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第2話:保護者同伴探偵(2)

王都の昼下がりは、極彩色のカオスに満ちていた。

空には魔法の絨毯とワイバーンが飛び交い、大通りでは魔導ゴーレムが荷車を引き、路地裏からは怪しげな錬金薬の煙が立ち昇る。

種族も、身分も、欲望も、すべてがごちゃ混ぜになったこの街は、まるで巨大なおもちゃ箱をひっくり返したような、不思議なエネルギーに溢れている。


「……相変わらず、騒々しい街ですわね」


漆黒のドレススーツに身を包んだナラは、雑踏の中を優雅に歩きながら、辟易したように扇子で口元を隠した。

その隣には、目深にフードを被った男――逃亡中の劇作家ヴィンスと、巨大なランドセル型分析機を背負った白衣の美女、エラーラがいる。


「ナラ君! 見たまえ、あそこの屋台!『トカゲの尻尾の黒焼き』だよ!」


エラーラが子供のようにはしゃぐ。


「お母様?買い食いは禁止ですわよ。……今は捜査中なんですから」


「むぅ。……君は時々、私の母親みたいに厳しいねぇ」


「誰が母親ですか!……ヴィンス、顔を上げなさい?猫背は運気を逃がしますわよ」


「は、はい……。でも、指名手配中だし……」


ヴィンスは怯えきっている。

彼らは今、事件現場である「王立劇場」へと向かっていた。


「安心しなさい。今のあなたは、あたしの『執事』という設定ですわ。堂々としていれば、逆に怪しまれません」


ナラは胸を張って歩く。

その圧倒的な美貌と気品は、雑多な群衆の中でも一際輝き、道行く人々が思わず道を空けてしまうほどだ。


「あの方、どこの国の王女様だ?」


「隣の白衣は宮廷魔術師か?」


そんな噂がささやかれる中、一行は裏通りへと入った。


「……おい、そこの姉ちゃん」


薄暗い路地裏で、行く手を塞ぐ影があった。

派手な刺繍が入ったジャケットを着た、数人のチンピラたちだ。

彼らは、ナラの美貌に目をつけ、下卑た笑みを浮かべていた。


「いい服着てんじゃねぇか。……ちょっと俺たちと遊ばないか? 『イイコト』教えてやるよ」


リーダー格の男が、ナラの肩に手を伸ばす。


「……あら」


ナラは、男の手を見下ろし、冷ややかに微笑んだ。


「『イイコト』? ……例えば、アスファルトの味見とかですの?」


「ああん?」


男がナイフを取り出し、凄もうとした瞬間。


「ごめんあそばせッ!」


ナラが動いた。

漆黒のドレスが花のように舞う。

彼女は男の手首を掴むと、流れるような動作で関節を極め、そのまま自身の背負い投げの軌道に乗せた。


「空を飛びなさいッ!」


男の体は美しい弧を描き、路地の壁にあるゴミ箱へとホールインワンした。


「な、兄貴ッ!?」


ナラの動きは舞踏のようだった。

優雅で、華麗で、そして圧倒的に強い。

ヴィンスは、恐怖も忘れてその姿に見惚れてしまった。


「……終了ですわ」


ナラは乱れた髪をかき上げ、ヴィンスの方を向いた。


「行きましょう、執事さん。……掃除は終わりましたわ」


「は、はいッ!!」


ヴィンスは直立不動で敬礼した。


王立劇場。

そこは、王都の文化の象徴であり、今回の悲劇の舞台だ。

正面入り口は警察によって封鎖されている。


「裏口から入りましょう。……ルル?」


ナラが路地の影に声をかけると、ガタガタと震えるドラム缶の中から、古着の少女が顔を出した。


「お、お待ちしてましたぁ……。こ、怖かったですぅ……」


情報屋のルルだ。


「鍵は?」


「は、はい……。劇場の裏口の鍵、魔導ロックなんですけど……ハッキングしておきました……」


「でかしたわ。報酬はドーナツよ」


一行は裏口から侵入する。

劇場内は、静まり返っていた。

舞台袖、楽屋、大道具部屋。

かつての華やかさはなく、埃とカビの臭いが漂っている。


「……ここだ」


ヴィンスが足を止めたのは、一番奥にある「プリマドンナの楽屋」だった。

