第4話:「 」
王都の地下深くに広がる、古代下水道。
そこは、都市の排泄物が流れ着く場所であり、同時に「世界の裏側」が露出しやすい淀みでもあった。
湿った空気には、カビと錆、そして焦げたような電子の臭いが混じっている。
「……なんなのよ、これ」
ナラは、足元に広がる光景に言葉を失った。
いつものドブ川ではない。
足元の水面が、黒いノイズに置き換わっている。壁のシミが、バーコードのように明滅している。
世界が、テクスチャを貼り忘れたように欠落していた。
「あはは! すごいねナラちゃん! 世界がバグってるよ!」
隣で、グリッチ・ヴェリタスが笑った。
ピンク色の魔法少女姿。その笑顔はいつも通り無邪気だが、彼女の輪郭線は不安定に揺らいでいた。
「笑い事じゃないわよ。……お母様が学会で留守の時に限って」
ナラは鉄扇を構え、警戒する。
前方から、ズルリと何かが這い出してきた。
それは、怪物ではなかった。
『世界修復プログラム』。
不定形の黒い泥。いや、泥に見える「情報の空白」。
この世界における「矛盾」を感知し、削除するために自動生成された抗体。
『エラー検出。削除シマス』
機械的な音声が、脳内に直接響く。
黒い泥が、ナラを無視して、グリッチだけを凝視した。
「……私?」
グリッチが首を傾げる。
「来るわよ! 下がりなさい!」
ナラが前に出る。
泥の触手が、鞭のようにしなる。
ナラは鉄扇で受け流そうとした。
「……え?」
手応えが、なかった。
鉄扇は、黒い泥をすり抜けた。
風を切る音すらしなかった。
「な、何よこれ!?」
ナラは体勢を崩す。
その隙に、泥の触手がグリッチに殺到した。
「えいっ!」
グリッチは、真正面から拳を突き出した。
彼女の拳が、泥に触れた瞬間。
音が消え、グリッチの右腕が「消失」した。
「……あ?」
グリッチは、自分の右肩を見た。
切断されたのではない。
最初からそこには何もなかったかのように、断面からは血の一滴も出ず、ただ緑色の数列がパラパラとこぼれ落ちていた。
「腕……ないよ?……痛くないけど……寒い」
グリッチはキョトンとしていた。
『削除開始』
システムが無慈悲に宣告する。
黒い泥が膨れ上がり、グリッチの全身を包み込もうとする。
「やめなさいッ!!」
ナラは叫び、グリッチの手を掴もうとした。
左手。まだ残っている左手。
ナラの手は、グリッチの手を、すり抜けた。
空気を掴むような虚無感。
「う、嘘……でしょ……?」
ナラは、何度も、掴もうとした。
肩を、腰を、髪を。
何度も。
何度も。
何度も。
だが、ナラの手はグリッチの体を透過し、触れることすらできない。
「グリッチ!?」
「ナラ……ちゃん?」
グリッチが、困ったような顔でナラを見る。
彼女の体は、急速に「質量」を失い、ただの「映像」になりつつあった。
世界が、彼女を「存在しないもの」として処理し始めているのだ。
『解析。内部データ摘出』
黒い泥から、鋭利な「針」のような触手が無数に伸びた。
それらは、触れられないはずのグリッチの体を、容赦なく貫いた。
音はない。
だが、グリッチの口が大きく開かれ、声にならない悲鳴を上げた。
針が、グリッチの腹部を引き裂く。
中から溢れ出したのは、内臓ではない。
色とりどりの「光のフィルム」だった。
彼女がこの世界で見てきた、短い記憶。
ナラと食べたプリン。エラと見た花火。ゴウと遊んだ紙飛行機。ルルと繋いだ手。
彼女の中に蓄積された、わずかながらも確かな「物語」の断片。
『不要。破棄』
システムは、そのフィルムを無造作に引きずり出し、噛み砕いた。
思い出が、ノイズに変わって消えていく。
「やめて……! それは……あの子の……!」
ナラは、泥の怪物に殴りかかった。
何度も、何度も。
だが、拳は、空を、切るだけ。
ナラは、この空間において「部外者」だった。
システムの処理工程に、ナラという変数は組み込まれていない。
ナラは、「当事者」ではない。
彼女は、目の前で行われる処刑を、指一本触れずに見ていることしか許されない、残酷な「傍観者」だった。
「いやだ……!いやだいやだいやだいやだ!嫌ぁぁぁぁっ!」
ナラは、絶叫した。
無力。
スラムで泥水を啜っていた時よりも、遥かに深い無力感。
大切な家族が、目の前で解体されているのに。
抱きしめることも、守ることも、代わりに傷つくことも、できない。
『四肢切断』
グリッチの左腕が消えた。
両足が、太ももから消失した。
ダルマのようになったグリッチが、空中に固定され、串刺しにされる。
『視覚破壊』
鋭利な杭が、グリッチの大きな瞳を貫いた。
