第2話:未来からきた黒い百合(2)
翌日。
アタシは、また上野にいた。
学校? 知らねぇよ。バイト? クビになったままだわ。
アタシの頭の中は、昨日の夕暮れに見た「黒」で塗りつぶされていた。
「……クソッ。どこだよ」
アメ横の雑踏を、アタシは苛立ちながら歩いていた。
別に、約束をしたわけじゃない。「また会えるか?」なんて、カッコつけた質問をしただけだ。
なのに、足が勝手にここへ向かっていた。
昨日、彼女が空から降ってきた場所。彼女と酒を飲んだ場所。
会いたい。
ただそれだけの、単純で、どうしようもなく重たい衝動。
一日経てば冷めると思っていた熱が、むしろ時間を追うごとに増殖している。
あの赤い瞳。白い肌。そして、アタシを見透かすような、あの余裕たっぷりの笑み。
「……ナラ」
名前を口の中で転がすだけで、喉が渇く。
アタシは、まるで麻薬の禁断症状に震える中毒患者みたいに、彼女の姿を探して彷徨っていた。
陽が落ちる。
空が茜色に染まり、ガード下の提灯に灯りがともる頃。
アタシは、昨日別れた場所――『中田商店』の看板が見える交差点に立っていた。
「……いねぇよなあ、やっぱ」
ため息をついて、踵を返そうとした時だ。
「──遅いですわよ」
心臓が、止まるかと思った。
背後。雑踏の騒音を切り裂いて、その声だけが鼓膜に直接届いた。
振り返ると、彼女がいた。
昨日と同じ、ボロボロだけど気品に満ちた漆黒のドレススーツ。
古着屋で買ったのか、肩には安っぽいショールを羽織っているが、それが逆に彼女の「異質感」を際立たせている。
彼女は、腕組みをして、ガードレールのポールに寄りかかっていた。
まるで、最初からそこで待ち合わせをしていたかのように。
「……ナラ」
「探しましたわよ?……この街は、人が多すぎて目が回りますわ」
ナラは、ふぅと息を吐いて、アタシに近づいてきた。
「……探してたのかよ。アタシを?」
「ええ。……昨日のモツ煮込み、一人で食べるには少し侘しい味でしたから」
嘘だ。
絶対に、嘘だ。
アタシには分かった。彼女の目は、モツ煮込みなんか見ていない。
真っ直ぐに、アタシを見ている。
獲物を待っていた狩人の目じゃない。
迷子が、ようやく見知った顔を見つけて安堵したような、そんな甘い色が微かに混じっている。
「……へっ。奇遇だな」
アタシは、ニヤリと笑おうとして、顔が引きつるのを感じた。
「アタシも……腹、減ってたんだよ」
言葉にするのが怖かったのだ。
「会いたかった」なんて言えば、この均衡が崩れてしまう気がして。
「行きましょうか。……あの汚い店へ」
ナラが歩き出す。
アタシは、その半歩後ろをついていく。
昨日よりも、距離が近い。
彼女のドレスから漂う、あの不思議な香りが、アタシの脳髄を痺れさせる。
店は、昨日と同じ『酔いどれ天国』だった。
パイプ椅子。ベタつくテーブル。怒号と笑い声。
アタシたちは、昨日と同じ席に座った。
「……ビールと、煮込み二つ」
注文を済ませると、沈黙が落ちた。
昨日みたいに、軽口を叩けない。
なぜなら、もう、「意識」しているからだ。
昨日は「変な外国人との遭遇」だった。
でも今日は違う。「会いたくて会いに来た、女二人」だ。
その事実が、テーブルの上の空気を、蜂蜜みたいに粘り気のあるものに変えていた。
ナラも、無言だった。
ただ、頬杖をついて、じっとアタシを見ている。
その視線が熱い。
値踏みされているわけじゃない。観察されているわけでもない。
ただ、「味わわれている」。
視線だけで、服の上から肌を撫で回されているような、そんな錯覚に陥る。
「……ほら、来たぞーっ。」
運ばれてきたビールを、手酌で注ぐ。
