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第9話:悪人の精神構造!

●以下は私の親族が元ネタです。

賢者の巨塔の最上階から、世界を見下ろす一人の男。

レクタ・ファルサス。

彼が支配する世界は、一見すると平和だった。

反乱分子はいない。戦争もない。

あるのは、レクタの気まぐれによる「慈愛」に満ちた日常だけだ。


ある晴れた日の午後。王都の中央教会では、厳かな結婚式が執り行われていた。

新郎は真面目なパン職人、新婦は花屋の娘。

幸せの絶頂にある二人が誓いのキスをしようとした、その時である。

教会の扉が蹴破られ、喪服の男が入ってきた。

レクタ・ファルサスだ。

新郎新婦と参列者たちが凍りつく。

レクタはズカズカと祭壇に上がり、神父を蹴り飛ばすと、マイクを握った。


「俺様は感動した! こんな汚ぇ世界で愛を誓うなんて、涙が出てくるぜ! だからよォ、俺から『特別な祝福』をやるよ!」


レクタはニチャアと笑い、震える新婦の腕を掴んだ。


「新婦の『初夜』の相手は、この俺様がしてやる! どうだ、光栄だろ!? 神様の俺が、お前の汚ぇ体を清めてやるんだからよォ!」


レクタは新婦を担ぎ上げ、教会の十字架の前で、衆人環視の中でそのドレスを引き裂いた。


またある日は、街の広場で子供の誕生会が行われていた。

レクタはそこへ乱入し、ケーキのロウソクを吹き消した。


「ハッピーバースデー、俺ェ!」


「え……? 今日は僕の誕生日……」


「うるせぇ! お前が生まれたってことは、俺の偉大さを知る奴が一人増えたってことだろ? つまり、お前の誕生日は俺を祝う日なんだよ!」


レクタは理不尽な論理を展開し、主役の少年をステージに上げた。


「さて、これからの厳しい社会を生き抜くために、強い心が必要だ。だから俺が鍛えてやる」


レクタは少年の服を剥ぎ取り、全裸にした。

少年は泣き叫んだ。

レクタはそれを見て、腹を抱えて笑った。


「ギャハハ! いいぞ! その悔しさをバネにしろ!いい話だ!」


これこそが、レクタの日常。

自分の欲望のままに他人の尊厳を踏みにじり、それを「善行」と嘯く。

彼の悪には、哲学も高尚な目的もない。あるのは、子供じみた純粋な加虐心と、性欲と、退屈しのぎだけだった。


そんなレクタの傍らには、かつて革命軍のリーダーだったスザクがいた。

彼女はレクタの嘘を信じ込み、狂信的な奴隷と化していた。

だが、彼女には不満があった。

レクタは、他の女は犯すのに、自分には指一本触れてくれないのだ。


「レクタ様……なぜです? 私はこんなに貴方様を愛しているのに……。私の体も、心も、全て捧げているのに……」


ある夜、スザクは寝室でレクタに迫った。

レクタは、冷めた目で彼女を見下ろした。


「俺が好きなのはな、『嫌がる女』を無理やり犯して、その心がおかしくなる瞬間なんだよ。お前みたいに尻尾振って『抱いてください』なんて言う女、抱く価値もねぇ。」


スザクの中で、何かが切れた。

愛憎が反転し、彼女は隠し持っていたナイフを取り出した。


「なら……殺して! 私を犯さないなら、殺してぇぇぇッ!」


彼女はレクタに襲いかかった。

レクタは、彼女を弾き飛ばした。

レクタは、倒れたスザクを見下ろし、冷酷に告げた。


「いいぜ。そんなに俺に触れてほしいなら、たっぷり可愛がってやるよ。俺は本気には、本気で答える。」


その言葉に、嘘はなかった。

スザクの処刑は、3回の工程を経て行われた。

レクタは魔法でスザクの全身の皮膚を「透明」に変えた。

筋肉、血管、内臓が透けて見える状態で、彼女を王都の広場に吊るした。


「見ろ! これが人間の仕組みだ! 理科の勉強になるだろ?」


市民たちは、グロテスクな人体模型となったかつての英雄を見て、嘔吐し、石を投げた。スザクは羞恥と痛みで発狂した。

次に、レクタはスザクを下水道に放り込み、首から下をヘドロの中に埋めた。

そして、彼女の口に「栄養剤」を注ぎ込み、無理やり生かし続けた。


「お前は今日から、王都のネズミたちのママだ。乳を吸わせてやれ。すべての命は平等だ。それが愛ってもんだ。」


