第2話:壊れた世界のやりなおし方!
私の記憶の中にある「あの日」は、いつだって冷たい雨と、錆びた鉄の臭いがする。
当時、私、アリア・フォン・クライフォルトは、王都騎士団の史上最年少団長として、白銀の鎧に身を包み、王都の広場に立っていた。
目の前には、暴走した熊型魔獣の巨体。その足元には、逃げ遅れた母親と幼い子供が震えている。
「……シールド展開! 市民を守れ!」
私は叫び、聖剣を抜いた。
熊の爪が振り下ろされる。間に合わない。
私は迷わず踏み込み、剣を一閃させた。銀の軌跡が雨を切り裂き、熊の首が宙を舞う。
鮮血が噴き出し、私の白いマントを赤く染めた。
親子は助かった。
だが。
助けられた母親は、私を見て悲鳴を上げた。
感謝ではない。怯えと、嫌悪の眼差し。
「……人殺し!!」
人殺し。
その一言が、合図だった。
群衆の中から、プラカードを持った集団が雪崩れ込んでくる。
『聖なる命の会』。
表向きは魔獣愛護を謳う市民団体だが、その実態は、軍部と癒着し、魔獣兵器の利権を独占しようとする過激派組織の傀儡だ。彼らにとって、中立を貫く騎士団長である私は邪魔な存在でしかなかった。
「見たか! 騎士団長が、熊を虐殺した!」
「対話を捨てた野蛮人!」
「熊はただ、お腹が空いていただけなのに!」
カメラのフラッシュが焚かれる。映像は巧妙に切り取られ、「怯える熊を、無慈悲に斬り殺す狂気の騎士」として、王都中に拡散された。
私は弁明しようとした。だが、言葉は怒号にかき消された。
上層部は世論の炎上を恐れ、私を切り捨てた。クライフォルト家は、保身のために私を勘当した。
数日後。
私は、騎士の称号も、家名も、財産も全て剥奪され、着の身着のままで城門の外へ放り出された。
かつて守ろうとした市民たちから、石を投げられ、唾を吐かれながら。
額から流れる血が、目に入って沁みた。痛くはなかった。
ただ、心が凍りついていく音が聞こえた。
正義とは何か。守るべきものとは何か。私が信じて剣を振るってきた日々は、全て幻だったのか。
私は、泥水の中に倒れ込んだ。
そこは、王都の掃き溜め。スラム街の最深部だった。
「……酷い顔だねぇ」
雨の中で、声をかけられた。
顔を上げると、ゴミ捨て場の陰に、白衣を着た女が座っていた。
ボサボサの銀髪。眼鏡の奥の瞳は、驚くほど理知的で、そして深く絶望していた。
「……貴女は?」
「エラーラ。……エラーラ・ヴェリタスだ」
彼女は自嘲気味に笑った。
その名には聞き覚えがあった。王立研究所の若き天才主席研究員。「魔力を持たない人間でも使える魔法」、つまり「科学」を提唱し、魔法使いギルドの特権を脅かす異端者として、追放された女。
「……同類か」
「ああ。社会のゴミさ」
エラーラは、懐から湿気たパンを取り出し、半分に割って私に差し出した。
「食べるかい? ……カビが生えているが、栄養価は変わらない」
私は、そのパンを受け取った。泥とカビの味がした。
でも、涙が出るほど美味しかった。
私たちは、廃墟の軒下で身を寄せ合った。寒さと飢え。そして、世界への不信感。
二人の天才と英傑は、ただの無力なホームレスに成り下がっていた。
そんな私たちを拾ったのが、ケンジだった。
彼は、近くの三流学校に通う、貧乏な獣医学生だった。
ボロボロの鞄を持ち、いつも眠そうな目をしていた。
彼は、私たちを見て顔をしかめた。汚いものを見る目ではない。傷ついた動物を見るような、純粋な心配の目。
「……君たち、怪我をしてるね。うちに来なさい。……狭いけど、屋根はある」
「……私たちは、追放者だぞ。関われば、君も……」
「関係ないよ」
ケンジは、私の血まみれの手を取った。
「目の前で震えてる人間を見捨てるなんて、獣医の卵として失格だ。……それに、僕は君たちを知っている」
彼は、アパートの狭い部屋で、温かいスープを作りながら言った。
「アリアさん。君があの日助けた親子……あれは、僕の姉と甥っ子だったんだ」
私はスプーンを止めた。
「姉は、周りの空気に流されて君を罵った。……でも、僕は見ていたよ。君が、自分の命を盾にして彼らを守ったのを」
ケンジは、エラーラに向き直った。
「エラーラさんの論文も読んだ。……魔法を独占せず、万人に開放しようとする思想。あれは、正しい」
彼は、私たちに深々と頭を下げた。
「君たちは悪くない。……世界が間違っているんだよ」
他責。
