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第11話:Gentle Dawn

主題歌:.hack//SIGN/優しい夜明け

https://youtu.be/Vs4VfomlHM8?si=cOYc7Qi9lYM0UehI

王都の最下層、掃き溜め地区に、今日も冷たい雨が降っていた。

ここの雨は、天からの恵みではない。上層都市の工業廃水と、魔導炉からの煤煙を含んだ、黒くて酸っぱい「涙」だ。

地面の泥はヘドロと化し、ただでさえ悪い足場をさらに奪っていく。

ユリカは、傘も差さずにその雨の中を歩いていた。

彼女の営む「赤猫の館」の経営は順調だったが、彼女自身が現場から離れることはなかった。

泥の冷たさを、忘れてはいけない。

この腐臭を肺に刻み込んでおかなければ、いつか「自分が何者か」を見失ってしまう気がしたからだ。


「……チッ」


ユリカは濡れた髪をかき上げ、路地裏の角を曲がった。

その時だった。

灰色の雨のカーテンの向こうに、異質な「色」が見えた。

ボロボロのレンガ壁にもたれかかるように、一人の女が立っていた。

先日、店に現れた、旅人だ。

彼女はフードを外し、髪を、雨に濡れるがままにしていた。

その身に纏うマントは上質だが、今は泥にまみれている。

だが、ユリカが息を呑んだのは、そんなことではない。

彼女の周りだけ、雨が「避けて」いるように見えたのだ。

物理的な結界ではない。単純な錯覚だった。だが、彼女の放つ圧倒的な存在感、あるいは世界そのものから浮き上がっているような「異物感」が、雨粒すらも躊躇させているようだった。

ユリカの腹の底で、警報が鳴り響いた。


(コイツは……敵だ)


私の野望を、「過去へのリセット」で無に帰そうとする、傲慢な女。

ユリカは足を止めず、旅人に向かって真っ直ぐに歩いた。

ヒールの音が、泥水に吸い込まれる。


「……またあんたか。何の用だい?」


ユリカは、敵意を隠そうともせずに吐き捨てた。

旅人はゆっくりと顔を上げた。

その、瞳。

先日見たときは、鋭い知性と自信に満ちていたその目が、今は深く、暗く、底知れぬ悲しみを湛えていた。


「……ユリカ」


旅人が名前を呼ぶ。

その響きは、まるで長く離れ離れになっていた我が子を呼ぶ母親のように、優しく、震えていた。


「この雨は……冷たいな。」


旅人は、空を見上げた。

彼女の頬を伝う雫が、雨なのか涙なのか、ユリカには判別できなかった。


「当たり前さ。ここは地獄の地獄の、底の、底の底の底の、底だからね。あんたみたいな高貴な人間が、物見遊山に来る場所じゃない」


ユリカは、旅人の目前まで迫った。

身長は旅人の方が高い。だが、ユリカはつま先立ちになって、その美しい顔を睨みつけた。


「言ったはずだ。私は過去には戻らない。この世界を、今のまま肯定して、私の手で書き換えるんだ。……あんたの『リセット』は、私にとっての……『殺人』なんだよ」


ユリカの言葉は刃だった。

拒絶。否定。宣戦布告。

普通の人間なら、怒るか、あるいは軽蔑して立ち去るだろう。

だが、旅人は違った。

彼女は、ユリカの刺すような視線を、正面から受け止めた。

そして、悲しげに、しかし慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「……ああ。分かっている。君は、強いな」


「……?」


「この泥の中で、誰よりも泥にまみれながら、誰よりも高く空を見上げている。……美しいよ、君のその『怒り』は」


旅人の言葉には、嘘がなかった。

上から目線の憐憫でもない。心からの称賛と、敬意。

それが、ユリカを苛立たせた。


(なんだよ、なんなんだよ!その目は!なんで私を認めるんだよ。私はあんたを、否定してるんだぞ!)


