第2話:肝試し(2)
廃屋を出て、山道を下り始めた時、空気が変わった。
先ほどまでの、肝試し特有の浮ついた高揚感は、湿った綿で口を塞がれたように唐突に消え失せた。
代わりに張り付いてきたのは、肌にまとわりつくような、不快な湿度だ。
風が止んでいる。虫の声もしない。
ただ、ジャリ、ジャリという、自分たちの足音だけが響いている。
ナラは、最後尾を歩いていた。
「一流のレディは、殿を務めるものですわ」とうそぶいていたが、本当は、背後の闇が気になっていたのだ。
(……変ね)
ナラは、前を歩く仲間たちの背中を見つめた。
獣人の少年、人間の少女、眼鏡の男……。
懐中電灯の光が乱舞し、彼らの影が木々の幹に長く伸びては消える。
「ねえ。……少し、歩くのが速くなくて?」
ナラが声をかける。だが、誰も答えない。
笑い声が消えている。彼らは無言で、機械的に足を動かしている。
ふと、ナラは違和感を覚えて、仲間たちの数を数えた。
「……あれ?」
一人、足りない。
来る時は6人だったはずだ。ナラを入れて7人。
だが、前を歩いているのは5人しかいない。
「……誰か、トイレにでも行きましたの?」
ナラが足を止めて振り返る。
背後には、漆黒の闇が口を開けているだけだ。
廃屋はもう見えない。
「……気のせいかしら」
ナラが向き直る。
すると。
「……は?」
増えている。
さっきまで5人だった背中が、7人に増えている。
ナラを含めれば8人だ。
しかも、増えた2人の背中には、見覚えがない。
服装が曖昧だ。輪郭がぼやけている。
だが、他の仲間たちは気にする素振りもなく、その「知らない誰か」と肩を並べて歩いている。
「ちょっと! ……誰ですの、その人!」
ナラが声を張り上げた、その瞬間。
『ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ!』
ナラの懐で、魔導水晶が絶叫した。
着信音ではない。
国が定める、最高レベルの危機を知らせる「緊急警報音」だ。
心臓を直接鷲掴みにされるような、不協和音の警告。
「なッ……!?」
ナラは慌てて水晶を取り出した。
画面が明滅している。
『緊急警報。……■■が……発生しました。……直ちに……』
文字化けして読めない。
音声ニュースが流れる。ザザッというノイズの向こうから、アナウンサーの切迫した声。
『……見ないでください。……決して……認識してはいけません……。それは……人の形をして……』
音声が途切れる。
「……何よ、これ」
ナラは顔を上げた。
世界が、ズレていた。
道の脇。鬱蒼とした杉林の中。
懐中電灯の光が、ふと逸れた先に、それがいた。
「……人?」
木々の間に、赤い人影が立っていた。
服の色ではない。全身が、剥き出しの筋肉のような、あるいは煮凝りのような赤色をしている。
顔はない。手足の区別も曖昧だ。
ただ「人の形をした肉塊」が、ゆらりと揺れて、こちらを見ていた。
「ヒッ……!」
ナラは息を呑んだ。
殴れる相手じゃない。
あれは、物理的な敵ではない。
「そこにいてはいけないもの」が、エラーのように滲み出している。
ナラは視線を戻した。
仲間の列を見る。
3人しかいない。
また減った。
4人が、音もなく消滅している。
「ねえ! ……ねえ、みんなどこに行ったの!?」
ナラは、残った3人の肩を掴もうとした。
犬の獣人の少年だ。
彼は、ナラが肩に触れても、反応しなかった。
振り向かない。足音もしない。
まるで、録画された映像が空間に投影されているかのように、実存感が希薄だ。
「……返事をしなさいよッ!!」
『ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ!』
また警報音。
ビクッとして、ナラは水晶を見る。
画面には、真っ赤な背景に、黒い文字で一言だけ表示されていた。
『ウスロ』
「……後ろ?」
ナラの背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。
視線。
背中全体に、無数の目が張り付いているような、ねっとりとした視線を感じる。
すぐ後ろだ。
耳元で、誰かの吐息が聞こえる距離。
ナラは、鉄扇を握りしめた。
物理で殴れない敵などいない。後ろにいるなら、殴り倒すだけだ。
「……ごめんあそばせッ!」
ナラは、絶叫と共に振り返り、鉄扇を横薙ぎに振るった。
空振り。
誰もいない。
ただの闇。木の葉が揺れる音さえしない。
「……ハァ、ハァ……」
ナラは、再び正面を向いた。
戻っている。
6人に戻っている。
だが。
「……あんた、誰?」
最後尾を歩いていた、人間の少女。
彼女は、くるりと首だけを真後ろに回して、ナラを見ていた。
体は前を向いたまま、首だけが180度回転して。
そして、その顔には。
目玉と口が、なかった。
皮膚の下に骨がないかのように、顔の中央が大きく陥没し、底なしの「穴」が三つ、ぽっかりと空いていたのだ。
目があった場所の穴。口があった場所の穴。
暗黒の空洞が、ナラを覗き込んでいた。
「アアアアアアアアッ!!!」
ナラは悲鳴を上げた。
一流のレディの矜持も、強者の余裕も、一瞬で吹き飛んだ。
これは戦いではない。
一方的な「浸食」だ。
ナラは瞬きをした。
次の瞬間。
少女は、普通の顔に戻っていた。
眼鏡をかけた、真面目そうな顔。
彼女は、首を元に戻し、何事もなかったかのように歩き続けた。
「……嘘……嘘よ……」
ナラは後ずさった。
この連中は、仲間じゃない。
人間ですらないかもしれない。
あたしは、何を連れて歩いているの?
