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ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue 王璃月
天空はしご酒

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第2話:天空はしご酒(2)

意識が戻った瞬間、ナラが感じたのは「痛み」そのものだった。


「……っ、あ……ぐ……」


肺が凍りつくような冷気。

そして、全身をやすりで削り取られたかのような鋭利な激痛。

ナラは目を開けた。

視界が白い。

彼女は自分が硬く冷たい鉄格子の上に横たわっていることに気づいた。

ゆっくりと体を起こそうとする。だが、指一本動かしただけで、筋肉が断裂するような激しい痛みが走り、喉から枯れた悲鳴が漏れた。


「な、なに……ここ……!?」


霧が風で晴れ、視界が開ける。

その瞬間、ナラの心臓が早鐘を打った。

眼下には、地図のような王都の街並みが広がっていた。

建物は米粒よりも小さく、大通りを行き交う馬車は塵のようにしか見えない。

高度計があれば、針は500メートルを指していただろう……

ここは、王都の工場地帯にそびえ立つ、巨大な排煙兼魔力通信鉄塔の最頂部。メンテナンス用の、わずか一畳ほどの足場だった。


「ひっ……!」


ナラは反射的に錆びついた手すりにしがみついた。

自分の体を見る。

漆黒の高級ドレスはズタズタに引き裂かれ、見るも無惨な布切れと化していた。

そして、露出した白い肌は、乾いた赤黒い血と、新しく滲み出した鮮血でべっとりと濡れていた。

腕、太腿、腹部。至る所に擦過傷、打撲、そして深い切り傷がある。昨夜の乱闘の傷ではない。この垂直な鉄の塊を、素手と素足でよじ登った際に、鉄錆とボルトで肉を削ぎ落とした痕跡だった。