「……ふざけるなッ!」


ユリカの右腕が、思考よりも速く動いた。

握りしめた拳。

売春婦として客に殴られ、ヤクザに媚び、泥水を啜って生きてきた女の、怨念と意地が詰まった鉄拳。


「その!『全て分かってます』みたいな!顔を!やめろォッ!!」


ドスッ!!!


鈍い音が、雨音を切り裂いた。

ユリカの拳が、旅人の腹部に深々と突き刺さった。

魔法障壁はない。防御の構えすらない。

旅人は、無防備なまま、その一撃を受け入れた。


「……ッ……」


旅人がわずかに呻き、前屈みになる。

苦痛に顔が歪む。

だが、彼女は倒れなかった。

一歩も退かなかった。

鋼のような腹筋。

そして何より、大地に根を張る大樹のような、精神の強靭さ。

彼女は、ユリカの拳を腹筋で受け止め、その衝撃を逃すことなく、全て飲み込んだのだ。


「……な……」


ユリカは、拳を引くこともできず、呆然とした。

殴った感触が、あまりにも重かった。

肉体の強さだけではない。「重み」が違う。

旅人は、脂汗を流しながらも、ゆっくりと上体を起こした。

そして、痛みに歪んだ顔で、また笑ったのだ。

優しく。どこまでも優しく。


「……いい拳だ。……重くて、痛くて……生きている」


「な、なんで?……避けなかった……? 魔法を使えば……」


「避ける理由は、ないよ」


旅人は、ユリカの拳に自分の手を重ねた。

その手は、冷え切ったユリカの手とは対照的に、燃えるように熱かった。


「君の痛みだ。君の叫びだ。……私が受け止めなくて、一体、誰が受け止めるというのだ」


「……あんた、一体、何なんだよ……」


ユリカは、震える声で問いただした。

人間離れした美貌。圧倒的な魔力。そして、聖女のような慈愛と、戦士のようなタフネス。

この腐った時代に、こんな人間が存在するはずがない。


「あんた……この世の者じゃないだろ」


ユリカの問いに、旅人は、あっけらかんと頷いた。


「ああ。バレてしまったか」


旅人は、マントの泥を払い、静かに告げた。


「私は、過去から来た。……正確には、10年前の時間軸から」


「10年前……?」


「私の本当の名は……エラーラ・ヴェリタス。……かつて『大賢者』と呼ばれ、世界を救おうとしていた者だ」


エラーラ・ヴェリタス。

その名は、この世界ではタブーであり、伝説であり、そして最大の「絶望」の象徴だった。

最強の魔法使いでありながら、悪漢レクタに堕とされ、魔女となり、世界を破滅させた張本人。


「嘘だ……。エラーラは、もう死んだはずだ。レクタと一緒に……」


「そう、死んだ。……『未来の私』はな」


旅人――若き日のエラーラは、自嘲気味に笑った。


「私は、見たのだよ。自分がこれから歩む未来を。……時間魔法の研究中、偶然にも時空の歪みに迷い込み、この時代に漂着した。そして、見てしまった」


彼女の瞳に、深い後悔の影が差す。


「私が、愛すべき人々を守れず、愚かな男に屈し、知性を売り渡し、狂ったまま死んでいく様を……」


ユリカは息を呑んだ。

この女は、知っているのだ。

自分がこれから、『どれほど』惨たらしく、無様に、尊厳を失って、死ぬかを。

自分の信じていた正義が、愛が、全て裏切られ、汚される未来を。


「……だったら! なんであんたは!平気な顔してられるんだよ!」


ユリカは叫んだ。


「あんたの未来は地獄だぞ!だったら、今すぐ逃げればいい!過去に戻って、レクタを殺せばいい!やりなおせばいい!なのに、なんで……なんでそんなに穏やかでいられるんだよ!」


普通なら発狂するはずだ。

あるいは、憎悪に狂って世界を破壊しようとするはずだ。

だが、目の前のエラーラは、あまりにも静かだった。

嵐の中心のような、透き通った静寂。


「……最初は、絶望したさ」


エラーラは言った。


「この世界を見た時、私は嘔吐した。私の魔法が、人々を虐殺するために使われている。私の愛が、世界を呪う毒になっている。……死にたくなったよ。自分の存在そのものを、歴史から消去したかった」


