第14話:Revolution
主題歌:少女革命ウテナ/輪舞-revolution
https://youtu.be/Y_0VKKoj-A0?si=n64C8R9O5k8kyixl
王都から遠く離れた北の僻地。
荒涼とした大地に突如として現れるその場所は、かつて、前時代の支配者が「退屈しのぎ」のためだけに建設させた、悪趣味の極致とも言える巨大施設だった。
『ドリーム・スローター・ランド』。
錆びついた観覧車の骨組みが、墓標のように空を突き刺している。
メリーゴーランドの馬は、本物の馬の剥製で作られており、今は腐敗して骨が剥き出しになっている。
かつては悲鳴と笑い声が交差していたこの場所は、今、世界を再び闇に引きずり込もうとする亡霊たちの最後の砦となっていた。
「……ひどい臭いね」
血と、火薬と、そして腐りきった欲望の臭い。
それは、彼女が一番よく知っている、そして一番憎んでいる「過去」の臭いだった。
「ここが終着点だ、ナラ君」
隣に立つエラーラが、端末の画面を見つめながら告げる。
「この遊園地の中枢に『アカシック・ドライブ』の本体炉がある。……敵の反応多数。武装レベルは、これまでの比ではないよ」
「構わないわ」
ナラは、腰に差したサーベルの柄を強く握った。
その黒いドレススーツは、荒野の風にはためいている。
「あたしたちの手で終わらせるのよ。……私の悪夢も、あんたの呪いも」
二人は目配せをし、錆びついたゲートを蹴り破った。
『ようこそ、ヴェリタスの魔女ども!』
園内放送のスピーカーから、しゃがれた声が響き渡る。
この遊園地を占拠する武装集団『旧き血の盟約』のリーダー、ヴォルクだ。
彼は、前時代の支配者によって改造された狼の獣人であり、その強靭な肉体と歪んだ選民思想で部下を統率していた。
『ここには、お前たちの望む「平等」は……ある!』
「…なんですって?」
「フム……」
『不当な差別も、不当な偏見も、不当な格差もない!あるのは力!ただの力だ!そして、純粋な闘争のみだ!』
広場の中央、巨大なステージの上にヴォルクが現れた。
身の丈3メートルを超える巨体。全身に埋め込まれた魔導増幅器が、どす黒い光を放っている。
彼の背後には、青白く脈動する巨大な球体――『アカシック・ドライブ』の本体炉が鎮座していた。
『このドライブを起動すれば、世界中の人間の脳味噌を書き換えられる! 全員を純粋な生き物、つまり、闘争の獣に戻せるのだ! それこそが、生物本来の美しい姿だ!』
「……吐き気がするわ」
ナラは、サーベルを抜き放った。
「人間は獣じゃない。……痛みを知り、それを乗り越える『心』を持った生き物よ!」
『口先だけだ。本心ではないな。……殺れ!」
ヴォルクの号令と共に、数百人の武装兵と、生物兵器「キメラ・ゴーレム」が一斉に襲いかかってきた。
「行くわよ、お母さん!」
「了解だ! 背中は任せたまえ!」
戦闘が始まった。
ナラは最前線へ飛び込む。
彼女の剣技は、エラーラの薫陶を受け、鋭く洗練されていた。
迫りくる兵士の剣を受け流し、急所を突かずに関節を無力化する。
「どきなさい! あたしが用があるのは、あんたらのボスだけよ!」
だが、敵の数は多すぎた。
さらに、キメラ・ゴーレムたちは痛みを感じない。
腕を切り落とされても、その断面から触手を伸ばして攻撃してくる。
「くっ……!」
ナラは囲まれた。
四方八方からの刃。頭上からは魔法弾の雨。
エラが後方から障壁を展開し、援護射撃を行っているが、敵の増援は無限に湧いてくる。
「狙いはあの黒い女だ! 殺せ!」
ヴォルクが放った魔導砲が、ナラの足元で炸裂した。
