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【5位】異世界探偵ナラティブ・ヴェリタス  作者: り|20↑|札幌
グリッチ・ヴェリタス/GLITCH VERITAS
43/73

第4話:「       」

王都の地下深くに広がる、古代下水道。

そこは、都市の排泄物が流れ着く場所であり、同時に「世界の裏側」が露出しやすい淀みでもあった。

湿った空気には、カビと錆、そして焦げたような電子の臭いが混じっている。


「……なんなのよ、これ」


ナラは、足元に広がる光景に言葉を失った。

いつものドブ川ではない。

足元の水面が、黒いノイズに置き換わっている。壁のシミが、バーコードのように明滅している。

世界が、テクスチャを貼り忘れたように欠落していた。


「あはは! すごいねナラちゃん! 世界がバグってるよ!」


隣で、グリッチ・ヴェリタスが笑った。

ピンク色の魔法少女姿。その笑顔はいつも通り無邪気だが、彼女の輪郭線は不安定に揺らいでいた。


「笑い事じゃないわよ。……お母様が学会で留守の時に限って」


ナラは鉄扇を構え、警戒する。

前方から、ズルリと何かが這い出してきた。

それは、怪物ではなかった。


『世界修復プログラム』。

不定形の黒い泥。いや、泥に見える「情報の空白」。

この世界における「矛盾」を感知し、削除するために自動生成された抗体。


『エラー検出。削除シマス』


機械的な音声が、脳内に直接響く。

黒い泥が、ナラを無視して、グリッチだけを凝視した。


「……私?」


グリッチが首を傾げる。


「来るわよ! 下がりなさい!」


ナラが前に出る。

泥の触手が、鞭のようにしなる。

ナラは鉄扇で受け流そうとした。


「……え?」


手応えが、なかった。

鉄扇は、黒い泥をすり抜けた。

風を切る音すらしなかった。


「な、何よこれ!?」


ナラは体勢を崩す。

その隙に、泥の触手がグリッチに殺到した。


「えいっ!」


グリッチは、真正面から拳を突き出した。

彼女の拳が、泥に触れた瞬間。

音が消え、グリッチの右腕が「消失」した。


「……あ?」


グリッチは、自分の右肩を見た。

切断されたのではない。

最初からそこには何もなかったかのように、断面からは血の一滴も出ず、ただ緑色の数列がパラパラとこぼれ落ちていた。


「腕……ないよ?……痛くないけど……寒い」


グリッチはキョトンとしていた。


『削除開始』


システムが無慈悲に宣告する。

黒い泥が膨れ上がり、グリッチの全身を包み込もうとする。


「やめなさいッ!!」


ナラは叫び、グリッチの手を掴もうとした。

左手。まだ残っている左手。

ナラの手は、グリッチの手を、すり抜けた。

空気を掴むような虚無感。


「う、嘘……でしょ……?」


ナラは、何度も、掴もうとした。

肩を、腰を、髪を。

何度も。

何度も。

何度も。

だが、ナラの手はグリッチの体を透過し、触れることすらできない。


「グリッチ!?」


「ナラ……ちゃん?」


グリッチが、困ったような顔でナラを見る。

彼女の体は、急速に「質量」を失い、ただの「映像」になりつつあった。

世界が、彼女を「存在しないもの」として処理し始めているのだ。


『解析。内部データ摘出』


黒い泥から、鋭利な「針」のような触手が無数に伸びた。

それらは、触れられないはずのグリッチの体を、容赦なく貫いた。

音はない。

だが、グリッチの口が大きく開かれ、声にならない悲鳴を上げた。

針が、グリッチの腹部を引き裂く。

中から溢れ出したのは、内臓ではない。

色とりどりの「光のフィルム」だった。

彼女がこの世界で見てきた、短い記憶。

ナラと食べたプリン。エラと見た花火。ゴウと遊んだ紙飛行機。ルルと繋いだ手。

彼女の中に蓄積された、わずかながらも確かな「物語」の断片。


『不要。破棄』


システムは、そのフィルムを無造作に引きずり出し、噛み砕いた。

思い出が、ノイズに変わって消えていく。


「やめて……! それは……あの子の……!」


ナラは、泥の怪物に殴りかかった。

何度も、何度も。

だが、拳は、空を、切るだけ。

ナラは、この空間において「部外者」だった。

システムの処理工程に、ナラという変数は組み込まれていない。

ナラは、「当事者」ではない。

彼女は、目の前で行われる処刑を、指一本触れずに見ていることしか許されない、残酷な「傍観者」だった。


「いやだ……!いやだいやだいやだいやだ!嫌ぁぁぁぁっ!」


ナラは、絶叫した。

無力。

スラムで泥水を啜っていた時よりも、遥かに深い無力感。

大切な家族が、目の前で解体されているのに。

抱きしめることも、守ることも、代わりに傷つくことも、できない。


