第13話:再生のための痛み(2)
再生の槌音が響く王都の朝。
かつて掃き溜めと呼ばれたこの地区の中心に、白亜の学び舎「ヴェリタス学園」は聳え立っていた。
その学園長室から、今朝もまた、けたたましい爆発音と悲鳴が響き渡った。
「ドカァァァァァン!!!」
「きゃあああああッ!? 何よ今の音は!?」
漆黒のドレススーツに身を包んだ美貌の女性、ナラティブ・ヴェリタスが、手に持っていたコーヒーカップを取り落としそうになりながら叫んだ。
彼女の透き通るような白い肌は、驚きでさらに白くなっている。
「お、お母さん! まさかまた変な実験を……!」
ナラが慌てて隣室の実験室へ飛び込むと、そこには黒煙を上げるフラスコと、アフロヘアのように爆発した銀髪の手入れをする褐色の女性、エラーラ・ヴェリタスが立っていた。
「ゲホッ、ゲホッ……! おや、おはようナラ君。……素晴らしい朝だねぇ! コーヒーの香りに少しばかり硫黄の香りが混じってしまったが、これぞ科学のスパイスだよ!」
エラーラは白衣の煤を払いながら笑った。その笑顔は、反省の色など微塵もなく、むしろ新しい発見に目を輝かせる子供のようだった。
「スパイスじゃないわよ! あたしの執務室まで煙が来てるじゃない!もしドレスに焦げ臭い匂いがついたらどうしてくれるの!」
ナラは腰に手を当て、呆れ果てた様子で溜息をついた。
「まあまあ、落ち着きたまえ。……それより聞いたかい? 今朝の市場での噂を」
エラーラは話題をすり替えるように、実験台の上のタブレット端末を操作した。
「噂? ……ああ、『東のゴミ山遺跡』の話?」
ナラは怪訝な顔をした。
ここ数日、生徒たちの間で奇妙な都市伝説が囁かれていた。
王都の東、廃棄された大量のゴミが山となっている危険地帯に、「礼儀正しい幽霊」が出るというのだ。
その幽霊に出会った者は、強制的に礼儀作法を叩き込まれ、泣きながら更生して帰ってくるらしい。
「ただの子供の作り話でしょ?不良たちが肝試しに行って、怖気づいて逃げ帰った言い訳よ」
ナラは鼻で笑った。
「ノンノン! 甘いよナラ君!」
エラーラが人差し指をチッチッと振る。
「私の解析によると、そのゴミ山付近で、極めて特異な『精神干渉波』が観測されているのだよ! もし、これが、古代のアーティファクトか……あるいは未知の魔導生物によるものだとしたら!」
エラーラはナラに詰め寄り、その顔を至近距離で覗き込んだ。
「人の精神に干渉し、即座に『思想』を植え付けるシステム……。これこそ、君が目指す『知性の革命』を加速させる画期的な発明かもしれないじゃないか!」
「……はぁ?」
ナラは後ずさりした。
「待って。あんた、まさか……」
「『幽霊』の正体を暴き、サンプルを回収する! さあ、出発だナラ君! ランチボックスはサンドイッチで頼むよ!」
「ちょ、ちょっと! 離しなさい! あたしは忙しいのよ! 書類決裁が山ほど……いやぁぁぁッ! 引っ張るなぁッ!」
最強の賢者の腕力には、ナラといえども敵わない。
ナラはズルズルと引きずられながら、悲痛な叫び声を上げた。
王都の東。
そこは、前時代の負の遺産が堆積する、巨大な「ゴミの山脈」だった。
「……臭いわね。やっぱり来るんじゃなかった」
ナラはハンカチで鼻を覆い、ヒールでぬかるみを避けて歩いていた。
一方のエラーラは、巨大なアンテナがついた探知機を背負い、ウキウキと先を進んでいる。
「ねえお母様。本当にここに『道徳的な幽霊』なんてのがいるの? 詐欺だったら、今月の研究費を半分にするわよ」
「手厳しいねぇ! だが、私の勘は外れないよ。……おっと!」
エラーラが足を止めた。
ゴミ山の谷間、少し開けた広場のような場所に、一体の「影」が立っていた。
それは、錆びついた金属でできた、人型の人形だった。
身長は2メートル以上ある。関節からは蒸気が漏れ、頭部には一つの赤いレンズが光っている。
ボロボロのタキシードのような布を纏い、直立不動で立っている姿は、確かに遠目には幽霊に見えなくもない。
「……ゴーレム? レクタ時代の遺物かしら」
ナラが剣の柄に手をかける。
その時。