右足のハイヒールはない。左足のヒールも折れている。

爪は剥がれかけ、指先は血肉でグズグズになっていた。


「どうして……あたし、なんでこんな……?」


混乱する脳裏に、昨夜の記憶の断片が、フラッシュバックとして突き刺さる。


『ここから先は天空よ!』


酩酊した自分が、この足場にたどり着いた直後、登ってきた唯一の梯子を「敵の侵入経路」と見なして、自慢の怪力でねじ切り、ボルトを引きちぎって地上へ投げ捨てた光景。

自ら退路を断ち、狂ったように高笑いして、そのまま泥のように眠りについた自分の姿。

ナラは恐る恐る、足場の端から下を覗き込んだ。

あるはずの梯子は、ない。

ただ、垂直に切り立った鉄骨の壁が、遥か下の地面まで続いているだけだった。


「う、そ……」


血の気が引く音がした。

ここは空の牢獄ではない。自らが作り出した、逃げ場のない処刑台だった。


時間は無慈悲に過ぎていく。

日が昇り始めるが、それは救いではなく、新たな拷問の始まりだった。

上空の風は容赦がない。風速25メートルの突風が、血に濡れたナラの体を打ち据える。


「さ、さむ……」


失血とアルコールの離脱症状、そして極度の低体温症。

ナラの体温は急速に奪われていた。

ガチガチと歯が鳴り、震えが止まらない。震えるたびに傷口が開き、新たな血が流れる。その血が冷たい風に晒され、瞬時に冷却されて体温をさらに奪う悪循環。

喉が渇いていた。

砂漠で砂を飲み込んだかのように、喉が張り付いている。

だが、水はない。

あるのは、ポケットに入っていた空っぽの「工業用アルコール」の瓶だけ。


「……水……」


ナラは手すりを掴んで立ち上がろうとした。

その瞬間、世界が回転した。

強烈な目眩。平衡感覚が死んでいる。


「おっ……!」


足元の格子状の床の隙間から、500メートル下の地面が視界に入り、脳が拒絶反応を起こす。

胃袋が裏返るような不快感がこみ上げるが、吐き出すものは何もない。ただ、胃液が食道を焼く痛みだけがある。

ナラはその場にうずくまった。

動けば落ちる。

叫んでも、風の音にかき消されて誰にも届かない。

孤独。

完全なる孤独が、冷たい鉄の感触と共にナラを侵食していった。


不意に、風の音とは違う、生物的な羽音が聞こえた。

ナラが虚ろな目で空を見上げると、黒い影が旋回していた。

王都の上空に生息する、翼長2メートルを超える「魔鳥」だ。


普段は腐肉を漁る彼らだが、弱った獲物がいれば生きたままついばむ獰猛な捕食者。

彼らは気づいていた。

この鉄塔の上に、傷つき、動けず、濃厚な血の匂いを放つ、極上の肉があることを。


「っ……来るな……!」


ナラは身構えようとした。だが、武器はない。鉄扇も、靴も、全て失っている。

あるのは、ボロボロの肉体だけ。

一羽が急降下してきた。

鋼鉄のような嘴が、ナラの顔面を狙う。


「くっ!」


ナラは反射的に左腕で顔を庇った。

鈍い音と共に、嘴が左の前腕に突き刺さった。

肉がえぐれ、骨に達する激痛が走る。


「ぎゃああああっ!」


ナラは悲鳴を上げ、右手で鳥の首を掴んで引き剥がそうとした。

だが、鳥の爪がナラの肩に食い込む。ドレスの生地ごと皮膚が裂け、鮮血が噴き出す。


「離れろ! 離れろぉぉッ!」


ナラは半狂乱で暴れた。

死の恐怖。食われる恐怖。

二羽目、三羽目が集まってくる。

一羽がナラの太腿をついばむ。もう一羽が髪の毛を掴んで引っ張り上げようとする。

ここは彼らの食卓だ。

ナラは、ただの餌だった。


「あたしは……あたしはナラティブ・ヴェリタスよ! こんなところで……鳥の餌になんて……!」


ナラは生存本能だけで動いた。

肩に食いついた鳥の眼球に、血まみれの指を突き立てる。

鳥が悲鳴を上げて飛び去る。

その隙に、もう一羽の翼をへし折る勢いでねじり上げた。

鳥たちは警戒して距離を取ったが、旋回をやめない。

ナラが力尽きるのを待っているのだ。

ナラの体からは、夥しい量の血が流れていた。足元の鉄格子が赤く染まり、滴り落ちた血が遥か下界へと降っていく。


戦いの代償は大きかった。

激しく動いたことで、老朽化していた足場が悲鳴を上げたのだ。


「え?」


ナラが背中を預けていた手すりの根元が、腐食に耐えきれず破断した。

支えを失った床板が、ガクンと傾く。


「いやぁぁぁぁっ!」


ナラは必死に、鉄塔本体の太い支柱にしがみついた。

足場が30度ほど傾斜する。

ナラがさっきまでいた場所に、ずり落ちていく。

その先は、何もない虚空だ。

右足が滑り、宙に浮く。


「っ、ぐ、うぅぅぅッ!」


ナラは指先だけで全体重を支えていた。

指の肉が裂け、爪が剥がれる。

鉄の冷たさと、錆のザラついた感触が、傷口に食い込む。

脳内を絶望が埋め尽くす。

こんな死に方があるか。

酒に酔って、自分で登って、自分で梯子を壊して、鳥につつかれて、最後は墜落死。

あまりにも惨めで、救いようのない、自業自得の末路。

涙が溢れた。


「助けて……お母様……ルル、リウ……誰でもいい!カレル!ゴウ!……誰か!!!」


愛する人々の顔が浮かぶ。

けれど、誰もいない。ここには、死の匂いしかない。

意識が遠のきかけた時、ナラの目に飛び込んできたものがあった。

傾いた足場の端に、辛うじてケーブルで繋がっている、航空障害灯の巨大なランプユニットだ。

強化ガラスと鋳鉄でできた、重さ30キロはある塊。


(あれを……落とせば……)


ナラの探偵としての頭脳が、最後の火花を散らした。

声は届かない。体は動かない。

だが、あれを落とせば、巨大な音がする。

下の工場の屋根を突き破れば、誰かが気づくかもしれない。

下に人がいたら? そんなことを考える余裕は一ミリもなかった。

自分が生きるか、死ぬか。それだけだ。

ナラは、最後の力を振り絞った。

血で滑る手で、支柱を伝い、ランプユニットへと這いずる。

傷口が擦れて激痛が走るが、もはや痛みを感じる神経すら麻痺していた。


「……ん、ぐぅぅぅッ!!」


ナラはユニットのフレームを掴んだ。

ケーブルを引きちぎる必要がある。

道具はない。

ナラは、自分の歯を使った。

太いゴム被覆のケーブルに噛み付く。泥と油と鉄の味が口に広がる。

歯が欠ける音がした。構わない。

顎の力で、獣のように食いちぎる。

ケーブルが切れた。

ナラは、その鉄塊を抱え上げた。

腕の血管が切れそうだ。

鳥たちが「何をしているんだ」と空から見下ろしている。


「……気づきなさいよ……馬鹿たれども……!」


ナラは、渾身の力で、鉄塊を虚空へと投げ放った。

鉄塊は回転しながら落下していく。

地響きのような衝撃音が、500メートル下から響いてきた。

工場のトタン屋根を突き破り、変電設備か何かに直撃したのだろう。

バチバチッ! という火花が見え、工場のサイレンが鳴り響き始めた。


「……は、は……」


やった。

ナラは力尽き、傾いた床板の上で脱力した。

もう、指一本動かせない。

体温は限界を下回っている。

視界が暗くなっていく。

これが死か。

意外と、静かだ。


(ごめんなさい、みんな……あたし、バカだったわ……)