女優セシリアが殺された現場。

黄色い規制テープが貼られている。


「失礼しますわ」


ナラがテープをくぐり、ドアを開ける。

部屋の中は荒らされていなかった。

豪華な化粧台、高価な衣装、そして花束。

セシリアは、この部屋の中央で、胸を刺されて死んでいたという。

窓には鍵がかかり、ドアの前には警備員がいた。完璧な密室殺人。


「……僕は、ここに来ていない。本当に」


ヴィンスが呻く。


「分かってるわよ」


ナラは部屋を見渡した。


「お母様。……出番ですわ」


「任せたまえ!科学捜査の時間だ!」


エラーラは、背中のランドセル型分析機を展開した。

無数のセンサーとレンズが飛び出し、部屋中をスキャンし始める。


「魔力残滓、開始。……ふむ。血痕の酸化具合、空気中の粒子分布、残留思念の波長……」


エラーラの瞳が、黄金色に輝く。

彼女には見えているのだ。過去にここで起きた現象の「痕跡」が。


「……おかしいね?」


エラーラが呟く。


「何が?」


「警察の発表では、犯人は窓から侵入したことになっている。だが、窓枠には外部からの干渉痕がない。鍵は内側から魔法的に施錠されていた」


「じゃあ、やっぱり密室?」


「いいや。……もっと『根本的』な抜け道がある」


エラーラは、部屋の床にチョークで円を描き始めた。


「ナラ君。……空間転移魔法の理論を知っているかね?」


「知りませんわ。あたしは物理担当ですもの」


「転移魔法は、座標を繋げる術式だ。通常は魔法陣が必要になる。しかし、この部屋には魔法陣の跡がない。つまり……」


エラーラは、化粧台の鏡を指差した。


「……鏡?」


「そうだ。この鏡……微弱だが、空間の『ねじれ』を感じる」


エラーラが鏡に手をかざす。

すると、鏡面が水面のように波打った。


「なッ……!?」


ヴィンスが驚愕する。


「これは『双子鏡の回廊』だ。……対になるもう一枚の鏡と、空間を繋げる古代のアーティファクトだよ」


「つまり……犯人は、この鏡を通って出入りした?」


「その通りだ。鍵も窓も関係ない。……壁をすり抜けて現れ、セシリアを刺し、鏡の中に消えた。……これは『密室殺人』ではない。『瞬間移動殺人』だ」


謎は解けた。

だが、問題は「誰が」それを行ったかだ。

こんな国宝級のアイテムを持てる人物は、限られている。


「……おい、誰だ!」


突然、部屋の入り口から怒声が響いた。

振り返ると、恰幅の良い男が立っていた。

劇場の支配人、ゴードンだ。


「き、貴様ら!ここは立ち入り禁止だぞ!警察を呼ぶぞ!」


ナラは、ゆっくりとゴードンに歩み寄った。

ヒールの音が、死刑執行のカウントダウンのように響く。


「あら、支配人さん。……ちょうどいいところへ」


ナラは、ゴードンの襟首を掴み、鏡の前まで引きずってきた。


「これ、何ですの?」


「ひッ……! し、知らない! 私は何も……!」


ゴードンの顔色が青ざめる。明らかに動揺している。


「知らない?」


ナラは、ゴードンの顔を鷲掴みにした。

その瞳は、獲物を狩る豹のように鋭く、そして冷酷だった。


「あたしはね、嘘つきの臭いが分かるの。……あんたからは、腐った金と、隠し事の臭いがプンプンしますわよ?」


「や、やめろ! 私はただ、パトロンの指示で……!」


「パトロン?」


「そ、そうだ! ザルタ男爵だ! 劇団の出資者の! 彼がこの鏡を設置しろと言ったんだ! 私は逆らえなかったんだ!」


ザルタ男爵。

王都でも有数の大富豪であり、芸術の庇護者として知られる男。

そして、セシリアの熱烈なファンでもあった。


「……繋がりましたわね」


ナラは、ゴードンをゴミのように放り捨てた。


「ヴィンス。……あんたの人生を狂わせた脚本家が、分かったわよ」


ヴィンスは、震える声で言った。


「ザルタ男爵……。彼が、セシリアを……? なぜだ? 彼はセシリアを愛していたはずじゃ……」


「愛? ……違うわね」


