第3話:未来からきた黒い百合(3)
部屋に入った瞬間から、主導権は完全にナラにあった。
「シャワーを浴びてきなさい」と言われ、アタシは従順な犬のようにバスルームへ向かった。
戻ってくると、ナラは既にベッドに横たわっていた。
漆黒のドレスを脱ぎ捨て、白いシーツの上に、その雪のような肌を晒して。
「……来なさい」
その後のことは、正直、記憶が断片的だ。
ただ一つ言えるのは、ナラは「いやに手際が良かった」ということだ。
彼女の指先、唇、吐息。
その全てが、アタシの弱点を知り尽くしているかのように、的確に、執拗に攻め立ててくる。
アタシは「食べる」つもりだったのに、気づけば「食べられて」いた。
彼女は、アタシを壊すように、そして慈しむように愛した。
快楽の波が、途切れることなく押し寄せる。
一度終わっても、すぐに次が来る。
意識が飛び、視界が白く弾け、喉が枯れるまで叫ばされた。
100回。
いや、そんな数字じゃあ、きかないかもしれない。
アタシは数えるのをやめた。
ただ、この快楽の海に溺れて、二度と浮上できなくてもいいと思った。
最高すぎるぜ──。
こんな世界があったなんて、知らなかった。
嵐が去った後。
アタシは、指一本動かせない状態で、天井を見上げていた。
隣には、ナラがいる。
彼女は、気怠げに髪をかき上げ、アタシの頬を指でなぞっていた。
「……生きてる?」
「……ギリギリ、な。」
アタシは、首だけを動かしてナラを見た。
汗ばんだ肌。乱れた黒髪。
事後の彼女は、神々しいほどに美しかった。
(好きだ)
心の底から、そう思った。
満たされた。
体も、心も、空っぽだったアタシの器が、彼女という存在で満杯になった。
ナラが、ふと遠い目をした。
窓の外、白み始めた空を見つめている。
その瞳。
さっきまで熱情を宿していた赤い瞳が、今は深く、暗く沈殿していた。
そこにあるのは、底なしの「闇」だった。
彼女が見ているのは、上野の空じゃない。
もっと遠い、アタシの知らない地獄。
彼女が「一流」になるために潜り抜けてきた、泥と血の世界。
孤独。喪失。諦観。
彼女の強さは、その圧倒的な「闇」の上に成り立っているのだと、アタシは直感した。
(……ああ)
アタシの目から、勝手に涙が溢れた。
悲しいわけじゃない。
ただ、彼女の孤独に触れてしまって、魂が震えたのだ。
ナラが、アタシの涙に気づいて振り返る。
「……どうしたの? 痛かった?」
「……ちげぇよ」
アタシは、動かない体を無理やり動かして、ナラの体に腕を回した。
そして、彼女の胸に顔を埋めた。
「……アタシが、守るからッ」
口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど安っぽく、子供じみていて、そして、真剣だった。
「え?」
「アンタが……何を見てきたか知らねぇけど。……これからは、アタシがいる」
アタシみたいな半端者が、何を言ってるんだ。
彼女の方がずっと強いのに。
でも、言わずにはいられなかった。
「……だから、そんな顔すんなよ」
ナラは、一瞬きょとんとして、それからふわりと笑った。
その笑顔は、いつもの「強き女」の仮面が外れた、ただの少女のような笑顔だった。
「……生意気な子猫ちゃんね」
ナラは、アタシを抱きしめ返した。
その力は強く、温かかった。
「……ありがとう」
言わない。
彼女の闇の正体なんて、聞かない。
ただ、今この瞬間、彼女がアタシの腕の中にいること。
それだけが、揺るぎない真実だった。
「……時間よ、レイナ」
無情にも、現実が訪れた。
時計の針は夜の8時を回っている。
ホテルの延長料金が発生する時間ではない。アタシの仕事――『コンセプトカフェ・けもの道』の開店準備の時間だ。
店は夜9時オープン。今から向かわないと遅刻だ。
「……クソッ。行きたくねぇ」
「ダメよ。一流は仕事をすっぽかしたりしないわ」
ナラに急かされ、アタシたちはホテルを出た。
上野の夜は、これからが本番だ。
ネオンが毒々しく輝き、呼び込みの声が響く。
冷たい夜風が、火照った体に心地よい。……いや、むしろ熱を煽るようだ。
ナラは、そのままアタシについてきた。
「送ってあげるわ」なんて殊勝なことを言って。
だが、その距離があからさまに近かった。
歩きながら、腰と腰がぶつかる距離。
時折、二の腕が触れ合い、ナラのドレスの衣擦れの音が耳元で聞こえる。
「……近いってー。」
「あら。嫌なの?」
ナラは、アタシの耳元で囁いた。
事後の、甘くて濃厚な匂いを漂わせて。
すれ違う人々が、振り返る。
これから夜の街に繰り出すサラリーマン、同伴出勤のホステスたち。
みんな、アタシじゃなくて、ナラを見ている。
その圧倒的な美貌と、溢れ出る色香に当てられて。
「……チッ」
ムカつく。
みんな見んじゃねぇよ。
でも、同時に、腹の底からどす黒い優越感が湧き上がってくる。
(見ろよ。……このいい女、アタシのだからな)
さっきまで、この女を泣かせていたのはアタシだぜ。
この肌の柔らかさを知ってるのは、世界でアタシだけだぜ。
ナラがアタシに体を寄せるたび、それが「所有の証」みたいで、背筋がゾクゾクする。
「……アンタ、わざとやってんだろ」
「さあ? 何のことかしら」
ナラは涼しい顔で、でもしっかりとアタシの腰に手を回していた。
まるで、アタシが彼女のエスコート役であるかのように。あるいは、彼女がアタシの飼い主であるかのように。
店に着いた。
開店前の『けもの道』の前には、既に出勤してきた他のキャストや、黒服たちがたむろしていた。
「あ、レイナさん! おはようございます……って、え?」
後輩のキャストが、目を丸くする。
アタシの隣に、見たこともないとんでもない美女が張り付いているからだ。
ナラは、周囲の視線なんてお構いなしに、アタシの襟元を直した。
「……襟が曲がってましてよ」
その指先が、首筋をゆっくりと撫でる。
昨夜の感触が蘇り、アタシは小さく震えた。
「……んッ」
「ふふ。……いってらっしゃい、レイナ」
ナラは、アタシの頬にキスをするような距離で囁き、そして離れた。
「……頑張りなさいな」
周囲がざわめく。
「誰あれ?」
「超美人……」
「レイナさんのカノジョ?」
腹立つ。
マジで、腹立つ。
でも、悪い気はしなかった。
アタシの女だ。どうだ、羨ましいか。
「……じゃあな」
アタシは店に入ろうとした。
ナラは、踵を返して歩き出す。
「……ええ。ごきげんよう」
適当すぎる、当たり障りのない別れの言葉。
ナラの後ろ姿が、夜の雑踏に消えていく。
その背中を見た瞬間。
アタシの足が、ピタリと止まった。
(……待てよ)
あいつ、どこへ帰るんだ?