ゴーレムの赤い目が、ギョロリと動き、二人を捉えた。
『ピピッ……。来客、確認……』
不快な機械音声が響く。
ゴーレムは、ギギギ、と不協和音を立てながら、二人に近づいてきた。
『イラッシャイマセ。……お客様、トテモ、不躾デス』
ナラが眉をひそめる。
『当店ニ入店スル際ハ、角度四十五度ノ「最敬礼」ヲ求メマス。……アナタノ背筋、曲ガッテイマス。マナー違反デス』
「な、なによコイツ……」
「なるほど!」
エラーラがポンと手を叩いた。
「これは、『接客マナー練習用ゴーレム』の失敗作だね! 効率的な接客を追求しすぎて、客に完璧なマナーを強要するようになって廃棄されたという、伝説のポンコツ機体だよ!」
「ポンコツ!? ……ってことは、ただの迷惑なロボットじゃない!」
ナラが叫ぶ。
『マナー違反……マナー違反……! 矯正シマス! 矯正シマス!』
ゴーレムが、突然暴れ出した。
その腕が鞭のようにしなり、ナラに向かって振り下ろされる。
ナラはバックステップで躱す。
地面が砕け、土煙が上がる。
『お客様! 避ケルノハ失礼デス! 甘ンジテ受ケ入レルノガ、美徳デス!』
「ふざけんじゃないわよ! なんで殴られるのを受け入れなきゃいけないのよ!」
ナラはドレスの裾を翻し、鋭い蹴りを放つ。
だが、ゴーレムの装甲は硬い。金属音が響くだけで、ビクともしない。
『暴力反対! 暴力反対! 笑顔デ対応シテクダサイ!』
ゴーレムは、笑顔のマークが描かれた看板を盾にして防御した。
「ムカつくぅぅぅッ! 何よそのふざけた盾は!」
ナラのこめかみに青筋が浮かぶ。
一方、エラーラは戦闘に参加せず、少し離れた場所でゴーレムの動きを観察していた。
『お客様! ドリンク『下水』ハイカガデスカァァァッ!』
ゴーレムが、口から茶色い泥水を高圧洗浄機のように噴射してくる。
「うわっ! 汚ッ!」
ナラは悲鳴を上げて転がり避ける。
泥水が、彼女の大事なドレスの裾にかかった。
ナラの中で、何かが切れた音がした。
「……あーあ。やっちゃったわね、ポンコツ」
ナラが立ち上がる。
その全身から、どす黒い……いや、王者の風格が立ち昇る。
彼女は、ゆっくりと髪をかき上げた。
「一流のレディのドレスを汚すことが、どれほどのマナー違反か……。その錆びついた脳みそに叩き込んであげるわ!」
「おっと、ナラ君が本気モードだね?データ収集を急ごうか」
エラーラが慌てて端末を操作し始める。
『お客様、怒ルノハ美容ニ良クアリマセン……』
「黙りなさいッ!」
ナラが地を蹴った。
速い。先ほどまでの牽制とは段違いのスピードだ。
彼女はゴーレムの懐に潜り込み、その巨大な腕を掴んだ。
「一流はね……」
ナラは、遠心力を利用して、自分より遥かに巨大なゴーレムを背負い投げた。
「力任せに!暴れたり!しないのよッ!!」
巨大な鉄塊が、地面に叩きつけられる。
だが、ゴーレムはまだ動いていた。
『申シ訳、ゴザイマセン……。デモ、ワタシニ、土下座シテクダサイ……』
しぶとく立ち上がろうとするゴーレム。
その頭上高く、ナラが舞い上がっていた。
ナラは空中で回転し、全体重を乗せたかかと落としを、ゴーレムの頭部に見舞った。
「謝罪は、あんたがしなさいッ!!」
強烈な一撃が、ゴーレムの頭部を粉砕した。
首がもげ、胴体が崩れ落ちる。
プスン、プスン……と黒煙を上げ、迷惑な「礼儀の精霊」は、ただのスクラップへと戻った。
ナラは着地し、乱れた髪を直した。
「お母様、終わったわよ。……って、何してるの?」
見ると、エラーラがスクラップになったゴーレムの残骸に頭を突っ込んでいた。
「ああ、ああ、壊しすぎだよナラ君!メインメモリが無事か確認しないと!」
エラーラは瓦礫をかき分け、ゴーレムの胸部にあったブラックボックスを引っこ抜いた。
エラが取り出したのは、薄汚れた金属の板――石板のようなデバイスだった。
彼女はそれを端末に接続し、解析を始める。
「……ほう?これは驚いた」
エラーラの表情から、陽気さが消え、真剣な賢者の顔になる。
「何? ただの接客プログラムじゃないの?」
ナラが覗き込む。