コップが触れ合う音だけが、やけに大きく響いた。
「……いただきます」
ナラが一口飲む。
その唇がグラスに触れる仕草さえ、なんでこんなに色っぽいんだ。
アタシは、自分の動悸が相手に聞こえないか心配で、わざとらしくモツを口に運んだ。
テーブルの下。
ナラの膝が、コツンとアタシの膝に当たった。
アタシが引こうとすると、ナラはそのまま、押し付けてきた。
体温が伝わる。
そして。
テーブルの上で、ナラの手が伸びてきた。
アタシの手の甲に、彼女の手のひらが重なる。
「……!」
アタシはビクリと震えた。
握るんじゃない。包み込むように、そっと乗せられた手。
指先が、アタシの指の隙間をなぞる。
「……レイナ」
ナラが、低い声で囁いた。
その瞳は、潤んでいるように見えた。
酒のせいじゃない。
「……今日、会えてよかったわ」
直球だった。
小細工なしの、その言葉。
アタシは、耐えきれなくなって、口を開いた。
「……アタシもだよ」
アタシは、ナラの手を握り返した。
汗ばんだ掌。
「アタシ、ナラのこと……好きだぜ」
言っちまったよ。
でも、アタシはすぐに逃げ道を塞いだ。
「……いや、うん、面白いし、度胸あるし、一緒にいて飽きねぇからな。……ダチとして、最高だって意味だ、ぞ?」
友情。好奇心。
そういう「安全な箱」に、この感情を押し込めようとした。
だって、怖いから。
この底知れない女に、本気で惚れたなんて認めたら、アタシはもう元の生活に戻れなくなる。
だが。
ナラは、その箱を、なんと──いとも簡単に踏み潰した。
「……あら」
ナラは、妖艶に目を細めた。
そして、握った手に力を込め、アタシの体を自分の方へ引き寄せた。
「あたしも好きよ、レイナ。」
声のトーンが違う。
さっきまでの「レディ」の声じゃない。
もっと湿度が高くて、粘着質で、そして甘ったるい声。
「あんたのその……強がってるのに震えてる目も。乱暴な言葉遣いも。……全部」
「……!?」
それは、友情なんて生ぬるいものじゃなかった。
明確な、「所有欲」。
そして、「性愛」。
湿った欲望が、言葉の端々から滴り落ちている。
遊ばれている?
いや、違う。
ナラの目は、真剣だった。
彼女は、アタシの逃げ道を塞ぎ、そして「許可」を出しているのだ。
『こっち側に来てもいいのよ』と。
『あたしは、あんたを受け入れる準備ができているわよ』と。
「……ナメやがって」
アタシは、顔が沸騰するのを感じた。
子供扱いかよ。
こっちは必死に理性を保ってるってのに、アンタはそんなに余裕なのかよ。
でも。
その余裕が、悔しいくらいに魅力的だった。
ナラから感じるのは、男たちが向けてくるような「蹂躙的な性欲」ではなかった。
もっと、深くて、巨大なもの。
父性。
それも、圧倒的な母性に裏打ちされた、歪で強固な父性だ。
『守ってあげる』『導いてあげる』。
そして、『あたしの中に閉じ込めて、一生可愛がってあげる』。
相手を自分の腹の中に入れて、溶かして、再構築して育て直したいというような、捕食と庇護が同居した愛。
(……な、ななな、なんだよ、それ)
アタシは、ゾクゾクした。
こんな目で見られたことはない。
ただ「ヤりたい」だけの男たちとは違う。
彼女は、アタシの魂ごと抱こうとしている。
アタシは、その巨大な器に、飲み込まれたいと思ってしまった。
「……口元、汚れてますわよ」
ナラが、不意に言った。
アタシは慌てて口を拭おうとした。
煮込みの汁がついていたのかもしれない。
だが、ナラの手の方が早かった。
彼女の指が、アタシの唇の端をぬぐった。
「……ああ?」
ナラは、その指を――アタシの唇を拭った指を、自分の口元へ運んだ。
そして。
