第2話:魔法使いの飛翔!
王都の昼下がり。獣医院のリビングは、今日も今日とてカオスに包まれていた。
「……お母様?天井からピンク色の何かがぶら下がってますわよ!」
ナラは、優雅に紅茶を啜りながら天井を指差した。
そこには、蜘蛛のように手足だけで張り付いている少女――グリッチ・ヴェリタスがいた。
「やっほー! 重力定数のバグを見つけたから遊んでるの! 見て見て、スカートがめくれないよ! 鉄壁!」
「パンツが見えないのは結構ですが、見苦しいですわ! 降りてきなさい!」
「嫌だもんねー! ここからだと、エラーラお姉ちゃんのつむじが丸見えで興奮するんだもん!」
「へ、変態か君は!?」
エラーラが実験の手を止めて叫ぶ。
この正体不明の少女、グリッチが居候を始めて数日。彼女の存在は、ヴェリタス家の常識を物理法則ごと破壊し続けていた。
その時、ドアが激しくノックされた。
「エラーラ君! 緊急事態だ! 知恵を貸してくれ!」
入ってきたのは、王都警察のカレル警部だ。彼はいつになく焦っていた。
「警部さん? また怪奇事件ですの?」
「いや、今回は『不可能犯罪』だ。……王都銀行の貸金庫から、国宝級の宝石が盗まれたんだよ」
カレルは帽子を脱ぎ、汗を拭った。
「現場は完全な密室。鍵はかかっており、警報装置も作動していない。魔法的な侵入痕跡もない。……まるで、犯人が壁をすり抜けたかのように、宝石だけが消えていたんだ」
「ほう! 密室ミステリーか! 燃えるねぇ!」
エラーラが目を輝かせる。
その時、天井からグリッチがボトッと落ちてきた。
そして、満面の笑みで手を挙げた。
「はーい! 犯人は私でーす!」
「「「は?」」」
「だーかーら! 私が盗みました! ……はい、逮捕して!」
グリッチは両手を突き出し、手錠を待つポーズを取った。
「……な、なぜ嘘をつく」
ナラが冷ややかな目で見る。
「だってさ、犯人になったら、お姉ちゃんが私のことを『追いかけて』くれるでしょ? 愛の逃避行だよ! 捕まった後は、牢屋でお姉ちゃんに『尋問』されるんだ……えへへ、涎出てきた」
「不純な動機すぎるわッ!!」
ナラがグリッチの頭をひっぱたいた。
「あだっ!?」
「警部さん、こいつの戯言は無視してください。……でも、面白そうですわね。行きましょうか、お母様」
「うむ! 科学捜査の出番だ!」
一行は、事件現場である王都銀行へと向かった。
銀行の地下金庫室。
そこは分厚いミスリル合金の壁に囲まれ、最新の魔導セキュリティが施された、蟻一匹入れない密室だった。
「……確かに、侵入の形跡がないね?」
エラーラが分析機をかざす。
「扉の開閉ログもなし。転移魔法の残留マナもなし。……論理的に考えて、不可能だ」
「ふーん」
グリッチは、興味なさそうに金庫室の壁をペタペタと触っていた。
「ねえねえ、この壁さぁ」
「触らないでください、指紋がつきますわよ」
ナラが注意する。
「ここ、判定が甘いよ?」
「はい?」
グリッチは、壁に向かってスッと足を踏み出した。
すると、彼女の足が、まるで水面に入るように、硬い合金の壁の中に「沈んだ」。
「なッ……!?」
カレル警部が目玉を飛び出させる。
「ほらね。ここの座標データ、ちょっとバグってるんだよ。……よいしょ」
グリッチは、そのままズルズルと壁の中に入り込み、金庫の中へ通り抜けてしまった。
「か、壁抜け!?」
「すり抜けたぞ!?」
壁の向こうから、グリッチの声が聞こえる。
『あー、やっぱり。……ここ、空間が重なってるよ。座標さえ合わせれば、誰でも入れるね』
「……空間のレイヤー?」
エラーラがハッとする。
「そうか! この銀行は、古い地下迷宮の上に建てられている! その影響で、地下空間の位相がズレて、特定のルートを通れば壁を無視して侵入できる『抜け道』が発生しているんだ!」
「つまり……犯人は魔法使いでも怪盗でもなく、たまたまその抜け道を見つけた奴ってことですの?」
ナラが壁を蹴るが、当然彼女の足は痛むだけだ。グリッチのような「バグ存在」でなければ、通り抜けることはできない。
『おーい、犯人いたよー』
