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【5位】異世界探偵ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
未来からきた黒い百合
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第2話:未来からきた黒い百合(2)

翌日。

アタシは、また上野にいた。

学校? 知らねぇよ。バイト? クビになったままだわ。

アタシの頭の中は、昨日の夕暮れに見た「黒」で塗りつぶされていた。


「……クソッ。どこだよ」


アメ横の雑踏を、アタシは苛立ちながら歩いていた。

別に、約束をしたわけじゃない。「また会えるか?」なんて、カッコつけた質問をしただけだ。

なのに、足が勝手にここへ向かっていた。

昨日、彼女が空から降ってきた場所。彼女と酒を飲んだ場所。

会いたい。

ただそれだけの、単純で、どうしようもなく重たい衝動。

一日経てば冷めると思っていた熱が、むしろ時間を追うごとに増殖している。

あの赤い瞳。白い肌。そして、アタシを見透かすような、あの余裕たっぷりの笑み。


「……ナラ」


名前を口の中で転がすだけで、喉が渇く。

アタシは、まるで麻薬の禁断症状に震える中毒患者みたいに、彼女の姿を探して彷徨っていた。

陽が落ちる。

空が茜色に染まり、ガード下の提灯に灯りがともる頃。

アタシは、昨日別れた場所――『中田商店』の看板が見える交差点に立っていた。


「……いねぇよなあ、やっぱ」


ため息をついて、踵を返そうとした時だ。


「──遅いですわよ」


心臓が、止まるかと思った。

背後。雑踏の騒音を切り裂いて、その声だけが鼓膜に直接届いた。

振り返ると、彼女がいた。

昨日と同じ、ボロボロだけど気品に満ちた漆黒のドレススーツ。

古着屋で買ったのか、肩には安っぽいショールを羽織っているが、それが逆に彼女の「異質感」を際立たせている。

彼女は、腕組みをして、ガードレールのポールに寄りかかっていた。

まるで、最初からそこで待ち合わせをしていたかのように。


「……ナラ」


「探しましたわよ?……この街は、人が多すぎて目が回りますわ」


ナラは、ふぅと息を吐いて、アタシに近づいてきた。


「……探してたのかよ。アタシを?」


「ええ。……昨日のモツ煮込み、一人で食べるには少し侘しい味でしたから」


嘘だ。

絶対に、嘘だ。

アタシには分かった。彼女の目は、モツ煮込みなんか見ていない。

真っ直ぐに、アタシを見ている。

獲物を待っていた狩人の目じゃない。

迷子が、ようやく見知った顔を見つけて安堵したような、そんな甘い色が微かに混じっている。


「……へっ。奇遇だな」


アタシは、ニヤリと笑おうとして、顔が引きつるのを感じた。


「アタシも……腹、減ってたんだよ」


言葉にするのが怖かったのだ。

「会いたかった」なんて言えば、この均衡が崩れてしまう気がして。


「行きましょうか。……あの汚い店へ」


ナラが歩き出す。

アタシは、その半歩後ろをついていく。

昨日よりも、距離が近い。

彼女のドレスから漂う、あの不思議な香りが、アタシの脳髄を痺れさせる。


店は、昨日と同じ『酔いどれ天国』だった。

パイプ椅子。ベタつくテーブル。怒号と笑い声。

アタシたちは、昨日と同じ席に座った。


「……ビールと、煮込み二つ」


注文を済ませると、沈黙が落ちた。

昨日みたいに、軽口を叩けない。

なぜなら、もう、「意識」しているからだ。

昨日は「変な外国人との遭遇」だった。

でも今日は違う。「会いたくて会いに来た、女二人」だ。