無数のドブネズミが、動けないスザクの体に群がり、肉を齧り、巣を作った。彼女は自分の体が食い荒らされる感覚を、意識があるまま味わい続けた。


最後に、レクタは肉塊となったスザクを回収し、彼女の魂を「トイレットペーパー」に封印した。


「お前は役に立たないから、俺がクソするたびに拭いてやるよ。よかったな、毎日俺のケツに触れられて」


スザクは、思考することも許されず、ただレクタの排泄物を拭き取るだけの道具として、永遠に汚され続けることになった。

レクタは満足げに笑った。

彼の平穏な日々は、永遠に続くと思われた。


だが。

その「平穏」を脅かす危機は、まったく予期せぬ意外な方向からやってきた。

ある日、レクタの下に一人の男が現れた。

名は、キリヒト・ロジカル。

かつての王立行政院の生き残りであり、異常なまでに事務処理能力に長けた男だった。


「素晴らしい……! レクタ様! 貴方様のその行動原理……『純粋なるカオス』!」 


キリヒトは眼鏡を光らせ、熱弁を振るった。


「しかし!惜しい!あまりにも惜しいです!貴方様の手法は、あまりにも『非効率』だ!」


「は? 効率?」


レクタは炭酸ジュースを飲みながら、首を傾げた。


「そうです! 例えば昨日の結婚式。貴方様は一人の新婦を犯すのに、移動時間を含めて3時間を費やしました。これでは、1日に最大でも8人しか不幸にできません!」


「……まあ、そうだけどよ」


「そこで! 私が考案した『新婦回収および集団陵辱システム』をご提案します!」


キリヒトが展開した図面。

そこには、巨大なベルトコンベアと、無機質なプレス機のような機械が描かれていた。


「まず、法改正を行い、結婚式を『王都中央処理場』のみで許可します。新郎新婦はベルトコンベアに乗せられ、新郎は自動的に粉砕機へ、新婦は貴方様の寝室へと運ばれます。これにより、貴方様は寝たままで、1時間に100人の新婦を犯すことが可能です!」


キリヒトは目を輝かせて言った。


「どうですか!」


どうですか。

レクタは、口をポカンと開けた。

こいつは一体、何を言っているんだ?


「いや、待て待て。……1時間に100人? 疲れるだろ」


「ご安心を!自動ピストン補助装置を取り付けます! 貴方様はただ横になっているだけでいいのです!」


「……は?」


レクタは頭を抱えた。

違う。そうじゃない。

俺がやりたいのは、「絶望した顔」を見ることだ。

新郎が泣き叫ぶ声を聞きながら、新婦の抵抗を楽しむことだ。

それが、ベルトコンベアで運ばれてくる? 自動ピストン?

それは……ただの「作業」じゃないか。


「おい、眼鏡。それ、面白くなくね?」


「何を仰るのですか!悪とは『数』です!効率です!いかに多くの人間に絶望を与えるか、その『生産性』こそが悪の指標ではありませんか!」


キリヒトは、本気だった。

彼はレクタを崇拝していた。

レクタという「悪のカリスマ」を、世界中に普及させたいと本気で願っていた。

だからこそ、彼はレクタの行動から「無駄」を徹底的に削ぎ落とし、究極の効率化を図ろうとしたのだ。


それからというもの、レクタの日々は、なんと──地獄へ変わった。

朝起きると、キリヒトがスケジュール帳を持って立っている。


「おはようございます、レクタ様! 今日の予定です!」


08:00朝食兼、毒味役処刑

09:00孤児院焼き討ち

12:00昼食

13:00市街地爆撃

17:00新婦強襲


「……多すぎるだろ! 俺はもっとダラダラしたいんだよ!」


「ダメです!絶望の供給が追いついていません!」


キリヒトは、レクタを叱咤激励した。

彼はレクタのためを思って、最先端の技術で「悪の自動化」を進めていった。

街へ出ても、以前のような楽しみはなかった。

レクタが子供をいじめようとすると、キリヒトが飛んできて止める。


「レクタ様! その子供一人をいじめるのに5分もかけるのは無駄です! こちらの『全自動トラウマ植え付け機』を使えば、ボタン一つで街中の子供に『親が殺される幻覚』を見せられます!」