いや、連れて行かれているのは、あたしの方なのか?
『ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ!』
警報音が鳴り響く。
ナラは、耳を塞ぎたくなった。
でも、音が止まない。水晶からではなく、脳内に直接響いているかのように。
ナラは、足元に視線を落とした。
震える自分の足。泥だらけのヒール。
「……落ち着きなさい、ナラティブ。……論理的に考えるのよ。……これは幻覚魔法か、毒ガス……」
ナラは、顔を上げた。
誰も、いなかった。
一本道の山道。
前後左右、どこを見ても、闇と木々だけ。
6人の仲間たちは、足音ひとつ立てずに、煙のように消失していた。
「……え?」
ナラは、一人だった。
最初から一人だったかのように、静寂だけがそこにあった。
「……い、嫌……」
孤独。
スラムで味わった孤独とは違う。
世界から「自分以外の人間」が削除されたかのような、絶対的な孤立感。
しかも。
景色に見覚えがない。
来る時は、みんなと喋りながら、ワイワイと登ってきたはずだ。
でも、この道は?
こんな曲がりくねった道だったか?
そもそも、あたしはどっちから来た?
帰る方向は? 獣医院はどっち?
方向感覚が消失する。
物語を失った人間は、自分がどこにいて、どこへ行くべきかも分からなくなる。
「……帰らなきゃ。……お母様のところに……!」
ナラは、走り出した。
ドレスの裾が枝に引っかかり、破れる。
構わない。
とにかく、明かりのある場所へ。人のいる場所へ。
走る。走る。走る。
息が切れる。肺が焼けるように痛い。
ヒールが折れた。裸足になって走る。
泥が足裏に食い込む。
山を抜けた。
少し開けた場所に出る。田園地帯だ。
遠くに、ポツンと一軒の民家が見えた。
窓から、オレンジ色の明かりが漏れている。
「……あ、助かった……!」
ナラは、転がるように民家へ向かった。
人がいる。話が通じる相手がいる。
そう思って、敷地に入ろうとした、その瞬間。
パッ。
明かりが、消えた。
スイッチを切ったのではない。
家そのものが、闇に塗りつぶされたように、存在感を失った。
「……え?」
ナラは立ち止まった。
暗い。
家の中からは、人の気配がしない。
虫の声もしない。
ただ、家という形をした「箱」が、そこに置かれているだけ。
その時。
背後の草むらから、ガサッ、と音がした。
ナラは、凍りついた。
見てはいけない。
本能がそう告げている。
だが、首が勝手に動く。
振り返る。
何もいない。ただの草むらだ。
風に揺れるススキ。
だが。
ナラの脳が、ある「形」を認識してしまった。
ススキの揺れ具合。影の落ち方。
それが、偶然組み合わさって。
草むらの中に、巨大な女性の顔が、横たわってこちらを見ているように見えた。
直径2メートルはある、青白い顔。
目は閉じているが、口元だけが笑っている。
「……ッ!!!」
ナラは、声にならない悲鳴を上げて、尻餅をついた。
見間違いだ。
そう思いたい。
だが、「それ」は確かにそこに「あった」。
脳が「顔がある」と認識した時点で、それは怪異として実体化するのだ。
ナラは、這うようにして逃げ出した。
民家の横を通り抜ける。
ふと、庭先を見る。
そこに、いた。
さっき消えたはずの、6人の仲間たち。
彼らは、庭の真ん中に、棒立ちになっていた。
全員、バラバラの方向を向いて。
微動だにしない。
まるで、配置されたマネキンのように。
「……みんな?」
ナラが声をかける。
反応はない。
ただ、「そこにいる」という事実だけが、不気味な圧迫感を持って迫ってくる。
『ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ!』
警報音。
ノイズ混じりのニュース音声。
『……緊急……。……高速で……接近中……。……接触しないで……』
「……来る」
何かが、来る。
ナラは、民家を後にして、舗装された道路に出た。
長い、長い一本道。
遠くの方に、街灯の明かりが見える。あそこまで行けば、住宅街だ。
ナラは走った。
心臓が破裂しそうだ。
ふと、進行方向の遥か彼方を見る。
道の真ん中に。
白い「点」があった。
「……誰か、いる?」
ナラは目を凝らした。
人影? 誰かが歩いてくる?
