第4話:未来からきた黒い百合(4)
朝が来た。
安アパートの薄いカーテンの隙間から、無遠慮な陽光が差し込んでくる。
アタシ、レイナは、狭いシングルベッドの上で目を覚ました。
隣には、誰もいない。
シーツには微かに窪みが残っていて、枕元には数本の長い黒髪が落ちている。
そして、部屋の空気には、あの甘くて濃厚な、麝香と異界の香りがまだ漂っていた。
「……行っちまったか」
アタシは、天井を見上げたまま呟いた。
分かっていたことだ。
ナラは「異世界から来た」と言っていた。帰る場所を探しているとも。
昨夜の情事は、迷子の猫が一晩だけ雨宿りをしたようなものだ。
夜が明ければ、猫はまたふらりと何処かへ消えてしまう。
「……はは。夢みてぇ」
自分の体を抱きしめてみる。
肌には、昨夜彼女がつけたキスマークや、爪の跡が残っている。
痛みはない。ただ、熱い痺れのような感覚だけが、波のように押し寄せては引いていく。
夢じゃない。
確かに、アタシはあの高貴で、強くて、どうしようもなくエロい女と、一つになったんだ。
でも、それでおしまい。
連絡先も交換していない。そもそも、彼女はこの世界の住人じゃない。
魔導水晶とかいう石板を持っていたけれど、アタシのガラケーとは繋がりようがない。
「……学校、行くか」
アタシは、気だるい体を起こした。
日常が戻ってくる。
退屈で、色あせた、いつもの日常が。
でも、アタシの中身は決定的に変わってしまった。
あんな極上の「毒」を味わってしまった後で、どうやって平気な顔で生きていけばいいんだよ。
それから数日。
アタシは、抜け殻のようになっていた。
店に出勤しても、上の空だ。
「いらっしゃいませーにゃーん」
口では言っているが、心は死んでいる。
上野の街を歩いても、無意識に黒いドレスの影を探してしまう。
いるわけがないのに。
幻想は、冷めていくものだ。
あれは奇跡だったんだ。一生分の運を使い果たした、一夜の幻。
そう自分に言い聞かせて、アタシは記憶に蓋をしようとした。
そうして、運命の「その日」がやってきた。
秋葉原の夜。
『コンセプトカフェ・けもの道』は、今日もオタクたちの熱気で満ちていた。
アタシは、いつもの猫耳とメイド服を着て、ホールを巡回していた。
ドアベルが鳴る。
「ご主人様のお帰りでーす!」
他のキャストが声を上げる。
アタシは、条件反射で入り口を見た。
そして、息が止まった。
「……え?」
そこにいたのは、サラリーマンでも、チェックシャツのオタクでもなかった。
漆黒のドレススーツ。
夜の闇を切り取ったような黒髪。
そして、不敵なほどに自信に満ちた、あの赤い瞳。
ナラティブ・ヴェリタス。
ナラが、そこにいた。
「……ッ!」
アタシは、足がすくんで動けなかった。
挨拶しなきゃ。「いらっしゃいませ」って。
でも、声が出ない。
なんで? どうしてここに? 帰ったんじゃなかったの?
頭の中で疑問が渦巻く。
ナラは、入り口で立ち止まり、店の中を見回した。
そして、目が輝いた。
「まあ……! なんて素晴らしい光景ですの!」
彼女の視線の先には、猫耳、狐耳、ウサギ耳をつけたキャストたちが溢れている。
この店は、獣人フェチの彼女にとって「約束された楽園」だったのだ。
「ここは天国かしら? ……いいえ、資本主義が生んだ桃源郷ですわね!」
ナラは、オーバーリアクションで楽しげに、そのまま店に入ってきた。
アタシと、入り口ですれ違う。
アタシは、必死に視線を送った。
『ナラ!』『アタシだよ!』
だが。
ナラは、アタシを見なかった。
素通りした。
まるで、そこに観葉植物かモブキャラしかいないかのように、視線すら合わせずに通り過ぎていったのだ。
「……は?」
アタシは、背後で固まった。
嘘だろ。
数日前、あんなに激しく抱き合ったのに。
「愛してる」って言い合ったのに。
アタシの顔を忘れたのか? それとも、もう用済みだってことか?