ポチッ。

街中の子供が一斉に泣き叫ぶ。

キリヒトはガッツポーズをする。


「やりました!効率化に成功しました!」


レクタは、白けた目でそれを見ていた。

味気ない。

泣き顔が遠い。

肌の温もりも、恐怖の匂いもしない。


「……俺さ、俺……帰っていい?」


「ダメです! 次は『老人を崖から突き落とすイベント』ですが、一人ずつ突き落とすのは非効率なので、崖そのものを崩落させる工事を手配しました! 貴方様は爆破スイッチを押すだけです!」


レクタはスイッチを渡された。

押せば、数千人の老人が死ぬらしい。

でも、そこには何のドラマもない。

ただの土木工事だ。


「……ちっ」


レクタはスイッチを押した。

遠くで山が崩れ、土煙が上がる。

キリヒトが拍手する。

レクタは、深いため息をついた。


悪とは、いかに相手の心を踏みにじるか、だ。

そこには「対話」がある。一方的な暴力という名の、濃厚な「対話」がある。

相手が「やめて」と懇願し、それを「嫌だ」と拒絶する。そのやり取りの中にこそ、快楽の髄がある。

だが、キリヒトのやることは「事務処理」だ。

相手を人間として見ていない。ただの「数字」や「資源」として見ている。

それはある意味で、レクタ以上に冷酷で邪悪かもしれない。

だが、決定的に「美学」が違った。


ある夜、レクタは、ついに限界を迎えた。

彼は最高級のワインを床に叩きつけた。

キリヒトが驚いて顔を上げる。


「どうされました、レクタ様! ワインの温度管理に不備がございましたか!?」


「ちげぇよ! ……お前のやり方は、全然面白くねぇんだよ!」


レクタはキリヒトの胸ぐらを掴んだ。


「いいか? 俺はな、新婦が泣きながら『夫を殺さないで』って言うのを聞きながら、その目の前で夫の首をへし折るのが好きなんだ! 自動粉砕機でミンチにしても、悲鳴が聞こえねぇだろうが!」


「し、しかし……それでは時間が……」


「時間はどうでもいいんだよ! 質だ! クオリティだ! 俺は『悪の職人』だ!お前は量だ!お前は『悪の工場』なんだよ!大量生産すりゃいいってもんじゃねぇ!」


レクタの叫びは、ある種──芸術家の苦悩に似ていた。

手作りの工芸品を作りたいのに、工場長から「プラスチックで大量生産しろ」と言われているようなものだ。

キリヒトは、悲しげな顔をした。


「レクタ様……。貴方様は、まだその段階におられたのですか」


「は?」


「個人の感情。快楽。……そんなものは、小悪党のすることです」


キリヒトの目が、眼鏡の奥で冷たく光った。


「真の巨悪とは、いや、悪に限らず、芸術も、経済も、政治も、教育も、そして破壊も。システムそのものになることが真の目的です。感情などなく、慈悲もなく、ただ淡々と、呼吸をするように万民を不幸にする。……それこそが、神の御業では、ありませんか?」


キリヒトは、レクタの手を優しく解いた。


「私は、貴方様を『神』にしたかったのです。単なるサディストではなく、世界を統べる『理不尽という名のシステム』に。……そのために、私の人生の全てを捧げてきました」


その言葉には、狂気じみた愛が満ちていた。

彼は本気で、レクタを愛し、崇拝しているのだ。

レクタのためなら、死ねる。

レクタのために、レクタ自身の「人間臭い快楽」さえも、レクタさえも殺して、レクタを、『自分の頭の中にのみ存在する完璧で理想のレクタ』に仕立て上げようとしているのだ。

レクタは、初めて恐怖した。


「……お前、なんか……おかしいよ。クビだ」


レクタは震える声で言った。

キリヒトは、しばらく沈黙した。

そして、深く一礼した。


「……承知いたしました」


彼は書類を整理し、デスクを綺麗に片付けた。


「ですが。……レクタ様。覚えておいてください。……感情に任せた悪は、いつか必ず飽きが来ます」


キリヒトは、最後に悲しげな笑顔を残して、部屋を出て行った。


キリヒトがいなくなって、レクタの元に「自由」が戻ってきた。

スケジュール帳はない。ノルマもない。

好きな時に起き、好きな時に人を殺す。

翌日、レクタはウキウキしながら、とある村の祭りに乱入した。


「俺様だ! 祭りの屋台を全部燃やしてやるぜ!」


彼は松明を投げ、屋台を燃やした。

村人たちが逃げ惑う。

レクタは笑った。

しかし、である。

10分後。

屋台は燃え尽きた。村人は逃げ去った。

後に残ったのは、炭になった木材と、静寂だけ。

レクタは立ち尽くした。

終わるのが、早い。

キリヒトがいた時は、逃げた村人を自動追尾ミサイルで追い込んだり、延焼システムで山ごと燃やしたりして、絶望が長続きした。

でも、俺一人の手作業じゃ、こんなもんか?


