ」


ナラはキッチンへ向かった。

窓の外、王都の空は、不気味なほど赤く染まっていた。

まるで、何かの終わりを告げる、エンドロールの背景のように。

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