第2話:普通の会社のつぶし方(2)
王都の空は、分厚い雲に覆われていた。
「タカムラ商会」の事務所内もまた、外の天気以上に湿っぽい空気が沈殿している。
蛍光灯の魔導灯がチカチカと明滅し、コピー機の駆動音が虚しく響く午後。
その静寂を破るように、社長のケイスケが扉を開けた。
「……みんな! 聞いてくれ!」
彼の声は上ずっていた。顔は紅潮し、手には一枚の羊皮紙――契約書の草案が握りしめられている。
「『ゴウダ建設』との一次交渉、通ったよ! ……来週、正式契約だ!」
ゴウダ建設。
王都の再開発を一手に担う、超大手ゼネコンである。
そこの部長であるゴウダは、冷徹だが合理的な男だった。彼はケイスケの提案した「魔導在庫管理システムによるコスト削減案」を評価し、チャンスをくれたのだ。
この契約が決まれば、タカムラ商会はただの卸問屋から、王都のインフラを支えるパートナー企業へと飛躍できる。
倒産寸前の会社を救う、起死回生の一手だ。
「これでボーナスも出せるし、老朽化した倉庫の修繕もできる! ……みんな、頑張ろう!」
ケイスケは、満面の笑みで社員たちを見渡した。
彼は期待していたのだ。
共に苦労してきた社員たちが、喜んでくれることを。
だが。
返ってきたのは、気まずい沈黙だった。
「……ほぅん。すごいすね。」
サヤマが、魔導水晶から目を離さずに呟いた。
その声には、抑揚が全くない。
「で?それって……僕たちの仕事、増えるんですんすよね?」
「え?」
「大手と取引ってことは、納期の管理、厳しくなるんすよね?つーことは、今でも手一杯なのに、いやーーー。これ以上負担をかけられても……」
サヤマは、露骨に不機嫌な顔をした。
隣のオノデラも、眉を八の字にして溜息をつく。
「そうよねぇ。……ウチみたいな小さい会社が、そんな大きな山、狙って大丈夫なのかしら? 背伸びして転んだら、目も当てられないわよぉ。論理的に。」
「いやだから、いや、だからね?システムを導入して効率化を……」
「はいはい。機械のことは分かりませんから。できる自慢しないでくださいよ。庶民感覚身につけたほうがいいすよ?」
オノデラは遮った。
「んまあ、無理すると体に毒よぉ。社長はまだお若いからいいでしょうけど、私たちは、ねぇ……」
喜びがない。
希望がない。
そこにあるのは、強烈な「拒絶」と「足の引っ張り」だった。
ナラは、帳簿をつける手を止め、その光景を冷ややかに見ていた。
奴隷の、幸福。
彼らは、会社が良くなることを望んでいない。
会社が成長し、忙しくなり、自分たちに「能力」や「変化」が求められることを、死ぬほど恐れているのだ。
今のまま、ぬるま湯に浸かり、沈みゆく泥船の中で「社長が無能だから仕方ない」と愚痴を言っている状態が、彼らにとって一番心地よいのだ。
成功して忙しくなるより、失敗して「ほら見たことか」と社長を嘲笑う材料が増えることを、無意識に望んでいる。
「……分かった。負担はかけないように調整するよ」
ケイスケの笑顔が、引きつりながら消えていく。
彼はまた、一人で背負い込んだ。
その翌日から、奇妙な「事故」が相次いだ。
「……ない」
ケイスケが、青ざめた顔で書類棚を漁っている。
ゴウダ建設に提出するための、最終見積書がないのだ。
昨日、確かにサヤマに渡して、ファイリングを頼んだはずだった。
「サヤマ君! あの書類、どこにやったんだ!?」
「えぇ? ……あー。棚に入れましたすけど」
サヤマは、あくびを噛み殺しながら答えた。
「ないんだよ! ……本当にしまったのか?」