「……なんか、ショボくね?」


レクタは、燃えカスを蹴った。

手作業の限界。

一人の人間が与えられる苦痛の総量なんて、たかが知れている。

キリヒトの作った「システム」の圧倒的な破壊力を知ってしまった後では、自分のやっていることが、ただの子供のイタズラに見えてしまった。


「……くそッ」


レクタは城に戻った。

寝室には、「トイレットペーパー」がいる。

彼はそれで尻を拭いたが、何の感慨もなかった。


「……効率化、か」


レクタは独りごちた。

認めたくはない。

だが、あの眼鏡の言っていたことは、ある意味で正しかったのかもしれない。

俺の欲望は無限だ。でも、俺の体は一つしかない。時間は24時間しかない。

全てを満たすには、効率を求めるしかないのか?

でも、効率を求めたら、それは「仕事」になる。


「悪って……大変なんだな……」


レクタ・ファルサス。

世界を征服し、神となった男。

彼は今、生まれて初めて「ワーク・ライフ・バランス」ならぬ「イーヴィル・ライフ・バランス」の壁にぶち当たり、頭を抱えていた。

だが。

彼が本当の地獄を知るのは、これからなのだ。

キリヒトが去った後、彼が残した「自動化システム」が誤作動を起こし、レクタ自身の食事や睡眠まで「効率化」し始めた時、彼は知ることになる。

効率化が、いかに恐ろしい呪いであるかを。


「誰か……俺に……無駄な時間をくれェェェッ!!」


魔王の悲痛な叫びは、誰にも届かず、自動清掃ロボットの駆動音にかき消されていった。


・・・・・・・・・・


キリヒト・ロジカルを追放してから数ヶ月。

レクタは、かつての「手作りの悪」を取り戻そうとした。

気に入らない奴を殴り、泣き叫ぶ顔を見て、その日の飯をうまくする。そんなプリミティブな喜びを求めた。

だが、世界は変質していた。

キリヒトが残した「効率化」という名のウイルスは、レクタが思っていた以上に深く、人々の骨髄まで浸透していたのだ。

ある朝、レクタは朝食のスープがぬるいことに腹を立て、料理長を呼び出した。


「おい、なんだこのスープは! ぬるいぞ! 罰として、お前の指を一本切り落とせ!」


以前なら、料理長は「お許しください」……と泣いて命乞いをしたはずだ。レクタはその怯えた顔を見て、「じゃあ二本な」と理不尽に増やすのが楽しみだった。

しかし、料理長は顔色一つ変えず、懐から包丁を取り出した。


「申し訳ございませんレクタ様。指一本の欠損というフィードバックを持って今後の業務改善への教訓とさせていただきます」


料理長は、躊躇なく自分の左小指を切り落とした。


「迅速な処罰感謝いたします。失礼いたします」


料理長は、キビキビとした動作で厨房へ戻っていった。

残されたのは、指と、ポカンとしたレクタだけ。

レクタはスープを一口飲んだ。

面白くない。美味しくない。

恐怖がない。絶望がない。あるのは「処理」だけだ。


街へ出ても同じだった。

レクタが通行人の足を杖で殴る。

「痛ッ!」という悲鳴を期待する。

だが、通行人は殴られた足をさすりながら、恍惚とした表情で言うのだ。


「ああレクタ様からの直接的な打撃。これは私の歩行姿勢が非効率であるという『神の啓示』ですね。ありがとうございます」


レクタは杖を投げ捨てた。


「違う……違うんだよ……!痛がれよ!泣けよ!理不尽を呪えよ!」


民衆は、レクタを崇拝していた。

だが、それは「恐怖の対象」としてではない。「管理者」としてだ。

彼らにとって、拷問も、虐殺も、略奪も、すべては「キリヒト様が遺した偉大なるシステム」を回すための燃料であり、それに貢献できることは至上の喜びとなっていた。

レクタが怒って大量虐殺を行っても、彼らは「人口調整ありがとうございます!」と死んでいく。

レクタが村を焼いても、「古いインフラの刷新ですね!」と拍手される。

レクタの心の中で、何かがプツンと切れた。

「いじめ」が、成立しない。

相手が「嫌がる」からこそ、いじめは楽しいのだ。

相手が「ありがとうございます」と言ってパンツを脱ぎ出したら、それはただの変態の集会だ。


「……つまんねぇ」


レクタ・ファルサスは、ついに、鬱病を発症した。

それも、ただの鬱ではない。

長年続けてきた生業を唐突に奪われたから職人のような、鬱。

