第3話:普通の会社のつぶし方(3)
運命の日は、不気味なほど静かに始まった。
『ゴウダ建設』との正式契約締結日。
朝から降り続く小雨が、タカムラ商会の古びた社屋を濡らしている。
社長のケイスケは、朝から胃薬を飲み続けていた。
「今日さえ乗り切れば……会社は変われる!」
ナラは、完璧な温度で淹れたハーブティーを差し出しながら、その背中を見つめた。
彼は信じているのだ。
会社が良くなれば、社員たちも変わってくれると。
環境が人を育てるのだと。
午前10時。
一本の電話が鳴った。
それは、これから向かうはずの『ゴウダ建設』の現場監督からだった。
『おい!ざけんじゃねぇぞ!どうなってんだ!』
受話器から漏れる怒号。
ケイスケの顔から、瞬時に血の気が引いた。
「は、はい……?いえ、そんなはずは……! 確かに発送しましたが……!」
『物ぁ届いてるよ!だがな、中身、違うんだよ!』
監督の怒鳴り声が、静まり返った事務所に響き渡る。
『ウチが頼んだのは「魔力コートA級鉄骨」だ! なんで「未処理C級鉄骨」が届くんだよ! これじゃ工事ができねぇだろ!損害賠償モンだぞコラァ!』
「すぐに確認します!申し訳ありません!」
ガチャン。
電話が切れる。
ケイスケは、幽霊を見たような顔で立ち尽くしていた。
「……サヤマ君?」
ケイスケの震える声が、サヤマに向けられた。
今回の発注と発送手配を担当したのは、彼だ。
「……発注書、確認した?」
「あ?」
サヤマは、気だるげに顔を上げた。
「しましたけど。……A級もC級も、型番似てるんすよねぇ。メーカーのサイトがあんましつーかまじ見づらいんすよ」
「見づらい……?」
ケイスケが、よろめきながらサヤマのデスクに歩み寄る。
「君……。確認しなかったのか? 納品伝票と、現物を」
「いや、僕は伝票打ちだけなんで。……現物の確認は、倉庫のバイトの仕事じゃないですか?」
「最終チェックのハンコ、君のが押してあるだろがよ!」
「あーそれ流れ作業つか……オノデラさんも見てるはずですよ?つか誰でも流れで押すじゃんすか?え、いちいち見るんすか?ねえオノデラさん?」
「えぇっ? 私ぃ?」
オノデラがお菓子を持ったまま顔を出す。
「私はサヤマさんが『大丈夫っす』って言うから、信じて押しただけよぉ。……私、老眼で見えないしぃ」
責任のキャッチボール。
ボールは地面に落ち、泥にまみれているのに、誰も拾おうとしない。
彼らの口調は、あくまで平坦だ。焦りもなければ、申し訳なさもない。
「……どうするんだ」
ケイスケが頭を抱える。
「今日から工事が始まるんだぞ。……現場が止まる。違約金が発生する。信用はゼロだ」
「……まあ、送っちゃったもんは仕方ないですよね。まずは、犯人探しっすよ!ささ!多分ミスの原因は他にありますよ!ささ!気持ち切り替え!仕事仕事っ!」
サヤマは、他人事のように言った。
「つか、また送り直せばよくないすか? ……あ、送料って経費で落ちっすか?」
ケイスケは、何も言えなかった。
怒鳴る気力さえ、吸い取られていた。
「……僕が、行くよ」
ケイスケは、ジャケットを羽織った。
「今すぐゴウダ部長に謝罪して、正規の品を僕がトラックで運ぶ。……なんとか、食い止める」
「社長、あたしも……」
ナラが声をかけるが、ケイスケは首を振った。
「いいんだ。……これは、経営者の責任だ」
ケイスケは、土砂降りの雨の中へと出て行った。
その背中は、あまりにも小さく、孤独だった。
「……行ってらっしゃーっすぃ!」
サヤマとオノデラは、背中に向かって適当に手を振った。
そして。
扉が閉まった瞬間。
「……ぷっ」
サヤマが、吹き出した。
「あーあ。やっちまったなぁー!フィーッ!」
「ほんとよぉ。……社長、顔面蒼白だったわねぇ!バチが当たったのよ!」
オノデラも、クスクスと笑う。
事務所の空気が、一変した。
重苦しい沈黙ではない。
奇妙な「熱気」と「高揚感」が、場を支配し始めたのだ。
「ねえ、聞いた? 損害賠償だって」
「マジ? ウチの会社、潰れんじゃね?」
「やっぱ無理だったんだよ、大手となんて。身の程知らずだよ!元エリート!ハハハ!」
彼らは、笑っていた。
会社が危機に瀕しているというのに。自分たちの給料が危ないというのに。
いや、だからこそ、彼らは楽しそうだった。
自分たちの予言という名の呪いが成就したことへの、歪んだ満足感。
安全圏から「破滅」というショーを眺める、観客の無責任な快楽。
そこには「当事者」としての痛みなど微塵もない。
ナラは、その光景を呆然と見ていた。
かつて未来で戦った悪党たちは、もっとマシだった。
彼らは、自分の利益のために必死だった。生きるために必死だった。
だが、こいつらは違う。
自分たちの生活基盤が崩れようとしているのに、それを「ネタ」にして消費している。
