第2話:侵食される日常(2)
休日の午後。獣病院の二階は、まるで王宮のティーサロンのような優雅さに包まれていた。
テーブルには、アルクの手作りスイーツが所狭しと並べられている。
「……すごい。お店で売ってるのより美味しいわ!」
ナラは頬に手を当ててうっとりとした。
「当然さ!糖度、粘度、焼き加減。全てを黄金比で計算したからね。……甘いものは脳の回転を助ける。さあ、もっと食べたまえよ」
アルクは椅子の上にしゃがみ込むような姿勢で座り、角砂糖を積んで遊んでいる。
そこへ、窓から古着を着た少女が侵入してきた。
情報屋のルルだ。
「……ナ、ナラちゃん……。き、今日も尊い……。その笑顔……プライスレス……」
「あらルル。玄関から入りなさいっていつも言ってるでしょう」
「……だ、だって……ナラちゃんのプライベート空間に……侵入する背徳感が……」
ルルはナラを見て顔を赤らめたが、アルクの方を見ると、少しだけ複雑そうな顔をした。
「……あ、アルクさん……。こ、こんにちは……」
「やあ、ルル君。君の好きなイチゴ大福も用意してあるよ。……成分分析の結果、君の好みの餡の糖度は52%だと判明したからね」
「……ひぃっ! す、すごい……完璧……。ありがとうございます……」
ルルはイチゴ大福を頬張りながら、ナラに耳打ちした。
「……ナラちゃん。アルクさん……すごいね。……何もかも完璧……。ちょっと……完璧すぎるくらい……」
「でしょう? 自慢のお父様よ!」
ナラは胸を張った。
ルルは何か言いたげだったが、ナラの幸せそうな顔を見て、言葉を飲み込んだ。
「……うん。ナラちゃんが幸せなら……それが一番……」
「ナラ。今日は天気もいいし、買い出しに行こうか」
「ええ! 行きましょう!」
ナラとアルクは腕を組んで王都の大通りを歩く。
すれ違う人々が振り返るほどの美男美女の親子だ。
「お父様、見て! あのドレス、素敵じゃない?」
「ふむ。……黒のベルベットか。君の肌の色とのコントラスト比率は最適だね。買おう」
「えっ、でも高いわよ?」
「問題ない。先日の特許収入が入ったからね。……君のためなら、この店ごと買ってもいいくらいさ」
アルクは迷わずカードを出し、ナラにドレスをプレゼントした。
ナラは試着室でドレスに着替え、くるりと回ってみせた。
「どう? 似合う?」
「……ああ。美しいよ、ナラ」
アルクは黒い瞳を細めた。その視線は、親が子を見る温かさというよりは、もっと熱烈で、粘着質な何かが混じっているようにも見えたが、ナラは気づかない。
「ありがとう、お父様! 一生大事にするわ!」
帰宅後、アルクは猫たちに囲まれていた。
普段、獣病院の猫たちは人間に媚びないが、アルクには懐いている――というより、アルクが猫を完璧にコントロールしていた。
「……ここを撫でるとゴロゴロいう確率は100%だ」
アルクが猫の顎の下を撫でると、猫は骨抜きになったように脱力する。
「すごいわお父様! 猫使いの才能もあるのね」
「動物行動学の応用さ。……支配するのは簡単だよ。相手が何を求めているか、完全に理解して与えればいいんだからね」
アルクはそう言って、ナラの方を見てニッコリと笑った。
「……君と同じだよ、ナラ」
「え?」
「君が何を求め、何をすれば喜ぶか。僕は全て知っているということさ」
ナラは顔を赤くした。
「もう、キザなんだから! ……でも、頼りにしてるわ」
夜。ナラはベッドの中で、今日一日の出来事を反芻していた。
美味しい食事。素敵なプレゼント。優しい言葉。
かつてのスラムでの過酷な日々が嘘のようだ。
(……幸せすぎて、怖いぐらい)
ナラは枕元の魔導ランプを消した。
隣の部屋からは、アルクがキーボードを叩く音が聞こえる。
きっとまた、新しい魔法理論の研究をしているのだろう。
「おやすみ、お父様」
ナラは安心して眠りについた。
明日も、明後日も、この幸せが続くと信じて。




