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第3話:侵食される日常(3)

雨の降る朝だった。

獣病院の二階、自宅兼事務所には、不自然なほどの静寂と、計算され尽くした芳醇なコーヒーの香りが漂っていた。


「おはよう、ナラ。……今日の気圧配置から計算して、君の偏頭痛を予防するハーブティーもブレンドしておいたよ」


キッチンに立つアルクは、皺一つない白衣を纏い、完璧な微笑みでナラを迎えた。

彼は背を丸めてカップの縁をつまむ独特の仕草で、ソーサーをテーブルに置く。その動作には一点の無駄もなく、洗練されていた。


「ありがとう、お父様!……さすが、一流の気配りね」


ナラは席につき、湯気の立つカップを手に取った。

窓の外は雨。けれどこの部屋の中だけは、暖炉のような温かさと安心感に満ちている。

父と娘の、理想的な朝食風景。

ナラは幸せを噛み締めながら、ふと、昨日二人で解決した事件の話を振った。


「それにしても、昨日の『下水道の巨大スライム事件』、お父様の采配はお見事だったわね」


それは、王都の地下水道に産業廃棄物を食べたスライムが発生し、水道管を詰まらせていた事件だ。


「ああ。スライムの粘液組成を瞬時に解析し、中和剤を散布して凝固させたね。被害を最小限に抑えつつ、環境負荷も考慮した最も論理的な解決策だったよ」


アルクは満足げに頷き、自分のコーヒーにミルクだけを注いで、上品に口へ運んだ。


「……ええ、そうよね。スマートだったわ」


ナラは微笑んで同意した。

同意して、カップを口元へ運び――そして、手が止まった。


(……中和剤?)


ナラの脳裏に、霧がかかったような記憶の断片がフラッシュバックする。

それは、昨日とは違う、もっと古い、けれど鮮烈な「いつもの記憶」。


『違う』


ナラの内なる声が囁く。


『お父様なら、きっとこう言ったはずよ』


『フン……興味深い!このスライムの核を採取して、ゼリーの弾力性の研究に使おう!』


そして、中和剤なんて常識的なものは使わない。

間違えて『燃焼促進剤』を投げ込み、下水道で小規模な爆発を起こして、二人で煤だらけになって、アリアさんに剣を持って追い回されながら「実験は成功だ!」と笑い合ったはずだ。


(……被害を最小限?いいえ、被害を拡大させるのが「いつもの日常」よ)


ナラは目の前の「お父様」の手元を見た。

彼は、コーヒーをブラックに近い状態で飲んでいる。


(……お父様は、重度の砂糖中毒よ。カップの底にジャリジャリするほど角砂糖を入れなきゃ、脳が働かないと言って不機嫌になる人よ)


ナラの背筋が、冷たい手で撫で上げられたように凍りついた。

記憶の中の父と、目の前の父が一致しない。

昨日までの「完璧で幸せな日々」が、まるで精巧に描かれた絵画が雨に濡れて溶け出すように、ドロドロと崩れていく。

この部屋は綺麗すぎる。

この白衣は白すぎる。

この日常は正解すぎる。

このお父様は……

……『お父様』?