アタシの目の前で、ゆっくりと、その指を舐め取った。
小さな、水音がした。
赤い舌先が、白い指を這う。
その目が、アタシを射抜いたまま、離さない。
「…………」
アタシの頭の中で、何かが焼き切れた。
恥ずかしいとか、そういうレベルじゃない。
これは、キスだ。
間接的だけど、濃厚すぎるキスだ。
彼女の口腔内の温度が、指を通して伝わってくるような錯覚。
「……な、ななな……!」
アタシは、椅子から転げ落ちそうになった。
パニックだ。思考回路がショートしてる。
「な、何してんだよッ!! 汚ねぇだろ!!」
アタシは、精一杯の悪態をついた。
でも、声が裏返っている。
「ば、ばい菌?とか! ウイルスとか! あるだろ常識的に考えて! 今の時期、風邪とか流行ってんだぞ! 保健体育で習わなかったのかよこの非常識女!」
滅茶苦茶な屁理屈。
色気のない、ただの衛生管理の講釈。
自分でも何を言ってるか分からない。ただ、この場の「エロさ」を霧散させたくて、必死に言葉を紡いだ。
「……ふふ」
ナラは、コロコロと笑った。
アタシの動揺を楽しんでいる。
「平気よ。……あたし、あんたの菌なら、喜んで培養しますわ」
「……いっ…意味わかんねぇよ!!」
ナラは、頬杖をついて、アタシを見つめた。
その瞳は、蕩けるように甘く、そして逃げ場のない檻のように冷徹だった。
「……ねえ、レイナ」
ナラが、足を組み替えた。
テーブルの下で、彼女の脚がアタシの脚に絡みつく。
「あんた……。キスとか、したことあって?」
「……は?」
心臓が、口から飛び出るかと思った。
「キ……キスとか……?」
「ええ。……キス、『とか』、よ」
ナラの目が、怪しく光る。
『とか』。
その二文字に込められた意味。
キス以上のこと。
肌を重ねること。熱を分かち合うこと。
そして、お互いの境界線を溶かし合うこと。
(……『とか』って、何だよッッッ……!)
アタシは、自分で復唱しながら、その言葉の重みに押しつぶされそうになった。
したことあるわけないだろ。
こんな、魂まで持っていかれそうな相手と。
「……ねーよ。……悪いかよ」
アタシは、俯いて答えた。
負けだ。完敗だ。
この女には勝てない。
手玉に取られて、転がされて、遊ばれている。
でも。
このまま「子供扱い」されて終わるのは、死ぬほど悔しい。
アタシは、顔を上げた。
ナラの目を見る。
そこには、余裕と、そして隠しきれない「期待」があった。
彼女もまた、アタシを欲しがっている。
アタシが、その一線を超えるのを「待っている」。
(……ナメんじゃねぇぞ)
アタシの中の、ヤンキー魂が火を噴いた。
遊ばれるだけじゃ終わらない。
食われる前に、食ってやる。
その余裕しゃくしゃくの顔を、アタシ色に染めて、泣かせてやる。
アタシは、震える手を抑え込んで、ナラのグラスを奪い取った。
そして、彼女が口をつけた場所に合わせて、一気に飲み干した。
「……間接キス返しだーっ。文句あるかーっ。」
ナラが、目を丸くした。
そして、頬を染めて、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありませんわ。……やるじゃない!」
「……い、行くぞっ────。」
アタシは立ち上がり、伝票を掴んだ。
もう、我慢の限界だ。
言葉での駆け引きは終わりだ。
「……どこ、へ?」
ナラが、しらばっくれて聞く。
アタシは、ナラの手首を掴み、強引に立たせた。
「だーもーうっせえなーもー。……『とか』の続きを、しに行くんだ──ろ?」
アタシは、ナラを引っ張って店を出た。
夜風が熱い。
繋いだ手が、火傷しそうに熱い。
ナラは、抵抗しなかった。
アタシの後ろで、「ふふ」と小さく笑う気配がした。