「いいや。……このゴーレムは、ただの『番人』だったようだ。こいつが守っていたデータ……ここには、ある場所の座標が記されている」
「座標?」
「『アカシック・ドライブ』。……前時代の、禁断の精神干渉システムだ」
エラーラが説明する。
『アカシック・ドライブ』とは、強力な魔力波を用いて、指定した範囲の人間の脳に直接「概念」を書き込む装置だという。
支配者たちはこれを使って、全世界の人間を「完璧な家畜」にしようとしていたらしい。
「そんな危ないもの、破壊しなきゃ!」
ナラが即座に言う。
「ああ、もちろん兵器としては論外だね。……だがね、ナラ君」
エラーラは、石板を見つめ、少し寂しげな声で言った。
「この装置を動かすためのエネルギー炉……『クロノス・コア』があれば。……私を、正しい時間軸へ送り返すゲートを開けるかもしれない」
「……え?」
ナラが息を呑む。
過去へ帰る。
それは、いつか必ず訪れる別れだと分かっていた。
だが、こんなに早く、その「可能性」が目の前に現れるとは思っていなかった。
「私がここに留まれば、タイムパラドックスの歪みは大きくなるばかりだ。……いつか、君の存在すら消してしまうかもしれない。それを防ぐには、私が過去へ戻るしかない」
エラーラは、努めて明るく言った。
「それに、このドライブが悪用されれば、君の街はまた『思考停止した人形の街』になってしまう。……どちらにせよ、回収は必須だね」
ナラは、拳を握りしめた。
目の前の母がいなくなる恐怖。
世界が洗脳される恐怖。
その二つが同時に襲いかかってくる。
だが、彼女はナラティブ・ヴェリタス。
恐怖に負けて立ち止まる女ではない。
「……分かったわ」
ナラは顔を上げた。その瞳に迷いはない。
「その『アカシック・ドライブ』とかいうの、確保しましょう。……洗脳なんてふざけた機能は、あたしがぶっ壊してやる。でも……」
ナラは、エラーラの手を取った。
「あんたを帰すかどうかは……その時まで、まだ保留よ。あたしはまだ、あんたから教わってないことが山ほどあるんだから」
エラーラは目を見開き、そして優しく微笑んだ。
「ふふ。……強欲な娘だ」
エラーラはナラの手を握り返した。
・・・・・・・・・・
国境を越えた先に現れた都市「ネオ・バビロン」は、異様な光景だった。
前時代に破壊されたはずの街並みが、完璧に修復されているどころか、不気味なほど清潔に、幾何学的に整備されていたのだ。
ゴミ一つ落ちていない純白の道路。
整然と並ぶ高層ビル。
そして、街中に溢れる極彩色のネオンサインと、軽快なポップミュージック。
「……気味が悪いわね」
ナラは眉をひそめた。
「ふむ?都市機能としては効率的だが……生物的な『揺らぎ』が欠落しているね」
エラーラもまた、端末を操作しながら警戒する。
二人が城門に近づくと、衛兵たちが駆け寄ってきた。
だが、彼らは槍を向ける代わりに、満面の笑みで花束を差し出した。
「ようこそ! 幸福の都、ネオ・バビロンへ!お客様ですね! 幸せですか!? 私たちは最高に幸せです!」
衛兵たちの目は、瞳孔が開ききり、瞬きすらしていない。
口角は不自然に吊り上がり、頬の筋肉が引きつっている。
「……ええ、どうも」
ナラは気味悪がりながら花束を受け取った。
街の中は、さらに異様だった。
行き交う人々は全員、笑顔だった。
「痛い……けれど幸せ! 転ぶことができて嬉しい!」
子供は血を流しながら、ケラケラと笑って立ち上がった。
「……狂ってる」
ナラが低く呟く。
「間違いないね」
エラーラが小声で告げる。
「微弱だが、街全体に『アカシック・ドライブ』の干渉波が流れている。……強制的な『ポジティブ思考』の書き込みだ」
その時、街頭の巨大モニターに、一人の男が映し出された。
金髪のオールバックに、派手なスーツを着た男。
この街の支配者、ジーノだ。
かつてレクタの下で「娯楽担当大臣」をしていた小悪党である。
『親愛なる市民の皆さん! 今日も笑顔で生きていますか?笑顔は生産性を高め、争いをなくし、世界を平和にします!』
ジーノの声に合わせて、市民たちが一斉に立ち止まり、モニターに向かって敬礼した。