爆風に吹き飛ばされ、ナラは瓦礫の中に叩きつけられる。
「がはッ……!」
「ナラ!」
エラーラが叫ぶ。
ナラが顔を上げると、目の前に子供のエルフがうずくまっていた。
流れ弾に巻き込まれそうになっている。
「危ないッ!」
ナラは反射的に子供に覆いかぶさった。
その背中に、敵兵の放った火炎魔法が直撃する。
「ああああああッ!!」
ナラの悲鳴。
耐熱仕様のスーツが焼け焦げ、白い背中の肌が焼かれる。
それでも彼女は、子供を離さなかった。
「……へへっ。いいザマだ」
ヴォルクが嘲笑う。
「平等だと言ったろう!弱者を守るからそうなる。……トドメだ。ミンチになれ!」
ヴォルクは、瓦礫ごとナラを圧殺しようと、巨大な鉄球を振り上げた。
死ぬ。
ナラの意識が遠のく。
ごめん、お母さん。あたし、やっぱり口だけの――。
その時だった。
世界から、音が消えた。
振り下ろされた鉄球が、空中で静止した。
燃え盛る炎が、凍りついたように揺らめきを止めた。
舞い上がる砂埃の一粒一粒までもが、完全に停止していた。
「……誰が」
静寂の戦場に、絶対零度の声が響いた。
「誰が、私の娘に触れていいと言った?」
ナラが薄く目を開けると、そこに「白」があった。
白衣を翻し、銀髪をなびかせ、静かに歩いてくるエラーラ・ヴェリタス。
彼女の全身から溢れ出す魔力は、黄金色を通り越し、透明な「虚無」の色を帯びていた。
それは、彼女が「過去へ帰るため」に温存していた、時空干渉用の膨大な魔力エネルギーそのものだった。
「エラーラ!……ダメ……使っちゃ……」
ナラが掠れた声で止める。
それを使えば、彼女は帰れなくなる。この時代で消滅する運命が決まってしまう。
だが、エラーラは止まらなかった。
彼女は、ナラと子供の前に立ち、ヴォルクを見上げた。
その瞳には、賢者の理性と、母の激情が、恐ろしいほどの密度で混在していた。
「私の計算では、このエネルギーを使えば、帰還確率は大幅に減る。……だが」
エラーラは、ナラの焼けた背中を、愛おしそうに見つめた。
「君を失うリスクに比べれば、私の運命など……誤差にもならないッ!!」
エラーラが掌を天に掲げた。
「『因果改変・強制執行』!!」
世界が書き換わった。
ヴォルクが振り下ろした鉄球が、光に包まれ、無数の「花びら」となって弾け飛んだ。
襲いかかっていたキメラ・ゴーレムたちが、泥の人形へと戻り、崩れ落ちる。
敵兵たちの持っていた剣や銃が、錆びついた砂鉄となってサラサラと崩壊する。
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
ヴォルクが絶叫する。
彼の全身の魔導兵器もまた、ただのガラクタへと変わっていた。
エラーラは、この空間の「物理法則」そのものを一時的に支配したのだ。
武器を無効化し、殺意を物理的に排除する、神の如き大魔法。
「道は開けた」
エラーラは、膝をつき、荒い息を吐いた。
その手足が、半透明に透け始めている。
魔力の過剰消費による、存在の消失が始まったのだ。
「……ナラ。立てるか」
ナラは、歯を食いしばって立ち上がった。
背中の激痛。焼けるような怒り。そして、母の覚悟への感謝。
それらが全て、彼女の力になった。
「当たり前でしょ……! あんたが作った道を、這ってでも進むのが……あたしの役目でしょ!」
ナラは、ボロボロのサーベルを構え、丸腰になったヴォルクへと歩き出した。
「バ、バカな! 俺は最強だ! 力こそが正義だ!」
ヴォルクは錯乱し、素手でナラに殴りかかってきた。
「うらァァァッ!!」
ナラは、ヴォルクの拳を紙一重で潜り抜け、その懐に飛び込んだ。
剣ではない。
