第1話:天空はしご酒(1)
王都の夜は、美しく、滑らかで、けれどその裏には……いや、そんなことは今はどうでもいい。
「……ふっ。今のあたしに必要なのは、詩ではなく、喉を焼く液体よ──!」
ナラティブ・ヴェリタスは、ショーウィンドウに映る自分に完璧なウィンクを決めた。
今日のドレスは漆黒のシルク。背中が大胆に開き、スリットからは白磁のような脚が覗く。どこからどう見ても、王都の裏社会を牛耳る女帝か、高貴な未亡人の装いだ。
懐には、分厚い札束。
「一流のレディには、一人の夜が必要なの。……行くわよ、ナラ。今夜は長いわ──!」
ヒールの音を高らかに響かせ、ナラは夜の街へと繰り出した。
これが、伝説となる「天空・はしご酒」の始まりである。
一軒目、オーセンティック・バー『琥珀』。
重厚なオークの扉を開けると、そこは時間が止まったような空間だった。
紫煙が薄く漂い、氷が触れ合う微かな音だけが支配する場所。
ナラはカウンターの隅、一番照明が暗い席に滑り込んだ。
座り方は完璧だ。背筋を伸ばし、脚を組み、憂いを帯びた瞳でバックバーを眺める。
「……いらっしゃいませ」
初老のバーテンダーが静かに近づく。
「……25年。シングル、ストレート。」
ナラはあえて銘柄を指定しない。年数だけで通じ合える客を演じたかったからだ。
「……かしこまりました」
運ばれてきた琥珀色の液体。ナラはグラスを持ち上げ、照明にかざす。
「……美しいわね。まるで、汚れた世俗を濾過したあとの、一滴の真実みたい」
誰に聞かせるわけでもない独り言だが、声量はそこそこ大きかった。
ナラは一口、液体を含む。カッとした熱が喉を通り抜け、胃袋に落ちる。
「くぅ……これよこれ。探偵という仕事はね、マスター。泥水を啜って、砂金を吐き出すようなものなの」
マスターはグラスを拭きながら、曖昧に微笑んだ。
「……左様でございますか」
「ええ、そうなのよ。世間はあたしたちを便利屋か何かだと思ってる。猫を探せ、浮気を調べろ、北の果てで凍りついた死体を見つけろ……。けれどね、あたしたちが探しているのは、そんな物質的なものじゃないわ」
ナラは二口目を煽る。ペースが早い。
胃壁にアルコールが染み渡り、脳の血管が拡張していく。思考が加速する!――と本人は感じていたが、実際にはブレーキが壊れ始めているだけだった。
「あたしが探しているのは『品格』よ。そう。マスター。わかるかしら?この街にはね、品格が足りないの。どいつもこいつも、損得勘定ばかり。まるで計算機と話しているみたいだわ。──おかわり」
「……あ、はい。少々ペースが早ようございますが……」
「いいのよ。あたしは、ハードボイルドなんだから」
ナラはグラスを置いた。
「ハードボイルドってのはね、茹で過ぎた卵のことじゃないわ。……いや、ある意味そうかもね。熱湯の中で耐えて、耐えて、固くなった黄身……されども、それが魂よ。あたしの魂は今、固茹でなの。そう、塩を振らないと飲み込めないくらいにね」
バーテンダーが困惑した顔をする。
ナラの論理はすでに破綻し始めていた。
「だからね、思うの。あたしは。このウイスキーは、麦の涙だって。大地から引き剥がされ、樽という牢獄に閉じ込められ、二十五年の孤独に耐えた……。わかる?これはね、あたしなのよ。この液体は、あたしの人生そのものなの!」
「は、はあ。……お客様、チェイサーは……」
「……薄まるような人生なら、いっそ飲み干してしまったほうがマシね……」
ナラは三杯目を一気に飲み干した。
視界が少し揺れる。いい気分だ。世界が、あたしを中心に回り始めている。
「……勘定を。釣りはいらないわ。その金で、あの孤独なボトルに、子守唄でも歌ってあげて」
ナラは札をカウンターに叩きつけ、颯爽と立ち上がった。
少しよろけたが、ターンで誤魔化した。
「……夜はまだ、始まったばかりよ」