全能感に浸っていた「大先生」が、突然「時代遅れ」を突きつけられたような、深刻な自我崩壊と幼児退行、そして統合失調症的な妄想を併発した、複合的な精神異常だった。


「……まま、おかあさん……ぱぱ、おとうさん……おれ、ぼくは……」


両親が、心配して駆けつけた。

公爵夫妻は、レクタを元気づけようと、必死に抵抗する少女を部屋に連れてきた。

少女は泣いていた。


「いやぁ。助けてぇ。おうちに帰してぇ。」


以前のレクタなら、飛びついてその服を引き裂いていただろう。

だが、今のレクタは、その少女をじっと見つめ……そして、怯えたように後ずさりした。


「……これは、偽物だ!」


「え?」


「その泣き顔……お前、養殖物だろ……?本気で怒ってない……」


レクタは、ガタガタと震え出し、手元にあった自分の大便を投げつけた。

母顔に汚物が張り付く。


「ハハ……ハハハ……! ザマァ見ろ! ……あれ? 今、怒ったか? 嫌がったか?」


レクタは一瞬、期待に目を輝かせた。

だが、母はすぐにハンカチで顔を拭き、慈愛に満ちた笑顔を作った。


「うふふ、レクタちゃんったら。ママにウンチで『マーキング』したかったのね?」


「そうだぞレクタ!汚物を投げるなんて、なんて独創的なんだ!芸術だ!」


両親もまた、狂っていた。

彼らはレクタのどんな「悲しみ」からの叫びも「天才の証明」として肯定してしまう。

そこには「拒絶」がない。「否定」がない。

つまり、レクタが求めている「抵抗」がない。

つまり、演技。

つまり、営業。

誰もが、自分に対して、嘘をついている。

レクタの目から、光が消えた。

誰も俺を見てない。誰も俺を叱らない。誰も俺を怖がらない。

レクタは四つん這いになり、よだれを垂らしながら部屋の隅へと這っていった。

そして、壁のシミに向かって話しかけ始めた。


「居ましたか?ねえ、キリヒト。大きいのかな?お前、壁の中にいるんだろ? ……全部お前の勝ちだよ。痺れるネズミは居ましたか?お空に浮かびました。俺、もう疲れちゃったの。」


数日後。王都のメインストリート。

そこに、奇妙な生き物が現れた。

ボロボロの喪服を着て、髪は伸び放題で油にまみれ、裸足でペタペタと歩く男。

かつての支配者、レクタ・ファルサスだ。

だが、誰も彼を止めない。

民衆は彼を見て、「おお、レクタ様が『乞食のコスプレ』をして視察されている! なんて勤勉な!」と勝手に解釈し、敬礼して通り過ぎていく。

レクタの手には、巨大な生魚が握られていた。

どこかの市場から盗んできたものだろう。

彼はその魚を、まるで聖剣か恋人のように大切に抱きしめていた。

突然、レクタは交差点の真ん中で立ち止まった。

そして、魚を頭上に掲げ、バレリーナのように高速で回転し始めた。


「グルグルグルグル……!そうしましたらろくじゅうきゅうかい青いんです!バターになっちゃうよォ!でも世界がバターになっちゃうよォ!」


遠心力で魚から腐った汁が飛び散る。

周囲の市民にかかる。

「おお! 聖水だ!」と喜ぶ市民。

レクタは目を回して倒れ込んだ。

ハァハァと荒い息を吐きながら、空を見上げる。

その瞳孔は開ききっているが、不意に、その表情から狂気が抜け落ちた。

彼はむくりと起き上がり、背筋を伸ばし、まるで大学教授のような理知的な口調で語り始めた。


「……諸君。世界の在り方について考察しよう。悪とは『他者への干渉』である。干渉には抵抗が必要だ。抵抗なき干渉は、単なる『自然現象』に過ぎない。雨が降って地面が濡れることに、悪意はあるか? ない。今の私は雨だ。雷だ。……私は現象に成り下がったのだ──!」


周囲の市民がざわめく。


「さすがレクタ様! 深い!」


「哲学だ!」


しかし、次の瞬間、レクタの知性はショートした。


「……するば沖半島のろじんさんがいいました。今から食べる人いますか?ギャハハハハ!……赤いの?……違う!違うのッ!」


彼は道端のドブ川に手を突っ込み、一匹の巨大なドブネズミを素手で捕まえた。

ネズミがキーキーと暴れる。レクタの指に噛みつく。


「痛ッ! ……痛い? ……痛い!」


レクタは感動した。

ネズミは、レクタを恐れていない。憎んで噛み付いてきた。

ここには「本物の敵意」がある!


