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第2話:酒と女と宗教と(2)

乾いた音が響いた。

それは、肉が硬い物体によって損なわれる、不快な音だった。

ステージの上、医師ライオネルの額から鮮血が滴り落ちる。投げつけられたのは、河原に落ちているような角張った石だ。

投げたのは、最前列にいた中年の男だった。彼はライオネルが血を流すのを見て、一瞬怯んだような顔をしたが、周囲の「よくやった!」「正義の鉄槌だ!」という歓声を浴びると、途端に英雄気取りで胸を張った。


「見ろ! 悪が血を流したぞ! 我々の祈りが、神聖な怒りが届いたんだ!」


その光景を、ナラティブ・ヴェリタスは鉄扇で口元を隠しながら、冷めきった目で見つめていた。


(……反吐が出るわね)


ナラは基本的に、美しくないものが嫌いだ。

ここで言う「美しさ」とは、造形の話ではない。生き様の話だ。

自分の足で立ち、自分の手で掴み取る。それがナラの、そして彼女が崇拝する母エラーラの美学である。

だが、目の前の群衆は違う。彼らは「自分では何も掴み取らないこと」を誇っている。


「痛いだろう!ヤブ医者!……痛いだろう!」


マイクを握るベリアルが、ライオネルの傷口を指差して笑う。


「だがな、その痛みこそが『傲慢の代償』だ! 貴様は、神に選ばれしカグヤ様の『祈り』よりも、自分が調合した『薬』の方が優れているとでも思ったか? 汗水垂らして、泥にまみれて、必死に実験を繰り返す?……汚らわしい!」


ベリアルは演劇俳優のように両手を広げ、群衆に陰謀論を問いかける。


「諸君!我々は選ばれた『弱者』だ。弱者には、守られる権利がある!」


熱狂の渦。

ナラは、こめかみを指で押さえた。二日酔いの頭痛が悪化しそうだ。

この宗教の根本にあるのは、「努力へのコンプレックス」と「承認欲求のねじれ」だ。

自分の人生がうまくいかないことを、社会や他人のせいにしたい。努力して失敗して傷つきたくない。だから、「努力しないこと」を正当化してくれる物語(アイドル)であるカグヤを崇め、そのアイドルを守るという名目で、努力している人間を攻撃する。

そうすることで、彼らは安全圏にいながらにして「自分は正義の戦士だ」という全能感に浸れるのだ。


「……あー、もう。理屈っぽいのは嫌いよ」


ナラは小さく呟くと、カツカツとヒールを鳴らして前へ進んだ。

群衆をかき分ける。ドレスから漂う高級な香水と、隠しきれない酒の臭いが混ざり合い、周囲の男たちが顔をしかめて道を空けた。 


「お待ちなさい」


ナラの声は、喧騒の中でもよく通った。

彼女はステージの階段に足をかけ、ライオネルの前に立ちはだかった。

バサリ。黒のドレススーツの裾が翻る。

鉄扇を開き、飛んできた石を二つ、三つと叩き落とす。カカン、カカン、と軽快な音がした。


「……な、なんだ貴様は!」


石を投げていた男が叫ぶ。

ナラは男を一瞥もしない。ただ、後ろで縛られているライオネルに肩越しに声をかけた。


「生きてる? 眼鏡のおじ様」


「……き、君は……逃げろ、殺されるぞ……」


ライオネルは息も絶え絶えだった。だが、その手は――泥と薬品で変色し、無数の切り傷があるその手は――まだ何かを掴もうとするように握りしめられていた。


(いい手をしてるじゃない)


ナラはふふっと笑う。


「安心して。あたし、年上の殿方には優しいの。特に、働き者の手をした人にはね」


ナラは向き直り、鉄扇をベリアルに向けた。


「そこまでになさい、詐欺師さんたち。さっさとそのおじ様を解放しなさい!」


一瞬の静寂。

そして、爆発的な罵声がナラを襲った。


「なんだその女は!」


「カグヤ様を侮辱したぞ!」


「暴力反対!」


群衆がじりじりと包囲網を狭めてくる。

彼らの手には、石や棒切れ。だが、誰も先陣を切ろうとはしない。誰かが手を出した瞬間に、全員で袋叩きにするタイミングを伺っているのだ。

ハイエナのような、卑屈な殺意。


「暴力反対? 石を投げてる連中がよく言うわ」


ナラは呆れて肩をすくめる。


「いい? よくお聞きなさい。あんたたちが投げてるのは石じゃないわ。自分の『恥』よ。自分じゃ何もできない、戦えない、だから誰かの威光を借りて暴れているだけ!」


その言葉は、彼らの逆鱗に触れた。

一人の男が、興奮して飛びかかってきた。手には錆びたナイフ。

ナラは欠伸を噛み殺しながら、半歩だけ体をずらす。

男の刃が空を切る。ナラはすれ違いざまに、鉄扇の親骨で男の手首を強打した。

ナイフが落ちる。続けて、ナラは流れるような動作で男の顎を鉄扇でかち上げた。

ゴッ、という鈍い音と共に、男が仰向けにひっくり返る。

鮮やかな制圧だった。本来なら、その実力差を見て怯むはずだ。

だが、この群衆は違った。

倒れた男が、大げさに泣き叫んだのだ。


「い、痛いぃぃぃ! 腕が折れたぁぁ! 助けてくれぇぇ! この女、凶器を持ってるぞぉぉ!」


まるで火がついたように、周囲の群衆も呼応する。


「弱い者いじめだ!」


「カグヤ様、ご覧ください!これが野蛮な暴力です!」


「我々は、話し合いで解決しようとしたのに!」


ナラは目を丸くした。


(……はあ? ナイフ持ってたじゃない)


