第3話:妖怪退治!
『ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ!』
警報音が鳴り止まない。
それはもはや音波ではなく、脳髄を直接這いずり回るような不快な振動となって、ナラの意識を削り取っていく。
側溝の中で小さく丸まったナラは、割れた魔導水晶の画面から目を逸らすことができなかった。
ヒビの入ったガラスの奥で、ノイズ混じりのニュースキャスターが、何かを絶叫している。
『……緊急報道……! 王都北西部の山間部にて……大規模な……境界断絶を確認……!』
『……直ちに……避難を……! 「それ」は……認識した者を……連れて……』
『ギュイッ! ギュイッ!』
「……あ、あぁ……」
ナラは、自分の膝を抱いて震えた。
認識してはいけない。
だが、もう遅い。
ナラの五感は、完全に「あちら側」にチューニングされてしまっていた。
背中に張り付く無数の気配。
耳元で囁かれる、意味のない言語の羅列。
地面の下から伸びてくる、冷たい泥のような指の感触。
(あたしは……一人)
最初から一人だった。
6人の仲間なんていなかった。
楽しい肝試しなんてなかった。
ただ、狂人が一人、山に入って、箱を開けて、呪いを吸い込んで、発狂して死ぬ。
それだけの物語。
「……殺して」
ナラは、掠れた声で呟いた。
「もういいわ……。こんな恐怖が続くくらいなら……殺してよ……」
その願いに応えるように。
道の向こうから、「それ」が近づいてきた。
白い点。
さっき見た時よりも、遥かに巨大になっている。
手足を動かさず、直立不動のまま、新幹線のような超高速で滑ってくる人影。
のっぺりとした顔に、裂けたような口だけがある。
『……ミ……ツ……ケ……タ……』
距離、500メートル。
300メートル。
100メートル。
速い。
逃げられない。
死が、白い壁となって迫ってくる。
その背後からも、轟音が聞こえた。
「……え?」
ナラは、虚ろな目で背後を見た。
今度は何?
巨大な顔? 無数の手?
もう、何が来ても驚かない。どうせあたしはここでミンチになって……。
だが。
その轟音は、怪異のそれとは異質だった。
爆風。
熱気。
そして、圧倒的な「物理エネルギー」の回転音。
『緊急警報! 緊急警報!』
『対象エリアの「不浄物」に対し、最大級の警戒を……!』
ニュース音声が、奇妙なことを言っている。
人間への避難勧告ではない。
まるで、「怪異」そのものに対して警告しているかのような。
強烈な吹き下ろしの風が、ナラの体を側溝の底に押し付けた。
木々がなぎ倒され、闇が吹き飛ぶ。
上空に、巨大な影が現れた。
怪鳥ではない。
金属の装甲に覆われ、魔導エンジンを唸らせる、無骨で、暴力的なまでの質量を持った飛行物体。
『自動操縦式・対怪異殲滅用魔導ヘリコプター』。
「……は?」
ナラの思考が停止した。
ヘリコプターの側面が、ガコンッという音と共に展開する。
そこから、白衣を翻した一人の人物が、ロープもなしに飛び降りた。
高度、30メートル。
着地と同時にアスファルトが粉砕され、クレーターができる。
「ゲホッ、ゲホッ……! 着地計算に誤差が! 膝が砕けるかと思ったよ!」
土煙の中から現れたのは、ボサボサの銀髪に、巨大な測定器を背負った女性。
エラーラ・ヴェリタス。
「……お母様?」
ナラは、幻覚だと思った。
死ぬ間際に見る、都合のいい夢だ。
だって、ここは「あちら側」の世界だ。本物のエラーラが来られるはずがない。
エラーラは、クレーターから這い出し、眼鏡の位置を直した。
そして、ナラを見つけると、仁王立ちして叫んだ。
「ナラ君ッ!! こんな夜更けに徘徊とは感心しないね! 門限を過ぎているぞ!」
「……え?」
「しかもなんだその格好は! 泥だらけじゃないか! クリーニング代が馬鹿にならないんだぞ!」
あまりにも日常的で。
あまりにも所帯じみていて。
そして、あまりにも「エラーラ」らしい説教。
「……本物……?」
ナラが呟いた瞬間。
迫りくる「白い人影」が、エラーラの背後に到達した。
『……ジャ……マ……ダ……』
怪異が、エラーラを飲み込もうと大口を開ける。
「危ないッ!」
ナラが叫ぶ。
だが、エラーラは振り返りもしなかった。
彼女は、背負っていた測定器から、掃除機のノズルのようなものを取り出し、無造作に背後へ向けた。
「うるさいねぇ。……今は教育的指導中だ」
エラーラがトリガーを引く。
閃光。
ノズルから放たれたのは、純度100%の「陽子崩壊ビーム」だった。
『ギャ……!?』
白い人影は、悲鳴を上げる間もなく蒸発した。
跡形もなく。物理的に。
「……は?」
ナラが口を開ける。
「ふん。……低級霊か。質量保存の法則も無視するとは、物理学への冒涜だね」
エラーラは、ノズルの煙をフッと吹いた。
そして、ナラの方へ歩み寄ってきた。
「さあ、ナラ君。帰るよ。……夕飯のシチューが冷めてしまう」
エラーラが手を差し伸べる。
ナラは、その手を見つめた。