『さあ、今日も隣人とハグをしましょう! 不満のない世界こそが、楽園なのです!』
広場では、見知らぬ他人同士が機械的に抱き合っている。
そこには体温も、心の通い合いもない。
ただプログラムされた動作としての「親愛」があるだけだ。
「……これが、『道徳』の成れの果てってやつ?」
ナラが皮肉っぽく言う。
「いいや。これは道徳ではない」
エラーラは吐き捨てるように言った。
「これは『思考の去勢』だ。……人間から葛藤を、つまり、悩み奪えば、それはただの家畜だよ。絶望に傷ついても、希望に甘やかされても、思考は止まるものだ。」
二人が広場を抜けようとした時、事件が起きた。
一人の老人が、過労で倒れたのだ。
「はぁ、はぁ……苦しい……」
老人の笑顔が崩れ、苦悶の表情が浮かぶ。
すると、即座に数人の「スマイル警察」なる白い制服の男たちが現れた。
「おやおや!笑顔が消えていますよ!直ちに治療が必要です!」
警官たちは老人を取り囲み、手にした注射器のようなデバイスを老人の首筋に押し当てた。
「や、やめろ……ワシはただ、休みたいだけで……」
「ダメですよ!さあ、楽しくなりましょう!」
老人の体がビクンと跳ねる。
次の瞬間、老人はガバッと立ち上がり、虚ろな目でニタリと笑った。
「……幸せだ! 働くぞ! 私は働くのが大好きだァァァッ!」
老人は壊れた玩具のように走り出した。
「……許せない」
ナラの拳が震えた。
彼女は飛び出そうとした。
「待て、ナラ君」
エラーラが止める。
「正面から行けば、我々も『治療』の対象になる。まずは中枢を叩くのだ」
「中枢って、あの悪趣味なタワー?」
ナラは街の中央に聳える、ジーノの居城を指差した。
「そうだ。あそこに『ドライブ』の制御端末があるはずだ。……招待状なら、向こうから来るさ」
エラーラの読み通りだった。
数分後、一台の豪華なリムジンが二人の前に止まった。
中から出てきたのは、モニターの中の男、ジーノ本人だった。
「やあやあ! 噂の美人親子ですね! 歓迎しますよ!」
ジーノは、胡散臭い笑顔で二人を迎えた。
「エラーラ・ヴェリタス様。貴女の科学力には常々憧れていました。そして、そちらは娘のナラティブさん。……掃き溜め地区を復興させた手腕、素晴らしい!」
「……あたしたちの事、知ってるのね」
ナラが警戒する。
「もちろんですとも! さあ、我が城へ! 最高の『おもてなし』をさせてください!」
タワーの最上階、支配者の間。
そこは、壁一面がモニターで埋め尽くされ、市民の監視映像が流れていた。
「どうです? 私の作った楽園は」
ジーノはワイングラスを片手に、自慢げに語った。
「前の時代は野蛮でした。暴力、略奪、恐怖……。非効率極まりない。しかし、私の街には争いが一切ない! 犯罪発生率ゼロ! 暴動ゼロ! なぜなら、全員が『幸せ』だからです!」
「……幸せ?」
ナラが冷ややかに問う。
「無理やり楽しくさせられて……それが人間の生き方?」
「おやおや、ナラティブさん。貴女も『調和』を目指しているのでしょう?」
ジーノが顔を近づける。
「貴女のやり方はまどろっこしい。教育? 対話? 時間がかかりすぎる! この装置を使えば、ボタン一つで全員を『いい子』にできるんですよ? これこそ究極の救済ではありませんか!」
「黙りなさい」
ナラは一喝した。
「あたしが目指す調和は、自分の目で見て、頭で考えて、納得して選ぶものよ。……あんたのは、ただの人形遊びだわ」
ジーノは大げさに肩をすくめた。
「ふむ。残念ですが……お二人にも『市民』になってもらいましょう。特にエラーラ様の頭脳は、このシステムの改良に役立ちそうだ」
ジーノが指を鳴らす。
部屋の四隅から、武装したスマイル警察が現れ、銃口を向ける。
そして、ジーノ自身が、水晶柱に手をかざした。
「さあ、『幸福の波動』最大出力! 貴女たちの脳内の『反抗中枢』を焼き切ってあげましょう!」
水晶柱から、目に見えない高周波の魔力が放たれた。
それは音もなく、ナラとエラーラの脳髄を直撃する。
「……ッ!?」
ナラの視界が白く染まる。
(怒るな……笑え……従え……)