背中で店の空気が「あいつ一体何だったんだ」とざわめくのを、ナラは「賞賛の囁き」だと解釈して店を出た。
二軒目、アイリッシュ・パブ『陽精亭』。
打って変わって、喧騒と熱気に満ちたパブ。
フィドルの生演奏、笑い声、そしてジョッキがぶつかり合う音。
「ここね! 今のあたしのバイブスに合うのは!」
ナラは扉を蹴り開けるようにして入店した。
先ほどのハードボイルドな仮面は、路地裏のどこかに落としてきたらしい。今の彼女は、陽気で、そして少々うざったい「三枚目のナンパ師」モードだった。
「エール!パイントで!泡はクリーミーにお願いするわ!」
カウンターでビールを受け取ると、ナラは泡の髭をつけながら、店内を見回した。
獲物を探す猛禽類のような目つきだ。
ターゲット発見。テーブル席で飲んでいる、四人組の男たち。身なりからして、王宮の騎士か、官僚の若手だろう。
ナラはグラス片手に、彼らのテーブルへとにじり寄った。
「さあさあさあさあさ!ごきげんよう、紳士たち」
男たちが顔を上げる。
「あ、ああ……こんばん、は……」
「お一人です、か……?」
「ええ、一人よ。そう。孤高の一輪花ってやつね」
ナラは勝手に空いている椅子を引き、どっかりと座った。
「ねえあんたたち。この国のマクロ経済における、魔法石の流通バランスについて、どう思う?」
「は? ……け、けえざい?」
男たちが顔を見合わせる。ナンパだと思ったら、いきなり講義が始まったような顔だ。
「そよーっ!わからない?今の王都はインフレ気味だわ!ハードボイルドな卵の値段が、あたしの機嫌と同じくらいに、不安定なのよ! ……ところで、あんた。いい上腕二頭筋をしてるわね」
ナラは隣の男の腕を、いきなりバシッと叩いた。
「ぐふっ!?」
男がむせる。ナラの掌底は、スキンシップの域を超えていた。
「あんらーん、ごめんなさい。あたし、素敵な筋肉を見ると、つい耐久テストをしたくなっちゃうの。……ねえ、あたしと飲み比べしない? もしあたしが勝ったら、その筋肉、一晩レンタルさせてあ・げ・る・わ!」
「い、いや、結構です……」
目の前の美女の言動は完全に「親戚の面倒くさいおじさん」だった。
男たちはドン引きしている。
「何よン、つれないわねン!あーしより、その茶色いエールのほーが魅力的だってゆーの!?」
ナラは男のジョッキを指差して叫んだ。
「い、いや、そういうわけじゃ……僕たちはただ、仕事終わりに……」
「仕事ン?仕事の話なんて野暮よ!ここは酒場よ?夢と、希望と、あと……なんだっけ、そう、夢!夢を語る場所でしょうがン!」
ナラは立ち上がり、テーブルに片足を乗せた。
スカートのスリットが危険な角度になるが、本人は気にしていない。
「いいこと?──愛っていうのはね、ビールの泡みたいなものよ。最初はこんもりあって、口当たりがよくて、でも気がついたら消えてるのン!残るのは苦い液体だけ!……まるで、あたしの元婚約者みたいにねン!あ、婚約者なんていなかったわ!ガハハハハ!…………笑えよ。」
「ちょ、お姉さん、声がでかい……」
「うッさいわね!だぁーれが声がでかいですって!?あたしゃあね、腹から声を出しているだけよ!一流のレディは発声練習も欠かさないの!……あ!…………あんた、今あたしのことを『売れ残りのヒステリー女』って目で見たわねッッッ!?」
「見てません!」
「嘘よッッッ!その目が言ってるわ!『中身が残念』って! ……上等じゃないの。あたしの魅力を理解できないなんて、あんたたち、それでも男!?」
「あーじゃ、あーいや……じゃ、俺たち、帰ります!」
男たちは逃げるように会計を済ませて出ていった。
ナラは一人、テーブルに取り残された。
「……フン。逃げ足だけは速いんだから。……これだから最近の若いのは軟弱なのよンッッッ!」