ナラは、鏡に映る自分を見た。


「あの男が愛していたのは、セシリア自身じゃない。……自分の物語の中で『悲劇のヒロインとして死ぬキャラクター』という、セシリアの『役割』よ」


ナラは、未来で見てきた多くの権力者たちを思い出した。

彼らは皆、他人の人生を「物語」として消費する。

悲劇も、苦痛も、彼らにとっては極上のスパイスなのだ。


「あんたは、その物語の『当て馬』に選ばれたのよ。……嫉妬に狂った愛人という、使い捨ての悪役にね!」


「……そんな……!」


ヴィンスが膝をつく。

絶望。無力感。

巨大な権力を前に、自分はあまりにも小さい。


「立て、三流作家」


ナラは、鉄扇をヴィンスの目の前に突きつけた。


「自分の物語を、他人に書かせたまま終わるつもり? ……バッドエンドで満足なの?」


「……でも、相手は男爵だ……。僕なんかじゃ……」


「関係ないわ!」


「…!」


「相手が貴族だろうが、王様だろうが、神様だろうが。……気に食わない脚本なら、書き直せばいいのよ!」


ナラは、エラーラの方を向いた。


「お母様。……鏡の『向こう側』への道、開けますわね?」


「愚問だね。……座標計算は完了している」


エラーラは、鏡の表面に術式を描き込んだ。

鏡が光を放ち、空間のゲートが開く。


「この先は、ザルタ男爵の屋敷に繋がっているはずだ」


「上等ですわ」


ナラは、ドレスの袖をまくり上げた。

全身から、闘志のオーラが立ち昇る。


「行くわよ、ヴィンス。……カーテンコールにはまだ早いわ」


ナラは、ヴィンスの手を無理やり引いて立たせた。


「殴り込みの時間よ! ……最高の『どんでん返し』を見せて差し上げましょう!」


ヴィンスは、ナラを見上げた。

泥だらけで、乱暴で、でも誰よりも美しい「主役」の姿を。

彼の中に、小さな火が灯った。

怒りの火。そして、希望の火。

三人は、光る鏡の中へと飛び込んだ。


ザルタ男爵の屋敷。

豪華なサロンで、男爵はワインを傾けていた。

目の前のスクリーンには、セシリアの葬儀のニュースが流れている。


「美しい……。やはり悲劇こそが、彼女を永遠にするのだ」


男爵は恍惚とした表情で呟いた。

全ては完璧なシナリオ通り。

犯人は捕まり、悲劇は完結する。

突然、サロンの巨大な姿見が粉砕された。

ガラスの破片と共に、三つの影が飛び出してくる。


「な、なんだ!?」


男爵がグラスを取り落とす。


「ごめんあそばせェッ!!」


ナラティブ・ヴェリタスが、ガラスの雨の中で着地した。

鉄扇を一閃させ、男爵の護衛たちを吹き飛ばす。


「演出家さん?……シナリオの変更をお伝えしに来ましたわ」


ナラは、男爵の目の前に立ち、不敵に笑った。


「ここからは……『復讐劇』の始まりですわよ!」


「き、貴様らは……!」


「エラーラ・ヴェリタス。科学者だ」


エラーラが魔導砲を構える。


「そして、あたしはナラティブ・ヴェリタス」


ナラは、男爵のネクタイを掴み、引き寄せた。


「通りすがりの『脚本クラッシャー』ですわ!」


戦いのゴングが鳴った。


「逃がしませんわよ、この三流演出家ッ!」


ナラが、鉄扇を構えて突進する。

彼女の行く手を阻むのは、男爵が呼び出した私兵団だけではなかった。


「フフフ……。私のコレクションを見るがいい! 古代遺跡から発掘された自動人形、『幻影の舞踏団』だ!」


ザルタ男爵が指を鳴らすと、天井裏から、仮面をつけた細身の人形たちが糸を引いて降りてきた。

その動きは人間離れしている。関節がありえない方向に曲がり、手足には鋭利な刃物が仕込まれている。


「キキキキキッ!」


機械的な笑い声を上げながら、人形たちがナラに襲いかかる。


「くっ……! 速いッ!?」


ナラは鉄扇で刃を受け止めるが、衝撃で後ずさる。

一体を弾き返しても、すぐに別の二体が死角から切り込んでくる。


「ナラ君!奴らの動きはランダムだ!」