ナラは震える手を膝の上で握りしめた。

確かめなければならない。決定的な齟齬を。


「……ねえ、お父様」


「なんだい? ナラ」


アルクが優しい瞳でこちらを見る。その黒い瞳が、今は底知れぬ深淵のように見えた。


「……あのスライム、何色だった?」


「え? 緑色だったじゃないか」


アルクは即答した。迷いなく、自信たっぷりに。


「……嘘よ」


ナラは立ち上がった。椅子が倒れる音が響く。


「あいつは『ピンク色』だった。……お父様が先週、実験で川に不法投棄した失敗作の蛍光試薬を食べて変異したから、ピンクに光ってたのよ!」


室内の空気が、ピタリと止まった。

雨音さえも聞こえなくなったような、真空の静寂。


「……おや。計算外だな」


アルクがゆっくりと、カップをテーブルに置いた。

彼の顔から、「理想的な父親」の表情筋が抜け落ちていく。

口角が下がり、目が虚ろになり、そして背中がぐにゃりと奇妙な角度に曲がった。


「君の記憶と認知バイアスは、完璧に書き換えたはずなのに。……やはり君の、『お母様』に対する執着心は、僕の計算式を超えているのか」


声のトーンが変わる。

知的で温厚なバリトンボイスから、湿り気を帯びた、爬虫類が這い回るような粘着質な声へ。


「……あんた、誰?」


ナラは後ずさり、懐の鉄扇に手をかけた。


「お父様……いや、お母様を、どうしたの!?」


「消したよ」


アルクは、まるで今日の天気を語るように淡々と言った。


「正確には、この世界から『お母様』という概念の彼女を隔離し、僕がそのポジションに収まるように、王都全土に大規模な『認識改変術式』を展開したんだ」


「認識……改変……?」


ナラは言葉を失った。

この男は、何を言っている?


「そうさ。一階の連中も、街の連中も……みんな、『アルクこそがナラの父親であり、最高の賢者だ』と思い込むように脳を書き換えた。世界そのものを、僕が主役の脚本に書き直したんだよ」


アルクが、ゆらりとナラに近づく。

その動きには、もう人間らしいリズムがなかった。


「なぜ……そんなことを……」


「愛だよ、ナラ」


アルクの瞳が、恍惚とした光を帯びる。


「僕は君を観察していた。ずっと、ずっと前から。……君が『お母様』に向ける、あの盲目的な愛。信頼。依存。『お母様』と呼ぶ時の、甘えた声。……それが欲しくて欲しくて、たまらなかった」


彼はエラーラの地位が欲しかったわけでも、力を誇示したかったわけでもない。

ただ、ナラに愛されたいがために、世界を改変したのだ。


「『お母様』なんて欠陥品より、僕の方が君を完璧に愛せる。……どうだった?この数日間、君は世界で一番幸せだっただろう?完璧な料理、完璧なエスコート、そして、完璧な父!」


「……気持ち悪い」


ナラは全身の毛が逆立つのを感じた。

恐怖ではない。生理的な嫌悪感だ。

この男は、あたしの心を覗き見し、あたしの好みに合わせて自分を整形し、あたしの人生を乗っ取ろうとしたのだ。


「近づかないで!」


ナラは鉄扇を抜こうとした。

だが、指が動かない。


「無駄だよ」


アルクがクスクスと笑う。


「この部屋は僕の支配領域だ。空気中のマナ濃度、重力、因果律……全て僕が掌握している。君は指一本動かせない」


見えない鎖に縛られたように、ナラの身体が硬直する。

アルクが目の前まで迫る。

彼の顔が、ドアップになる。整った顔立ちだが、その奥にある狂気が、皮膚の下で蠢いているのがわかる。


「さあ、諦めて僕の娘におなり。……『お母様』はもういないんだよ。次元の彼方の虚数空間に放り込んだ。あそこは時間も空間もない『無』の世界だ。二度と帰ってこられない」


「……ッ!」


「もし『お母様』を返して欲しければ……僕にキスをして、『お父様、愛してる』と言ってごらん?」


アルクの冷たい指が、ナラの頬に触れる。

ナラは叫ぼうとしたが、声が出ない。

絶望。

圧倒的な力と狂気の前で、ナラはただの無力な人形だった。

世界中が敵に回ったような孤独。

誰も助けに来ない。だって、みんな書き換えられているのだから。


(お母様……助けて……)