『四肢切断』


グリッチの左腕が消えた。

両足が、太ももから消失した。

ダルマのようになったグリッチが、空中に固定され、串刺しにされる。


『視覚破壊』


鋭利な杭が、グリッチの大きな瞳を貫いた。

ピンク色の瞳が、ガラスのように砕け散る。

彼女の口から、ノイズ混じりの、言葉にならない音が漏れる。


「あ……、……ぁ……」


「誰か……!誰か!誰か助けて!!」


ナラは、虚空に向かって叫んだ。

自分の拳を見つめる。

この手は、今まで何人もの悪党を殴り飛ばし、弱きを助けてきたはずの手だ。

鉄扇を振るい、時間すら超越し、運命すらねじ伏せてきた、誇り高き「一流の手」のはずだ。

なのに。

今、目の前で八つ裂きにされている家族に、触れることさえできない。


「なんでよ……!なんで!なんでなんでなんでなんでなんで!なんで!なんで!触れない!のよッ!!」


ナラは、空中に固定されたグリッチの足元にすがりつこうとした。

だが、腕は虚しく空を切る。

まるで自分が幽霊になったかのような、絶対的な疎外感。

グリッチの血が飛び散るが、それすらもナラの肌をすり抜けていく。

この世界は、ナラという存在に、グリッチを救うことを、認めていないのだ。


「ごめんなさい……! ごめんなさい、グリッチ!うわあああああああっ!」


ナラは、泥水に顔を突っ込んで謝り続けた。


「あたし、あんたのこと……邪魔だなんて言ってごめんなさい! プリン食べたこと怒ってごめんなさい!ごめんなさい!……助けて!助けてよ!誰か!誰か助けて!ああああああっ!」


後悔が、津波のように押し寄せる。

『ナラちゃん』と懐いてきた笑顔。

『家族だよね』と指切りした小指。

その全てが、今、無機質な「削除」によって永遠に失われようとしている。


「お願い……! あたしの腕を持っていっていいから! 足でも!心臓でもいいから!……返してよぉぉぉッ!」


ナラの絶叫が、地下道に響き渡る。

だが、システムは冷徹に作業を進める。

その時。


「……そこにいたのか!」


地下道の入り口から、救世主の声が響いた。

エラーラ・ヴェリタスだ。

彼女は、『全感覚・魔力知覚』を展開し、脳が焼き切れるほどの負荷を背負って駆けつけた。

そして、見てしまった。

黒い泥に串刺しにされ、中身を食い散らかされているピンク色の残骸を。

そして、その残骸が発している、微弱な、しかし強烈な「信号」を。


『……たす……けて……』


『……おねえ……ちゃん……』


『……たすけて……エラーラお姉ちゃん……!』


エラーラの心臓が、早鐘を打った。

その叫び。その波長。

かつて聞いたことがある。

数年前。エラーラが、実験事故を起こしたあの日。

炎の中で、崩れ落ちる瓦礫の下で、一人の少女が叫んでいた。


『助けて! お姉ちゃん! なんで逃げるの!?』


『痛いよ……! 体が溶ける……!』


エラーラは、思い出した。

あの日、自分が助けられなかった少女のことを。

自分が殺した、妹分のことを。

グリッチは、あの時の少女が、奇跡的に再構成された存在だったのだ。

復讐のために戻ってきたはずの彼女は、しかし、大好きなエラーラとナラたちとの暮らしの中で、もう一度「家族」になることを夢見てしまった。

そして今。

彼女は、二度目の死を迎えようとしている。

またしても、エラーラの手の届かない場所で。


「あ!……ああ!……あぁぁぁぁ!……」


エラーラは、膝から崩れ落ちた。

科学者の理性など、瞬時に消し飛んだ。

あるのは、取り返しのつかない罪悪感と、身を引き裂かれるような喪失感だけ。


「すまない……!すまない……!私が、私が君を殺したんだ……!」


エラーラは、地面に頭を打ち付けた。

額から血が流れるが、痛みなど感じない。

あの子が味わっている痛みに比べれば、こんなもの、痛みですらない。


「私が……あの日、手を離さなければ……! 君を見捨てなければ……!」


エラーラは、死体のように泥の中に突っ伏し、手を伸ばした。

届かない。

あの時も、今も。

私は「最強の魔法使い」と呼ばれながら、たった一人の妹分さえ救えない、無能な姉貴分だ。


ナラは、グリッチの名を、呼んだ。

叫んだ。

吠えた。

エラーラの魔力知覚が最大になっていた影響で、ナラにも、すべてが「視えて」しまったのだ。

グリッチの中にあった物語が。

空っぽだと言っていた彼女の中に、どれほどの「愛されたい」という願いが詰まっていたかが。

あの子は、バグなんかじゃなかった。


物語(ナラティブ)】は、あったのだ。


グリッチは、誰よりも人間らしく、誰よりも寂しがり屋の、ただの女の子だった。

あたしたちが──救えなかった家族。


「……うぅ……あぁぁぁぁぁ……!」


ナラは、エラーラの背中にしがみつき、獣のように慟哭した!