彼女は、ユリカの頬に触れた。


「だが……私は、君を見つけた。」


「……私?」


「ああ。この泥の中で、絶望を嘆くのではなく、現実を肯定し、変えようともがく君を」


エラーラの指が、ユリカの目元の泥を拭う。


「『過去には戻らない』。……君はそう言ったな。たとえそうでなくても、そうであっても、その言葉が、私を救ったのだ」


「救った……?」


「もし私が過去に戻り、歴史を変えれば……この世界は消える。レクタの悪政も、虐殺もなかったことになる。……だが同時に、君という存在も消える」


エラーラは、愛おしそうに周囲のスラムを見渡した。


「君が流した涙も、君が救った仲間たちも、君が積み上げた『赤猫の館』という小さな奇跡も……全て、なかったことになる。……それは、許されないことだ」


彼女の論理は、常人のそれを超越していた。

自分の悲劇的な運命よりも、一人の名もなき売春婦の「生存の証」を優先する。

それが、かつて「大賢者」と呼ばれた女の、究極のノブレス・オブリージュだった。


「私は、私の運命を受け入れる。……未来で私が犯す罪は、消えない。償いきれない。だが、せめて……」


エラーラは、ユリカの両肩を掴んだ。


「君という『希望』だけは、肯定したい。君がこの地獄で掴み取った物語だけは、誰にも否定させない」


ユリカは、震えた。

心臓が、早鐘を打っていた。

彼女はずっと、孤独だった。

誰かを救おうとしてきたが、誰かに救われたことはなかった。

親はいなかった。教師もいなかった。神様なんて信じていなかった。

自分一人で、泥をかき分けて進むしかなかった。

だが今、目の前にいるこの女は。

ユリカの汚れた過去も、卑しい現実も、暴力的な衝動も、全てひっくるめて「美しい」と言った。

肯定してくれた。

しかも、自分の命を犠牲にしてまで。

ユリカは、エラーラの中に、奇妙な感覚を覚えていた。

厳しく導く「父性」。

全てを包み込む「母性」。

その両方が、この華奢な体の中に同居している。


「……あんた、さては、バカだよね……」


ユリカの目から、熱いものが溢れ出した。

雨に混じって、頬を伝う。


「大賢者なんでしょ? 天才なんでしょ? だったら……もっと自分のために生きろよ……。なんで私なんかのために……」


「バカで結構だ。……それに、君は『私なんか』ではない」


エラーラは、ユリカを強く抱きしめた。

泥だらけの服など気にせず。雨に濡れるのも厭わず。

その体温が、ユリカの凍えた芯を溶かしていく。


「君は、私が成し遂げられなかったことを成そうとしている。……力なき者の革命。底辺からの再生。それは、魔法なんかよりもずっと尊い」


エラーラの腕の中で、ユリカは子供のように泣いた。

声を上げて、しゃくり上げて。

張り詰めていた糸が切れた。

「強がらなくていい」「一人じゃなくていい」。

そう言われている気がした。

彼女は、生まれて初めて、他人の胸の中で「安心」という感覚を知った。

しばらくして、ユリカの嗚咽が収まると、エラーラは優しく彼女の体を離した。

そして、改まった表情で尋ねた。


「君に、一つ、聞きたいことがある」


「……なに?」


「君の名前だ。……『ユリカ』というのは、偽名だろう?」


ユリカは、目を伏せた。


「……名前なんて、ないよ」


「ない?」


「ああ。親の顔なんて、知らない。物心ついた時には、ゴミ捨て場にいた。……『ユリカ』は、最初に私を買った女衒がつけた、商品タグみたいなもんだ。」


ユリカは自嘲した。

名前がない。それは、彼女が「人間」として扱われてこなかった証だ。

レクタが物語を持たなかったように、彼女もまた、アイデンティティの根幹である「名」を持たざる者だった。


「だから私は、何者でもないんだ。ただの……」


「……いいや。違うな」


エラーラは、首を横に振った。