ピンク色の瞳が、ガラスのように砕け散る。
彼女の口から、ノイズ混じりの、言葉にならない音が漏れる。
「あ……、……ぁ……」
「誰か……!誰か!誰か助けて!!」
ナラは、虚空に向かって叫んだ。
自分の拳を見つめる。
この手は、今まで何人もの悪党を殴り飛ばし、弱きを助けてきたはずの手だ。
鉄扇を振るい、時間すら超越し、運命すらねじ伏せてきた、誇り高き「一流の手」のはずだ。
なのに。
今、目の前で八つ裂きにされている家族に、触れることさえできない。
「なんでよ……!なんで!なんでなんでなんでなんでなんで!なんで!なんで!触れない!のよッ!!」
ナラは、空中に固定されたグリッチの足元にすがりつこうとした。
だが、腕は虚しく空を切る。
まるで自分が幽霊になったかのような、絶対的な疎外感。
グリッチの血が飛び散るが、それすらもナラの肌をすり抜けていく。
この世界は、ナラという存在に、グリッチを救うことを、認めていないのだ。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、グリッチ!うわあああああああっ!」
ナラは、泥水に顔を突っ込んで謝り続けた。
「あたし、あんたのこと……邪魔だなんて言ってごめんなさい! プリン食べたこと怒ってごめんなさい!ごめんなさい!……助けて!助けてよ!誰か!誰か助けて!ああああああっ!」
後悔が、津波のように押し寄せる。
『ナラちゃん』と懐いてきた笑顔。
『家族だよね』と指切りした小指。
その全てが、今、無機質な「削除」によって永遠に失われようとしている。
「お願い……! あたしの腕を持っていっていいから! 足でも!心臓でもいいから!……返してよぉぉぉッ!」
ナラの絶叫が、地下道に響き渡る。
だが、システムは冷徹に作業を進める。
その時。
「……そこにいたのか!」
地下道の入り口から、救世主の声が響いた。
エラーラ・ヴェリタスだ。
彼女は、『全感覚・魔力知覚』を展開し、脳が焼き切れるほどの負荷を背負って駆けつけた。
そして、見てしまった。
黒い泥に串刺しにされ、中身を食い散らかされているピンク色の残骸を。
そして、その残骸が発している、微弱な、しかし強烈な「信号」を。
『……たす……けて……』
『……おねえ……ちゃん……』
『……たすけて……エラーラお姉ちゃん……!』
エラーラの心臓が、早鐘を打った。
その叫び。その波長。
かつて聞いたことがある。
数年前。エラーラが、実験事故を起こしたあの日。
炎の中で、崩れ落ちる瓦礫の下で、一人の少女が叫んでいた。
『助けて! お姉ちゃん! なんで逃げるの!?』
『痛いよ……! 体が溶ける……!』
エラーラは、思い出した。
あの日、自分が助けられなかった少女のことを。
自分が殺した、妹分のことを。
グリッチは、あの時の少女が、奇跡的に再構成された存在だったのだ。
復讐のために戻ってきたはずの彼女は、しかし、大好きなエラーラとナラたちとの暮らしの中で、もう一度「家族」になることを夢見てしまった。
そして今。
彼女は、二度目の死を迎えようとしている。
またしても、エラーラの手の届かない場所で。
「あ!……ああ!……あぁぁぁぁ!……」
エラーラは、膝から崩れ落ちた。
科学者の理性など、瞬時に消し飛んだ。
あるのは、取り返しのつかない罪悪感と、身を引き裂かれるような喪失感だけ。
「すまない……!すまない……!私が、私が君を殺したんだ……!」
エラーラは、地面に頭を打ち付けた。
額から血が流れるが、痛みなど感じない。
あの子が味わっている痛みに比べれば、こんなもの、痛みですらない。
「私が……あの日、手を離さなければ……! 君を見捨てなければ……!」
エラーラは、死体のように泥の中に突っ伏し、手を伸ばした。
届かない。
あの時も、今も。
私は「最強の魔法使い」と呼ばれながら、たった一人の妹分さえ救えない、無能な姉貴分だ。
ナラは、グリッチの名を、呼んだ。
叫んだ。
吠えた。
エラーラの魔力知覚が最大になっていた影響で、ナラにも、すべてが「視えて」しまったのだ。
グリッチの中にあった物語が。
空っぽだと言っていた彼女の中に、どれほどの「愛されたい」という願いが詰まっていたかが。
あの子は、バグなんかじゃなかった。
【物語】は、あったのだ。
グリッチは、誰よりも人間らしく、誰よりも寂しがり屋の、ただの女の子だった。
あたしたちが──救えなかった家族。
「……うぅ……あぁぁぁぁぁ……!」
ナラは、エラーラの背中にしがみつき、獣のように慟哭した!