違う。
その「点」は、歩いていなかった。
手足の動きがない。
クネクネと揺れながら、しかし一直線にこちらに向かってくる。
そして、その速度が異常だった。
最初は米粒ほどだった点が。
瞬きする間に、豆粒になり、拳大になり、人の大きさになる。
超高速だ。
車よりも速い。新幹線のような速度で、滑るように、音もなく近づいてくる。
白い人影。
のっぺりとした顔。
長い手足が、ありえない方向に関節を曲げながら、揺れている。
「あ、あ、あ……!」
ナラは腰を抜かした。
理屈が通じない。
殴れない。話せない。
あれは、「死」そのものだ。
「嫌だ……! 来ないで……!」
ナラは、アスファルトに爪を立てて、逆方向へ這いずった。
逃げ場がない。
後ろには、あの民家と、棒立ちの仲間たち。
前からは、白い高速の怪異。
ナラは、側溝の陰に身を隠し、耳を塞いだ。
震えが止まらない。
極限の恐怖の中で、ナラの思考が回転する。
(どうして……こんなことに……)
(エラーラは? ……カレル警部たちは?)
助けに来てくれるはずだ。あたしには仲間がいる。
でも、思い出せない。
エラーラって、どんな顔だっけ?
カレルって、誰だっけ?
(……あたしの、仲間?)
『ギュイッ! ギュイッ!』
警報音が思考を遮断する。
記憶が、ノイズに食われていく。
(……6人の仲間。……名前は? いつ会った?)
ナラは、記憶の糸を手繰り寄せた。
獣医院での会話。誘われた時の光景。
(……ない)
記憶がない。
ないのだ。
映像として思い出せない。
ただ「仲間と肝試しに行く」という「設定」だけが頭にあった。
文脈は、なかった。
(……嘘)
ナラは、気づいてしまった。
(……最初から、いなかったんだ)
6人の仲間など、存在しなかった。
ナラは、一人だった。
獣医院を出て、一人で山へ入り、一人で廃屋へ行き、一人で喋り、一人で笑って帰ってきたのだ。
あの「会話」も、「拍手」も。
全部、ナラの脳内で再生された妄想だったのだ。
(なんで……? あたし、狂ってるの?)
違う。
「箱」だ。
あの廃屋にあった、空っぽの木箱。
あれは、「空っぽ」だったのではない。
何らかの、「呪い」が詰まっていたのだ。
「……あたしが、開けたから……」
自業自得。
好奇心が猫を殺すように、物語への過信がナラを殺す。
『ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ!』
警報音が、最大音量で鳴り響く。
ナラは、震える手で魔導水晶を見た。
画面には、もう文字はなかった。
カメラ機能が、勝手に起動していた。
インカメラではない。アウトカメラだ。
画面には、ナラの足元のアスファルトが映っている。
だが。
画面の端に、ありえないものが映り込んでいた。
ナラの足元。
現実には何もない、ただの地面。
だが、画面の中だけ。
そこに、髪の長い女の顔があった。
地面から生えるようにして、画面いっぱいのドアップで、ナラの顔を見上げている。
充血した目。
裂けた口。
その目が、画面越しに、ナラとバチリと合った。
『……ミ……ツ……ケ……』
水晶のスピーカーから、女の声がした。
「イヤァァァァァァァッ!!!」
ナラは、魔導水晶を投げ捨てた。
水晶が地面に叩きつけられ、画面が割れる。
だが、音は止まらない。
割れた画面の奥から、女の笑い声と、警報音が垂れ流され続ける。
『緊急……警報……。……アナタハ……囲マレテ……』
ナラは、顔を上げた。
闇の中。
気配がする。
背中に。
地面の下に。
頭上の電線の影に。
電柱の裏に。
「人」がいる。
目には見えない。
でも、肌で感じる。
満員電車のような密度で。
数百、数千の「ナニカ」が、ナラを取り囲み、顔を近づけ、冷たい息を吹きかけている。
「……ひッ、ふぅ……っ」
ナラは、呼吸ができなくなった。
殴れない。
敵がいないから。
でも、確かにそこに「いる」。
逃げ場はない。
世界そのものが、ナラを閉じ込める「箱」になってしまったのだ。
ナラは、側溝の中で膝を抱え、小さく丸まった。
誇り高きナラティブ・ヴェリタスの姿は、もうどこにもない。
ただの、闇に怯える無力な迷子。
「……お母様……」
助けて。
名前を呼ぼうとした。
でも、声が出ない。
喉の奥に、誰かの髪の毛が詰まっているような感触がする。
夜は明けない。
警報音と、無数の気配の中で。
ナラは、自我が溶けていくのを感じながら、ただ震え続けるしかなかった。




