第1話:尻尾吸い探偵と宗教(1)
王都の喧騒から遠く離れた、国境沿いの吹き溜まりのような街。
その路地裏に、今にも崩れそうな看板を掲げる酒場がある。
昼下がりだというのに、店内の空気は夜の澱みを含んでいた。紫煙、そして安酒特有のツンとするアルコール臭。
その店の特等席――カウンターの一番奥、薄暗い陰に沈む席で、場違いなほどに上等な黒衣の女が、グラスを弄んでいた。
「……マスター。氷が溶けたわ。この世の真実みたいに、跡形…も、なく…ね」
女の名は、ナラティブ・ヴェリタス。
透き通るような白磁の肌は、今はアルコールの熱でほんのりと桜色に染まっている。濡れた烏の羽のような黒髪は乱れ、数本が汗ばんだ首筋に張り付いていた。
彼女が纏うのは、仕立ての良い黒のドレススーツだ。だが、その着こなしは「乱れ」の一言に尽きる。
暑さと酔いのためか、胸元のボタンは鳩尾のあたりまで大胆に外され、豊満な胸の谷間が薄暗い店内で白く妖しく光っている。スカートのスリットからは、組まれた脚の、黒い網タイツに包まれた太腿が露わになり、彼女が足を組み替えるたびに、衣擦れの音がカウンターに響いた。
それは、頽廃的で、どうしようもなく暴力的な色気だった。
「……お客さん?もう、ボトル四本目だぜ? 金は持ってるんだろうな」
マスターが布巾でグラスを拭きながら、呆れたように声をかける。
ナラは、とろんとした粘り気のある赤い瞳でマスターを見上げ、艶然と微笑んだ。
「失敬な。あたしを……あたしを、誰だと思っているの? ……ええと、誰だったかしら?そう、愛を追う……狩人よ。……ハンター?」
「ただの酔っ払いじゃねえか」
「ふふっ……そうね。今はただの、傷心の女、女探偵、ユリカ」
「ユリカ?ナラティブじゃねえのか」
ナラはグラスに残った琥珀色の液体を一気に煽った。喉を焼く熱さが、脳裏にこびりついた「あの子」の記憶を呼び覚ます。
ことの発端は、三日前の王都。行きつけのバーでの出来事だった。
ナラは基本的に、義母であるエラーラ・ヴェリタス以外の女性には靡かない。
エラーラこそが至高。エラーラこそが絶対。知性、美貌、そしてあの冷ややかな視線。どれをとってもエラーラに勝る女など、この地上に存在しないと確信しているからだ。
だから、どれほど美女に言い寄られようと、ナラは「残念ね、あたしのママの方が素敵よ」と鼻で笑ってあしらうのが常だった。
――酒が入っていなければ、の話だが。
『お姉さん、隣……いいですか?』
その声は、甘いシロップのようにナラの鼓膜を震わせた。
ふと横を見ると、そこには極上の獲物――いや、可憐な少女が座っていた。
アヤカ。そう名乗った彼女は、狐の獣人だった。
ふわふわとした黄金色の毛並みを持つ大きな耳。そして何より背後でゆらゆらと揺れる、ボリュームのある、極太の尻尾。
潤んだ瞳が、上目遣いにナラを見つめていた。
(……可愛い。悔しいけど、造形としては満点に近いわ)
当時のナラは、すでにスコッチを一本空けており、理性の箍が外れかけていた。
ナラは頬杖をつき、気取った仕草でアヤカを見た。心の中のエラーラ像が一瞬よぎるが、目の前の「モ・フ・モ・フ」という現実の破壊力に霞んでいく。
『一人で飲んでるんですか? なんだか……とっても寂しそうな、でも、いい匂いがします』
アヤカは、ナラの耳元に顔を寄せ、くんくん、と鼻を鳴らした。
吐息が首筋にかかる。ナラの背筋にゾクゾクとした電流が走る。
「寂しい……?フッ、馬鹿言わないで。これは『孤独』という名の、大人の香水よ」
『素敵……。私、そういう、重荷を背負った人が……好き、なんです……』
アヤカの手が、テーブルの下でナラの太腿に触れた。
指先が這う感触。ナラは息を呑んだ。
これは、誘われている。誰がどう見ても、大人の火遊びへの招待状だ。
『知ってるんです。私。本当は……辛いんでしょう? 強がって、一人で戦って……。そんな生き様は……もう、止めにしませんか?』
アヤカの言葉は、巧みだった。
ナラの天才探偵(お母様の助手)としての自尊心をくすぐりつつ、同時に心の隙間に入り込んでくる。
『私と一緒に……もっと「楽」になりましょう? 何も考えなくていい、全てを……委ねて、気持ちよくなるだけの場所へ……行きませんか?』
ナラの脳内は、もちろん、ピンク色の妄想で埋め尽くされた。
「楽になる」「気持ちよくなる」「全てを委ねる」。
この三段活用が意味するものは一つしかない。
(……お母様、ごめんなさい。今夜だけ、あたしは悪い娘になります)
ナラは心の中でエラーラに土下座しつつ、表面上は余裕たっぷりにアヤカの顎を指先で持ち上げて、できる限りの鋭い眼光で遠い目をして、出せる限りの低い声で、ゆっくりと、口を開いた。