本心では、なさそうだった。
だが、その言葉が、どれほどの救いだったか。私たちは、その夜、声を殺して泣いた。
三人の共同生活が始まった。六畳一間のボロアパート。獣臭と薬品の臭い。
でも、そこは確かに、世界で唯一の「聖域」だった。
だが、平穏は長くは続かなかった。
スラム街で、奇病が流行り始めたのだ。
人々が突然、理性を失い、獣のように暴れ出す。体毛が生え、爪が伸び、人間としての形を保てなくなる。
「狂獣病」。
原因は、あの『聖なる命の会』だった。彼らは、保護という名目で集めた魔獣を違法に改造し、失敗作や死骸を地下水道に廃棄していたのだ。その汚染された水を飲んだスラムの住人が、次々と感染していた。
政府は事実を隠蔽した。「スラムの暴動」として処理し、区画ごと封鎖して焼き払おうとしていた。
「……許せない」
私は、錆びついた鉄パイプを握りしめた。
騎士の鎧はない。聖剣もない。だが、守るべきものは、ここにある。
「私たちが、やるしかない」
エラーラが、ガラクタを集めて即席の魔導兵器を作った。
「血清を作るには、病原体のサンプルが必要だ。……僕も行く」
ケンジが、震える手でメスと採集キットを持った。
私たちは、夜な夜なマンホールを開け、地下水道へと潜った。
そこは、地獄だった。
腐臭と湿気。暗闇の中で光る、無数の赤い目。
感染し、異形と化した元・人間たちが、私たちに襲いかかってくる。
「……ごめんなさいッ!!」
私は、鉄パイプを振るった。頭蓋骨が砕ける感触。返り血が顔にかかる。
それは、昨日まで挨拶を交わしていたパン屋のおじさんだったり、花売りの少女だったりした。
殺さなければ、殺される。そして、地上に感染が広がる。
私たちは、泣きながら殺し続けた。
エラーラが叫び、魔導障壁を展開する。
ケンジが叫び、私たちは泥水の中を走る。
毎晩、傷だらけになって帰ってきた。
ケンジが、黙って私たちの傷を洗い、消毒してくれる。
「……痛いね。ごめんね」
彼は、自分が傷ついたかのように顔を歪めて、包帯を巻いてくれた。
私たちは、誰からも感謝されなかった。むしろ、夜な夜な血まみれで出歩く私たちを、「スラムの死神」と呼んで恐れる者さえいた。
名誉もない。報酬もない。あるのは、増え続ける罪悪感と、すり減っていく魂だけ。
それでも、私たちは止まらなかった。
戦いは、続いた。
そして、ついに元凶の場所を突き止めた。地下最深部。古代の遺跡を利用した、『聖なる命の会』の秘密プラント。
そこには、教祖カルマと、都市を消滅させるほどのエネルギーを秘めた「魔導炉」があった。
カルマは、狂っていた。彼は、集めた魔獣の命と、感染者の魂を燃料にして魔導炉を暴走させ、王都全体を「浄化」させようとしていたのだ。
「よく来たね、薄汚いネズミたち」
カルマは、制御室の高みから私たちを見下ろした。周囲には、最強の改造兵士が数十体。
「貴様……! 命をなんだと思っている!」
私が叫ぶ。
「素材だよ。……素晴らしい新世界のためのね」
「ふざけるなッ!」
私は突っ込んだ。エラーラが援護射撃をし、ケンジが後方支援をする。
だが、戦力差は歴然としていた。
改造兵士の装甲は硬く、私の鉄パイプは曲がり、エラーラの魔導銃もエネルギー切れを起こす。
私は吹き飛ばされ、肋骨が折れた。ケンジも肩を撃たれ、倒れている。
カルマが、魔導炉の出力レバーを最大にした。炉心が赤熱し、臨界点を超えようとする。
「……計算終了だ」
その時、エラーラが立ち上がった。
彼女の白衣はボロボロで、眼鏡も割れていた。だが、その瞳だけは、かつてないほど澄み切っていた。
「エラーラ?」
「アリア。ケンジ。……プランBだ」
彼女の手には、試作段階の「魔力反転爆弾」が握られていた。
それは、炉心のエネルギーを逆流させ、内部で対消滅させるための自爆装置。
ただし、設置するには、防護壁のない炉心の内部に入らなければならない。
私は、嫌な予感がして震えた。
「君たちは脱出しろ。私が、炉心へ行く」
「なっ……! 死ぬわよ!?」
「論理的に考えて、それしか王都を救う方法はない。……私の魔力耐性なら、爆心まで数秒は持つ」
エラーラは、私とケンジを見た。
いつもの、人を食ったような、不敵で、そして優しい笑顔。
「君たちに出会えて、退屈しなかったよ!……最高の、最後の『実験』だった」
「待って! エラーラ! やめろォッ!」