壁の中から、グリッチの暢気な声。
次の瞬間。
「ぎゃあああああ!」
凄まじい打撃音と悲鳴が聞こえ、壁から一人の男が「弾き出されて」きた。
男は全身ボコボコにされ、泡を吹いて気絶している。懐からは盗まれた宝石が転がり落ちた。
「……解決、ですね」
ナラが呆れて呟く。
壁からグリッチが顔半分だけ出した状態で戻ってきた。
「確保したよ!……このおじさん、壁の中でずっと隠れてたみたい」
「お、お手柄だお嬢ちゃん! ……しかし、今の壁抜けはどうやったんだ?」
カレルが震えながら聞く。
「え? 普通に歩いただけだよ?」
グリッチは、壁から完全に抜け出し、埃を払った。
「私ね、こういう『世界の隙間』が得意なんだ!」
「……隙間?」
ナラが聞き返す。
「うん。……私もいつか、あのおじさんみたいに捕まってみたいな……そしたら私、静かになるよ?」
「……何言ってるの!」
ナラは、グリッチの頭を小突いた。
「あんたみたいな騒がしいのが消えたら、静かすぎて耳鳴りがしますわ。……ずっとここにいなさい」
「えへへ。……ナラちゃん優しいー!」
・・・・・・・・・・・
数日後。
獣医院に、情報屋のルルが遊びに来た。
「あ、あの……ナラさん。……頼まれていた、裏社会の動向調査ですけど……」
小汚い古着を着て、部屋の隅に同化するように座っているルル。
彼女は極度の対人恐怖症だが、ナラにだけは懐いている。
「ありがとうルル。……そこにお菓子があるから、食べていいわよ」
「は、はい……。あうぅ、ナラさんと同じ空間の空気を吸えるだけで、私は……」
ルルが至福の不審な表情で空気を吸い込んでいた、その時。
「わぁ!陰気の塊だー!!」
実験室から飛び出してきたグリッチが、ルルを見つけて目を輝かせた。
「ひぃッ!? だ、誰ですかこの眩しい生き物は!?」
ルルがナラの背中に隠れる。
「初めまして! 私はグリッチ! ヴェリタス家のアイドルだよ!」
グリッチは、ルルの背後に回り込み、その古着をまじまじと観察した。
「へぇー……。すごいね、この服。……防御力高そう」
「え? あ、いえ、ただの魔力防御用の古着ですけど……」
「違うよ。……『心の防御』だよ」
グリッチは、ルルのジャージの裾をめくろうとした。
「ねえねえ、中身見せてよ! ルルちゃんの中身、すっごくドロドロしてて面白そう! 私にも少し分けてよ!」
「ひぃぃぃッ!? せ、セクハラですぅぅぅ! ナラさん助けてぇぇ!」
「こらグリッチ! お客様に失礼よ!」
ナラが鉄扇でグリッチの頭を叩く。
「だってぇ! ルルちゃんから、すっごく『濃い』信号が出てるんだもん!」
グリッチは頭をさすりながら、興味深そうにルルを見た。
「自己否定、コンプレックス、独占欲……うわぁ、中身がパンパンだね! 羨ましいなぁ!」
「う、羨ましい……?」
ルルが怯えながら聞く。
その時。
街の方から、不気味なサイレンが鳴り響いた。
窓の外を見ると、巨大な泥の巨人が暴れているのが見えた。
「怪異発生だ!」
エラーラが飛び出してくる。
「あれは……『自己否定の泥人形』! 人々のネガティブな感情が集合して実体化したものだ!」
「ネ、ネガティブ……? あ、あうぅ……」
ルルが頭を抱える。
「わ、私のせいです……。さっき、ナラさんに相応しくない自分を呪っていたから……」
「あんたのマイナス思考、災害レベルですわね!」
ナラが叫ぶ。
「行きますわよ!カチコミですわ!」
現場はカオスだった。
泥人形は、周囲の人々の「心の弱み」を暴き立てる精神攻撃を仕掛けていた。
『オマエハ、ダメナヤツダ……』
『ダレモ、オマエヲ愛シテイナイ……』
「くっ……! 耳障りな声ですわね!」
ナラが鉄扇で攻撃するが、泥の体は打撃を吸収してしまう。
その上、精神攻撃がナラの古傷を刺激する。
「お母様! 解析は!?」
「待ってくれ! 奴の精神汚染波が強すぎて近づけない!」
「あうぅ……ごめんなさい……私が……私が悪いんです……」
ルルが座り込み、泥人形に取り込まれそうになる。
「ルル!」
ナラが助けようとするが、泥の触手に阻まれる。
絶体絶命。