「ぅあああぁ……ぁ……い…いかないで………!」


ナラの爪が、エラーラの白衣を引き裂き、背中に食い込む。

二人で、泥まみれになって、血まみれになって、泣き続けた。

プライドも、知性も、何もかもかなぐり捨てて、

ただ、届かない謝罪を叫び続けた。


『データ摘出完了。完全消去』


システムが無慈悲に告げる。


「ぃ…やめろおおおおおォォォッ!!」


「グリッチぃぃぃぃッ!!」


二人の絶叫が重なる。

テレビの電源を切るような、乾いた音がした。

グリッチの頭部が、掻き消えるように消失した。

黒い泥が、残った胴体を飲み込み、シュルシュルと収縮していく。

静寂。

何も、残らなかった。

血の一滴も。リボンの一つも。

「また会えたね」という、約束も。

彼女が存在したという痕跡そのものが、世界からきれいに拭き取られた。

エラーラとナラは、互いに抱き合ったまま、動けなかった。

魂の半分をもぎ取られたような虚無。

二人の心には、一生消えない、巨大な空洞が穿たれた。


……はずだった。

世界が、微かに揺れた。

修正プログラムが完了したのだ。

「バグ」が削除され、世界は「正常」な状態へと再構築される。

ナラの涙が、頬の途中で止まった。

エラーラの血の涙が、乾いた。

二人は、顔を上げた。

その瞳から、「グリッチ」という存在に関する全ての記憶と感情が、急速に色褪せ……

消去された。


「……」


ナラは、キョトンとした顔で周囲を見回した。

薄暗い下水道。

自分は、エラーラと一緒に床に座り込んでいる。

何をしているんだろう?


「……お母様?なんであたしたち、こんなところで寝転がってますの?」


エラーラもまた、不思議そうに眼鏡を拾い上げた。

目は充血しているが、その理由は思い出せない。


「……わ、分からん。学会から帰ってきたはずなんだが……。なぜ下水道に?」


エラーラは、白衣の汚れを払った。


「もしかして……新しい実験の副作用かね? 『夢遊病誘発ガス』とか」


「やだ! 汚い! ドレスが泥だらけですわ!」


ナラが悲鳴を上げる。

二人は顔を見合わせた。

そして、プッと吹き出した。


「あはははははは!何よこれ!変なの!」


ナラがお腹を抱えて笑う。


「全くだ!天才科学者がドブの中で座り込みとは、傑作だね!」


エラーラも高笑いする。

そこには、悲しみなど微塵もなかった。

喪失感もない。

だって、最初から、失うものなど何もなかったのだから。

グリッチという少女は、最初から存在しなかった。

獣医院で騒いだ日々も、プリンの喧嘩も、星祭りの約束も。

全ては、世界のバグが見せた、一瞬の幻影。


「……さあ、帰りましょうか!」


ナラが立ち上がる。


「ああ。お腹が空いたな。……今日は何にする?」


エラが続く。


「唐揚げがいいですわ!」


「奇遇だね! 私もだ!」


二人は、手を取り合って歩き出した。

楽しげな、足取り。


・・・・・・・・・・・


王都外れの獣医院。

リビングは、温かい光に包まれていた。

ゴウが、元気に出迎えた。

エラーラが、白衣を脱ぎ捨てた。

ケンジが、唐揚げを並べた。

アリアが、皿を並べた。

笑い声。

話し声。

平和な、日常。


「いただきます!」


ナラは、唐揚げを口に運んだ。

ナラの手が、止まった。

皿の上に、唐揚げが「一つ」だけ残っていた。

ナラは、首を傾げた。

エラーラも、その唐揚げを見つめた。


「……計算ミスかな」


エラーラは、肩をすくめた。


「まあいい」


「そうね」


ナラは、笑った。


窓の外。

夜風が吹き抜ける。

庭の片隅に、ピンク色の花びらが一枚、落ちていた。

それは、風に舞い上がり、誰にも気づかれることなく、闇の向こうへと消えていった。

「また会えたね」という約束も。

「助けて」という叫びも。

思い出そうとすら、思うことがない。

謝罪もできない。

後悔もできない。

反省もできない。

他責もできない。

自責もできない。

覚えていない。

誰も知らない。

存在しない。

無。

全ては「無」の彼方へ。

何も起きなかった。

誰もいなかった。

世界は、今日も平和に回り続けている。

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