それが、勝利の笑みなのか、それとも「食べられる」ことを喜ぶ雌の顔なのか。
今はまだ、分からない。
ただ一つ確かなことは。
今夜、アタシは彼女を「食べる」ということ。
性的な意味で。魂の意味で。
そして、二度と忘れられない傷跡を、互いの心に刻み込むのだ。
ラブホテルのネオンが、毒々しく、それでいて聖なる光のように瞬いている。
アタシとナラは、上野の裏路地を並んで歩いていた。
手は、繋いでいない。
だが、二人の間には、濃密な磁場のような引力が働いていた。
アタシは歩きながら、ふと、今まで自分が馬鹿にしていた連中のことを思い出した。
路上で声をかけてくるナンパ男。
教室の隅で、アイドルの写真を見てニヤついている童貞。
「誰でもいいからヤりたい」
「俺を受け入れてくれる女なんていない」
そんな飢えと卑屈さを抱えた奴ら。
(……ああ。分かるわ)
アタシは、唇を噛んだ。
今のあいつらの気持ちが、痛いほど分かる。
アタシは今、ナラという「高嶺の花」を前にして、圧倒的な敗北感と、それ以上の渇望に焼かれている。
「誰でもいい」とは……確かに思っていた。
だが。今は、ナラがいい。
でも、「こんなアタシを、この人が本気で相手にしてくれるわけがない」という卑屈さが、胃の腑に重くのしかかる。
アタシは今まで、適当に遊んできた。
「好き」なんて言葉は、挨拶代わりに使ってきた。
顔が好みなら「好き」。ノリが合えば「好き」。
その言葉に重みなんてなかったし、言った相手のことも、それなりに大事にはしていたつもりだ。
だが。
ナラに対しては、言えない。
喉まで出かかっているのに、「好きだ」というたった二文字が、鉛のように重くて吐き出せない。
なぜか?
怖いからだ。
彼女は、アタシの理解を超えている。
強くて、美しくて、底知れなくて。
そんな相手に「好き」と言うことは、自分の魂を丸裸にして差し出すことと同じだ。
拒絶されたら死ぬ。受け入れられても、飲み込まれて死ぬかもしれない。
畏怖。
そう、アタシは彼女に恋焦がれると同時に、生物として怯えているのだ。
(……じゃあ、今までのアタシの「好き」は、全部嘘だったのか?)
自問自答が頭を巡る。
違う。あれも本心だった。でも、浅かっただけだ。
本当の恋ってのは、こんなにも惨めで、無様で、言葉を奪うものなのか。
ホテルの入り口が見えてきた。
何か言わなきゃいけない。
この沈黙を埋めて、スマートに誘わなきゃいけない。
でも、なんて言う?
「抱かせてくれ」? 無理だ、恐れ多い。
「休憩しようぜ」? 安っぽすぎる。
悩みに悩みに、悩み抜いた末に、アタシの口から飛び出したのは──何とも情けない言葉だった。
「……あー。……コーヒー『とか』、飲む、か?」
言った瞬間、舌を噛み切りたくなった。
コーヒー? この状況で?
しかも、「とか」って何だよ!
「とか」って!
その二文字に、アタシの全ての欲望と、逃げ道と、卑怯さが詰まっていた。
コーヒーを飲むフリをして、その先にある「あれやらこれやら」を期待している。
でも、断られたら「いや別にただのコーヒーの話だけど?」と言い訳できる余地を残している。
(ダッセェ……。死にてぇ……)
アタシは顔を覆いたくなった。
だが、ナラは立ち止まり、アタシを見た。
街灯に照らされたその顔は、妖艶に微笑んでいた。
「……ええ。いただきますわ」
ナラは、アタシの手を取った。
「たっぷりと……『とか』を味わわせてくださる?」
彼女は、全て、お見通しだった。
アタシの卑屈さも、欲望も、情けない言い訳も。
全部飲み込んだ上で、手を取ってくれたのだ。
アタシたちは、回転扉の向こうへと消えた。