震えが止まらない。
「……あ、あんた……偽物でしょ?」
ナラは後ずさった。
「だって……ここは『箱の中』よ。……あたしは呪われて、認識を書き換えられて……。あんたも、あたしを絶望させるための幻覚なんでしょ!?」
ナラは錯乱していた。
あまりの恐怖に、救いを信じることができない。
エラーラは、ため息をついた。
そして、ナラの頭を、グイッと掴んだ。
「痛ッ!?」
「痛いだろう? ……これが現実だ」
エラーラは、ナラの目を覗き込んだ。
「ナラ。……『分からない』なら、知ろうとしなさい」
「……え?」
「恐怖とは、無知の別名だ。……幽霊? 呪い? そんなあやふやな概念に怯えるなんて、私の娘らしくない」
エラーラは、懐から携帯端末を取り出し、ナラに見せた。
そこには、先ほどのニュース映像が流れていた。
『臨時ニュースです。……王都近郊の山岳地帯にて、大規模な「次元境界の亀裂」が発生しました』
『現在、賢者エラーラ・ヴェリタス氏が、現地へ向かっています』
『付近の住民は、直ちに避難を……』
ナラが聞いていたノイズ混じりのニュース。
それは、呪いでも幻聴でもなかった。
「エラーラが出動するから、巻き込まれないように逃げろ」という、事実そのものの報道だったのだ。
「警報音がうるさかっただろう? ……あれは、私がこのエリアに展開した『対怪異・強制実体化フィールド』の共鳴音だ」
「……は?」
「幽霊やら妖怪やら、観測できないから怖いのだよ。……だから、無理やり質量を与えて、物理攻撃が通じるようにした」
エラーラは、笑った。
「つまりだね。……今、この山にいる『お化け』たちは、全員ただの『殴れるサンドバッグ』になったということさ!」
その瞬間。
ナラの世界が、反転した。
恐怖の霧が晴れる。
得体の知れない「気配」が、明確な「敵」として認識される。
「……サンドバッグ?」
ナラは、自分の手を見た。
震えが止まる。
力が戻ってくる。
「……ボコボコ?」
「ああ。……ボコボコだ。」
その時。
周囲の闇から、無数の怪異が湧き出してきた。
さっきの「顔のない仲間」や、「巨大な顔」や、「見えない群衆」たちだ。
彼らは実体化し、グロテスクな肉体を持って襲いかかってくる。
『コロス……』
『道連レ……』
だが、ナラの目には、もう恐怖はなかった。
あるのは、散々怖がらせてくれたことへの、ブチ切れのみ。
「……よくも」
ナラは、懐から鉄扇を取り出した。
パチン、と音が響く。
「あたしを……コケにしてくれましたわねッ!!」
ナラが跳んだ。
ドレスの裾を翻し、怪異の群れに突っ込む。
「ごめんあそばせェッ!!」
鉄扇が、顔のない怪物の頭蓋を粉砕する。
手応えがある。骨が折れる音がする。
「殴れる! ……殴れますわ!」
ナラは歓喜した。
理解不能な恐怖が、理解可能な暴力へと変わった瞬間。
それは、彼女にとって最高のカタルシスだった。
「そこ! 覗き見野郎!」
「そっち! ストーカー!」
ナラは舞った。
一方、エラーラも容赦がなかった。
「私の娘を怖がらせた罪……。万死に値する!」
エラーラは、掃除機型兵器を最大出力にした。
「吸引ッ!!」
怪異たちが、悲鳴を上げて吸い込まれていく。
『ヤメロォォォ!』
『成仏スルゥゥゥ!』
「成仏など生ぬるい! ……分解して、エネルギー資源としてリサイクルしてやる!」
エラーラは、逃げようとする怪異たちを追い回した。
茂みに隠れていた「巨大な顔のおばさん」も、引きずり出されて吸い込まれる。
空を飛んでいた人魂も、叩き落とされて踏み潰される。
「あ、あれは関係ない地縛霊じゃないの?」
ナラが、隅で震えていた無害そうな霊を指差す。
「関係ない!」
エラーラが叫ぶ。
「この場にいたのが運の尽きだ! まとめて消毒だ!」
無関係な霊も、流れ弾で消滅した。
まさに通り魔。
怪異たちにとっては、ナラとエラーラこそが、真のホラーだった。
数分後。
山からは、怪異の気配が完全に消滅していた。
残ったのは、更地になった廃屋と、スッキリした顔の親子だけ。
「……ふぅ。運動になりましたわ」
ナラは汗を拭った。
「サンプルも大量に取れた。……大収穫だ」
エラーラが満足げにタンクを叩く。
「……お母様」
ナラは、エラーラに近づいた。
そして、泥だらけのまま、抱きついた。
「……怖かった」
「うん」
「本当に……一人ぼっちになったかと……」
「バカだねぇ」
エラーラは、ナラの頭を撫でた。
「私が、君を一人にするわけがないだろう。……地獄の底だろうが、異次元の果てだろうが、執念で追いかけていくさ」
「……ストーカーですわね」
「愛だよ、愛」
二人は笑い合った。
ヘリコプターのローター音が、心地よいリズムを刻んでいる。
「さあ、帰ろう! ……今日は、君の好きなハンバーグも用意してあるぞ!」
「本当!? ……じゃあ、急ぎましょう!」
ナラとエラーラは、ヘリに乗り込んだ。
眼下には、平和な王都の夜景が広がっている。
悪夢は去った。




