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第5話:おばけの人権(2)

「……あー。あー。あー」


獣医院の二階。

エラーラは、白目を剥いて口から紫色の煙を吐き出しながら、壊れたレコードのように同じ音を発し続けていた。


「お母様!? しっかりなさい! 何が起きたのですか!?」


ナラが必死に揺さぶるが、エラの瞳孔は開きっぱなしで、焦点が合っていない。


「ダメだ。……お母様の脳が、ショートしているわ」


原因は、テーブルの上に置かれた一枚の報告書だった。

『王都統計局・臨時レポート:霊界人口の推移と、物質界への物理的圧迫について』。

そこに記されていたのは、あまりにも単純で、かつ致命的な計算式だった。


人口(生者): 出生と死亡により、増減しながら緩やかに推移。


人口(死者): 死亡した者がそのまま加算される。減らない。右肩上がりの無限。


「……言われてみれば、そうですわね」


ナラは戦慄した。

人類の歴史が始まって以来、死んだ人間はずっと「あちら側」に蓄積されてきた。

成仏? 転生?

そんなシステムはとっくの昔に処理落ちしていたのだ。

霊界は満員電車状態。足の踏み場もないほどの幽霊、怨霊、地縛霊。

彼らは叫んだ。


「狭い!」


「暑苦しい!」


「プライバシーがない!」


そして、ついに限界を超えた霊界から、あふれ出した死者たちが「こちら側」へ雪崩れ込んできたのだ。


「ニュースです! 王都の結界壁前に、数百万の『未登録霊体』が押し寄せています!」


魔導テレビが映し出した映像は、地獄絵図だった。

半透明の群衆が、地平線の彼方まで続いている。

プラカードには『死後も快適な暮らしを』『物質界への居住権を認めろ』『リサイクル反対』の文字。


「……移民問題、ですの?」


ナラは頭を抱えた。

これは、あの夜の怪異騒動よりも恐ろしい。

なぜなら、彼らには「悪意」がない。「生活」がかかっているからだ。

物理的に殴って解決できる問題ではない。


「どうやって移民するつもりなのかしら……」


その答えは、すぐに判明した。

ピンポーン。

獣医院のチャイムが鳴る。

ナラが警戒しながら出ると、そこには見知らぬ中年男性の幽霊が立っていた。

彼は、申し訳なさそうに一枚の書類を差し出した。


「あのぉ……。ここの『花瓶』、空いてますよね?」


「……はい?」


「いや、霊界のマンションが倍率5000倍でしてね。……こちらの花瓶、日当たりも良さそうですし、家賃もお支払いしますので、シェアハウスさせていただけないかと……」


「花瓶に住む気!?」


「贅沢は言いません! 壺でも、古靴でも、タンスの隙間でも構いません! ……実体がないので、物理的なスペースは取らないんです! ただ、そこに『いる』という権利を認めていただければ!」