「君はもう、何者かになっている。君自身の物語を、その足で紡いできたのだから」


エラーラは、ユリカの顔を両手で包み込んだ。

その黄金の瞳が、ユリカの魂の奥底を覗き込む。


「名がないなら、私が贈ろう。……私の、最初で最後の……私の意志を継ぐ『娘』として」


「……娘……?」


「ああ。君は、私の誇りだ」


エラーラは、雨上がりの空を見上げた。

黒い雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいた。

それは、ユリカが進むべき未来への道標のように見えた。


「君の新しい名は……『ナラティブ・ヴェリタス』」


「ナラティブ……ヴェリタス……」


ユリカは、その音を口の中で転がした。

不思議な響きだった。

重く、厳かで、しかしどこか懐かしい。


「『ナラティブ』。つまり、物語だ。君がこの世界で紡ぐ文脈。力でも、金でもなく、君自身の生き様で描く、物語だ。」


エラーラは、ナラティブの額に自分の額を合わせた。


ユリカ――いや、ナラティブは、震える手で自分の胸を押さえた。

胸の奥が、熱い。

名前を与えられることが、これほどまでに魂を震わせるものだとは知らなかった。

それは、ただの呼称ではない。

「お前はここにいていい」「お前には意味がある」という、存在証明だった。


「……いい名前、だね」


ナラは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、精一杯の笑顔を見せた。


「ありがとう……」


「ふふ。……いい笑顔だ」


エラーラは満足げに微笑んだ。

その顔に、悲壮感はなかった。

あるのは、未来への希望を託した者の、晴れやかな決意だけ。

雨は、止んだ。

雲間から差し込む夕陽が、水たまりに反射して黄金色に輝いている。

ナラは、涙を拭った。

もう、泣かない。

彼女は「もらった」のではない。

「継いだ」のだ。

最強の賢者の名と、その魂を。

彼女は、水たまりに映る自分の顔を見た。

そこには、もう卑屈に塗れた顔はなかった。

世界を見据え、運命に抗い、新たな時代を切り拓く「革命家」の顔があった。

レクタが持たざる者として死に、エラーラが絶望の中で託した「物語」は、今ここに、最強の継承者を得て、真に動き出したのである。

雨雲が割れ、夕陽が泥濘を黄金色に染め上げていた。

彼女は、ナラの泥だらけの頬に触れた。


「ナラ。君には『物語』がある。人を動かす熱がある。だが、この世界は強固にロックされている。……その鍵を開けるには、私の『力』が必要だ」


エラーラはこの時代の「悪女エラーラ」と同一の生体情報を持っている。

つまり、レクタ亡き後、凍結されているはずのあらゆる行政施設、魔導インフラ、兵器システムのロックを、彼女なら、解除できるのだ。


「私は残るよ。君の物語の、最強の『脇役』として」


「エラーラ……!」


「さあ、行こうか。私の可愛い娘。……まずは、君の鳥籠を壊しに行こう」


二人の女は歩き出した。

泥の中から生まれた「物語」と、過去から来た「論理」。

最強の母娘が、この腐った世界に「知性」という革命の火を灯すために。



売春宿「赤猫の館」。

そこは、ナラにとって長年の生活の場であり、鎖で繋がれた檻でもあった。


「おいユリカ! どこ行ってたんだ! 客が待ってんだぞ!」


店主の男が怒鳴り込んでくる。

ナラは、静かに彼を見据えた。その目には、もはや媚びも恐れもない。


「店主。……今日で辞めるよ」


「ああん? ふざけんな! お前の借金がまだ……」


店主がナラの腕を掴もうとした瞬間。

横にいたエラーラが、無言で指を弾いた、

店主の足元の床板が、正確な円形に切り取られ、彼は腰まで床下に落ちた。


「うわあっ!?」


「……物理的干渉を確認。排除行動、完了」


エラーラは淡々と言った。魔法ではない。彼女の剣技にも似た、純粋な魔力による空間切断。