その事実が、テーブルの上の空気を、蜂蜜みたいに粘り気のあるものに変えていた。

ナラも、無言だった。

ただ、頬杖をついて、じっとアタシを見ている。

その視線が熱い。

値踏みされているわけじゃない。観察されているわけでもない。

ただ、「味わわれている」。

視線だけで、服の上から肌を撫で回されているような、そんな錯覚に陥る。


「……ほら、来たぞーっ。」


運ばれてきたビールを、手酌で注ぐ。

コップが触れ合う音だけが、やけに大きく響いた。


「……いただきます」


ナラが一口飲む。

その唇がグラスに触れる仕草さえ、なんでこんなに色っぽいんだ。

アタシは、自分の動悸が相手に聞こえないか心配で、わざとらしくモツを口に運んだ。

テーブルの下。

ナラの膝が、コツンとアタシの膝に当たった。

アタシが引こうとすると、ナラはそのまま、押し付けてきた。

体温が伝わる。

そして。

テーブルの上で、ナラの手が伸びてきた。

アタシの手の甲に、彼女の手のひらが重なる。


「……!」


アタシはビクリと震えた。

握るんじゃない。包み込むように、そっと乗せられた手。

指先が、アタシの指の隙間をなぞる。


「……レイナ」


ナラが、低い声で囁いた。

その瞳は、潤んでいるように見えた。

酒のせいじゃない。


「……今日、会えてよかったわ」


直球だった。

小細工なしの、その言葉。

アタシは、耐えきれなくなって、口を開いた。


「……アタシもだよ」


アタシは、ナラの手を握り返した。

汗ばんだ掌。


「アタシ、ナラのこと……好きだぜ」


言っちまったよ。

でも、アタシはすぐに逃げ道を塞いだ。


「……いや、うん、面白いし、度胸あるし、一緒にいて飽きねぇからな。……ダチとして、最高だって意味だ、ぞ?」


友情。好奇心。

そういう「安全な箱」に、この感情を押し込めようとした。

だって、怖いから。

この底知れない女に、本気で惚れたなんて認めたら、アタシはもう元の生活に戻れなくなる。

だが。

ナラは、その箱を、なんと──いとも簡単に踏み潰した。


「……あら」


ナラは、妖艶に目を細めた。

そして、握った手に力を込め、アタシの体を自分の方へ引き寄せた。


「あたしも好きよ、レイナ。」


声のトーンが違う。

さっきまでの「レディ」の声じゃない。

もっと湿度が高くて、粘着質で、そして甘ったるい声。


「あんたのその……強がってるのに震えてる目も。乱暴な言葉遣いも。……全部」


「……!?」


それは、友情なんて生ぬるいものじゃなかった。

明確な、「所有欲」。

そして、「性愛」。

湿った欲望が、言葉の端々から滴り落ちている。

遊ばれている?

いや、違う。

ナラの目は、真剣だった。

彼女は、アタシの逃げ道を塞ぎ、そして「許可」を出しているのだ。

『こっち側に来てもいいのよ』と。

『あたしは、あんたを受け入れる準備ができているわよ』と。


「……ナメやがって」


アタシは、顔が沸騰するのを感じた。

子供扱いかよ。

こっちは必死に理性を保ってるってのに、アンタはそんなに余裕なのかよ。

でも。

その余裕が、悔しいくらいに魅力的だった。

ナラから感じるのは、男たちが向けてくるような「蹂躙的な性欲」ではなかった。

もっと、深くて、巨大なもの。

父性。

それも、圧倒的な母性に裏打ちされた、歪で強固な父性だ。

『守ってあげる』『導いてあげる』。

そして、『あたしの中に閉じ込めて、一生可愛がってあげる』。

相手を自分の腹の中に入れて、溶かして、再構築して育て直したいというような、捕食と庇護が同居した愛。


(……な、ななな、なんだよ、それ)