ナラは、適当な空席に座った。
すぐに、後輩のキャストが飛んでいく。
「いらっしゃいませお嬢様! 初めてですかぁ?」
「ええ。……貴女、いい耳をしてますわね。触らせてくださる?」
「きゃあ! くすぐったいですぅ!」
ナラは、楽しそうに笑っていた。
アタシ以外の女と。
アタシ以外の耳を愛でて、アタシ以外の尻尾(作り物)を目で追って。
「……なんだよ、それ」
再会の喜びが、急速に冷えていく。
代わりに、どす黒い感情が腹の底から湧き上がってきた。
失望。
怒り。
そして、内臓を雑巾絞りにされるような、強烈な嫉妬。
(ふざけんなよ。……アタシは、こんなに待ってたのに)
(アンタにとっては、あの一夜なんて、ただの暇つぶしだったのかよ)
ナラは、酒を注文し、キャストたちに囲まれて談笑している。
「まあ、このお酒美味しいですわね!」
「お嬢様、お強いですねー!」
彼女は、この空間を心底楽しんでいるようだった。
アタシのことなんて、欠片も思い出さずに。
時間が過ぎる。
ナラは、そろそろ帰るらしい。
伝票を手に取ろうとしている。
(……帰るのかよ)
(一言も、アタシに声をかけずに)
アタシは、拳を握りしめすぎて、爪が掌に食い込んでいた。
惨めだ。
自分だけが特別だと思い込んでいたなんて、ピエロもいいところだ。
所詮アタシは、異世界の住人にとっての「現地妻」ですらなかったんだ。
「ありがとうございましたー!」
キャストたちに見送られ、ナラが席を立つ。
アタシは、顔を背けた。
もう見たくない。こんな惨めな思いをするなら、会わなければよかった。
その時。
黒服が、アタシのところに飛んできた。
「レイナちゃん! 指名だよ!」
「……は? 誰が」
「さっきの美人なお客さん! 『あの金髪の猫耳の子を呼びなさい』って!」
時が、止まった。
アタシは、ゆっくりと振り返った。
ナラが、入り口付近で足を止め、こちらを見ていた。
扇子で口元を隠しているが、その目は――笑っていた。
意地悪で、妖艶で、そしてどうしようもなく魅力的な瞳で。
(……ッ!!)
自分の中の憎悪が、一瞬にして蒸発した。
代わりに、爆発的な歓喜と安堵が押し寄せてくる。
試されていたのだ。
あるいは、焦らされていたのだ。
彼女は、最初からアタシを知っていた。アタシを見ていた。
その上で、ギリギリまで放置して、アタシの感情を揺さぶったのだ。
「……性格悪すぎだろ、あの女」
アタシは、涙が出そうになるのをこらえて、ナラの元へ歩み寄った。
足が震える。
なんて声をかければいい?
「なんで無視したんだ」って怒るか? 「寂しかった」って泣きつくか?
ナラの前に立つ。
彼女は、優雅に見下ろしてきた。
アタシの口から出た言葉は、あまりにも脈絡のない、そして二人だけの秘密を含んだ言葉だった。
「……コ、コーヒーとか、飲んだ?」
言った瞬間、死にたくなった。
何言ってんだアタシは。
ここはカフェバーだ。コーヒーくらいあるだろ。
しかも「とか」って。あの夜の合言葉を、こんな公衆の面前で。
ナラは、キョトンとした顔をした。
そして、澄ました顔で答えた。
「いいえ。……ここのコーヒーは、香りが足りませんもの。いただきませんでしたわ」
他人行儀。
完璧な、「客と店員」の距離感。
(……っ)
アタシは、泣きそうになった。
やっぱり、ダメなのか。
あの夜のことは、もう無かったことになっているのか。
ナラは、アタシの反応を見て、扇子の陰でニヤリと笑った。
そして、身を乗り出し、アタシの耳元で囁いた。
「……で? あんたは、どうだったの?」
「え?」
ナラは、イタズラっぽく目を細めた。
「あの日知った……『大人の味』、どうだった?」
「ッ!?」
大人の味。
コーヒーの話じゃない。
あの夜、ホテルで、そしてアタシの部屋で、朝まで貪り合った、あの行為のことだ。
彼女の味。快楽の味。
アタシの顔が、ボッと発火したみたいに熱くなる。
この女、とんでもないことを聞きやがる!
しかも、こんな大勢の人がいる店内で!