店主が悲鳴を上げ、他の娼婦たちが集まってくる。

ナラは、怯える彼女たちに向かって、両手を広げた。


「みんな、聞いてくれ」


彼女の声は、以前よりも低く、しかし腹の底に響くような説得力を帯びていた。


「私たちは、今まで『体』を売ってきた。それは、私たちがバカで、弱くて、他に何も持っていないと思い込まされていたからだ。……でも、違う」


ナラは、自分の胸を拳で叩いた。


「私たちには『心』がある。感じる力がある。客の嘘を見抜く目がある。……それは、どんなエリートも持っていない武器だ」


「ユリカ……あんた、何言って……」


同僚のミキが震える声で問う。


「ユリカじゃない。今日から私の名は、ナラティブ、ヴェリタス!」


彼女は、エラーラを見た。エラーラは無言で頷き、彼女の背中を押すように微笑んでいる。


「私は、この街を変える。体を売る場所じゃなく、知恵を売る場所に。」


ナラは店を出た。

一人、また一人。

ミキが、サナが、ロクロー教授が、そしてヤクザのテツまでもが、磁石に吸い寄せられるように彼女の後を追った。

店主は床にハマったまま叫んだ。


「おい! 待てよ! 俺を置いてくなァ!」


誰も振り返らなかった。

恐怖による支配は、希望による連帯の前には無力だった。


一行が向かったのは、スラムの中央に聳え立つ、巨大な閉鎖施設「第7情報管理センター」だった。

キリヒト・ロジカルが建設した、市民の思想統制を行うためのデータバンクであり、厳重なセキュリティで封鎖されている。


「ここを……拠点にするのか?」


ロクロー教授が、巨大な鉄扉を見上げて絶句した。


「無理だ。ここには軍用レベルの魔導認証がかかっている。ハッキングなんて……」


「退がっていてくれ」


エラーラが前に出た。

彼女はフードを外し、監視カメラと虹彩認証パネルの前に顔を晒した。

その美貌は、この時代の誰もが恐れる「魔女エラーラ」そのものだ。


『生体認証、確認。……エラーラ・ヴェリタス様。お帰りなさいませ』


無機質な音声と共に、重厚な鉄扉が、地響きを立てて開いた。


「なッ……!?」


全員が腰を抜かした。

開くはずのない「王の扉」が、いとも簡単に開かれたのだ。


「……システム掌握完了。空調、照明、魔力供給、全て正常。……どうぞ、ここが君たちの新しい城だ」


エラーラは、執事のように恭しくナラティブを招き入れた。

ナラティブは、開かれた扉の向こう――広大なホールと、無数の端末、そして備蓄された食料や書物――を見渡し、震える息を吐いた。


「……すごい。これが、力……」


「これはただの『箱』だ」


エラーラは言った。


「中身を埋めるのは、ナラ。君の言葉だ」


その日、掃き溜め地区に、前代未聞の「学校」が開校した。


ナラの授業は、独特だった。

彼女は、難しい数式や歴史年号を教えたりはしない。


「いいかい。なんでアンタたちは、毎日泥水を啜ってると思う?」


大ホールに集まったスラムの住人たち――乞食、孤児、元娼婦、チンピラたち――に向かって、ナラは問いかける。


「運が悪いから? 才能がないから? ……違う。アンタたちが『考えない』からだ」


彼女は、ホワイトボードに、大きな円を描いた。


「レクタやキリヒトは、アンタたちから『考える力』を奪った。バカなままでいれば、安い賃金で働かせられるし、反乱も起きない。……アンタたちの不幸は、奴らが設計した『システム』なんだよ」


会場がざわつく。


「俺たちが……ハメられてたってのか?」


「そうさ。だから、怒れ。でも、ただ暴れるな。暴れたら奴らの思う壺だ」


ナラの瞳が、熱く輝く。


「『なぜ?』と問え。なぜ賃金が安いのか。なぜ法律がこうなっているのか。……思考しろ。相手の立場になって、相手の論理を分解しろ。そうすれば、奴らの急所が見えてくる」