ナラは男たちが残したフライドポテトを勝手につまみ、「マスター! ここお会計!ついでにこのポテトの代金も払っとくわ!」……と叫び、ふらつく足で店を出た。
三軒目、大衆居酒屋『赤提灯』。
三軒目ともなると、もはや店の名前などどうでもよかった。
赤く光る提灯。煮込みの匂い。煙草の煙。
そこは、労働者たちが集う混沌の吹き溜まり。
ナラは「ハイボール!濃いめの薄めで!……て、どっちだい!あと水の水割り!ガハハ!」と叫び、空いている席に滑り込んだ。
隣には、地味な学生服を着た三人組が、ちびちびと安い酒を飲んでいた。
格好の餌食だった。
「……ね、わかものたち」
ナラはジョッキをダン! とテーブルに置き、虚ろな目で彼らに話しかけた。
すでに目は据わり、焦点が合っていない。
「ひっ……は、はい?」
「ああたたち、せいぎにういて、かがえたことらる?」
「せ、正義……ですか?」
「そよ、せいぎ。……ああしはね、おもんのよ。せいぎってのは、この『もつにおみ』……みたいなものだって」
ナラは箸でモツをつまみ上げ、プルプルと震わせた。
「……どういう意味です?」
「よくみあさい。こおね、もつはね、いちど、みずでああわれて、つーっとくさみをぬかれ、みそというなのこんとんのなかでにおまれたの。……わある?つまりね、いちどしたをみてあらはいめてあじがしみるのよ!ひれいなだけのせいぎなんて、あじのしないこんにゃくとおあじ!わーる!?わかれよ!わ!か!れ!よ!」
「は、はい!わかります!モツは美味しいですよね!」
学生たちは恐怖で頷くしかない。
「そ、すなおでいいわね。……でもね、あたしのあいつはね、こんにゃくなのよ。かんじょのはいるすいまがないの!こちとらね、あーた、すきまのためにいきてるんじゃないわよ!しとの、そんげんのためにいきてるのよ!」
ナラはハイボールを一気に半分飲んだ。
アルコールが脳髄を直接殴りつける。思考が飛び火する。
「──あんた!つまり猫は好き──?」
唐突な話題転換。
「え、あ、はい。好きです」
「──甘いわ!猫をなめるんじゃないわよ!あいつらはね、可愛い顔して、こっちを『エサを運ぶ肉の塊』としか見てないの! 獣病院の二階に住んでる猫なんて、あたしのベッドの真ん中で寝るのよ? あたしは端っこで『く』の字になって寝るの! これが支配構造! これが社会の縮図よ!」
「は、はあ……大変ですね……」
「大変?違うわよ、幸せなのよ! ……ああん? なんでわからないの? 猫の重みは、命の重みなの!重力なの!ジオルド・フランキンセンスも言ってたわ、『猫は相対的に可愛い』って!」
「言ってないと思いますけど……」
「言ったの!あたしがいま聞いたの! 昨日、夢の中で!」
ナラは立ち上がり、ふらふらと店の中央へ移動した。
周囲の客が「なんだあのおばさん」と注目する。
「聞いてちょうだい、愚民たちよ!……ぐ!み!ん!たちよ!」
ナラは箸を持ったまま演説を始めた。
「この世界は間違ってる!男たちの見る目がない! ……あたしを見なさい! こんなに完璧なレディが、なんで独りで飲まなきゃいけないの!? これは国家的な損失よ! 資源の無駄遣いよ!」
「そうだー!」
「いいぞー姉ちゃん!」
酔っ払いのおっさんたちが面白がって野次を飛ばす。
「誰が姉ちゃんよ!あたしはナラティブ・ヴェリタス!未来を……えっと、何か?……何かを守る女よ!……そう、守るのよ。尊厳を!」
ナラは感極まって泣き出した。
「うっ、うぅ……エラーラ……あんたも飲みたかったわよね……熱燗……」
ナラは、箸袋をぐしゃぐちゃに折りたたんだものを、学生のテーブルに置いた。
「……これはチップよ。受け取りなさい」
「え、これ、ゴミじゃ……」
「ゴミじゃないわ!鶴よ!平和の象徴!そして、あたしの『繊細な心』の形見よ!……大事にしなさい!」
「あ、ありがとうございます……」
