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第1話:犯人を見過ごす探偵!

●実質第1話

冷たい雨が、石畳を容赦なく叩いていた。


「ハァ……ハァ……ッ!」


男が走る。

泥にまみれ、足を引きずりながら。

彼の名はヴィンス。しがない劇作家だ。

だが今の彼は、王都中を騒がせている「大女優セシリア殺害事件」の最重要容疑者であり、世間からは「嫉妬に狂って愛人を殺した三流作家」というレッテルを貼られた逃亡者だった。


(違う!僕は……殺していない!)


心の中で叫んでも、誰にも届かない。

世間は残酷だ。真実よりも、「劇作家が自らの悲劇を演じた」という分かりやすい物語の方を好んで消費する。


「あっちだ!警察犬が反応したぞ!」


「逃がすなッ!袋小路に追い込め!」


追手の声が近づく。

ヴィンスは絶望的な目で周囲を見回した。

目の前に、古びたレンガ造りの建物がある。

獣医院。

電気はついている。

彼は、藁にもすがる思いで裏口のドアを押し開け、中へと転がり込んだ。


「うわぁぁぁっ!!」


ヴィンスは派手に転倒し、床を滑った。

そこは……温かいスープの匂いと、消毒液の匂いが混ざった奇妙な空間だった。


「おや?」


「あら?」


目の前には、大型犬の包帯を交換していた優しそうな眼鏡の男性と、その手伝いをしていたエプロン姿の女性。そして、床を拭いていた少年がいた。

院長のケンジ、妻のアリア、そして助手のゴウだ。

ヴィンスは慌てて立ち上がり、威嚇した。


「動くな!声を出すな!さもないと……」


「あ?…いらっしゃい。急患かい?」


ケンジが、あまりにも自然に返答した。


「へ?」


「ひどい雨だったでしょう?タオル、使いますか?」


アリアがふかふかのタオルを差し出す。


「え?」


「おじさん、泥だらけだね。散歩の途中で転んじゃったの?」


ゴウが心配そうに覗き込む。


「ち、違う!僕は……逃げているんだ!追われていて!」


ヴィンスは必死に悪人面を作ろうとした。

だが、ケンジは困ったように眉を下げただけだった。


「……ああ、狂犬病の予防接種から逃げてきたのかい?それはいけないな。注射は痛いけどね」


「人間だと言っているだろうッ!! 誰が狂犬だ!」


「あらごめんなさい。でも、ここ獣医なんです。犬用の栄養剤でも飲みます?」


アリアが笑顔で缶詰を開けようとする。


「いらん!なんだこの家は!緊張感がないのか!?」


ヴィンスが叫んだ、その瞬間だった。


ドカァァァァァァァン!!!!


頭上から、建物全体を揺るがすような爆発音が響いた。

天井の漆喰がパラパラと落ちてくる。


「ひぃッ!? な、なんだ!?」


ヴィンスが悲鳴を上げる。


「ああ、またか……」


ケンジたちが慣れた手つきで天井を見上げる。

二階への階段から、もうもうたる黒煙と共に、二つの影が降りてきた。


「ゲホッ、ゲホッ……! 失敗だ!計算式に致命的なバグがあったようだねぇ!」


白衣を煤だらけにした銀髪の美女が、目を輝かせて叫んだ。

その手には、ひしゃげたフラスコが握られている。

エラーラ・ヴェリタス。この家の居候にして、世界最強の魔法使いだ。


「失敗?……テロです!これはあたしの優雅なティータイムに対する、明確なテロ行為ですわよ、お母様!」


続いて降りてきたのは、漆黒のドレススーツを纏った黒髪の美女。

ナラティブ・ヴェリタス。

彼女は美しかった。泥だらけのヴィンスですら見惚れるほどに。

だが、その表情は鬼のように怒っており、手にはへし折れた鉄扇が握られていた。


「いいかねナラ君! 科学の進歩には犠牲がつきものだ! 今回の爆発で、コーヒー豆の焙煎時間が0.5秒短縮できる可能性が……」


「やかましいですわ!廊下が焦げましたのよ?アリアさんに謝りなさい!」


「すまんアリア君! 修理費は……出世払いで頼む!」


「いつ出世するんですか!」


嵐のような二人。

ヴィンスは、ポカンと口を開けてその光景を見ていた。

追われていることも、自分が絶体絶命であることも、一瞬忘れてしまうほどのカオス。


「……あの、お客さんですよ」


ゴウが指差す。

エラーラとナラが、ようやくヴィンスに気づいた。


「おや? 君は……」


エラーラがヴィンスをじろじろと見る。


「ふむ。……死相が出ているね」


「は?」


「いや、正確には『社会的な死』のパラメーターが異常値だ。……君、さては、いま、人生が……」


ヴィンスはギクリとした。

この女、何者だ? 一目で僕の状況を見抜いたのか?