「お前……お前だけは、俺を嫌ってくれるのか!?」


レクタはネズミに頬ずりした。

だが、ネズミはただの獣だ。レクタの鼻を齧り取ろうと暴れる。


「愛しい! 愛しいよぉ! ……ほら、飛んでけェ!うーまいほう!うまほ!うまほうまほ!ぴーぴぴぴ!ばごーん!」


レクタは、通りがかりの紳士に向かって、全力でネズミを投げつけた。

紳士の顔面にネズミが直撃する。ネズミは紳士の顔を引っ掻き回す。

普通なら「何をするんだ!」と怒る場面だ。

レクタは期待に胸を膨らませた。怒れ! 殴りかかってこい!

だが、紳士は血だらけの顔で微笑んだ。


「ありがとうございます!これは、免疫強化実験ですね!」


紳士はネズミを大切そうに抱え、病院ではなく「実験データ提出所」へと走っていった。


「……な、なんでえ!」


レクタはその場に崩れ落ちた。

持っていたマグロの頭を、アスファルトに叩きつける。


「なんで怒らねぇんだの!ネズミィーッ!をぶつけられたんだぞ!? ばいきんだぞ!? 病気になんだぞ!? おかしいだろお前ら!あたま!おかしいよ!」


レクタは地面を転がり、駄々っ子のように手足をバタつかせた。


「虐めたい! 虐めたい虐めたい虐めたい! 嫌がってよ! 泣いてよ! 『やめて』って言ってよぉ!」


大の大人が、王都の真ん中で泣き叫ぶ。

しかし、その声すらも、民衆には「情熱的な演説」として処理されていく。

レクタは、よろよろと立ち上がった。

もう、涙も枯れ果てていた。

彼は、マグロの頭を拾い上げ、虚ろな目で空を見上げた。

灰色の空。

かつて、アキトたちが変えようとした空。

エラーラが守ろうとした空。


「……ねえ」


レクタは、誰にともなく呟いた。


「居ますか?」


返事はない。


「俺を作った奴。俺を見てる奴。……神様かな? 誰でもいいよ!」


レクタは、空に向かって魚を突き出した。


「これ、面白いか? ……俺がこうやって狂って、クソ漏らして、魚ァーを振り回してるの、面白いか?」


彼は、ニタリと笑った。

それは、狂人の中に一瞬だけ浮かび上がった、底知れぬ虚無の笑顔だった。


「俺はずっと、お前らのための『ピエロ』だったんだろ? 悪いことして、強がって、最後に惨めに負ける。そういう役回りだったんだろ?」


レクタは、自分の顔を爪で引っ掻いた。血が流れる。


「でもよ……ルチマキさんと、オヅラ大幹部と、はりがみたいち君が壊れちまったんだよ。キリヒトのせいで。犬は、赤いですか?アキトがいなくなったせいで。……俺、どうすればい……ピーッ!ピーピピピ!来ました!さあはじまりましたこの八枚目!」