その時、ピンク色の影が突っ込んだ。
「わーい! 泥遊びだー!」
グリッチだった。
彼女は、魔法少女姿で、泥人形の懐に飛び込んだ。
『消エロ……。オマエニ、価値ハナイ……』
泥人形が呪詛を吐く。
だが、グリッチは笑った。
「うん、知ってる! 私、価値ないもん!」
グリッチの拳が、泥人形の腹にめり込んだ。
精神攻撃が効いていない。
「私には心がないから、悪口は効かないんだよ~だ!」
グリッチは、泥人形の中からルルを引っこ抜いた。
物理的に、強引に。
「捕まえた!」
「ぐぇッ!?」
「ルルちゃんはルルちゃんだよ! そのジメジメしたところも含めて、面白い生き物だよ!」
グリッチは、ルルを小脇に抱え、泥人形の顔面に回し蹴りを叩き込んだ。
「えいっ!」
純粋な暴力。
精神的ダメージを受けないグリッチの攻撃は、泥人形にとって天敵だった。
「……とどめ!」
グリッチは、指先を向けた。
「えーとじゃあ……ビーム!」
極太の光線が泥人形を貫き、怪異は霧散した。
あっけない幕切れ。
「……ふぅ。泥だらけになっちゃった」
グリッチは、自分の服についた泥を払いながら笑った。
「あ、あの……」
ルルが、震えながらグリッチを見上げた。
「助けて……くれたんですか……?」
「ん? 違うよ。ルルちゃんの中身が気になったから、ほじくり出しただけ!」
「えぇ……」
「でもさ」
グリッチは、ルルの顔を覗き込んだ。
「ルルちゃん、すごいね。……あんなにたくさんの『嫌な気持ち』を持ってるのに、パンクしないんだね」
グリッチの手が、ルルの胸に触れる。
「私ね、空っぽなの。……中身がないの。だから、ルルちゃんみたいに、ドロドロしたものでもいいから、何かが詰まってるのが……羨ましいな」
その瞳は、笑っているのに、泣いているように見えた。
底なしの虚無。
自分が何者でもないという、決定的な欠落感。
ルルは、その時初めて理解した。
この明るすぎる少女が抱えている、深い闇を。
自分は「自分が嫌い」だけど、彼女は「自分がない」。
その孤独の深さは、ルルですら想像できないものだった。
「……グリッチさん」
ルルは、グリッチの手を握った。
「貴女は……不思議ですね。……そこにいるのに、いないみたいで……」
「あはは!鋭いねルルちゃん。……私、バグだからさ!」
グリッチは、握り返した。
「……帰りましょう」
ナラが歩み寄ってきた。
「二人とも、お説教ですわよ。……特にグリッチ、単独行動は禁止と言ったでしょう」
「えへへ、ごめんなさいナラちゃん!」
グリッチはナラに抱きついた。
ナラは文句を言いながらも、グリッチの背中をポンポンと叩く。
ルルは、その光景を見て、少しだけ嫉妬し、そして少しだけ安心した。
この奇妙な少女にも、帰る場所があるのだと。
その夜。
獣医院の屋上。
グリッチは、一人で星を見ていた。
「……ナラちゃんはいいな」
背後から近づいてきたナラに、グリッチがポツリと言った。
「お姉ちゃんとの『思い出』がたくさんあって。……辛いことも、楽しいことも、全部ナラちゃんの中身になってる」
「……何よ、急に」
「私には、何もないんだ」
グリッチは、自分の手を空にかざした。
星の光が、手を透かして見えるような気がした。
「過去も、記憶も……心も。全部、ないの!」
「……バカね」
ナラは、グリッチの隣に座った。
「これから作ればいいじゃない。……今日、ルルを助けたでしょ? それも立派な『思い出』よ」
「……そっか。そうかもね」
グリッチは笑った。
でも、その笑顔にはノイズが走っていた。
自分の存在が、世界から拒絶されているのを感じる。
「ねえ、ナラちゃん。……指切りしよう」
「は?」
「私たちが、家族だってこと。……忘れないって約束」
グリッチは小指を差し出した。
ナラは、ため息をついて、その小指に自分の指を絡めた。
「はいはい。……約束よ。あんたがどんなにバグってても、あたしの家族よ」
「……うん。ずっと一緒だよ」
二人は指切りをした。
グリッチは、ナラの肩に頭を預けた。
温かい。
この温もりだけは、バグじゃない。