ナラの目から、涙がこぼれ落ちた。

その時。

空間が、ガラスのように砕け散った。

窓でもドアでもない。部屋の中央、何もない空間に亀裂が走り、そこから真っ白な光が漏れ出した。


「……私のコーヒーに砂糖を入れないとは、万死に値するねぇ」


聞き覚えのある、ハスキーで、少し不機嫌な声。

空間の裂け目から、ぬっと手が伸びた。

その手は、白衣の袖が少し焦げていて、インクの染みがついていた。


「な……!?」


アルクが目を見開く。

空間を引き裂いて現れたのは、ボサボサの銀髪に、ヨレヨレの白衣。

そして、鬼のような形相で仁王立ちする、本物の『お母様』、エラーラ・ヴェリタスだった。


「エ、エラーラ!?バカな!虚数空間からの脱出確率はゼロのはず……!」


アルクが悲鳴を上げる。


「きょすうくうかん?……フム、あんなものは虚数空間とは呼べないのだよ。…君の計算式は美しいが、変数が足りない……」


エラーラは早口で捲し立てながら、一歩踏み出した。その足元から、アルクが展開していた支配領域がガラスのように砕け散っていく。


「『ナラが私を忘れる』という前提がまず間違っている。……あの子のマザコン属性はね、時空の壁くらい平気で超えてくるんだよ!」


エラーラが指を鳴らす。

その音が波紋のように広がり、世界を覆っていた「呪い」が霧散した。

一階から怒号が聞こえる。


「……術式、解除完了だ」


エラーラはアルクの襟首を掴み、ゴミのように床に放り投げた。


「さあ、ナラ君。……偽物に、教育的指導の時間だよ」


呪縛が解けたナラは、涙を拭い、そして般若のような形相へと変貌した。


「……よくも……よくも、あたしの純情と、お母様との思い出を汚したわね……」


ナラは鉄扇を振りかぶった。


「このド変態ストーカー野郎がぁぁッ!!」


アルクが吹き飛ぶ。

そこに、階段を駆け上がってきたケンジが、アリアが、追撃を入れる。

さらに、ゴウがモップで叩き、窓から侵入したルルが最大出力のスタンガンを押し当てる。


「ギャァァァァッ!!」


袋叩きにされるアルク。

彼は床を這いつくばり、鼻血を出しながらエラーラに縋りついた。


「え、エラーラさん! お、同じ探求者としてお助けを……!」


「……おなじたんきゅうしゃ?……」


エラーラは冷徹に見下ろし、右の拳を握りしめた。


「君の淹れたコーヒーは、苦すぎて脳細胞が死滅するかと思ったよ」


エラーラの渾身の右ストレートが、アルクの顔面にめり込んだ。

アルクはきりもみ回転して壁に激突し、白目を剥いて気絶した。

完璧だった白衣はボロボロになり、整った顔は見る影もない。


パトカーのサイレンが響く。


「はい、確保。公務執行妨害、住居侵入、ストーカー規制法違反、あと大規模な魔法テロ未遂だね」


カレル刑事が、紐でぐるぐる巻きにされたアルクを引きずっていく。


「やれやれ。とんだサイコパスだったな。……ナラ君、無事か?」


「ええ。……でも、気分は最悪よ」


ナラはため息をつき、めちゃくちゃになった部屋を見渡した。

アルクが作った「完璧なインテリア」は破壊され、いつものカオスな状態に戻っている。

散らばった書類、猫の毛、そして焦げた匂い。

でも、そこには安心する空気があった。


「……ふん。やっぱりこっちの方が落ち着くわね」


ナラはキッチンへ行き、砂糖壺の中身を半分くらい入れた、極甘の「泥水のような」コーヒーを淹れた。


「はい、お母様。……いつものよ」


エラーラはそれを受け取り、一口啜ると、満足げに目を細めた。


「ああ。やはりコーヒーはこうでなくては。……ジャリジャリする食感が、脳を活性化させるんだ」


「……バカみたい。糖尿病になっても知らないから」


ナラは涙目で笑った。


「おかえり、お母様。……もう二度と、あんな変な奴に席を譲らないでよね」


「善処しよう。……だが、君があの偽物に『大好きよ、お父様!』と抱きついていた録音データは、私の研究資料として永久保存させてもらうがね」


「はぁ!? 消しなさいよ! 今すぐ!! 消せぇぇぇッ!!」


「嫌だね! これは君のアーカイブだ!」


ギャーギャーと言い合う二人。

一階からはケンジとアリアの呆れた笑い声が聞こえ、猫たちが「また始まった」とあくびをする。

完璧ではない、欠点だらけの、けれど何よりも愛おしい日常が、そこにはあった。

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