アタシは、ゾクゾクした。

こんな目で見られたことはない。

ただ「ヤりたい」だけの男たちとは違う。

彼女は、アタシの魂ごと抱こうとしている。

アタシは、その巨大な器に、飲み込まれたいと思ってしまった。


「……口元、汚れてますわよ」


ナラが、不意に言った。

アタシは慌てて口を拭おうとした。

煮込みの汁がついていたのかもしれない。

だが、ナラの手の方が早かった。

彼女の指が、アタシの唇の端をぬぐった。


「……ああ?」


ナラは、その指を――アタシの唇を拭った指を、自分の口元へ運んだ。

そして。

アタシの目の前で、ゆっくりと、その指を舐め取った。

小さな、水音がした。

赤い舌先が、白い指を這う。

その目が、アタシを射抜いたまま、離さない。


「…………」


アタシの頭の中で、何かが焼き切れた。

恥ずかしいとか、そういうレベルじゃない。

これは、キスだ。

間接的だけど、濃厚すぎるキスだ。

彼女の口腔内の温度が、指を通して伝わってくるような錯覚。


「……な、ななな……!」


アタシは、椅子から転げ落ちそうになった。

パニックだ。思考回路がショートしてる。


「な、何してんだよッ!! 汚ねぇだろ!!」


アタシは、精一杯の悪態をついた。

でも、声が裏返っている。


「ば、ばい菌?とか! ウイルスとか! あるだろ常識的に考えて! 今の時期、風邪とか流行ってんだぞ! 保健体育で習わなかったのかよこの非常識女!」


滅茶苦茶な屁理屈。

色気のない、ただの衛生管理の講釈。

自分でも何を言ってるか分からない。ただ、この場の「エロさ」を霧散させたくて、必死に言葉を紡いだ。


「……ふふ」


ナラは、コロコロと笑った。

アタシの動揺を楽しんでいる。


「平気よ。……あたし、あんたの菌なら、喜んで培養しますわ」


「……いっ…意味わかんねぇよ!!」


ナラは、頬杖をついて、アタシを見つめた。

その瞳は、蕩けるように甘く、そして逃げ場のない檻のように冷徹だった。


「……ねえ、レイナ」


ナラが、足を組み替えた。

テーブルの下で、彼女の脚がアタシの脚に絡みつく。


「あんた……。キスとか、したことあって?」


「……は?」


心臓が、口から飛び出るかと思った。


「キ……キスとか……?」


「ええ。……キス、『とか』、よ」


ナラの目が、怪しく光る。

『とか』。

その二文字に込められた意味。

キス以上のこと。

肌を重ねること。熱を分かち合うこと。

そして、お互いの境界線を溶かし合うこと。


(……『とか』って、何だよッッッ……!)


アタシは、自分で復唱しながら、その言葉の重みに押しつぶされそうになった。

したことあるわけないだろ。

こんな、魂まで持っていかれそうな相手と。


「……ねーよ。……悪いかよ」


アタシは、俯いて答えた。

負けだ。完敗だ。

この女には勝てない。

手玉に取られて、転がされて、遊ばれている。

でも。

このまま「子供扱い」されて終わるのは、死ぬほど悔しい。

アタシは、顔を上げた。

ナラの目を見る。

そこには、余裕と、そして隠しきれない「期待」があった。

彼女もまた、アタシを欲しがっている。

アタシが、その一線を超えるのを「待っている」。


(……ナメんじゃねぇぞ)