彼女は、握りしめた左の拳を、ヴォルクの鳩尾に叩き込んだ。
「がはッ……!?」
ヴォルクの巨体がくの字に折れる。
内臓を突き上げる衝撃。
だが、ナラの攻撃は止まらない。
「これが!踏みにじられた人たちの痛みよ!」
右ストレートが、ヴォルクの顔面を捉える。
鼻が折れ、牙が飛ぶ。
「これが!あんたたちが否定した、弱者の怒りよ!」
ナラは、倒れたヴォルクに馬乗りになり、拳を振り下ろした。
一発、二発、三発。
彼女の拳から血が飛び散る。それはヴォルクの血であり、ナラ自身の血でもあった。
「痛いでしょう!? 怖いでしょう!『平等』に味わいなさい!」
ナラは泣きながら叫んだ。
「痛みがあるから人間なのよ! 獣じゃない! 考えろ! 感じろ! 自分が何をしてきたかをッ!これも『平等』!だけど、あんたの『平等』には優しさがない!」
ヴォルクの目から、闘争の光が消えた。
あるのは、純粋な痛みと、恐怖。
そして、初めて突きつけられた「他者の感情」という重み。
彼は、完全に敗北した。
力でも、魂でも。
ナラは拳を止めた。
彼女は立ち上がり、荒い息を整えながら、空を見上げた。
錆びついた遊園地の上空に、青空が広がっていた。
「……見事だ、ナラ。……最高の『物語』だったよ」
「エラ……!」
ナラは駆け寄り、倒れそうになるエラーラを支えた。
触れた肩の感触が、希薄だった。
エラーラの身体は、今にも光に溶けて消えそうだった。
「バカ……! なんであんな無茶したのよ! 帰る魔力だったんでしょ!?」
「……ふふ。計算違いだったな」
エラーラは、透け始めた自分の手をかざし、弱々しく笑った。
「君を守るコストを……低く見積もりすぎていたようだ。……だが、後悔はない」
「そんな……」
ナラの目から涙が溢れる。
「泣くな、ナラ。……まだ仕事は終わっていないぞ」
エラーラは、ステージの奥にある『アカシック・ドライブ』を指差した。
「あれを……どうするか。……君が決めるんだ」
青白く輝く巨大な球体。
あれを使えば、世界中の人々の心を書き換えられる。
争いをなくし、平和な世界を強制的に作れる。
あるいは、残ったエネルギーを使えば――エラーラを、無理やり過去へ送り返すこともできるかもしれない。
しかし、もしそうすれば、『ドライブ』はエネルギーを失い、二度と使えなくなる。
世界を救う道具か。
母を救う道か。
究極の二択が、ナラに突きつけられた。
「……さあ、決断の時だ、ナラ君」
エラが静かに告げた。
「選択肢は二つ」
エラは、青白く光る球体を愛おしそうに、そして忌々しそうに撫でた。
「プランA。この装置を最大出力で起動し、世界中の人々の脳内から『悪意』や『闘争本能』を削除する。……強制的に平和な社会システムをインストールするのだ」
それは、かつてネオ・バビロンで見たような、笑顔の仮面を被ったディストピアではない。
エラーラの調整があれば、もっと自然で、穏やかで、誰も傷つかない理想郷を作ることができるだろう。
差別も、貧困も、戦争も、ボタン一つで解決する。
ナラが泥にまみれて説いてきた「対話」などという、時間のかかるプロセスを一足飛びに超えて。
「……でも、そのエネルギーを使えば、あんたを過去に送る分がなくなる」
ナラは、拳を握りしめた。
手が震えている。恐怖ではない。怒りと、悲しみと、そして愛おしさが混ざり合った震えだ。
「逆に、プランB。……エネルギーを全て『時空転移ゲート』の構築に回せば、私は本来いるべき時間軸――過去へと帰還できる。タイムパラドックスによる世界崩壊は防がれ、君の存在も確定する」
エラーラは、透けて向こう側が見える自分の左手を見つめた。