次に、ナラが近づいてきた。

彼女はヴィンスの前に立ち、その濡れた髪と、絶望に満ちた瞳を覗き込んだ。


「……つまらない顔」


ナラは、冷ややかに言い放った。


「え……?」


「あんた、自分の人生を、他人に書かせてますわね?」


「なッ……!?」


図星だった。

犯人に仕立て上げられ、世間の噂に流され、逃げることしかできない自分。

まさに、誰かが書いた「三流の悲劇」の登場人物そのものだ。


「……僕は……書かせたくて書かせたんじゃない……!」


「言い訳は結構。……見苦しいですわ」


ナラは、ヴィンスの胸にハンカチを押し付けた。


「泥を拭きなさい。……一流の男はね、どんなに追い詰められても、身だしなみだけは忘れないものよ」


その時。

玄関のドアが、激しく叩かれた。


「王都警察だ!付近で指名手配犯の目撃情報があった!開けなさい!」


警官の声。

ヴィンスの心臓が止まりかけた。

終わりだ。ここには逃げ場がない。


「……くそっ!」


ヴィンスは窓から逃げようとした。

だが、その襟首を、ナラがガシッと掴んだ。


「お待ちなさい!」


「は、離せ!」


「静かになさいな」


ナラは不敵に笑うと、ヴィンスを強引にキッチンの陰に押し込んだ。


「そこにいなさい?」


「え……?」


「開いてるよー!」


エラーラが呑気にドアを開けた。

入ってきたのは、トレンチコートを着た恰幅の良い警部――カレル警部だ。

その後ろには、数名の部下が控えている。


「やあ、エラーラ君。ナラ君も。……夜分にすまないね」


カレル警部は帽子を取り、鋭い眼光で室内を見渡した。

その目は、ただの世間話に来た目ではない。獲物を探す狩人の目だ。


「どうしましたの、警部さん?また事件?それともお母様の爆発音への苦情かしら?」


ナラが優雅に紅茶を飲みながら応対する。


「いや……。実は、この近くで、ある事件の犯人、ヴィンスが目撃されてね」


カレルは、手配書を広げた。

そこには、ヴィンスの顔写真が大きく載っている。


「こいつだ。……見ていないかね?」


ケンジとアリアが顔を見合わせる。

ゴウが視線を泳がせる。

彼らは嘘がつけない善人だ。


(ダメだ……バレる……!)