後方で魔導砲を構えるエラーラが叫ぶ。彼女の射撃も、人形たちの軽業のような回避運動に阻まれている。


「キャアアッ!」


ナラが、人形の回し蹴りを食らって吹き飛ばされた。

壁に激突し、苦悶の声を漏らす。


「ナラさんッ!!」


ヴィンスが悲鳴を上げる。

彼は震える手でペーパーナイフを構えているが、足がすくんで動けない。


「素晴らしい! なんて悲劇的だ!」


ザルタ男爵が、バルコニーの上でワイングラスを揺らしながら陶酔していた。


「無実の罪を着せられた作家!彼を守ろうとして散る美しき女用心棒!そして、全てを操るこの私!……完璧だ!これこそが私の求めていたクライマックスだ!」


人形たちが、倒れたナラを取り囲む。

刃が振り上げられる。

絶体絶命。

ヴィンスは、絶望した。

僕のせいで。僕なんかのために、あんなに強く美しい人が死ぬ。

やっぱり、僕の人生はバッドエンドがお似合いなんだ。


「……やめろぉぉぉッ!!」


ヴィンスが叫び、無謀にも飛び出そうとした。

その時。


「……あら」


倒れていたはずのナラが、ふわりと立ち上がった。

その顔には、苦痛の色など微塵もなかった。

それどころか、退屈そうにあくびを噛み殺しているではないか。


「もう、満足しました?」


「……は?」


ザルタ男爵の動きが止まる。

ナラは、髪をかき上げ、優雅に鉄扇を開いた。

その全身から放たれるプレッシャーが、一瞬にして変わる。

先ほどまでの「苦戦するヒロイン」の空気は消え失せ、そこには「食物連鎖の頂点」に立つ捕食者の威圧感があった。


「随分と楽しそうにご覧になっていたじゃありませんの。……だから、少しサービスして差し上げましたのよ?」


ナラは、笑った。

その笑顔は、獰猛で、そして最高に魅力的だった。


「物語には『溜め』が必要でしょう? ヒーローがいきなり勝っちゃあ、カタルシスが足りませんもの。……だから、ちょっとピンチのフリをしてあげたんですの」


「フ、フリだと……!? 私の最強の人形たちを相手に!?」


「最強? ……あんなガラクタが?」


ナラは、周囲を取り囲む人形たちを一瞥した。


「動きにキレがない。リズムが単調。殺意に品がない。……まるで、お遊戯ですわ」


ナラが、一歩踏み出した。

その瞬間、世界が揺れた。


「さあ、反撃開始よッ!!」


人形たちが一斉に襲いかかる。

だが、今度のナラは違った。

速い。目にも止まらぬ速さではない。「動きが見えているのに、絶対に当たらない」という、達人の領域。

刃がナラの喉元に迫る。

ナラは、最小限の首の傾きだけでそれを回避する。

そして、すれ違いざまに、人形の関節の継ぎ目に鉄扇を突き刺した。


「分解なさい!」


人形がバラバラに砕け散る。


「次!」


ナラは舞った。

それは暴力というより、芸術的なダンスだった。

襲い来る人形の腕を掴み、その勢いを利用して別の人形にぶつける。

空中で回転し、遠心力を乗せた踵落としで頭部を粉砕する。

エラーラが慌てて計算し直すまでもなく、物理法則がナラに味方しているようだった。


「な、なんだあいつは……! 人間じゃない!」


男爵が後ずさる。


「あら、失礼ね」


ナラは、最後の一体を壁に叩きつけて破壊すると、涼しい顔で言った。


「あたしは、ただの『一流のレディ』ですわ」


ナラは、バルコニーの男爵を見上げた。

傷ひとつない。息ひとつ切れていない。


「さて。……舞台に上がってきていただきましょうか、演出家さん」


ナラは、シャンデリアに向かって鉄扇を投げた。

鎖が切れ、巨大なシャンデリアが男爵の頭上に落下する。


「ひぃッ!?」


男爵は無様に転がり落ち、フロアの真ん中にドスンと着地した。


「……チェックメイトよ」


ナラは、男爵の前に立った。

エラーラも魔導砲を構えて並ぶ。

そして、呆然としていたヴィンスも、ナラに背中を押されて前に出た。


「ひ、ひぃぃ……! 助けてくれ! 金なら払う! いくらだ!?」


男爵が床を這いずり回る。