「だが、その場合、この装置はただの空箱になる。……世界を『楽に』救う機会は、永遠に失われる」
二択。
世界を取るか。母を取るか。
「論理的に考えれば、答えは明白だ」
エラーラは微笑んだ。
それは、ナラが初めて見る、どこか諦観を含んだ、しかし限りなく優しい聖母の微笑みだった。
「私を捨てて、世界を取りなさい。ナラ君」
「……!」
「私一人の命、私一人の運命など、恒久平和という成果の前では誤差にもならない。……君はこの世界で生きていくんだ。なら、少しでも生きやすい世界を選ぶべきだ」
エラーラは、ナラに歩み寄ろうとした。だが、足がもつれ、その場に膝をつく。
彼女の存在強度は、もう限界を迎えていた。
「……私は、過去の亡霊だ。ここで消滅しても、君が作った平和な未来が残るなら……それは『成功』と言える」
科学者としての合理性。
母親としての自己犠牲。
ナラは、その言葉を聞いて――。
「……バカね」
鼻で笑った。
そして、拳を高く振り上げた。
「あたしは、一流の女よ。……誰かにあてがわれた『正解』なんて、選ぶわけないでしょう!」
「ナラ!?」
ナラは、渾身の力を込めて、拳を振り下ろした。
「人間はね、自分で選び取るから、尊いのよッ!」
轟音が響き渡り、火花が散った。
精密な魔導回路が粉砕され、ガラス片のように飛び散る。
「世界を平和にする機能」が、物理的に破壊された瞬間だった。
「な、何を……!?」
エラーラが目を見開く。
ナラは、乱れた髪をかき上げた。
その瞳は、どんな宝石よりも強く、美しく輝いていた。
「楽な平和なんていらない! ……あたしたちは、現実という戦場を、泥の中を、這いずり回ってでも、自分たちの手で、幸せを掴み取るわ!」
ナラは、破壊されたコンソールから漏れ出す、行き場を失った純粋な魔力の奔流を指差した。
「残ったエネルギーは全部……あんたのために使うわ!」
ナラは叫んだ。
彼女の声に呼応するように、青白い光が渦を巻き、空間を歪めていく。
巨大な「光の扉」――時空ゲートが形成されていく。
「さあ、行きなさいお母様! 過去へ! ……あんたの言う『正しい歴史』ってやつに!」
エラーラは、言葉を失っていた。
世界を救う魔法のスイッチを壊し、たった一人の「母」を救う道を選んだ娘。
それは非合理で、感情的で、愚かで――そして、何よりも人間らしい選択だった。
「……ふふ。……あはははは!」
エラーラは笑い出した。
涙を流しながら、腹を抱えて笑った。
「君は……本当に、私の自慢の娘だ。……私の理論を、こうも鮮やかに超えてくるとはね」
ゲートが安定する。
帰還のタイムリミットだ。
エラーラは、よろめきながら立ち上がった。
そして、ナラに向き直った。
「……ナラ。聞いてくれ」
エラーラは、ナラの両肩を掴んだ。
その手は、もう温度を感じられないほど希薄になっていたが、その握る力だけは、痛いほど強かった。
「私はこれから、過去に戻る。……10年前の、あの雨の夜へ」
エラーラの声が、微かに震える。
エラは、ナラを少しだけ離し、その涙に濡れた顔を両手で包み込んだ。
「ナラ。私は、君に出会えてよかった。……この未来に来て、君という素晴らしい女性が育っているのを見られて、本当によかった」
エラーラは、瞳を細めた。
「その絶望の果てに、君が生まれる。……君という希望が、未来でこんなにも美しく笑っていると知っているなら、私はどんな地獄でも、生き抜いていけるさ」
「お母様……ッ!」
「これは『罰』じゃなかった。『祝福』だ。……私の人生は、君へと続くためのプロローグだったのだから」
ナラは、泣きじゃくった。
止められない。止めてはいけない。