甘美な声が、脳内に直接響いてくる。
抵抗する気力が溶かされ、強制的な多幸感が溢れ出す。
「あはは! これで貴女たちも私の家族です!」
ジーノが勝ち誇る。
だが。
「……生憎だけど」
ナラの声が、甘美な幻聴を切り裂いた。
「あたしの家族は、そこのマッドサイエンティストだけで間に合ってるのよッ!!」
彼女の強固な意志が、侵入してきた異質な概念を弾き飛ばしたのだ。
「お母様! 今よ!」
ナラが叫ぶ。
「了解だ、ナラ君! ……まったく、私の娘に洗脳なんて小細工、100年早いのだよ!」
エラーラは白衣を翻し、懐から取り出した数本の試験管を、水晶柱に向かって投げつけた。
「食らえ! 特製『論理破綻ウイルス』入り魔力阻害剤だ!」
試験管が砕け、緑色のガスが水晶柱を包み込む。
機械的な音声と共に、水晶の輝きが乱滅し始める。
追い詰められたジーノが叫ぶ。
「ええい! ならば私が直接、街中の市民に命令を下す! 全市民よ、暴徒となれ! この二人を八つ裂きにしろ!」
街中のスピーカーから、不協和音が響き渡る。
窓の外を見ると、笑顔のまま武器を持った市民たちが、タワーに向かって押し寄せてくるのが見えた。
「まずいよナラ君! 数万の市民が相手だ!」
エラーラが叫ぶ。
「……分かってる」
ナラは、ジーノの前に立ちはだかった。
そして、部屋にあった放送用マイクを掴み取った。
「ジーノ。あんたは大きな間違いをしたわ」
「間違いだと!?」
「人の心は、スイッチ一つで切り替えられるほど単純じゃない。……押し込められた感情は、いつか爆発するのよ!」
ナラはマイクのスイッチを入れ、ボリュームを最大にした。
彼女の声が、街中に響き渡る。
『ネオ・バビロンの市民たち! 聞こえる!?』
凛とした、透き通る声。
それは強制的な命令ではなく、魂への呼びかけだった。
『笑うのをやめなさい! 無理しなくていい!あんたたちは今、幸せ? ……違うでしょ! 痛いんでしょ! 辛いんでしょ! 腹が立ってるんでしょ!』
ナラの言葉が、アカシック・ドライブの干渉波に割り込み、市民たちの脳内の「蓋」を叩いた。
『人間はね、笑うためだけじゃない!泣くためにも、怒るためにも、生きてるのよ! 負の感情があるから、喜びが輝くの!2択じゃない!どちらかひとつじゃない!……自分の心を、誰かに染められるんじゃないッ!!』
ナラの「物語」という名のウイルスが、システム全体に感染する。
抑圧されていた数万人の感情のエネルギーが、臨界点を超えた。
『エラー。エラー。感情制御不能……』
水晶柱が、内側から砕け散った。
ジーノがケーブルを引きちぎられ、吹き飛ばされる。
そして、街中から――。
数万人の絶叫が、慟哭が、怒号が、一斉に巻き起こった。
笑顔の仮面が剥がれ落ち、人々はその場に泣き崩れ、あるいは地を叩いて怒りを露わにした。
それは混沌だった。
だが、それは「人間らしい」混沌だった。
「……終わったわね」
ナラはマイクを置いた。
ジーノは床に這いつくばり、震えていた。
「バ、バカな……。平和が……私の楽園が……」
「楽園なんて、どこにもないのよ」
ナラはジーノを見下ろした。
「あるのは、泣いて、怒って、それでも明日を生きようとする、泥だらけの現実だけ。……あんたも、一から勉強し直しなさいな」
ナラは、ジーノにハンカチを投げ渡した。
「あんたも、寂しかったんでしょ?」
その一言に、ジーノの目が大きく見開かれた。
彼は、レクタの時代、ただの道化として笑い続けるしかなかった自分の過去を思い出したのだ。
ジーノは顔を覆い、子供のように泣き出した。
「……見事だ、ナラ君」
エラーラが、粉々になった水晶柱の中から、小さなチップを回収しながら言った。
これが、本体への手がかりだ。
「君の言葉は、どんな魔法よりも強く、人の心を解き放った」
「ふふ。……あたしはただ、思ったことを言っただけよ」
ナラは髪をかき上げた。
その顔は疲労で蒼白だったが、誇らしげだった。
エラーラは、そんな娘の姿を眩しく見つめた。
そして、ふと自分の手を見た。
指先が、半透明に透けている。
戻るべき時が、刻一刻と迫っている。