「……見苦しい」


ナラは、男爵の手を踏みつけた。


「あんたは言ったわね。『悲劇こそが美しい』と」


ナラは、冷徹な瞳で男爵を射抜いた。


「それは、安全な客席から見てる奴の台詞よ。……舞台の上で血を流す人間の痛みが、あんたに分かる?」


「わ、分かるものか! 私は選ばれた人間だ! 他人の人生など、私の娯楽のためにあるんだ!」


男爵が開き直って叫ぶ。


「……そう?」


ナラは、踏みつける力を強めた。

骨が軋む音がする。


「じゃあ、教えてあげるわ。……『当事者』になるってことが、どういうことか」


ナラは、男爵の胸ぐらを掴み、引き上げた。


「あんたはこれから、全てを失う。地位も、名誉も、財産も。……そして、牢獄の中で、誰にも見向きもされずに一生を終えるの」


「そ、そんな……! 私の物語が……!」


「ええ。これが、あんたの物語の結末よ」


ナラは、男爵をヴィンスの前に放り投げた。


「やりなさい、ヴィンス。……最後の一撃は、主人公の役目よ」


「えっ……!?」


ヴィンスが狼狽する。


「殴れとは言ってないわ」


ナラは、ヴィンスのポケットに入っていたペンを指差した。


「作家なら……言葉で刺しなさい」


震えが止まる。

目の前には、自分の人生を狂わせ、セシリアを殺した男がいる。

憎い。許せない。

でも、それ以上に……この男が「哀れ」に見えた。

ヴィンスは、静かに言った。


「……貴方は、誰も愛していなかったんですね」


「な、なんだと……?」


「セシリアのことも。芸術のことも。……貴方は、自分自身が楽しむことしか愛せなかった。だから、貴方の作る物語には『心』がないんです」


ヴィンスの言葉は、どんな刃物よりも鋭く、男爵のプライドを切り裂いた。


「貴方のシナリオは……三流です。」


「あ……あぁ……」


男爵は、崩れ落ちた。

物理的なダメージではない。

自分の全存在を、「つまらない」と否定された絶望。

彼は、廃人のように床を見つめ、動かなくなった。


「……見事ですわ」


ナラは、満足げに微笑んだ。

事件は解決した。

カレル警部が突入し、男爵と一味を逮捕した。

セシリア殺害の真実が公表され、ヴィンスの無実は証明された。

だが、ヴィンスの表情は晴れなかった。

警察署からの帰り道。夜風が冷たい。


「……ありがとう、ナラさん。エラーラさん」


ヴィンスは深々と頭を下げた。


「おかげで、命拾いしました」


「礼には及ばないよ。論理的に正しいことをしたまでだ」


エラが肩をすくめる。


「……でも」


ヴィンスは、ナラを見た。


「どうして……僕なんかのために、あそこまでしてくれたんですか?」


彼の疑問はもっともだった。

彼は、金もない、才能も枯れかけた、ただの冴えない男だ。

ナラのような美しく強い女性が、命がけで守るような価値などないはずだ。


「僕には、何もありません。……貴女に返すものなんて……」


ナラは、立ち止まった。

街灯の下、彼女の黒髪が艶やかに光る。


「……ヴィンス。あんた、覚えてる?」


「え?」


ナラは、遠くを見るような目をした。


「あたし、たまたま街を歩いてたの。……公園のベンチで、あんたが新作のプロットを練っているのを見たわ」


「えっ……?」


ヴィンスは驚いた。そんな前から見られていたなんて。


「風が吹いて、あんたの書き損じの原稿用紙が飛んでいった。……それは、泥水の中に落ちた」


ナラは、静かに語り出した。


「普通の人間なら、書き損じなんてゴミだと思うでしょう?……でも」


彼は、泥水の中に手を入れて、その紙を拾い上げたのだ。

そして、自分のハンカチで丁寧に泥を拭き取り、乾かしてから、大切そうに鞄にしまった。


「あんたは言ったわね。『……ごめんな。上手く書いてあげられなくて』って」


「……!」


ヴィンスの顔が赤くなる。

誰にも聞かれていないと思っていた独り言。


「あたし、それを見て思ったの」 