キッチンの陰で、ヴィンスは息を殺した。


「ふむ……。どこにでもいそうな、冴えない男だねぇ」


エラーラが手配書を覗き込み、興味なさそうに言った。

カレルは、じっとエラの目を見て、それからナラの方を向いた。


「……ナラ君。君も、見ていないかね?」


ナラは、カップをソーサーに置いた。

カチャン、という音が響く。

そして、ゆっくりと顔を上げ、カレルを見据えた。


「……見てませんわ?」


ナラは微笑んだ。

完璧な、一点の曇りもない「淑女」の笑みで。


「こんなむさ苦しい男、あたしの美意識に反しますもの。視界に入っても、脳が認識を拒否しますもの」


「……そうか」


カレルは、ふぅと息を吐いた。

そして、踵を返そうとした――その時。


「……くしゅんッ!」


ヴィンスが、くしゃみをしてしまった。

雨に濡れた体が、限界だったのだ。

最悪のタイミング。


「……!」


カレルが振り返る。

部下たちが銃に手をかける。


「誰だ!?」


ヴィンスは絶望した。

終わった。


「あら、失礼」


ナラが立ち上がり、キッチンの陰からヴィンスを引っ張り出した。


「さ、出てきなさい」


ヴィンスが目を丸くする。

ナラは、ヴィンスの頭を乱暴に押さえつけ、無理やり頭を下げさせた。


「紹介しますわ、警部さん。……今日からウチで雇った、新しい使用人ですの」


カレルが眉をひそめる。


「路地裏で拾いましたの。……顔は悪いし、要領も悪いし。……まあ、ドブさらいくらいには使えそうですわ」


ナラは、ヴィンスの背中をバンと叩いた。


「ほら、挨拶なさい! 警察の方よ!」


「あ、あ……どうも…………」


カレル警部が、ヴィンスの顔をじっと見る。

そして、手元の手配書を見る。

似ている。

どう見ても、同一人物だ。

ヴィンスの心臓が、早鐘を打つ。

カレルの目が、ヴィンスの目を射抜く。

逃げられない。


「……」


長い、長い沈黙。

カレルは、ゆっくりと手配書を畳んだ。

そして、ナラの方を向き、呆れたように言った。


「……ナラ君。君は、人使いが荒いな?」


「あら、人聞きの悪い。……教育熱心と言ってくださる?」


「『拾ったばかり』の使用人を、こんな夜遅くまで働かせるとは……」


カレルは、ヴィンス――『使用人』に向かって、小さく頷いた。


「……精々、仕事を『解決』するまでこき使われるといい。ただ、この家のご婦人方は、手厳しいからな」


「え……?」


ヴィンスは耳を疑った。

カレルは、部下たちに向かって号令をかけた。


「よし、行くぞ!『犯人』は、ここにはいない!」


「えっ!? 警部、しかし今の男……」


部下の一人が食い下がる。


「ただの使用人だ。……ナラ君とエラーラ君が身元を保証しているんだ。間違いあるまい」


カレルの言葉は、絶対だった。

彼は、この国で最も「真実」を見る目を持つ刑事だ。

そして、彼は知っているのだ。

エラーラ・ヴェリタスと、ナラティブ・ヴェリタスという二人の女が、決して「悪人」を匿うような人間ではないことを。

彼女たちが守るなら、そこには必ず「理由」がある。


「失礼した。……夜食の邪魔をしたな」


カレルは帽子を軽く持ち上げ、出て行った。

パトカーの音が遠ざかっていく。

ヴィンスは、その場にへたり込んだ。

腰が抜けて、立てない。


「……なんで……?」


ヴィンスは震える声で聞いた。


「あいつ……気づいてたぞ。僕がヴィンスだって……。なのに、なんで……」


「気づいてたでしょうね。」


ナラが、冷めた紅茶を飲み干した。


「でも、見逃した。……なぜだと思う?」


「……わかんないよ」


「信用よ」


ナラは、ヴィンスを見下ろした。


「あたしと、お母様への、絶対的な信用。……『ヴェリタスが守る人間なら、そいつはなにか事情がある』。あの石頭の警部は、そう判断したのよ」


ヴィンスは言葉を失った。

警察が、眼の前の指名手配犯を逃して、この二人の判断を信じる?

一体、この二人は何者なんだ?


「……感謝したまえよ?」


エラーラが、ニヤリと笑った。


「君は今、この国で最強の『保証人』を手に入れたんだ」


「……」


ヴィンスの目から、涙がこぼれた。

安心感と、情けなさと、そして小さな希望。


「……僕は、やってないんだ。……本当に、殺してない……」


「分かってるわよ」


ナラは、しゃがみ込み、ヴィンスの顔を覗き込んだ。


「あんたの目は、人を殺せる目じゃない。……ただの、ビビリで泣き虫な三流作家の目よ」


ナラは、ハンカチでヴィンスの涙を拭った。


「さて、依頼料の話をしましょうか」


「……依頼料?」


「ええ。あたしたちは『怪奇相談所』。……タダで助けるわけにはいきませんわ」


ナラは、不敵に笑った。


「あんたの『物語』……あたしが買い取ってあげる。その代わり、結末はあたしが決めるわよ?」


「……結末?」


「当然、ハッピーエンドよ。……悲劇なんて、あたしの趣味じゃありませんもの」


ナラは立ち上がり、エラーラに向かってウインクした。


「お母様。……大仕事になりそうですわよ?」


「望むところだ!」


ヴィンスは、二人を見上げた。

黒いドレスの悪魔と、白衣の魔女。

常識外れで、強引で、そしてとてつもなく頼もしい二人。

ヴィンスは、震える手で涙を拭った。

そして、初めて「自分の言葉」で言った。


「……頼みます。……僕の物語を、書き直してください!」


「契約成立ね」


ナラは手を差し出した。


「立ちなさい、ヴィンス。反撃の幕開けよ」


王都の夜は更けていく。

雨は上がり、雲間から月が顔を出していた。

逃亡者と、最強の親子。

奇妙な共同戦線が、今ここに結成された。


「さて、まずは腹ごしらえだ!アリア君、特大のオムライスを!」


「はいはい!」


「あ、あたしは大盛りで!」


「ぼ、僕も……」


笑い声と、食器の触れ合う音が、獣医院の窓から漏れ出していた。

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