エラーラは、走り出した。
改造兵士たちの弾幕を、障壁も張らずに突っ切る。腕が撃ち抜かれる。足が焼かれる。
それでも、彼女は止まらなかった。
這いずりながら、炉心のハッチを開ける。猛烈な熱と魔力が吹き出す。
「……計算通り、だッ!!」
彼女は、爆弾を抱えて炉心へ飛び込んだ。
閃光。音が消えた。
プラントが内側から崩壊し、カルマの野望ごと、全てが瓦礫の下に埋もれていく。
私は、ケンジを庇って伏せた。涙で前が見えなかった。
煙が晴れた後。
そこに、エラーラの姿はなかった。
残っていたのは、焼け焦げた白衣の切れ端だけ。
私は、瓦礫の中で絶叫した。
ケンジは、声も出さずに泣いていた。
三人で生き残ると誓ったのに。一番賢くて、一番不器用で、私たちの道標だった友人が、死んだ。
世界は救われた。だが、私たちの世界は壊れた。
私たちは、アパートに戻った。
エラのいない部屋。冷たい空気。三人分の食器。飲みかけのコーヒー。
その全てが、彼女の不在を突きつけてくる。
「……諦めない」
私は、立ち上がった。
目は血走り、頬はこけていた。だが、その瞳には狂気にも似た執念が宿っていた。
「ケンジ。……やるわよ」
「……何を?」
「『魂の再構成と、肉体の錬成』」
それは、エラーラが残した研究データの中にあった、禁断の術式。
理論上は可能だが、倫理的にも、魔術的にも、絶対に行ってはならないタブー。
死者蘇生。
「……アリア。それは、神への反逆だ」
「神がなんだって言うの!エラーラを奪った神なんて、私が斬り殺してやる!」
私はケンジの胸ぐらを掴んだ。
「あんたは!あんたはこれでいいの?エラーラがいない世界で、のうのうと生きていけるの!?」
ケンジは、私を見た。その目には、迷いはなかった。
「……いけるわけ、ないだろう」
ケンジは、獣医学書とエラのノートを広げた。
「やろう。……地獄まで、付き合うよ」
そこからの日々は、まさに狂気だった。
蘇生には、莫大な魔力と、生体パーツ、そして「生命エネルギー」が必要だった。
金はない。だから、私は自分の血を売った。危険な魔獣の巣に飛び込み、貴重な素材を奪い取っては、闇市で換金した。
ケンジは、大学の研究室から必要な機材や薬品を横流しし、退学処分になった。
それでも構わなかった。
「……足りない。魔力が足りない」
私は、自分の魂を削った。
騎士としての生命力、寿命、未来。全てを魔力に変換して、培養槽に注ぎ込んだ。
皮膚が焼け爛れ、片目の視力を失い、髪が白く変色しても、詠唱を止めなかった。
「戻ってこい! エラーラ! まだ珈琲を飲んでないだろう!」
ケンジが叫びながら、培養液の調整をする。不眠不休で、指の皮が剥けるまで。
「あんたは天才なんでしょ!? 死んだくらいで!サボってんじゃないわよ!」
私は吼えた。喉から血が出るほどに。
それは、美しい友情物語なんかじゃない。
死者への冒涜。自然への反逆。エゴと執着の塊。
だが、そこには純度100%の「愛」だけがあった。
そして、ある嵐の夜。
培養槽の中で、奇跡が起きた。
心臓が、動いた。
失われたはずの肉体が、粒子レベルで再構築されていく。
骨が組み上がり、神経が走り、肉が盛り上がる。
そして、褐色の肌が形成され、銀色の髪が伸びる。
ガラスが割れた。培養液と共に、全裸の女性が床に崩れ落ちた。
「……んん……?」
彼女は、ゆっくりと目を開けた。まだ焦点の合わない、青色の瞳。
「……ここは……? 私は……計算ミスを……?」
「エラーラ!」
私とケンジは、ガラスの破片で手足を切りながら、彼女に駆け寄った。
温かい。生きている。心臓が、動いている。
「……アリア? ケンジ君? ……なんで泣いているんだい?」
エラーラは、不思議そうに私たちを見た。
彼女には、死の記憶がないようだった。ただ、ぐっすり眠っていたかのような顔で。
「ごめんなさい……! 守れなくてごめんなさい!」
「ありがとう……! 帰ってきてくれて、ありがとう!」
私たちは、彼女を抱きしめて泣き崩れた。
泥だらけで、傷だらけで、罪にまみれた手で。
エラーラは、状況が飲み込めないまま、困ったように、でも優しく私たちの背中を撫でてくれた。
「……よく分からんが。まあ……ただいま、と言えばいいのかな?」
「うん……! おかえり……!」
その夜の、安酒と冷めたスープの味を、私は一生忘れないだろう。