「……ば、バカッ! なに言って……!」
アタシは、パニックになって、ナラの頭をポカポカと叩いた。
店員にあるまじき行為だ。
でも、ナラは避けない。むしろ、嬉しそうに笑っている。
「あら、痛いですわ。……でも、いい反応ね」
「うるせぇ! 恥ずかしいだろ!」
「ふふ。……誰も知りませんわよ」
ナラは、周囲を見渡した。
他の客も、店員も、誰も気づいていない。
今、ここで交わされた会話が、どれほど淫らで、どれほど濃密な「愛の確認」だったのかを。
この秘密を共有しているのは、世界でアタシと彼女だけ。
その事実が、たまらなく甘美で、優越感に浸らせてくれる。
今、アタシは精神的に絶頂していた。
彼女はアタシを忘れていなかった。
それどころか、こんな風に遊ぶ余裕があるくらい、アタシとの関係を楽しんでいる。
「……性格ブス」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
それからは、夢のような時間だった。
ナラは延長料金を払い、アタシを独占した。
会話の内容は、当たり障りのないものだった。
「この店の内装、趣味が悪いですわね」
「うるせぇ、これがアキバだ」
「最近どうしてたの?」
「ただ空を見てただけよ」
でも、その一言一句が、宝石のように輝いて聞こえた。
楽しい。
ただ、彼女がそこにいて、アタシの言葉に反応してくれるだけで、世界が輝いて見える。
楽しい時間は、残酷なほど速く過ぎる。
ナラは、店の酒を片っ端から飲み尽くし、上機嫌で立ち上がった。
「……そろそろ、時間ね」
その言葉の響きに、アタシは敏感に反応した。
閉店時間じゃない。
彼女の、「帰る」時間だ。
異世界へ。本当の居場所へ。
「……そうか」
アタシは、引き止めなかった。
引き止められないと分かっていたからだ。
彼女は、ここにはいられない。彼女には、彼女の物語がある。
ナラは、ふらつきながら店を出た。
アタシも見送りに外へ出る。
秋葉原の夜風が、火照った頬を冷やす。
「……じゃあな、ナラ」
「ええ。……ごきげんよう、レイナ」
これで最後だ。
今度こそ、本当の別れだ。
アタシが涙をこらえようとした、その時。
頭上の空が、紫色に発光し、渦を巻いた。
雷鳴のような音が響き、周囲のビルがビリビリと震える。
「な、なんだ!?」
「空が割れてる!?」
通行人たちがパニックになる。
その渦の中から、一条の光が降り注いだ。
そして、光の中から、一人の女性が舞い降りてきた。
白衣を翻し、ボサボサの銀髪をなびかせた、褐色の美女。
その胸元は、物理法則を無視するほど豊満で、手にはSF映画に出てくるような巨大な杖を持っている。
「……ナラ君ッ!! 見つけたぞッ!!」
女性は、着地と同時にアスファルトを粉砕し、仁王立ちした。
「お、お母様!?」
ナラが叫ぶ。
「お母様……?」
アタシは呆然とした。
これが、ナラが言っていた「世界最強の賢者」?
ていうか、若すぎないか? そしてデカすぎないか?
店から、店員や客たちがわらわらと出てきた。
「なんだなんだ!?」
「撮影か!?」
注目の的となる中、ベロベロに酔っ払ったナラは、母親に向かって悪態をつき始めた。
「遅いですわよ、このポンコツ科学者! あたしがどれだけ待ちくたびれたと!?」
ナラはふらふらと母親に歩み寄り、その胸ぐらを掴んだ。
「だいたいね! 座標計算が甘いのよ! ギルバラム商会のエルフがうるさいとか、猫用の魔力放出装置のコアを壊したのは自分じゃないとか、言い訳ばかりして!」
「ちょ、待たまえナラ君! 酒臭いぞ! ギルバラム商会の件は時効だろ!」
「時効なんてありませんわ! あたしのドレスの弁償もしなさいよ!」
意味不明な会話。
異世界の固有名詞と、生活感あふれる喧嘩が入り混じり、カオスな状況になっている。
だが、ナラは楽しそうだった。
アタシには見せたことのない、心からの安堵と、信頼しきった甘えの表情。
(ああ……。やっぱり、彼女の帰る場所はあそこなんだ)
アタシは、少しだけ寂しくなった。
でも、それ以上に、彼女が独りぼっちじゃなくてよかったと、心から思った。
その時。
ナラが、ふと振り返った。
酔いなど無いと言いたげな、真剣で、赤い顔で。
彼女は、アタシの前に立った。
「……レイナ」
ナラの手が伸びてくる。
その手は、アタシの頭の上――猫耳カチューシャへと向けられた。
「……これ」
ナラは、カチューシャを掴み、いじくり回し始めた。
