第1話:猫屋敷の夢(1)
キィ、という微かな音が、静寂に満ちた空間を揺らした。
空気圧で制御された重厚な扉が、音もなくスライドしていく合図だ。
私は、読んでいた本のページに栞を挟み、弾かれたように顔を上げた。
本といっても、それは私たち「人間種」のために特別に加工された、破れにくく、怪我をしないように角が丸められた玩具のようなものだ。書かれているのは、当たり障りのない物語。私がかつて知っていた、血と泥にまみれた歴史書とは違う。
私はソファから飛び降りた。
床は、転んでも痛くないように特殊な弾性素材で覆われている。裸足の足裏に吸い付くような、生暖かい感触。
私は廊下を駆け抜けた。期待と、ほんの少しの恐怖と、そしてどうしようもない依存心を胸に抱いて。
そこに立っていたのは、私の──「お母様」だった。
天井に届きそうなほど巨大なシルエット。
人間のような形をしているが、その肌は陶磁器のように白く、滑らかな光沢を帯びている。纏っているのは服ではない。身体の一部が変質して形成された、純白の殻だ。
顔には、目鼻立ちの代わりに、黄金色に輝く巨大な複眼のような器官がある。それが、琥珀色の光を放ちながら、足元の小さな私を見下ろしていた。
お母様は、私たちの可聴域にある言葉を発しない。
ただ、全身から放たれる「慈愛」の波動と、甘いフェロモンで感情を伝えてくる。
『……いい子だ』
脳内に直接響くような感覚。
お母様は、その巨大な体をゆっくりとかがめると、顕微鏡のピントを合わせるような繊細さで、滑らかな指先を私の頭へと伸ばした。
指一本が、私の腕ほどの太さがある。その気になれば、私の頭蓋骨など卵の殻のように粉砕できるだろう。
けれど、その指は羽毛よりも軽く、私の髪を梳いた。
私は、抗えずに目を細めた。
背筋がぞくぞくするような快感。
薬品のようなツンとする香りと、深煎りの珈琲のような芳ばしい香り。それがお母様の匂いだ。
その匂いに包まれると、私の思考は白く濁り、ただ「守られている」という安堵感だけが残る。
これが、私たちの日常。
人間が、かつて地球と呼ばれたこの星の支配者ではなくなってから、もうずいぶんと長い時が流れた。
記憶の底にある光景が、走馬灯のように明滅する。
あの日。
空が割れ、お母様たち「高次元生命体」が降りてきた日。
人類は、愚かにも抵抗した。
ミサイルを撃ち、戦車を走らせ、魔術を放ち、必死に叫んだ。
私も戦った。泥にまみれ、傷だらけになりながら、鉄扇を振るい、瓦礫の山で叫び続けた。
自分の人生は自分で決める。誰にも支配させない。
それが、私の「物語」だったから。
だが、その全ては、彼女たちにとっては「遊び」ですらなかった。
お母様様が与えてくれた、検閲済みの歴史書にはこう記されている。
『第一次接触時、原生生物は非常に活発な反応を示した。彼らは小さな金属片を飛ばし、爆発音を鳴らし、身体を激しく動かして歓迎の意を表した』
彼女たちは、私たちの必死の抵抗を、「威嚇」ですらなく、「愛らしい求愛行動」あるいは「癇癪」だと解釈したのだ。
ミサイルは、巨大な指先で優しく摘まれ無害化された。
戦車は、ひっくり返されて装甲の腹をくすぐられた。
決死の特攻隊は、虫取り網のような結界で優しく捕獲され、すすだらけの顔をハンカチで拭われた。
『怖がらなくていい。……保護してあげる』
私が、瓦礫の中で最後の抵抗を試みた時。
お母様は、私の鉄扇を小指の先で押さえ込み、私をひょいと持ち上げた。
私は暴れた。噛み付き、喚き、呪いの言葉を吐いた。
けれど、お母様は黄金の瞳を細め、私の泥だらけの頬に頬ずりをしたのだ。
『……元気な子だ。汚れてしまって、可哀想に。……もう大丈夫だよ。私が綺麗にしてあげる』
その瞬間、私の世界は崩壊した。
私の「戦い」は、彼女にとっては「泥遊びをして迷子になった子猫」の姿にしか見えていなかった。
圧倒的な力の差。
そして、圧倒的な「善意」。
悪意で踏みにじられるなら、まだ戦えた。憎むことができた。
けれど、彼女たちは私たちを「愛して」しまったのだ。
壊れやすい、庇護すべき、愛玩動物として。
そうして人類は飼われ始めた。
首輪をはめられ、識別チップを埋め込まれ、快適すぎる住居と、栄養管理された食事を与えられた。
我々は、かつて我々が愛玩した生物――ネコのような存在になったのだ。
お母様が、巨大な買い物袋のようなものから、何かを取り出す音がする。
カサカサという音。
それは、私の中にある「飼いならされた本能」を刺激した。
私は、期待に胸を膨らませるネコのように、お母様の足元にすり寄っていた。
プライド? 矜持?
そんなものは、この部屋の空調と共に吸い出されてしまったのかもしれない。
今の私にあるのは、「お母様に喜んでもらいたい」「褒めてもらいたい」という、生存本能に直結した欲望だけ。
袋から出てきたのは、美しい布地だった。
私のサイズに仕立てられた、漆黒のドレス。レースやフリルがついているが、私の好みを分析し尽くしたデザインだ。
『……似合うと思ってね。着てごらん』
お母様の思念が響く。
私は、そのドレスを押し戴くように受け取った。
私は笑った。
かつて、泥の中で見せた獰猛な笑みではない。
飼い主に媚びる、愛らしいペットの笑顔で。
お母様は満足げに、再びあたしの頭を撫でた。
その指の腹の指紋の一つ一つが、私の全身を包み込むほど大きい。
逃げ場はない。
この琥珀色の檻からは、一生出られない。
でも、ここは温かい。
飢えることも、寒さに震えることも、誰かに傷つけられることもない。