彼は、その場にへたり込んだ。


「────ラスボス、なんだろ、俺は。……勇者が来なきゃ、魔王は何をすればいいんだよ。姫をさらう? 世界を滅ぼす? ……もう全部やったよ。飽きたよ。」


レクタの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

それは、悪役としての矜持すら失った、ただの迷子の子供の涙だった。


「誰か……虐めさせてくれよ……」


彼は、アスファルトに額を擦り付けた。


「誰でもいい……。俺を『クズ』って罵ってくれる奴……。俺を『殺してやる』って睨んでくれる奴……。俺のしたことを『許さない』って言ってくれる奴……」


「このままだと……僕、死んじゃうよォ……ッ!」


その絶叫は、王都の風に乗って消えた。

誰も答えない。

民衆は、相変わらず「レクタ様のご乱心、実にアーティスティックだ!」と拍手喝采を送っている。

両親は、遠くから「ああん、地面とキスしてるレクタちゃんも可愛い!」とビデオを回している。

世界は、完璧に狂っていた。

そして、その狂気の中心で、元凶である男だけが、正気と狂気の狭間で永遠の孤独に幽閉されていた。

レクタは、腐った魚を抱きしめたまま、胎児のように丸まった。


「……アキト……。スザク……。エラーラ……。キリヒト……」


彼が壊した人々の名前。

皮肉にも、今の彼にとって、自分を否定してくれた者たちの名前だけが、唯一「自分を人間扱いしてくれた」温かい記憶として残っていた。


「戻ってきてよ……。僕を……倒しに来てよ……」


レクタ・ファルサス。

全知全能の神。世界の支配者。

彼は今、自身の作り上げた「理想郷」の中で、誰よりも不幸な男として、終わらない悪夢の時間を生き続けている。

光と影。表と裏。

宇宙の真理は、常に「対」によって成立している。

右があるから左がある。上がなければ下は定義できない。

善が存在するからこそ、悪はその輪郭を黒々と際立たせる。

そして、「抵抗」があるからこそ、「支配」は快楽となり得るのだ。

殴った拳に対して、「痛い、やめてくれ」という拒絶のフィードバックがあって初めて、加害者は「自分は他者を傷つける力を持っている」と実感できる。

もし、殴った相手が豆腐のように崩れるだけなら? あるいは、殴られることを「愛撫」だと認識して恍惚の表情を浮かべたら?

そこに暴力の意味は消失する。ただの「運動エネルギーの移動」になる。

レクタ・ファルサスはついに、今、その宇宙的真理のブラックホールに飲み込まれていた。


タワーマンションの最上階。

そこはかつて、レクタが世界を見下ろす「神の座」だった。

だが今、そこは巨大な黄金の棺桶と化していた。


「レクタちゃん! 見て見て! パパとママからのプレゼントよォ!」


公爵夫人が、狂気的な甲高い声で叫んだ。

彼女の後ろには、公爵が、山のような金塊と、数え切れないほどの美女・美男を引き連れて立っていた。


「ガハハハ! 元気出せよレクタ! お前が最近、元気がないって聞いたからな。王都の区画を一つ潰して、お前のための新しい別荘を建てたぞ! 壁も床も全部純金だ!」


「それだけじゃないわよォ! ほら、この子たちを見て! 全員、選りすぐりの『強姦用の人』と、『殴る用の人』よ!」


公爵夫人が手を叩くと、連れてこられた数百人の男女が、一斉に服を脱ぎ捨てた。

彼らの目には、恐怖がない。羞恥心もない。

あるのは、不気味なほど澄み切った「献身」の光だけだ。


「私を使ってください!」


「僕を使ってください!」


彼らは、マニュアル通りの営業トークを紡ぐ。

それはまるで、精巧に作られた「肉のマネキン」が、録音された音声を再生しているようだった。

レクタは、汚物にまみれた床に座り込み、虚ろな目でそれを見ていた。


(……ち、違う)


彼の心が、音もなく悲鳴を上げた。

金塊? そんな冷たい金属が何になる。

豪邸? 孤独な空間が広がるだけだ。

養殖の奴隷? 合意の上で何が楽しい?

それはただの「作業」だ。

尊厳を破壊する行為がしたいのに、相手が尊厳を自ら差し出しているなら、そこには破壊すべきものがない。


「……い、いらない」


レクタは掠れた声で呟いた。


「あら? 聞こえなかったわ。もっと良いのが欲しいの? さすがレクタちゃん! 貪欲ねェ!」


「よし、もっと!もっと連れてこい! 世界中の人間をこの部屋に詰め込め!」


両親は、レクタの拒絶すら「肯定」として受け取る。

彼らの脳内では、「レクタは常に正しい」「レクタは常に欲望に忠実だ」という「設定」が固定されており、目の前の衰弱しきった息子の姿すら、「高尚な瞑想状態」に見えているのだ。


レクタは、膝を抱えた。

物質的な富。暴力的な権力。無尽蔵の性欲の対象。

この世の全てを手に入れたはずなのに、なぜ、こんなにも寒い?

なぜ、こんなにも乾いている?


