第3話:Blue bird
主題歌:青い鳥
https://youtu.be/cjEzUKoAYyk?si=kGMK443L24Vfrpa-
アリアは語り終えた。
リビングには、重い沈黙が満ちていた。
時計の針の音だけが、静かに響いている。
ナラティブ・ヴェリタスは、震えていた。
漆黒のドレスの袖を握りしめ、俯いたまま動けない。
テーブルの上には、冷めきった紅茶。
だが、ナラには喉を通るものなど何一つない。
「……嘘」
ナラは、絞り出すように呟いた。
「嘘よ……。そんなの……」
ナラは顔を上げた。
その美しい顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
彼女は知らなかった。
自分が「家族」だと思っていたこの人たちが、こんなにも壮絶な過去を背負っていたなんて。
アリアの優しさが、数多の命を奪った贖罪だったなんて。
ケンジの穏やかさが、狂気と隣り合わせの献身だったなんて。
そして、エラーラの明るさが、一度死んで蘇った「奇跡」そのものだったなんて。
「……ごめんなさい」
ナラの口から、謝罪が溢れ出した。
それは、今朝トーストに文句をつけたことへの謝罪ではない。
もっと根本的な、自分の浅はかさに対する慟哭だった。
「あたし……あたしは……!」
ナラは、自分の胸を拳で叩いた。
「自分のことばかり……!退屈だとか、理解者がいないとか……! 自分が一番不幸で、一番頑張ってる気になって……!」
ナラは、思い出す。
かつて、スラムで、泥水を啜って生きてきた自分。
それを「地獄」だと思っていた。
自分は被害者で、世界は加害者だと信じていた。
だから、幸せを手に入れても、どこか満たされなかった。
「もっと欲しい」「もっと認めろ」と、世界に要求ばかりしていた。
でも、目の前の三人は……
彼らは、ナラ以上の地獄を見てきた。
社会から抹殺され、命を削り、禁忌を犯し、血と泥にまみれて。
それでも、彼らは何も要求しない。
「世界を救った」と威張ることもなく、「辛かった」と嘆くこともなく。
ただ、この小さな獣医院で、日々の食事を笑って食べている。
「……恥ずかしい」
ナラは、テーブルに突っ伏して泣き叫んだ。
「恥ずかしい……! あたし、自分が恥ずかしい……!」
彼らの高潔さに比べて、自分はなんてちっぽけなんだろう。
「理解者がいない」?
とんでもない間違いだ。
世界で一番、痛みを理解している人たちが、すぐそばにいたのだ。
あたしを守り、育て、愛してくれていたのだ。
それなのに、あたしは「青い鳥」を探して、外ばかり見ていた。
「……ナラちゃん」
アリアが、そっとナラの背中に手を置いた。
その手は、かつて剣を握り、友を蘇らせるために血を流した手だ。
でも今は、ただひたすらに温かい、母親の手だった。
「泣かないで。……私たちは、あなたに負い目を感じてほしくて話したんじゃないのよ」
「でも……! でも……!」
ナラは、顔を上げられなかった。
この温もりに触れる資格なんて、自分にはない気がした。
「……ナラ君」
エラーラが、静かに声をかけた。
彼女は、いつものように白衣のポケットに手を入れ、少し困ったような顔で立っていた。
「……君が謝る必要性はないよ」
「……え?」
「君が生まれるか生まれないかの昔話さ。……君には関係ない」
エラーラは、ナラの頭に手を置いた。
「それにね。……私たちは、君が来てくれて、救われたんだよ」
「……救われた?」
「ああ。……私たちは、戦いすぎた。傷つきすぎた。……平和な日常というものが、どういうものか忘れかけていたんだ」
エラーラは、ケンジとアリアを見た。
「でも、君が空から降ってきて……。文句を言いながら掃除をして、美味しいご飯を要求して、騒がしく笑う。……その姿を見て、私たちは思ったんだ。『ああ、私たちはこの日常を守るために戦ったんだな』って」
エラーラは、ナラの涙を指で拭った。
その黄金の瞳には、深い慈愛が満ちていた。
「君は、私たちの『希望』の証明なんだよ。ナラ」
「……ッ!」
ナラの涙腺が、再び決壊した。
許された。肯定された。
この、傲慢で、未熟で、何も知らないあたしを。
彼らは、命がけで守り抜いた世界の「結晶」として、愛してくれているのだ。
「……ありがとう」
ナラは、立ち上がり、エラーラに抱きついた。
強く、強く。
骨が軋むほどに。
「ありがとう、お母様……! アリアさん……! ケンジさん……!」
「ありがとう」と「ごめんなさい」が、交互に溢れ出す。
感謝と、自責と、そして絶対的な愛。
ナラは、悟った。
あたしが探していたものは、金でも、美貌でも、名声でもなかった。
この「体温」だ。
どんなに傷ついても、どんなに汚れても、互いを想い合えるこの場所こそが、あたしの求めていた「世界」だったのだ。
「……大好き」
ナラは、泣きながら笑った。
「あたし……この家の子で、本当によかった……!」
アリアが、ナラとエラーラをまとめて抱きしめた。
ケンジも、大きな腕で三人を包み込んだ。
窓の外では、雨が上がり、雲間から光が差し込んでいた。
それは、あの日、彼らが見たかった「未来」の光だった。
しばらくして。
ナラは、目を腫らしたまま、台所へ立った。
「……お腹、空きましたわ」
「おや。泣いたら腹が減ったか?」
エラーラが笑う。
「ええ。……今日は、あたしが作りますわ」
ナラは、エプロンをつけた。
その背中は、いつもの高飛車な令嬢ではない。
家族のために尽くしたいと願う、一人の娘の背中だった。
「何を作るんだい?」
ケンジが聞く。
ナラは、振り返って、笑った。
「トーストよ。……今度は、焦げ目一つない、最高に美味しいやつをね!」
リビングに、笑い声が響く。
贖罪の食卓は、今、幸福の食卓へと変わった。
過去の傷は消えない。
でも、その傷跡の上には、陽だまりのような温かい日常が、確かに積み重なっている。
ナラティブ・ヴェリタス。
彼女はもう、青い鳥を探しに行かない。
ここにある幸せを、全力で守り、愛し抜くと決めたから。