「やっぱり、構造が気になりますわ。……根元の接合部は……」
ボキッ。
「あ」
カチューシャが、ナラの手の中で折れた。
猫耳が取れてしまった。
「み、耳が取れたあッ!」
ナラは、本気で驚いた顔をした。
目を見開き、折れたカチューシャとおろおろと見比べる。
「な、なんで!? 生体パーツじゃありませんの!? ……あ、そうか、これは作り物で……いや、でも!」
彼女は酔っている。
現実と願望の区別がついていない。
「耳が取れた」という事実に、世界の終わりみたいな顔でショックを受けている。
「……ぷッ」
アタシは、吹き出しそうになった。
なんだよそれ。
最後の最後で、そんなドジ踏むのかよ。
カッコいい別れのはずが、台無しじゃんか。
でも、ナラは真剣だった。
彼女は、折れた耳をアタシに押し付け、なんとはなしに、ゆらりとゆらめき、こう言った。
「……責任、取りますわ」
「は?」
「壊した責任ですわ。……だから」
ナラは、アタシの目を真っ直ぐに見た。
「『今度』、コーヒー『とか』のみましょう!」
時が止まった。
コーヒー「とか」。
それは、アタシたちが共有した、あの夜の合言葉。
そして「今度」。
アタシの目から、涙が溢れ出した。
自分でも訳が分からなかった。
だって、これは「さようなら」でもないし、具体的な約束でもない。
彼女は異世界へ帰る。二度と会えないのは、言わなくても分かる。
だからこそ、「今度」なのだ。
「絶対」とも言わない。「いつか」という曖昧な言葉でもない。
「またね」という軽い挨拶のように、彼女は軽い約束を口にした。
それは、論理を超えた、彼女なりの「魂の約束」だった。
『違う世界、違う時間でも、あたしたちは繋がっている』という宣言だった。
「……う、うぅ……」
アタシは泣いた。人目もはばからず泣いた。
すると。
ナラが、顔を近づけてきた。
「……泣き虫ね」
ナラは、アタシの涙を舐め取った。
そして、そのまま――。
唇が重なった。
酔っ払いの、酒臭くて、熱くて、舌を絡めるディープキス。
衆人環視の中で。
母親の前で。
彼女は、アタシに「所有の印」を刻み込んだ。
「んんッ……!?」
「な、ナラ君? 何をしているんだ!?」
母親が素っ頓狂な声を上げる。
「公衆の面前で! しかも同性! ……ふむ、興味深いデータだが、今は帰還のタイムリミットが!」
ナラは、満足げに唇を離した。
銀色の糸が引く。
「……ごちそうさま」
ナラは、笑った。
「……行くわよ、お母様!」
「あ、ああ! 座標固定!転送開始!」
母親が杖を振ると、二人の体が光に包まれた。
浮き上がるナラ。
彼女は、光の中でアタシを見下ろし、叫んだ。
「あなたとするの、気持ちよかったわよ!!」
「…………はあ?」
アタシは固まった。
店員たちがざわめく。
「え、したの?」
「あの二人、ヤッたの?」
「レイナちゃん、すげぇ……」
台無しだ。
感動の別れが、一瞬で下世話な暴露話になった。
羞恥心で顔が爆発しそうだ。
「バ、バカ野郎ぉぉぉッ!!!」
アタシは叫んだ。
でも、同時に。
腹の底から、笑いが込み上げてきた。
「あはははは! ……あはははははは!」
アタシは、腹を抱えて笑った。
涙を流しながら、笑い転げた。
なんて人だ。なんて女だ。
最後の最後まで、アタシの予想を裏切り、振り回し、そして傷跡を残していく。
でも、その言葉のおかげで。
アタシの中の「悲しみ」は吹き飛んでいた。
残ったのは、「ああ、楽しかったな」という、清々しいほどの満足感だけ。
彼女は、アタシを「湿っぽい別れ」から救ってくれたのだ。
最高の、バカげた捨て台詞で。
光が消える。
二人の姿は、夜空の彼方へと消え失せた。
「……あーあ。行っちゃった」
アタシは、夜空を見上げた。
手には、折れた猫耳のカチューシャ。
それが、彼女が残した唯一の形見。
「……またな、ナラ」
アタシは、カチューシャを握りしめた。
「今度」か。
いい言葉だ。
いつか、その「今度」が来るまで、アタシはこの退屈な世界で、もう少しだけ頑張ってみようと思う。
一流のヤンキーとして、彼女に恥じないように。
「さーて! 仕事戻るか!」
アタシは涙を拭い、店へと戻った。
背筋を伸ばして。
だって、アタシはあのナラティブ・ヴェリタスに「気持ちよかった」と言わせた女なのだから。
秋葉原の夜は、今日も騒がしく更けていく。
でも、その喧騒は、昨日までよりも少しだけ、愛おしく感じられた。