だが、現実は捻じ曲げられる。

「可哀想な被害者」と「凶暴な加害者」。

その構図が、瞬く間に共有される。彼らにとって、事実などどうでもいい。ナラが「反撃した」という事実だけが切り取られ、彼らの被害者意識を肥大化させる燃料となる。


「『みんな』でカグヤ様を『守る』んだ!」


先ほどまでバラバラだった群衆が、「正義」という名の熱狂で一つになる。

数百人の殺意が、物理的な圧力となってナラに押し寄せる。

それは、武術の達人と戦うよりも遥かに厄介で、不快なプレッシャーだった。


「……チッ。面倒くさいわねぇ」


ナラは舌打ちをした。

これ以上やれば、本当にライオネルを巻き込んでしまう。それに、この数の暴徒を相手に、ライオネルを守りながら戦うのは骨が折れる。

ナラはとっさにライオネルの縄を鉄扇のカッターで切断すると、彼の襟首を掴んだ。


「おじ様、ちょっと揺れるわよ!」


「え、ええっ!?」


ナラはライオネルを引きずりながら、群衆の隙間――唯一手薄だったステージの袖へと強行突破を図った。


「逃がすな!」


「追え!」


怒号を背に、ナラはステージ裏の暗がりへと滑り込む。

ステージ裏は、表の熱狂が嘘のように静まり返っていた。

資材置き場の陰にライオネルを隠し、ナラは息を潜める。

心臓が早鐘を打っているのは、恐怖からではない。単にアルコールが切れてきたからだ。


(あー、飲みたい。今すぐビールでもワインでもいいから、瓶ごとラッパ飲みしたい)


そんなことを考えていると、幕の向こうから話し声が聞こえてきた。


「……あー、疲れた。ねえベリアル、目薬ちょうだい。泣きすぎて目がショボショボする」


先ほどまで聖女の如く泣いていた、カグヤの声だ。その口調は、スレた酒場の女給のように粗雑だった。


「ほらよ。……しかし、今日も大漁だな。あいつら、俺が適当な陰謀めいたことを言うたびに財布の紐が緩むんだから、笑いが止まらねえ」


ベリアルの、底意地の悪い笑い声。

ナラは隙間から覗き見る。

そこには、ふんぞり返って煙草を吸うベリアルと、札束の詰まった麻袋をクッションにして寝そべるカグヤの姿があった。


「本当、気持ち悪い連中よねぇ」


カグヤがケラケラと笑う。


「自分たちが弱者であることを棚に上げてさ。自らの人生を良くしようともしないで、『カグヤ様は僕が守る!』だなんて。私が本当は弱者じゃないとも知らずに」


「だが、こいつらが貢いでくれるおかげで、俺たちは本物の強者になれる」


ベリアルが煙を吐き出す。


「奴らの心理はこうだ。『何も持っていない自分』が『弱いカグヤ様』に金を払うことで、一時的にカグヤ様と対等な……いや、カグヤ様を支える『強者』になった気になれる。宗教であり、買春だよ、これは。」


「あはは!しかも、貢いだ後に、私ではなくて、あいつら同士で『貢ぎ』を自慢しあい、競争しあい、他者に広める!……まあ、その弱者の理屈のおかげで、私のドレスは増えるからいいけども」


ナラの中で、怒りの温度が変わった。

瞬間湯沸かし器のような激情ではない。もっと冷たく、鋭利で、絶対に折れない鋼のような殺意へと変質した。


(……なるほどね?)