彼女の言葉は、乾いたスポンジに水が染み込むように、人々の心に浸透していった。

彼らは今まで、暴力を振るうか、泣き寝入りするかの二択しかしらなかった。

だが、ナラは「対話」と「思考」という、第三の武器を与えたのだ。

一方、エラーラはその後方支援を完璧にこなした。

彼女は、ナラの抽象的な理念を、具体的なカリキュラムと物資に変換した。

食料配給システムをハッキングして、生徒たちに温かい食事を提供し、医療ポッドを起動して病人を治療した。


「腹が減っては思考も鈍る。健康な肉体にこそ、健全な知性が宿る」


エラーラの提供する「論理的な環境」の中で、ナラの「情熱的な言葉」が育つ。

二つの歯車が噛み合い、街の空気は劇的に変わり始めた。

目は輝き、背筋は伸び、人々は「議論」をするようになった。

殴り合いではなく、言葉で解決する姿が、あちこちで見られるようになった。


だが、革命には反動がつきものだ。

スラムを武力で支配していた武装ギャング団「黒鉄」が、この動きを嗅ぎつけた。


「おいおい、何やら生意気な『お勉強会』をしてるらしいなァ!」


数十人の武装した男たちが、センターの入り口を破壊して雪崩れ込んできた。

リーダーの男、ボルグは、巨大な戦斧を担ぎ、殺気を撒き散らしていた。


「俺たちのシマで勝手なマネしやがって! ここにある物資、全部置いて失せろ! さもなきゃ全員ミンチにするぞ!」


生徒たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。

ロクロー教授やテツが前に出ようとするが、ボルグの殺気に圧されて足がすくむ。


「……排除する」


エラーラが、冷徹な瞳で一歩前に出た。

彼女の掌に、圧縮された魔力が集束する。


「殲滅魔法・レベル3。この区画ごと蒸発させれば、問題は解決する」


彼女にとって、暴力には暴力で返すのが「正解」だった。

圧倒的な力でねじ伏せれば、二度と逆らわない。それが彼女の生きてきた世界だ。


「待って、エラーラ」


ナラが、エラーラの手を抑えた。


「退がっていて。……これは、私の喧嘩だ」


「ナラ? 彼らは言葉が通じる相手ではない。殺意を持っている」


「だからこそだよ。……殺せば、彼らはただの『死体』になる。でも、納得させれば『仲間』になる」


ナラは、武器を持たずにボルグの前に歩み出た。


「ああん? なんだテメェ、女一匹で何の真似だ?」


ボルグが戦斧を構える。

ナラは、ボルグの目を見た。

恐怖はない。侮蔑もない。ただ、深い「共感」があった。


「ボルグ。……あんた、怖いんだろ?」


「……あ?」


「この街が変わるのが怖い。自分の暴力が通用しなくなるのが怖い。……部下たちを食わせていけなくなるのが、不安なんだろ?」


図星を突かれたボルグの眉がピクリと動く。


「うるせェ! 俺は最強だ! 怖いもんなんかねェ!」


「嘘だね。あんたのその斧……震えてるよ」


ナラは、一歩踏み込んだ。

斧の間合いの内側へ。


「あんたは、レクタの時代に、暴力でしか自分を守れなかった。だから必死に強くなった。……それは、立派な生存戦略だったよ。あんたのおかげで生き残った部下もいるはずだ」


ナラは、ボルグの過去を、彼の在り方を、否定しなかった。

受け入れ、そして、肯定した。


「でもね、時代は変わったんだ。……もう、誰も殴らなくていい。もう、誰も怯えなくていい」


彼女は、そっと手を差し伸べた。


「その強さを、守るために使わないか? ……私たちの街には、あんたみたいな強い男が必要なんだ」


「俺が……必要……?」


「ああ。必要なんだ。あんたの統率力と、腕力。それが『知性』と組み合わされば、最強の治安維持部隊になる。必要なんだ。……どうだい? ゴミを漁るハイエナの王より、街を守るライオンの王にならないか?」