この人は、全てを受け入れて、その上で「ナラのため」に地獄へ帰るのだ。
その崇高な覚悟を、娘である自分が邪魔することなど許されない。
「……ありがとう」
ナラは、絞り出すように言った。
「ありがとう、ナラ。……私に『母親』という物語をくれて」
エラーラは、ナラの額に優しくキスをした。
それは、魔法の契約でもなく、科学的な実験でもない。
ただの、親子の愛の証。
「……行ってらっしゃい、お母様。……愛してる」
「ああ。……私も、愛しているよ」
エラーラは、白衣を翻し、光のゲートへと背を向けた。
もう、振り返らない。
振り返れば、決意が揺らぐから。
彼女は胸を張り、堂々と、死地へと続く光の中へ足を踏み入れた。
「必ず!……必ず私が、いつか!助けに行くから!私がお母様を、助けに行くから!」
「……元気でな、私の愛娘!」
その言葉を残し、エラーラ・ヴェリタスの姿は、光の粒子となって消え失せた。
ゲートが閉じる。
風が止む。
残されたのは、静まり返った遊園地の廃墟と、破壊された機械の残骸。
そして、たった一人、立ち尽くすナラティブ・ヴェリタスだけ。
ナラはその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
泥にまみれ、拳を叩きつけ、子供のように泣いた。
失ったものは、あまりにも大きかった。
彼女の師であり、親友であり、母親であり、そして最愛の人。
自分の半身をもぎ取られたような喪失感が、彼女を襲う。
だが。
彼女は、いつまでも泣いてはいなかった。
数分後。
ナラは、涙を袖で乱暴に拭うと、ゆっくりと立ち上がった。
「……泣いてる、場合じゃ……ないわね」
彼女は、空を見上げた。
雲が切れ、満天の星空が広がっている。
その光の向こう、遥か過去の時空で、母は今も戦っているのだ。
「ナラ」という希望を生み出すために、孤独と屈辱に耐えているのだ。
だったら。
その希望である自分が、ここで膝を抱えているわけにはいかない。
「見てなさい、お母様」
ナラは、ボロボロのドレスの埃を払い、凛と背筋を伸ばした。
「あんたが命を懸けて守ったこの世界を……あたしが、最高のハッピーエンドにして見せるから」
ナラは、歩き出した。
・・・・・・・・・・・
かつて掃き溜めだった地区は、今や緑豊かな公園と、美しい学び舎が並ぶ、文化の中心地となっていた。 「ヴェリタス学園」の校庭では、子供たちの元気な声が響いている。
「ごめんなさい! 僕が悪かったよ!」 「いいよ! 次から気をつけてね!」
子供たちは、ぶつかれば謝り、助けられれば礼を言う。 魔法で洗脳されたわけではない。 ナラたちが、長い時間をかけて教え、育み、根付かせた、本物の「道徳」だ。
その様子を、校舎の窓から見下ろす女性がいた。 ナラティブ・ヴェリタス。 年齢を重ね、その美貌には深みと落ち着きが増している。 彼女のデスクには、一枚の写真が飾られていた。 泥だらけの白衣を着て、ピースサインをする褐色の女性と、その隣でふてくされたように、でも嬉しそうに笑う黒いドレスの女性の写真。
「……学園長! 次の会議の時間です!」
「ええ、分かってるわ」
ナラは、手元のマグカップを持ち上げた。 中身は、砂糖とミルクたっぷりの、激甘カフェオレ。
彼女は、一口飲んで、空を見上げた。 どこまでも広がる青空。 その向こうに、懐かしい笑顔が見えた気がした。
「……見てる? お母様」
ナラは、カップを掲げた。
「世界は、あんたが命を懸けた価値がある場所に、少しずつなってるわよ」
風が吹く。 それは、薬品と珈琲の匂いはしなかったけれど、花の香りと、未来の匂いを運んできた。