ナラは理解した。

これは単なる宗教詐欺ではない。

「自分では戦わない者たち」が、金と数という「他力」を使って、「自分で戦う者」を嘲笑うシステム。

そして、そのシステムの頂点にいる二人は、信者たちを徹底的に見下しながら、そのシステムを回し続けている。

共犯関係。

カグヤという「虚構の物語」と、ベリアルという「虚構の語り部」。

片方だけでは成立しない。

カグヤだけなら、ただのワガママな子供。ベリアルだけなら、ただの詐欺師。

二人が互いを「本物だ」と保証し合うことで、そこに偽りの権威が生まれ、弱者たちが群がる「最強の幻想」が完成する。

医師からの言葉という一次情報ではなく、感想(デマ)という二次情報を根拠にした詐欺師は、この場において、医師よりも強いのだ。

陰謀論者と、宗教信者と、売女や娼年といった下町の「アイドル」に群がる者たちの思考は、あまりにも、似ていた。


「……お母様なら、どうするかしら」


ナラはふと、愛する義母、エラーラの顔を思い浮かべた。

世界最強の魔法使いにして、知識の探究者。

彼女なら、きっと論理的にこの構造を解析し、魔法一つで灰にするだろう。


「でも、あたしは違う」


ナラは鉄扇を強く握りしめた。

あたしは魔法なんて使えない。賢くもない。

あるのは、この体と、少しばかりの意地と、そして――


「物語には、物語で対抗するしかないのよ」


ナラはライオネルに向き直った。


「おじ様。ここでじっとしてて。あとで美味しいお酒を奢ってあげるから」


「酒なんかいらないよ!……いや、どこへ行くつもりだ?」


「決まってるじゃない」


ナラはニヤリと笑った。それは、獲物を前にした肉食獣の、凶暴で美しい笑みだった。


「『正義の味方』の出番よ。……ああ、その前に一杯引っ掛けないと調子が出ないわね」


・・・・・・・・・・


時刻は夜。

場所は、街一番の高級ホテル、その最上階にある大ホール。

今夜、ここではカグヤたちが主催する大規模な「救済パーティ」が開かれていた。

「救済」とは名ばかりの、信者たちからの搾取の集大成だ。

会場には、カグヤに貢ぐために家を売り、借金をし、全財産を投げ打った信者たちが詰めかけている。その数、優に100人を超える。

シャンデリアが輝く煌びやかな会場で、信者たちは粗末な服を着て、床に座り込んでいた。彼らには水しか与えられていない。

対して、ステージ上のカグヤとベリアル、そして幹部たちは、豪華なフルコースに舌鼓を打っている。


「おお、カグヤ様が肉を召し上がっている……」


「尊い……僕の売った家の金が、あの肉になったんだ……」


「僕たちはカグヤ様の一部になれたんだ……」


飢餓状態と集団催眠で、会場の空気は異様だった。誰もその格差に疑問を抱かない。むしろ、カグヤが贅沢をすればするほど、自分たちの信仰が証明されると信じ込んでいる。


そこへ。

轟音と共に、ホテルの巨大な両開きの扉が蹴り破られた。

木片が飛び散り、硝子が砕け散る。

静まり返る会場。

土煙の中から、一人の女が姿を現した。

ボロボロになったドレスの裾を切り裂き、動きやすいミニスカート状にアレンジした黒衣の美女。

片手には鉄扇。もう片手には、どこからか調達した、半分空になったウィスキーのボトル。

ナラティブ・ヴェリタスだ。


「ごめんあそばせぇ~!」


ナラは、ウィスキーをラッパ飲みし、手の甲で口元を拭った。その足取りは千鳥足だが、瞳の輝きは異様なほどに鋭い。


「な、なんだ貴様は! ここが神聖な救済の場と知っての狼藉か!」


幹部の一人が叫ぶ。

ナラは、ふらふらと会場の中央へ歩み出した。


「神聖? 笑わせないでよ。ここは豚小屋でしょう? 自分の人生を放棄した、哀れな豚さんたちの晩餐会」


その言葉に、信者たちの目が一斉に吊り上がった。


「豚だと!?」


「我々は選ばれた民だ!」


「帰れ! 野蛮人!」


「殺せ!」


殺気が膨れ上がる。

100人、対、1人。

しかも、相手は「自分たちは弱者だから何をしても許される」と信じ込んでいる狂信者たちだ。

普通なら、絶望的な状況だ。

だが、ナラは鉄扇をパチンと開き、艶然と微笑んだ。

酔いが回って、世界がグルグルと回る。だが、その酩酊こそがナラの燃料だった。

理性が飛び、本能が剥き出しになる。


「いいわよ。かかってらっしゃい。数だけの雑魚が、質(主役)に勝てると思って?」


ナラは鉄扇を構えた。

その姿は、芝居がかっていて、そして最高に「画」になっていた。


「これから、本当の『物語』を見せてあげるわ! 覚悟なさい、あんたたちのその腐った幻想、物理で粉砕してあげるから!」


信者たちが一斉に立ち上がる。

ナイフを抜く者、椅子を振り上げる者、ただ叫びながら突進してくる者。


「カグヤ様のためにぃぃぃ!!」


最初の男が、日本刀のような刃物を振りかざしてナラに肉薄した。

速い。素人ではない。元傭兵か何かだろう。

だが、ナラは動じない。

刃先が鼻先をかすめる寸前、ナラは鉄扇を横に薙いだ。

金属音が響き、男の刀が弾かれる。

返す刀で、ナラは鉄扇の先端を男の鳩尾に突き入れた。

男が泡を吹いて倒れる。

それを見た十数人が、悲鳴を上げて後ずさる。


「囲め! 囲んで叩け!」


「あー。うるさいうるさい……」


ナラは近くのテーブルにあったワインボトルをひったくり、中身を一気に煽った。

赤ワインが口端から滴り、白い肌を赤く染める。まるで返り血のように。


「さあ、パーティの始まりよ! 踊りましょう!」


ナラが跳んだ。

ドレスを翻し、重力を無視したような跳躍で信者たちの頭上を舞う。

鉄扇が閃き、蹴りが唸る。

「最強の弱者」と「自称探偵」の、戦いの幕が上がった。

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