「ぅあああぁ……ぁ……い…いかないで………!」
ナラの爪が、エラーラの白衣を引き裂き、背中に食い込む。
二人で、泥まみれになって、血まみれになって、泣き続けた。
プライドも、知性も、何もかもかなぐり捨てて、
ただ、届かない謝罪を叫び続けた。
『データ摘出完了。完全消去』
システムが無慈悲に告げる。
「ぃ…やめろおおおおおォォォッ!!」
「グリッチぃぃぃぃッ!!」
二人の絶叫が重なる。
テレビの電源を切るような、乾いた音がした。
グリッチの頭部が、掻き消えるように消失した。
黒い泥が、残った胴体を飲み込み、シュルシュルと収縮していく。
静寂。
何も、残らなかった。
血の一滴も。リボンの一つも。
「また会えたね」という、約束も。
彼女が存在したという痕跡そのものが、世界からきれいに拭き取られた。
エラーラとナラは、互いに抱き合ったまま、動けなかった。
魂の半分をもぎ取られたような虚無。
二人の心には、一生消えない、巨大な空洞が穿たれた。
……はずだった。
世界が、微かに揺れた。
修正プログラムが完了したのだ。
「バグ」が削除され、世界は「正常」な状態へと再構築される。
ナラの涙が、頬の途中で止まった。
エラーラの血の涙が、乾いた。
二人は、顔を上げた。
その瞳から、「グリッチ」という存在に関する全ての記憶と感情が、急速に色褪せ……
消去された。
「……」
ナラは、キョトンとした顔で周囲を見回した。
薄暗い下水道。
自分は、エラーラと一緒に床に座り込んでいる。
何をしているんだろう?
「……お母様?なんであたしたち、こんなところで寝転がってますの?」
エラーラもまた、不思議そうに眼鏡を拾い上げた。
目は充血しているが、その理由は思い出せない。
「……わ、分からん。学会から帰ってきたはずなんだが……。なぜ下水道に?」
エラーラは、白衣の汚れを払った。
「もしかして……新しい実験の副作用かね? 『夢遊病誘発ガス』とか」
「やだ! 汚い! ドレスが泥だらけですわ!」
ナラが悲鳴を上げる。
二人は顔を見合わせた。
そして、プッと吹き出した。
「あはははははは!何よこれ!変なの!」
ナラがお腹を抱えて笑う。
「全くだ!天才科学者がドブの中で座り込みとは、傑作だね!」
エラーラも高笑いする。
そこには、悲しみなど微塵もなかった。
喪失感もない。
だって、最初から、失うものなど何もなかったのだから。
グリッチという少女は、最初から存在しなかった。
獣医院で騒いだ日々も、プリンの喧嘩も、星祭りの約束も。
全ては、世界のバグが見せた、一瞬の幻影。
「……さあ、帰りましょうか!」
ナラが立ち上がる。
「ああ。お腹が空いたな。……今日は何にする?」
エラが続く。
「唐揚げがいいですわ!」
「奇遇だね! 私もだ!」
二人は、手を取り合って歩き出した。
楽しげな、足取り。
・・・・・・・・・・・
王都外れの獣医院。
リビングは、温かい光に包まれていた。
ゴウが、元気に出迎えた。
エラーラが、白衣を脱ぎ捨てた。
ケンジが、唐揚げを並べた。
アリアが、皿を並べた。
笑い声。
話し声。
平和な、日常。
「いただきます!」
ナラは、唐揚げを口に運んだ。
ナラの手が、止まった。
皿の上に、唐揚げが「一つ」だけ残っていた。
ナラは、首を傾げた。
エラーラも、その唐揚げを見つめた。
「……計算ミスかな」
エラーラは、肩をすくめた。
「まあいい」
「そうね」
ナラは、笑った。
窓の外。
夜風が吹き抜ける。
庭の片隅に、ピンク色の花びらが一枚、落ちていた。
それは、風に舞い上がり、誰にも気づかれることなく、闇の向こうへと消えていった。
「また会えたね」という約束も。
「助けて」という叫びも。
思い出そうとすら、思うことがない。
謝罪もできない。
後悔もできない。
反省もできない。
他責もできない。
自責もできない。
覚えていない。
誰も知らない。
存在しない。
無。
全ては「無」の彼方へ。
何も起きなかった。
誰もいなかった。
世界は、今日も平和に回り続けている。