「……必ず、絶対助けに行くから!……エラーラお母様」
ナラはカップを置き、執務室を出た。 その背中は、かつての大賢者と同じくらい大きく、強く、そして誰よりも優しかった。
真理は巡る。 過去から未来へ。母から娘へ。 そして、娘からまた、次の世代へ。
愛と希望の物語は、決して終わることはない。
・・・・・・・・・・
雨は、涙のように降り注いでいた。
王都の路地裏。そこは、かつて「絶望の未来」への分岐点となった場所だ。
大賢者、エラーラ・ヴェリタスは、泥水の中に膝をついていた。
目の前には、漆黒の喪服を着た悪魔――レクタ・ファルサスが立っている。
(……知っている。この光景を)
エラーラの脳裏に、未来の記憶がフラッシュバックする。
ここで私は敗北する。
知性を奪われ、尊厳を踏みにじられ、家畜以下の扱いを受け……そして、愛する娘たちを産み落とした後に殺される。
その「確定した絶望」が、鉛のように彼女の足を縛り付けていた。
「あ〜〜? なんだその目は。生意気なんだよ、インテリ女が」
レクタが懐からナイフを取り出す。
銀色の刃が、街灯の光を弾いて鈍く光る。
「そのツラ、ズタズタに切り刻んでやるよォオオオオオッ!!」
レクタが踏み込む。
エラーラは動けない。因果の鎖が、彼女の回避行動を封じているかのように。
刃が、眼球の寸前まで迫る。
(……ごめん、ナラ。……私はまた、負けるのか)
諦めかけた、その刹那。
「――お待ちなさいッ!!」
上空の空間が、ガラス細工のように粉砕された。
雷鳴ごとき轟音と共に、漆黒の流星が降り注ぐ。
レクタが間抜けな声を上げて見上げる。
地面が爆発した。
レクタの体が、ピンボールのように真横へ吹き飛ぶ。
彼はショーウィンドウを突き破り、瓦礫の山に埋まった。
土煙が晴れる。
クレーターの中心に立っていたのは、漆黒のドレススーツを完璧に着こなした絶世の美女。
ナラティブ・ヴェリタス。
彼女は、湯気の立つ拳を払い、優雅に髪をかき上げた。
「ごめんあそばせ?……さあ、ゴミ掃除の時間ですわ」
「……ナラ!」
エラーラが叫ぶ。
その目には、安堵と、感謝と、そして溢れんばかりの愛が宿っていた。
「お待たせしましたわ。……歴史の修正の時間ですわ!」
「ああ! ……待ちわびたよ、私の愛娘!」
エラーラは立ち上がった。
もう、足は震えていない。最強の娘が、隣にいるのだから。
瓦礫の中から、レクタが這い出してくる。
顔面は陥没し、鼻血が噴き出している。
「父ちゃん! 母ちゃん! こいつら殺せ! 殺してくれぇぇぇ!」
「おのれぇぇ! 我が息子を! 総員、かかれェェェッ!」
ファルサス公爵の号令と共に、周囲の空間が歪んだ。
路地裏、屋根の上、下水道の蓋。あらゆる場所から、公爵家が飼っていた「闇の軍勢」が湧き出してくる。
公爵夫人がレクタを引きずり、装甲魔導車へと逃げ込む。
「待てッ!」
ナラが踏み出そうとするが、その前を異形の壁が塞いだ。
現れたのは、ただの私兵ではない。
人体実験と魔術によって生み出された、グロテスクな殺戮兵器の群れだった。
最初に襲いかかってきたのは、身長3メートルを超える『改造オーガ部隊』。
皮膚は鋼鉄でコーティングされ、腕には巨大なチェーンソーやドリルが埋め込まれている。
「ミンチになれぇぇぇッ!」
オーガたちが一斉に武器を起動する。
轟音。アスファルトがバターのように切り裂かれる。
包囲されたナラとエラーラに、全方位から凶器が迫る。
「……野蛮ですわね」
ナラは、鉄扇をパチンと開いた。
「お母様。……背中は任せましたわよ」
「了解だ! 演算終了、殲滅モード移行!」
エラーラが指を弾く。
『重力制御・局所反転』!