ナラは満足げに頷き、ふらつきながら出口へ向かった。
「……ここは空気が薄いわ。もっと濃い場所へ行くの……」
店員が「ありがとうございましたー」と言う声を背に、ナラは千鳥足で夜の闇に消えた。
ここまでは、まだ「平和」だった。
四軒目、違法酒場『奈落』。
四軒目の記憶は、極彩色の霧の中にある。
看板のない鉄の扉。地下へと続く階段。
極限まで煮詰まったナラの脳みそは、ここを「選ばれた者しか入れない秘密のサロン」だと認識していた。実際は、麻薬の密売所を兼ねた賭博酒場だったのだが。
「……こんばんは。コードネーム、ゼロゼロ……セブンよ」
ナラは適当なことを言って、用心棒を突き飛ばして中に入った。
充満する怪しい煙。怒号。チップの音。
ナラはカウンターへ直行した。
「マスター。この店で一番強いやつを。……色がついているやつがいいわ。虹色のやつ」
出てきたのは、工業用アルコールを何かのシロップで割ったような、蛍光グリーンの液体だった。
「レインボー・ハザードお待ち」
「……素敵な名前ね。虹の彼方へ連れて行ってくれるのかしら」
ナラはそれを一気に煽った。
瞬間、脳内でビッグバンが起きた。
味がしない。ただ、食道が爆発したような衝撃だけがある。
「……効くわね。これよ。これこそが、真実の味……」
視界が歪む。
隣に座っているスキンヘッドの男が、三人に分裂して見える。
「おい女。ここはガキが来る場所じゃねえぞ」
男が凄む。
ナラの中で、何かが「プツン」と切れた。
ここまでの三軒で蓄積された「意味不明な理論」と「鬱屈」が、謎の酒によって化学反応を起こし、破壊衝動へと変換されたのだ。
ナラは三つに見える男の、真ん中の顔を指差した。
「……あら。三つ子?仲良しでいいわね。……でも、ファッションセンスが最悪よ。その頭、タコ焼きみたいだわ」
「はあ!?」
「焼き菓子なら、のりを振らなきゃ。……それとも、ソースが足りないのかしら?」
ナラは自分のグラスに残った蛍光色の液体を、男の頭にバシャリとかけた。
「……これで、メロン味の群青色ね」
「てめぇぇぇぇッ!!!」
男が立ち上がり、殴りかかってくる。
周囲のゴロツキたちも一斉に立ち上がる。
ここから先は、ナラの記憶も断片的だ。
覚えているのは、「舞踏会」だ。
そう、あたしは踊ったのよ。
男の拳を紙一重でかわし、ドレスの裾を翻し、優雅に回転した。
「ハハハハ!遅いわよ!あたしのミデループについてこれるかしら!うおおおおお!尊厳が!来たわよッ!……居ない!いないのが悪いのよ!ミデロ・カスティロみたいな俳優の彼氏が欲しいッッッ!…………でも、ミデライ・カステロって誰!?」
ナラは叫びながら、巨大な男を背負い投げし、それをドミノのように他の男たちにぶつけた。
店の中が半壊していく。
ボトルが割れ、テーブルが砕け、男たちが呻き声を上げて転がる。
最後に立っていたのは、ナラだけだった。
「……ふぅ。いい汗かいたわ」
ナラはカウンターの中にうずくまっているマスターに、札束の残りを全て投げつけた。
「楽しかったわよ。この店の改装費に使ってちょうだい。……次はもっと、広いダンスフロアを用意しておくことね」
ナラはボロボロのドレスを引きずりながら、崩壊した店を出た。
「格好良く」店を出たつもりだが、実際はドレスは破れ、髪は振り乱れ、片方の靴が脱げかけていた。
外の空気は冷たかった。
夜空を見上げる。星が回っている。いや、空が落ちてきそうだ。
「……足りないわ」
ナラは呟いた。
「まだ、足りない。もっと……もっとよ。今のあたしには全て邪魔なだけよ。……そうだわよ、そうだわよね、空。空が呼んでるわ。あそこに、最高の一杯があるはずよ……」
ナラはふらふらと歩き出した。
「待っててね……今、飲みに行くから……」
ナラはヒールを脱ぎ捨て、裸足になった。