「しまいましたよ。……つか、社長なくしたんじゃないすか? 最近、焦ってるしさ」
サヤマは、ヘラヘラと笑った。
そこには「申し訳ない」という感情が欠落していた。
「俺は知らない」「俺のせいじゃない」。その鉄壁の自己防衛。
ナラは、無言で席を立った。
そして、ゴミ箱の方へ歩いていった。
雑誌の下に、クシャクシャになった羊皮紙が紛れ込んでいるのを見つけた。
「……これですわね」
ナラは、汚れた見積書を拾い上げた。
故意に捨てたのではないだろう。
ただ、整理するのが面倒で、適当に雑誌と一緒に積み重ね、そのまま滑り落ちたのに気づきもしなかったのだ。
「無関心」という名の、消極的な悪意。
ナラは、サヤマのデスクに書類を叩きつけた。
「……ゴミ箱にありましたわよ」
「あー、ありました?ま、よかったすね」
サヤマは悪びれもしない。
「……謝罪は?」
ナラが低い声で問うと、サヤマは不快そうに顔をしかめた。
「なんで僕が?わざとじゃないし。……それに、そんな大事な書類なら、社長が自分で管理すればいいじゃないですか。管理しようと頑張ろうと思ってたんだから僕、無罪じゃないすか?つかバイト風情が偉そうにさあ?」
「……」
ナラの手が、鉄扇に伸びかけた。
「頑張ろう」と頭の中で思い描いたら、「頑張った」ことと同義なのか。
こいつの指を一本ずつへし折って、「管理不足でした」と言わせてやりたい。
だが、ナラは堪えた。
ここで暴力を振るえば、彼は「被害者」になる。
「パワハラだ」「暴力会社だ」と騒ぎ立て、自分のミスを正当化する材料を与えるだけだ。
(……腐ってますわ)
ナラは、ギリギリと歯噛みした。
悪党なら倒せる。敵なら戦える。
だが、この「話の通じないスポンジ」のような相手には、打撃が通らない。
さらに、追い打ちがかかる。
その日の午後、労働基準監督署から電話が入ったのだ。
『タカムラ商会ですね? ……「社員に休憩を取らせていない」「サービス残業を強要している」という通報がありまして……。近々、調査に入ります』
「な、なんですって!?」
ケイスケが受話器を取り落とす。
事実は全くの潔白だ。この会社は「暇すぎて」、定時退社が基本だ。
休憩時間には、お茶を飲みながら一時間も無駄話をしている。
「……誰が、そんな通報を」
ナラは、視線を走らせた。
給湯室で、オノデラが満足げにお茶を啜っていた。
「あらぁ、社長。顔色、悪いわよぉ? ……やっぱり、無理な経営拡大なんてするから、バチが当たったんじゃない?」
彼女だ。
彼女の「正義感」だ。
彼女は、会社を良くしたいわけでも、仲間を守りたいわけでもない。
「弱い立場の労働者を守るために、権力を使って正義を執行した自分」に酔いたいだけなのだ。
その結果、調査対応で業務が停滞し、大事な契約が飛ぶことになろうとも、彼女の知ったことではない。
むしろ、「やっぱりウチの会社はブラックだった」という「物語」が補強され、彼女は悲劇のヒロインとしてさらに気持ちよくなれる。
「……なんで…」
ナラは吐き気を覚えた。
スラムの悪党の方が、まだマシだ。
彼らには「金を奪う」「生き残る」という明確な目的がある。
だが、こいつらには目的がない。
ただ、退屈しのぎに、自分たちの乗っている船の底に穴を開けているだけだ。
その夜。
残業していたナラとケイスケの耳に、倉庫の方から物音が聞こえた。
ガシャン、という何かが割れる音。
「……泥棒?」
ケイスケが震え上がる。
「下がっていてください。……あたしが見てきます」
ナラは、鉄扇を持って倉庫へ向かった。