先頭のオーガたちが、突然浮き上がる。
「隙だらけですわ!」
ナラが地を蹴った。
その速度は、音速を超えた。
黒い稲妻となった彼女は、空中に浮いたオーガたちの間を駆け抜ける。
ナラは、オーガのチェーンソーを素手で掴み、強引にねじ曲げた。
さらに、その巨体を一本背負いで地面に叩きつける。
鋼鉄の皮膚が砕け、中身が飛び散る。
ナラは止まらない。
ドリルの回転に合わせて体を捻り、最小限の動きで回避しながら、鉄扇でオーガの急所を正確に切断していく。
舞うような殺陣。
数十体の怪物が、わずか数秒で鉄屑の山へと変わる。
「す、すげぇ……」
「化け物か!?」
「ひるむな! 次だ! 次を出せ!」
公爵の声がスピーカーから響く。
次に現れたのは、紫色の毒霧を纏った二つの影。
『腐敗の魔人・ネクロ』。触れたもの全てを腐らせるヘドロの巨人。
『千刃の踊り子・シザー』。全身が刃物で構成された、自動人形。
ネクロが口を開くと、酸のブレスが噴射された。
建物が溶け、街路樹が枯れる。
シザーが高速回転し、カマイタチのような真空波を飛ばす。
「お母様!」
「問題ない!」
エラーラは、懐から巨大なカプセルを取り出した。
『中和剤・タイプΩ』。
カプセルをネクロの口に投げ込む。
体内で化学反応が起き、ネクロのヘドロが急速に凝固し、ただの石像へと変わった。
「動けない標的なんて、ただのサンドバッグですわ!」
ナラが、石化したネクロを足場にして跳躍した。
空中でシザーの真空波を鉄扇で弾き返し、回転しながら落下する。
ナラのかかと落としが、シザーの脳天を直撃した。
超硬合金で作られたはずの人形が、粉々に砕け散る。
「ええい! クソッ! あれを出せ! 最終兵器だ!」
逃走する魔導車の後方、王都の地面が大きく隆起した。
地響きと共に現れたのは、生物としての常識を超えた、超巨大怪獣だった。
『合成魔獣・ギガントス』。
ドラゴンの頭、巨人の胴体、そして無数の蛇の触手を持つ、全長50メートルの悪夢。
その一歩が、ビルを倒壊させる。
口からは、都市を一撃で灰にする熱線の光が漏れている。
咆哮だけで窓ガラスが割れる。
圧倒的な質量と破壊の化身。
人間が対抗できる存在ではない。
「……あら。大きなワンちゃんですこと」
ナラは、見上げるような巨体を前にして、優雅に微笑んだ。
恐怖? そんなものは、未来に置いてきた。
「お母様。……やれますわね?」
「愚問だねナラ君。……あんなデカブツ、ただの『的』だよ」
エラーラは、両手を広げた。
その周囲に、数百、数千の魔法陣が展開される。
王都中のマナを強制的に収束させる、大賢者の奥義。
「ナラ! 奴の口をこじ開けろ!」
「はいっ!」
ナラは跳んだ。
ギガントスが、無数の蛇の触手を伸ばして迎撃する。
触手一本一本が、大木ほどの太さがある。
ナラは空中で鉄扇を振るった。
衝撃波の刃が飛び、触手を千切り飛ばす。
血の雨の中を、ナラは真っ直ぐに突き進む。
ギガントスが熱線を吐こうと口を開けた。
ナラは、ギガントスの鼻先に着地し、その巨大な牙を両手で掴んだ。
そして、全身の筋力と魔力を解放する。
ナラは、怪獣の顎を無理やりこじ開けた。
数万トンの咬合力を、生身の腕力でねじ伏せる。
「今よ、お母様!!」
「消滅しろ! 『極大消滅光』ッ!!」
エラーラの展開した数千の魔法陣が一斉に発光する。
収束された極太のレーザーが、こじ開けられたギガントスの口内へと吸い込まれた。
体内でエネルギーが暴発する。
ギガントスの目玉が飛び出し、皮膚が裂け、内側から光が溢れ出す。
閃光。
巨体が原子レベルで分解され、消滅していく。
後に残ったのは、ぽっかりと空いた大穴と、舞い上がる塵だけだった。
煙の中から、ナラとエラーラが並んで歩いてくる。
ドレスは煤け、白衣は破れているが、二人に傷は一つもない。
「……チッ。逃げられましたわね」
ナラが、遥か彼方を走る魔導車のテールランプを見つめて舌打ちした。
公爵一家は、怪獣を囮にして逃走に成功していた。
「想定内だよ、ナラ君」
エラーラは、眼鏡の位置を直しながら不敵に笑った。
「奴らは『ファルサス邸』へ向かったようだ」
「逃がしませんわ!」
ナラは、鉄扇を閉じた。
その瞳は、獲物を追うハンターのように鋭く輝いている。
「地の果てまで追い詰めて……。あたしたちの『絶望』を、倍にして返して差し上げますわ」
「ああ。……さあ、行こうか。夜はまだ長い」
エラーラが、懐から取り出したカプセルを投げると、即席の高速魔導バイクが出現した。
二人はそれに飛び乗る。
「しっかり掴まってたまえよ!」
「望むところですわ!」
バイクが爆音を上げて発進する。
最強の親子は、闇を切り裂く二条の光となって、新たなる戦場へと疾走していった。