ナラは言っていた。「異世界から来た」と。
それはつまり、この世界には家がないってことだ。
昨日はどうした?
今日も、アタシとホテルにいた。
じゃあ、今夜は?
一人で、この寒い夜空の下を彷徨うのか?
あの寂しそうな目で、どこかのバーで時間を潰して、朝を待つのか?
(……ふざけんな)
アタシの女を。
アタシが抱いた女を、路頭に迷わせるなんて。
そんなの、ヤンキーの仁義に反する。
いや、アタシの「愛」が許さない。
「……店長ッ!!」
アタシは、店の奥から出てきた店長に向かって叫んだ。
「レイナちゃん? どうしたの?」
「じゃあ、腹痛ッス!死ぬほど痛ぇ! 今日、休みます!」
「ええっ!? 開店直前だよ!? なんとか……」
「無理ッス! 盲腸かもしれねッス! 救急車呼ぶ前に帰ります!」
アタシは、制服に着替えることもなく、ジャージのまま店を飛び出した。
「レイナちゃん!?」
背後で店長の悲鳴が聞こえるが、知ったことか。
クビになってもいい。
今、追いかけなきゃ、一生後悔する。
アタシは走った。
上野の夜道を、全力で。
「……ナラッ!!」
交差点の信号待ち。
漆黒のドレスを見つけた。
彼女は、ぼんやりと夜空を見上げていた。
アタシは、ナラの手首を掴んだ。
「……っ!」
ナラが驚いて振り返る。
「レイナ? ……どうしたの、仕事は?」
「早退した。……腹痛でな」
アタシは、肩で息をしながら言った。
「……帰るぞ」
「帰るって……どこへ?」
「アタシの家だよ」
アタシは、ナラの手を強く引いた。
「アンタ……帰る場所、ねぇんだろ?」
ナラは、目を丸くした。
そして、少しだけバツが悪そうに、視線を逸らした。
「……ホテルなら、取れますわよ。金貨もありますし」
「うっせぇ。……ホテルなんかじゃ、死んじまうだろ」
アタシは、ナラを睨んだ。
「ウチに来い。……狭いし、汚いけど。……一人は、やめろ」
ナラの瞳が、街灯の光を反射して揺れた。
彼女は、しばらくアタシを見つめていたが、やがてふわりと微笑んだ。
それは、大人の余裕なんてかなぐり捨てた、ただの安心した少女の顔だった。
「……ええ。お邪魔しますわ」
アタシのアパートは、駅から徒歩20分のボロアパートだ。
六畳一間。万年床。
散らかった雑誌や服を足で端に寄せ、ナラを招き入れる。
「……狭いですわね」
「うっせ。文句言うな」
ナラは、文句を言いながらも、アタシのベッドに腰掛けた。
その姿が、あまりにも非日常で、でも不思議とこの部屋に馴染んでいて。
アタシは、鍵をかけた。
そして、ナラに抱きついた。
衝動的に。
背中から、ぎゅっと。
「……おかえり」
言ってから気づいた。変な言葉だ。
ここはアタシの家で、彼女は客なのに。
でも、ナラは笑わなかった。
「……ただいま」
ナラは、アタシの腕に自分の手を重ねた。
そして、体を預けてきた。
「……気にしないでね」
ナラが、囁いた。
「え?」
「あんたが考えてること。……『自分には何もない』とか、『いつか終わる』とか。……そんな不安、全部捨てちゃいなさい」
ナラは、アタシの心を見透かしていた。
アタシは、怖かったのだ。
こんな幸せが続くわけがないと。
いつか彼女は、元の世界へ帰ってしまうと。
アタシみたいな半端者には、彼女を繋ぎ止める資格なんてないのだと。
「あたしは今、ここにいるわ。……あんたの腕の中に」
ナラは、振り向いて、アタシの頬にキスをした。
「今は……それだけで十分でしょう?」
「……うん」
アタシの目頭が熱くなった。
言葉はいらない。
理屈もいらない。
ただ、彼女がここにいて、アタシを受け入れてくれている。
「とか」なんて曖昧な言葉は、もういらない。
ここにあるのは、確かな熱と、二人だけの物語だけだ。
いつか終わりが来るとしても。
今日という日は、間違いなくアタシたちのものだった。