ボルグは、呆然としていた。

今まで、誰も彼を肯定しなかった。

「野蛮人」「暴力装置」「悪党」。そう呼ばれ、恐れられ、疎まれてきた。

だが、目の前の女は、彼の中に眠る「誇り」を見つけ出し、新しい役割を提示したのだ。


「……俺が……ライオン……」


カラン……。

戦斧が、床に落ちた。

ボルグは、膝をついた。


「……勝てねェよ。……言葉で、こんなに殴られたのは初めてだ」


「へへっ、痛かったかい?」


ナラは笑って、ボルグの手を取った。


「ようこそ、こちらの世界へ」


ギャングたちが、次々と武器を捨てた。

エラーラは、その光景を後ろで見ていた。

魔法を使わず、血を一滴も流さず、最も凶暴な敵を制圧した。

それは、かつての大賢者エラーラには決してできなかった、「対話」という名の魔法だった。


(……ああ。私は間違っていた)


エラーラは悟った。

世界を救うのは、敵を焼き尽くす攻撃の炎でも、支配下に置くための論破でもない。

敵の文脈(ナラティブ)に理解を示して、自分の物語(ナラティブ)に納得してもらうこと。熱を、伝播させる「共感」なのだと。


その日の夕暮れ。

センターの屋上で、ナラとエラーラは並んで街を見下ろしていた。

かつては灰色一色だったスラムに、ささやかな明かりが灯っている。

喧嘩の声ではなく、笑い声や、歌う声が聞こえてくる。

人々が、人間らしい顔を取り戻し始めていた。


「……すごいな、ナラ」


エラーラが、静かに言った。


「君は、たった数日で、私が一生かけても成し得なかったことをやってのけた」


「何言ってんだい。あんたがいたからだよ」


ナラは、コーヒーをエラーラに渡した。


「あんたが扉を開けたんだ。あんたの『論理』がなきゃ、『物語』はただの妄想で終わってたさ」


ナラは、夕陽に目を細めた。


「私一人じゃ、ただの……。あんたが、私に形をくれたんだ」


エラーラは、コーヒーの温かさを掌で感じた。

過去から逃げ出し、未来に絶望していた自分。

だが今、彼女の胸には、かつてないほどの充足感があった。


「私は……君に会えてよかった。この時代に残って、本当によかった」


エラーラは、ナラの横顔を見つめた。

泥だらけで、傷だらけで、でも誰よりも気高く美しい、愛弟子。


「君は、私が見たどんな宝石よりも輝いているよ」


その言葉に、ナラは照れくさそうに鼻をこすった。

そして、少しの間を置いて、小さな声で言った。


「……ねえ、エラーラ」


「ん?」


ナラは、エラーラの方を向いた。

その瞳が、潤んでいた。


「私……あんたのこと、師匠だと思ってる。相棒だとも思ってる」


「ああ」


「でもね……それ以上に……」


ナラは、言葉に詰まった。

喉の奥が熱い。

今まで、誰にも呼べなかった名前。

ずっと欲しかった、でも決して手に入らないと諦めていた存在。

それを、今、口にする。


「……お…かあ…さま…………」


風が、止まった。

夕陽が、二人を包み込む。

エラーラの目が、大きく見開かれた。

そして、瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

それは悲しみの涙ではない。

魂が震えるほどの、喜びと愛の涙だった。


「……ああ……」


エラーラは、ナラを抱きしめた。

強く、強く。


「……私の、娘……」


「お母様……! ありがとう……! 私を!この世界から!見つけてくれて……!」


ナラも、エラーラの胸に顔を埋めて泣いた。

二人の影が、屋上に長く伸びる。

世界はまだ、傷跡で満ちている。

上層都市には、まだ多くの敵がいるだろう。

だが、恐れることはない。

「論理」という盾と、「物語」という剣。

そして何より、「家族」という絆がある限り。

彼女たちの革命は、必ず世界を夜明けへと導く。

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