幽霊は必死だった。

ナラは恐怖した。

この世界中のあらゆる「隙間」や「器」に、死者が住み着こうとしている。

コップの中に、本棚の裏に、トイレのタンクの中に。

世界が、「生者」と「死者」の多重レイヤー構造になりつつある。


「ふざけるな! 俺の愛車に勝手に憑依するな!」


「嫌よ! この車、座り心地がいいんだもの!」


街では、既に小競り合いが始まっていた。

だが、それはナラが危惧したような、血で血を洗う戦争ではなかった。

幽霊たちは物理攻撃ができない。生者も幽霊に触れない。

だから、彼らは「嫌がらせ」という手段で戦争を仕掛けてきた。

夜中、トイレに行こうとすると、勝手に流れる。

大事な会議中に、ネクタイが勝手に浮く。

魔導水晶の充電が、謎の消費でゼロになる。

地味だが、精神を確実に削る攻撃。

映画館で、サスペンスの犯人が明かされる直前に、空中に文字が浮かぶ。

『犯人は執事』。

楽しみにしていた小説のラストページだけが、勝手に開く。

娯楽を愛する生者への、精神的ダメージは甚大だ。


「ちょっと体貸してー!」


一時的に体を乗っ取り、勝手に高い酒を飲んだり、恥ずかしいダンスを踊ったりして、また抜ける。

「記憶にない奇行」が増え、社会生活が崩壊する。


「……陰湿ッ! 陰湿すぎますわ!」


ナラは、勝手に動き出した掃除機と格闘しながら叫んだ。

掃除機には、掃除好きだったおばあさんの霊が憑依しており、「もっと隅々まで!」とナラを叱咤激励してくる。


「お母様! 早く起きて! ……科学でなんとかして!」


だが、エラーラは「……無限……集合論……パラドックス……」と呟きながら、床を転がりまわるだけだ。

彼女の論理回路は、「死者が増え続ける」という熱力学法則を無視した現象の前に、完全敗北していた。

事態を収拾するため、王都議会で緊急審議が開かれた。

議題は『生死混合社会における法整備』。


「死者にも人権を認めるべきか?」


「いや、彼らは死んでいる。人権ではなく『霊権』だ」


議論は迷走を極めた。


「もし死者に選挙権を与えたらどうなる?」


「死者の数は生者の10倍、いや100倍以上だ。……民主主義の原則に従えば、全ての政策は『死者優遇』になるぞ!」


「税金……いや香典税を払っていないのに選挙権はおかしい!」


「いや、我々は生前、税金を払い続けた! その対価だ!」


ナラは傍聴席で震えた。

もし死者が票を持てば、この国は「墓地を増やす」「線香を無料配布する」といった政策ばかりになる。生者はマイノリティとして、死者に支配されるのだ。


「死者は眠らなくていい。食事もいらない。給料も安くていい」


「そんな奴らが労働市場に入ってきたら、生者の雇用が奪われる!」


「ダンピングだ! 死者は働くな!」


「差別だ! 我々にも社会貢献させろ!」


現に、コンビニの夜勤や警備員は、すでにゾンビや幽霊に置き換わりつつあった。

24時間365日、文句も言わず働き続ける彼らに、生身の人間が勝てるわけがない。


「殺人罪はどうなる? 死者を殺すことはできないが、成仏させることは殺人に当たるのか?」


「死者が生者を驚かせてショック死させた場合、それは傷害致死か?」


「あああああッ!! もうわけが分かりませんわ!」


ナラは法廷を飛び出した。

カレル警部も、廊下でタバコ(幽霊に嫌がらせで火を消され続けて吸えない)を咥えながら、遠い目をしていた。


「……ナラ君。私はもう、引退したいよ……」


「ダメですわ警部。……地獄の底まで付き合ってもらいます」


獣医院に戻ると、エラーラがむくりと起き上がっていた。

彼女の目は、狂気と天才の境界線でギラギラと輝いていた。


「……解けたよ、ナラ君」


「お母様!? 正気に戻りましたの!?」


「ああ。……問題は『空間の不足』と『権利の衝突』だ。ならば、解決策は一つしかない」


エラーラは、黒板に巨大な図式を書いた。


『全人類霊体化計画』


「……はい?」


「生者が肉体を持っているから、場所を取るし、死者と対立するのだ。……ならば、生者も全員、肉体を捨てて霊体になればいい!」


エラーラは高らかに宣言した。


「そうすれば、食料問題も、居住問題も、労働問題も全て解決する! 全員が幽霊になれば、そこは平等なユートピアだ!」


「マッドサイエンティストにも程がありますわッ!!」


ナラは鉄扇でエラーラの頭をはたいた。


「それ、集団自殺と何が違いますの!?」


「違うよ! 科学的な『昇華』だ! ……さあ、この『魂魄抽出装置』を街中に設置して……」


「やめなさい! 戦争になりますわよ!」


その時、窓の外で轟音が響いた。

見ると、死者のデモ隊と、生者の反対派が衝突していた。

生者が塩を撒き、死者がポルターガイストでレンガを投げる。

泥沼の内戦。


「……もう、限界ですわ」


ナラは、鉄扇を開いた。


「論理も、法律も、科学も役に立たないなら……。最後は『感情』で話をつけるしかありませんわね」


ナラは、バルコニーに出た。

そして、大混乱の群衆に向かって、腹の底から声を張り上げた。


「お待ちなさいッ!!!」


戦場が一瞬、静まり返る。

漆黒のドレスの美女が、仁王立ちしていた。


「死者も生者も、よく聞きなさい! ……あんたたち、全員バカよ!」


ナラは叫んだ。


「死んだ奴は、生きてる人間に嫉妬して嫌がらせをして! 生きてる奴は、死んだ奴を邪魔者扱いして排除しようとする!」


ナラは、自分の胸を指差した。


「あたしはね、どっちも大切なのよ! ……死んだパパやママのことも覚えていたいし、今生きてるお母様ともご飯を食べたいの!」


「場所がない? ……詰めればいいじゃない! 膝の上に座らせればいいじゃない!」


ナラは、近くに浮いていた幽霊のお爺さんをひっ捕まえ、強引に自分の肩に乗せた。


「ほら! これで一人分よ! 重くなんてないわ!」


「……え?」


「シェアしなさいよ! ……思い出も、空間も、楽しいことも! 死んでようが生きてようが、同じ街の住人でしょうがッ!」


めちゃくちゃな理屈だった。

物理的には何の解決にもなっていない。

だが、ナラの圧倒的な「共生への意志」と「ヤケクソな愛」が、人々の心を打った。


「……そ、そうかもな?」


「じいちゃん、俺の背中に乗るか?」


「悪いねぇ。……じゃあ、憑依させてもらうよ」


街のあちこちで、奇妙な「合体」が始まった。

生者が死者を背負い、死者が生者を守る。

二人羽織のような、奇妙で、窮屈で、でも温かい共生。


「……ふふ。非論理的だ」


エラーラが、隣で笑った。


「だが、それが『人間』というバグの面白さかね」


王都は、世界で一番人口密度が高く、世界で一番騒がしい街になった。

幽霊が店番をし、人間がその横で寝る。

トイレは勝手に流れるが、「ありがとう」と言えば止まるようになった。

ナラは、肩に乗った幽霊のお爺さんに、自分のトーストを分けてあげた(食べられないが、匂いだけで満足そうだ)。


「……騒がしいですわね」


「ああ。……退屈しなくていい」


獣医院のリビングには、今日も生者と死者が入り乱れ、カオスな宴が続いている。

これが、ヴェリタス親子の提案した、新しい「世界平和」の形だった。

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