アタシの中の、ヤンキー魂が火を噴いた。

遊ばれるだけじゃ終わらない。

食われる前に、食ってやる。

その余裕しゃくしゃくの顔を、アタシ色に染めて、泣かせてやる。

アタシは、震える手を抑え込んで、ナラのグラスを奪い取った。

そして、彼女が口をつけた場所に合わせて、一気に飲み干した。


「……間接キス返しだーっ。文句あるかーっ。」


ナラが、目を丸くした。

そして、頬を染めて、嬉しそうに微笑んだ。


「……ありませんわ。……やるじゃない!」


「……い、行くぞっ────。」


アタシは立ち上がり、伝票を掴んだ。

もう、我慢の限界だ。

言葉での駆け引きは終わりだ。


「……どこ、へ?」


ナラが、しらばっくれて聞く。

アタシは、ナラの手首を掴み、強引に立たせた。


「だーもーうっせえなーもー。……『とか』の続きを、しに行くんだ──ろ?」


アタシは、ナラを引っ張って店を出た。

夜風が熱い。

繋いだ手が、火傷しそうに熱い。

ナラは、抵抗しなかった。

アタシの後ろで、「ふふ」と小さく笑う気配がした。

それが、勝利の笑みなのか、それとも「食べられる」ことを喜ぶ雌の顔なのか。

今はまだ、分からない。

ただ一つ確かなことは。

今夜、アタシは彼女を「食べる」ということ。

性的な意味で。魂の意味で。

そして、二度と忘れられない傷跡を、互いの心に刻み込むのだ。

ラブホテルのネオンが、毒々しく、それでいて聖なる光のように瞬いている。

アタシとナラは、上野の裏路地を並んで歩いていた。

手は、繋いでいない。

だが、二人の間には、濃密な磁場のような引力が働いていた。

アタシは歩きながら、ふと、今まで自分が馬鹿にしていた連中のことを思い出した。

路上で声をかけてくるナンパ男。

教室の隅で、アイドルの写真を見てニヤついている童貞。


「誰でもいいからヤりたい」


「俺を受け入れてくれる女なんていない」


そんな飢えと卑屈さを抱えた奴ら。


(……ああ。分かるわ)


アタシは、唇を噛んだ。

今のあいつらの気持ちが、痛いほど分かる。

アタシは今、ナラという「高嶺の花」を前にして、圧倒的な敗北感と、それ以上の渇望に焼かれている。

「誰でもいい」とは……確かに思っていた。

だが。今は、ナラがいい。

でも、「こんなアタシを、この人が本気で相手にしてくれるわけがない」という卑屈さが、胃の腑に重くのしかかる。

アタシは今まで、適当に遊んできた。

「好き」なんて言葉は、挨拶代わりに使ってきた。

顔が好みなら「好き」。ノリが合えば「好き」。

その言葉に重みなんてなかったし、言った相手のことも、それなりに大事にはしていたつもりだ。

だが。

ナラに対しては、言えない。

喉まで出かかっているのに、「好きだ」というたった二文字が、鉛のように重くて吐き出せない。

なぜか?

怖いからだ。

彼女は、アタシの理解を超えている。

強くて、美しくて、底知れなくて。

そんな相手に「好き」と言うことは、自分の魂を丸裸にして差し出すことと同じだ。

拒絶されたら死ぬ。受け入れられても、飲み込まれて死ぬかもしれない。

畏怖。

そう、アタシは彼女に恋焦がれると同時に、生物として怯えているのだ。


(……じゃあ、今までのアタシの「好き」は、全部嘘だったのか?)


自問自答が頭を巡る。

違う。あれも本心だった。でも、浅かっただけだ。

本当の恋ってのは、こんなにも惨めで、無様で、言葉を奪うものなのか。

ホテルの入り口が見えてきた。

何か言わなきゃいけない。

この沈黙を埋めて、スマートに誘わなきゃいけない。

でも、なんて言う?

「抱かせてくれ」? 無理だ、恐れ多い。

「休憩しようぜ」? 安っぽすぎる。

悩みに悩みに、悩み抜いた末に、アタシの口から飛び出したのは──何とも情けない言葉だった。


「……あー。……コーヒー『とか』、飲む、か?」


言った瞬間、舌を噛み切りたくなった。

コーヒー? この状況で?

しかも、「とか」って何だよ!

「とか」って!

その二文字に、アタシの全ての欲望と、逃げ道と、卑怯さが詰まっていた。

コーヒーを飲むフリをして、その先にある「あれやらこれやら」を期待している。

でも、断られたら「いや別にただのコーヒーの話だけど?」と言い訳できる余地を残している。


(ダッセェ……。死にてぇ……)


アタシは顔を覆いたくなった。

だが、ナラは立ち止まり、アタシを見た。

街灯に照らされたその顔は、妖艶に微笑んでいた。


「……ええ。いただきますわ」


ナラは、アタシの手を取った。


「たっぷりと……『とか』を味わわせてくださる?」


彼女は、全て、お見通しだった。

アタシの卑屈さも、欲望も、情けない言い訳も。

全部飲み込んだ上で、手を取ってくれたのだ。

アタシたちは、回転扉の向こうへと消えた。

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