ケイスケもおっかなびっくりついてくる。
倉庫の裏口がこじ開けられていた。
中には、数人の男たちが侵入し、高価な魔導触媒を袋に詰めているところだった。
リーダー格の男が振り返った。
「運が悪いな、社長さんよ。……見なかったことにして帰れば、命だけは助けてやるぜ?」
リーダーがナイフを取り出す。
明らかな殺意。暴力の匂い。
ケイスケは「ひっ」と悲鳴を上げ、腰を抜かした。
だが。
ナラは、深く息を吸い込み、そして――笑った。
「……ふふ。……そうでなくちゃ!」
「『そうでなくちゃ』だと?頭、おかしいのか?」
リーダーが怪訝な顔をする。
ナラは、ドレスの裾をまくり、鉄扇を開いた。
「金が欲しいから盗む。邪魔だから殺す。……理にかなっていますわ……『目的』が明確で、最高ですわ」
ナラは、心底嬉しそうだった。
昼間の、あの粘着質で、陰湿で、のらりくらりとした「社員たち」との、『目的』のないやり取り。
それに比べれば、この男たちの殺意は、なんと真っ直ぐで、清潔なことか。
「社員たちに比べれば……。あんたたち泥棒の悪意は、花の香りのようですわよ!」
ナラは地を蹴った。
「死ねぇッ!」
リーダーがナイフを突き出す。
ナラは、紙一重でそれを躱した。
肌を刺す風圧。命のやり取り。
血が滾る。
「ごめんあそばせッ!」
ナラは、リーダーの腕を鉄扇で打ち据え、ナイフを弾き飛ばした。
そのまま懐に入り込み、強烈な掌底を顎に叩き込む。
他の手下たちが鉄パイプで襲いかかる。
ナラは舞った。
優雅に、そして残酷に。
「一流のレディは……!退屈しのぎの暴力には容赦しませんのよ!」
数分後。
半グレたちは全員、倉庫の床に伸びていた。
「……くっ、そ……。覚えてろよ……!」
リーダー格の男が、這いずりながら逃げていく。
負け惜しみ。だが、そこには「負けた」という事実を認める潔さがあった。
「……ふぅ」
ナラは、乱れた髪をかき上げた。
汗をかいた。少しスッキリした。
「……大丈夫ですか、社長?」
ナラが振り返ると、ケイスケは資材の陰で震えていた。
だが、その表情は、昼間の絶望的な顔とは違っていた。
「あ、ああ……。ありがとう、ナラ君」
ケイスケは、立ち上がろうとして、よろめいた。
「……変だな」
彼は、自分の手の震えを見つめて言った。
「ナイフを突きつけられたのに……。殺されかけたのに……」
ケイスケは、事務所の方を――サヤマやオノデラのいる場所を振り返った。
「社内にいる時よりも……今の方が、息がしやすい気がするんだ」
ナラは、ケイスケに手を貸した。
「ええ。分かりますわ」
ナラは、暗い倉庫の天井を見上げた。
「強盗には、『文脈』がありますもの」
「金を稼いで、美味いものを食って、いい女を抱きたい」という、単純で力強い欲望の物語が。
だが、あの事務所にはない。
そこにあるのは、真空だ。
「……社長」
ナラは、真剣な目でケイスケを見た。
「契約の日まで、あと少しですわ。……お覚悟を決めてくださいまし」
「お覚悟?」
「ええ。……外の敵である強盗は追い払えます。でも、中の敵である無能な味方は……あなた自身が切り捨てない限り、一緒に沈むしか、ありませんのよ」
ケイスケは、黙り込んだ。
彼には、優しすぎた。
父から受け継いだ会社、古参の社員、彼らの生活。
それらを切り捨てる非情さが、彼にはなかった。
「……僕は、信じたいんだ」
ケイスケは、弱々しく笑った。
「会社が危機になれば……彼らも変わってくれるかと」
ナラは、何も言えなかった。
それは、破滅へ向かうという名の「甘え」だからだ。