薄れゆく意識の中で、ナラは赤い回転灯をつけた飛行物体――警備隊のヘリコプターが近づいてくる音を聞いた。

だが、それを見届ける前に、ナラの世界は闇に沈んだ。


・・・・・・・・・・


ピ、ピ、ピ、ピ……。


規則的な電子音が聞こえる。

消毒液の匂い。

そして、温かい空気。

ナラは重い瞼を開けた。

そこは、見慣れた天井だった。

獣病院。二階の入院室ではなく、地下にあるエラーラの特別研究室。


「……気がついたかね、愚か者よ」


冷たく、しかし隠しきれない安堵を含んだ声。

ナラが視線を動かすと、ベッドの横にエラーラが座っていた。

いつもは白衣を着崩している彼女が、今日はきちんとした医療用ガウンを着て、目の下には濃いクマを作っている。


「エ、ラーラ……」


声を出そうとして、ナラは自分の体がチューブだらけであることに気づいた。

輸血パック、点滴、心電図モニター。

そして全身はミイラのように包帯で巻かれている。


「全身の裂傷。右腕の骨折。重度の凍傷。出血性ショック。……あと一歩遅ければ、君はカラスの餌になっていたよ」


エラーラは淡々と告げた。

その手が、ナラの頬をそっと撫でた。その手は温かかった。


「……ごめん、なさい……」


ナラの目から涙が溢れた。


「ナラちゃん!」


「ナラさん!」


ドアが開き、ケンジとアリア、そしてリウが飛び込んできた。

ケンジは泣いていた。アリアも目を真っ赤にしている。

リウに至っては、「うわあああん! ナラさんのバカァァァ!」と叫びながら抱きつこうとしてエラーラに止められていた。


「よかった……本当によかった……」


ケンジがナラの手を握りしめる。


「工場の屋根を突き破って鉄塊が落ちてきた時は、テロかと思ったよ。でも、それが君からのSOSだとわかって……」


「ナラさん、貴方って人は……」


アリアが涙を拭いながら呆れたように笑った。


「鉄塔を素手で登り、破壊し、最後は爆撃までするなんて。……本当に、規格外すぎます」


ああ、帰ってきた。

あの寒くて痛くて孤独な鉄の処刑台から。

この、騒がしくて温かい、あたしの居場所へ。

ナラは安堵で胸がいっぱいになった。

だが、エラーラが咳払いをした。


「さて。感動の再会もいいが、少々現実的な話をしようか」


エラーラが一枚の請求書を突きつけた。

そこには、鉄塔の修繕費、工場の屋根の修理代、操業停止の補償金、そして警備隊の出動費用が記載されていた。

桁が、見たことのない数になっている。


「えっ……」


「ケンジ君たちが奔走して、なんとか分割払いにはしてもらったがね。君はこれからこの借金を返済しなきゃならない」


ナラは青ざめた。


「そして、もう一つ」


エラーラは、ナラの顔を真っ直ぐに見据え、世界で一番怖い顔で言った。


「今後、君のアルコール摂取を一切禁ずる」


「え……」


「料理酒もダメだ。菓子に入っているリキュールもダメだ。消毒用アルコールの匂いを嗅ぐのも禁止する」


「そ、そんな……」


「もし破ったら……」


エラーラは背後の棚にある、禍々しい色をした試験管を指差した。


「君のその強靭すぎる肝臓を摘出して、私の新しいエンジンの燃料タンクとして移植する。……いいね?」


ナラは包帯だらけの体で、ガクガクと震えながら頷くしかなかった。


「はい……誓います……もう二度と、飲みません……」


「よろしい」


エラーラは初めてふっと笑い、温かいスープが入ったカップを差し出した。


「さあ、飲みなさい。栄養剤入りの特製スープだ。……まずは体を治すんだよ、私の大事な娘」


ナラはストローでスープを一口飲んだ。

温かくて、少し苦くて、でも涙が出るほど美味しかった。

窓の外では、王都の穏やかな夕日が沈んでいく。

ナラティブ・ヴェリタスの、酒と血と鉄錆にまみれた長い一日は終わりを告げ、

借金と禁酒という、新たな戦いの日々が幕を開けたのだった。

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