ナラは、ヴィンスの胸に手を当てた。


「この人は、自分の生み出した『物語』を、命と同じくらい大切にしているんだって」


ナラの声が、優しく響く。


「たとえ失敗作でも、書き損じでも。……そこに込められた想いを、決して粗末にしない。……そんな人間が書く物語が、三流なわけがないわ」


ナラは微笑んだ。

それは、あの大立ち回りの時のような不敵な笑みではなく、聖母のような慈愛に満ちた笑顔だった。


「ナラさん……!」


「だから、助けたのよ。あんた、作家を続けなさい!書き続けるのよ。……自分の物語を」


ヴィンスの目から、涙が溢れ出した。

止めどなく、溢れてくる。

彼は、作家として、人間として、これ以上ないほどの「肯定」を受けたのだ。


「……書きます。……必ず」


ヴィンスは泣きながら誓った。


「最高の……最高のハッピーエンドを、書きますから……!」


「ええ。期待してますわ」


ナラは、ヴィンスの肩を叩いた。


「さあ、お母様。……帰りましょうか」


「ああ。お腹が空いたねぇ」


二人は、ヴィンスに背を向け、歩き出した。


「……あの!」


ヴィンスが叫ぶ。


「貴女たちの物語も……いつか、書いていいですか!?」


ナラは振り返って、笑った。


「許可しますわ。……ただし! あたしは絶世の美女に、お母様は超天才に描くこと! 捏造は許しませんわよ!」


「注文が多いねぇ!」


エラーラが笑う。

二人の姿が、夜の闇に溶けていく。

ヴィンスは、その背中が見えなくなるまで、深く頭を下げ続けた。


・・・・・・・・・・・・


数日後。

獣医院のリビング。


「……で? これがその『傑作』ですの?」


ナラは、届けられたばかりの新作脚本を読み終え、テーブルに置いた。

タイトルは『黒衣の聖女と白衣の魔女』。


「い、いかがでしょう……?」


ヴィンスが、緊張した面持ちで尋ねる。


「……まあ、悪くはありませんわね」


ナラは、ツンとした顔で言ったが、その頬は緩んでいた。


「あたしの美しさが、実物の半分も表現されていませんけれど……。ま!今回は合格点にしてあげますわ」


「よ、よかったぁ……!」


ヴィンスがへなへなと座り込む。


「お母様はどう思いまして?」 


実験室から、エラーラが顔を出した。

手には、同じ脚本を持っている。


「論理的に分析して……感情移入度、構成力、カタルシス、全てにおいて高水準だ。特に、この私の魅力を完璧に捉えているね!」


「自画自賛はおやめなさい」


リビングに、笑い声が広がる。

そこには、ケンジも、アリアも、ゴウも、ルルもいた。

そして、遅れてやってきたカレル警部も。


「やあ、また騒がしいね。……ドーナツの差し入れだよ」


「あら、警部さん! 気が利きますわね!」


ナラは、ドーナツを頬張りながら、幸せそうに目を細めた。

事件は解決した。

奪われかけた物語は、より輝きを増して、再び動き出した。

そして、ここにある「日常」という物語もまた、騒がしく、愛おしく続いていく。


「……ねえ、お母様」


ナラが小声で呼ぶ。


「なんだい?」


「あたし……人間が好きだわ」


「……うん?」


「愚かで、弱くて……でも、必死に物語を紡ごうとする人間が、好きよ」


ナラは、集まった人々を見渡した。

誰もが、それぞれの人生の主人公だ。

傷つきながら、泥にまみれながら、それでも笑っている。


「……私もだよ、ナラ」


エラーラは、ナラの肩を抱き寄せた。


「そして、そんな人間を愛する君が、私は好きだ!」 


二人は微笑み合い、そしてまた、仲間たちの輪の中へと戻っていった。


「ヴィンス! 次はもっとアクション多めでお願いね!」


「ええっ!?これ以上ですか!?」


王都の片隅。

ヴェリタスの怪奇相談所には、今日も温かい灯火が灯っている。

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