「──いいわよ、子猫ちゃん。──いや、子狐ちゃん。──あんたが望むなら──あんたの『物語』──に……付き合おうじゃないの──!」
『嬉しい! じゃあ契約書にサイン……じゃなくて、どこか「休めるところ」にいきませんか!』
「──ああ…!サインでも、あんたが『望むところ』に──キスでもなんでもしてあげるわよ──!」
ナラは、アヤカの揺れる極太の尻尾と、胸元の谷間に視線が釘付けだった。
そして、二人で魔導タクシーに乗り込み、熱い夜を期待して、揺られた。
到着したのは、高級ホテル……ではなかった。
この、砂埃舞う国境の街。
そして「楽しいこと」の正体とは、新興宗教『カグヤ教』への入信と、強制労働奉仕だったのだ。
「……詐欺よ。完全なる詐欺。私の純情を返してほしいわ」
ナラはカウンターに突っ伏し、うわ言のように呟いた。
ドレスの背中が大きく開き、滑らかな肩甲骨が露わになる。
「契約書には『全財産の寄付』と『心身の奉仕』って書いてあったそうじゃねえか。読まなかったあんたが悪いよ」
「だって! あの子の尻尾が!尻尾がこっちを見てたのよ!?太いのよ?尻尾が。尻尾が太すぎたのよ?」
ナラはバンとカウンターを叩いた。
「それにね、あの子の手口……今思えば巧妙だったわ。決して『宗教に入ろう』とは最後まで言わなかった。『弱いままでいい』『頑張らなくていい』って、耳元で甘く囁くだけ。……あたし、てっきり尻尾でくすぐられるのかと……」
「あんた、尻尾で頭ん中、くすぐられすぎだろう……」
マスターが新しいボトルをドンと置く。
ナラはそれを愛おしそうに抱きしめ、またグラスに注いだ。
「ああ……お母様……。あたしはどうしてこうなのかしら……」
ナラはグラス越しに、店内の歪んだ景色を見つめる。
本来なら、こんな街すぐにでも出ていくべきだ。
だが、あの獣人の少女、アヤカの感触が、まだ手に残っている。
騙されたという怒りよりも、「もしかしたら、いや、だめならいいけど、でもまだ『尻尾』をしてくれたりするんじゃないか」という、どうしようもないスケベ心が、ナラの足をこの街に留めていた。
「ねえ、マスター?」
ナラはとろりとした声で呼びかける。
汗ばんだ黒髪をかき上げ、上気した顔で流し目を送る。その姿は、国を傾ける悪女のようであり、同時に捨てられた子犬のようでもあった。
「この街に、可愛い尻尾はいる? もちろん、宗教勧誘しない尻尾で」
「いるわけねえだろ。ここにあるのは、砂と、絶望と、あんたみたいな訳アリの酔っ払いだけだ」
「ふふっ……最高ね。お似合いの舞台だわ」
ナラはグラスを揺らす。
氷がカランと音を立てた。
ナラがテーブルに突っ伏して泣き言を漏らしていると、外の通りがにわかに騒がしくなってきた。
酒場の窓ガラスがビリビリと震えるほどの、熱狂的な歓声と、罵声。
それは祭りの賑やかさというよりは、もっと粘着質で、昏い熱を帯びた何かの気配だった。
「始まったか……」
マスターが布巾でグラスを拭きながら、忌々しそうに外を見た。
「ああ?始まった?何がよ!」
ナラは気だるげに顔を上げ、鉄扇を弄びながら尋ねる。
「『公開処刑』さ。最近、この街を牛耳ってる連中がやってる見世物だよ」
「処刑……? 野蛮ねぇ。王都じゃ流行らないわよ、そんなの前時代的で」
「ただの処刑じゃねえ。……まあ、見ない方がいい。胸糞が悪くなるだけだ」
見ない方がいいと言われれば、見たくなるのが探偵の、いや、野次馬の性分だ。
それに、このまま酒を飲んでいても、アヤカに騙された惨めな記憶がリフレインするだけである。
ナラはふらつく足取りで立ち上がると、ドレスの裾を翻し、酒場の扉を押し開けた。
強烈な日差しに、ナラは目を細める。
広場は、黒山の人だかりだった。
街の住人たちが、熱に浮かれたような目でステージを見上げている。その数、数百人は下らないだろう。彼らの視線の先、粗末な木で組まれた断頭台のようなステージの上に、一人の男が縛り上げられていた。
男の名はライオネル。
白衣は泥と血で汚れ、眼鏡は割れ、顔は殴打の痕で腫れ上がっているが、その瞳だけはまだ理性の光を失っていなかった。
彼は、この辺境で唯一の医師だった。
疫病が蔓延するこの地域で、自らの危険を顧みず、寝る間を惜しんで特効薬の開発に尽力してきた、聖人のような男だ。
だが今、彼に向けられているのは、感謝の言葉ではない。
「野蛮人め!」
「下がれ! 神への冒涜者!」
「汗臭いんだよ、偽善者が!」
罵声を浴びせているのは、薄汚れた服を着た市民たちだ。昨日まで、ライオネルに診察してもらっていた者もいるだろう。
だが彼らの目は、正義の執行者気取りで、残酷な喜悦に歪んでいた。
「……酔いが、覚めるじゃない……」