自傷行為に近い、緩慢な自殺。
「……楽しい?」
ナラは、低い声で尋ねた。
「え?」
サヤマが振り返る。
「会社が潰れて、路頭に迷うのが……そんなに楽しい?」
「いや、楽しくはないですけどぉ」
サヤマはヘラヘラと答える。
「でも、僕のせいじゃないすし。……社長が勝手に焦って、勝手にコケただけじゃないですか。自業自得すよ」
「……そ」
ナラは、デスクに戻った。
もう、言葉も出なかった。
怒りすら湧いてこない。ただ、底知れない「徒労感」だけが、泥のように積もっていった。
ここは、真空地帯だ。
熱意も、責任も、そして人間としての矜持も、すべてが吸い取られて消えていく、無の空間。
夕方。
ケイスケが戻ってきた。
雨に濡れ、泥だらけのスーツ。
膝は泥で汚れ、額には擦り傷があった。
どれだけ頭を下げ、どれだけ罵倒されたのか、想像に難くない。
「……契約は」
ケイスケは、枯れた声で言った。
「……破棄された」
「……」
事務所が静まり返る。
だが、サヤマたちの目は輝いていた。「やっぱり」という答え合わせの快感に。
「違約金は……僕の個人の資産でなんとかする。……会社は、潰さない」
ケイスケは、フラフラと社長室に入っていった。
社員たちに、一言も小言を言わずに。
サヤマが舌打ちした。
「んだよ、潰れねぇんかよ。……つまんね」
小さな声だった。
だが、ナラの耳には、爆音のように響いた。
つまんない。
ドラマチックな破滅を期待していたのに、社長が泥をかぶって日常が続くことに、彼らは「ガッカリ」したのだ。
この期に及んで、自分の生活が守られたことへの安堵よりも、娯楽が終わったことへの不満が勝るのか。
ナラは、席を立った。
これ以上、同じ空気を吸っていたら、自分まで腐ってしまう。
彼女は給湯室へ向かった。
せめて、温かいコーヒーでも飲んで、この不快感を洗い流そう。
ナラは、自分専用のマグカップを取り出した。
そして、昨日、なけなしのバイト代で買った、少し高級なインスタントコーヒーの瓶に手を伸ばした。
『ブルーマウンテン・ブレンド』。
この掃き溜めのような職場での、唯一の自分へのご褒美。
誰にも触らせないように、名前を書いて棚の奥に隠しておいたはずだ。
だが。
瓶は、空だった。
「……はあーっ?」
ナラは、瓶を逆さにした。
粉の一つも落ちてこない。
昨日開けたばかりだ。まだ一杯しか飲んでいない。
ゴミ箱を見る。
そこには、コーヒーの粉がべっとりとついた紙コップが、山のように捨てられていた。
「……誰よ」
ナラが振り返ると、入り口にサヤマが立っていた。
彼は、空の紙コップを片手に、仁王立ちしていた。
その顔は、真っ赤だった。
ナラが声をかけるより早く、サヤマが吠えた。
「おいッ!お前だったのか!ふッざッけんなッよッッッ!マジでテメェ!」
サヤマは、持っていた紙コップをナラに投げつけた。
「……は?」
「なッんッだよッッッ!この!コー!ヒー!酸ッッッぱすぎんだよッ!殺すぞボゲッッッ!」
サヤマは激昂していた。
会社の危機には眉一つ動かさず、社長の苦悩を鼻で笑っていた男が。
今、顔を歪めて「本気」で怒っていた。
「俺はッッッ!深煎りが好きなんだよッ! なんでッ!こんな酸味の強いッ!豆ッッッ!選んだんだよ!バッッッカじゃねぇのかーーーッ!?」
「……いや?いやいや、いえ、これはあたしが自分用に……」
「言い訳すんな!置いてあったら飲むだろ普通! 傘盗むだろ!店で菓子盗むだろ!店員いなかったら会計しないで帰るだろ!財布があったら盗るだろ!おまえには!常識!ねえの!かーーーッ!共有財産だろ!きょ、う、ゆ、う、ざ、い、さ、んッーーー!」
サヤマは、空になった瓶を奪い取り、床に叩きつけた。
ガラスが砕け散る。
「はー。飲んでみたらマズくて吐き出したんだわ!俺の口直しどうしてくれんだよ!クソが!」
「……」
ナラは、呆然と立ち尽くした。
会社の損失。数千万の違約金。社長の人生。
それらには一切心を動かさなかった男が。
まさか、まさか、たかが「盗み飲みしたコーヒーの味が好みじゃなかった」というだけで、「これほどまでに激怒している」。
空き巣が、盗みに入った家に説教するように。
他人の痛みには不感症なくせに。
自分の舌先の不快感だけは、この世の終わりかのように喚き散らす。
「……ああ」
ナラは理解した。
これが、真空地帯の住人だ。
ナラティブを持たず、責任を持たず、ただ「お客様」として生きる彼らにとって、世界の全ては「自分に奉仕すべきサービス」なのだ。
サービスの質が悪ければ、キレる。
それが彼らの、唯一の「正義」なのだ。
「謝れよ!謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ!マ!ズ!い!コー!ヒー!飲ませやがって!謝れッ!」