世の中を動かす動機は、突き詰めれば単純だ。

金。暴力。性欲。

それらは確かに、人間に「自由」を与える翼であり、他人からの「評価」を決める指標であり、蛾が光に集まるように、他者を惹きつける蜜である。

しかし。

それらはあくまで「燃料」に過ぎない。

エンジンとなる「物語(ナラティブ)」がなければ、燃料はただその場で燃え尽きるだけだ。


「私は世界を平和にするために戦う」という善の物語。


「俺は世界を恐怖で支配するために奪う」という悪の物語。


方向性は真逆だ。だが、構造は驚くほど似通っている。

どちらも、「他者」という鏡を必要とするのだ。

善人は、「救われた他者」の感謝を見て、自分の善性を確認する。

悪人は、「虐げられた他者」の絶望を見て、自分の悪性を確認する。

もし、善人が人を助けても、助けられた人が「ああ、これは行政サービスの一環ですね、ご苦労」と無感情に言ったら? 善人は虚しさを感じるだろう。

今のレクタは、それと同じだ。

悪の限りを尽くしても、世界が「システム稼働、正常」としか返さない。

切りっぱなしの金属のように鋭利な「悪」の世界において、この空虚さは致命的だった。

善の世界には、まだ「内なる徳」という逃げ道があるかもしれない。


だが、悪の世界は、他者への侵犯こそが全てだ。侵犯すべき境界線が消滅した今、レクタは真空の中に放り出された深海魚のように、内圧で破裂寸前だった。


孤独。


金塊の山に埋もれながら、美女の肉壁に囲まれながら、レクタ・ファルサスは宇宙で一番孤独だった。


「……寒い……暗い……」


レクタは、自分の排泄物を指でコネながら、震えていた。

もはや、彼には自分が誰なのかも分からなくなっていた。

魔王? 神? いや、ただの「バグったシステムの一部」だ。


その時。

自動ドアが開き、一人の男が入ってきた。

カツカツカツという、規則正しい靴音。

冷徹な眼鏡の奥に、感情の読めない瞳。

キリヒト・ロジカルだ。

かつてレクタに追放された、効率化の悪魔。


「……レクタ様」


キリヒトは、汚物と金塊と裸の男女が入り乱れるカオスな部屋を見渡し、眉一つ動かさずに言った。


「生産性が著しく低下しておりますね。排泄物の処理フローも滞っているようです」


彼は、レクタを心配してやってきたのだ。

彼なりの「愛」と「忠誠」を持って。

だが、その愛こそが、レクタをここまで追い詰めた元凶であることを、彼は理解していない。


「キリ……ヒト……?」


レクタが顔を上げた。

焦点の合わない目。よだれにまみれた口元。


「申し上げましたはずです。感情に任せた統治は破綻すると。……ご安心ください。私が戻ったからには、再び世界を完璧なシステムへと修正いたします」


キリヒトは、タブレット端末を取り出した。


「ご両親様が持参されたこの奴隷たちも、ただ配置するだけではリソースの無駄です。直ちに『人間家具』へと加工し、レクタ様の快適な居住空間を構築する資材として再利用しましょう。金塊は溶解して、レクタ様の銅像を全家庭に配布する原資とします」


キリヒトは、淡々と「解決策」を提示する。

それは、レクタの孤独を埋めるものではない。

レクタの周囲を、さらに強固な「システム」で塗り固め、彼を完全に「象徴」として固定化する作業だ。


「やだ……よ……」


レクタの喉から、音が漏れた。


「はい?……ああ、喜びのあまり言葉にならないと? 分かります。私も、貴方様にお仕えできて光栄です」


キリヒトは、レクタの拒絶すら、自分の論理の中で好意的に変換する。

通じない。

言葉が通じない。感情が届かない。

ここには、人間がいない。

いるのは、プログラム通りに動く有機的な機械だけだ。

レクタの中で、最後の理性の糸が、バチンと弾け飛んだ。


レクタは立ち上がった。

ふらふらと、千鳥足で。

その手には、なぜか床に落ちていた金塊が握られている。

彼はそれを、マイクのように口元に当てた。

そして、魂の底から、意味不明な咆哮を上げた。


「うーまいほ! う!! うー! うーうー! うー! まい! ほ!」


「……レクタ様?」


キリヒトが動きを止める。

両親も、奴隷たちも、キョトンとしてレクタを見る。


「………じゃあああああああああっ!」


レクタの絶叫が、金色の部屋に反響する。

それは言葉ではない。

言語化できない絶望。形にならない孤独。


「俺を見ろ! 俺の話を聞け! 俺を人間として扱え!」という、壊れた信号の発露。

レクタは、空を見上げた。

そこには、シャンデリアが煌めいているだけだ。

だが、彼の目には、何か別のものが見えているようだった。


「居ますか? ……美味しいですか? その先には赤いですか?」


彼は、見えない誰かに問いかけた。

神か? アキトか? エラーラか?


「美味しいですか?」


(俺の不幸は、蜜の味がしますか? 最高のエンターテインメントですか?)


「その先には赤いですか?」


(血は流れていますか? そこには、生きた人間がいますか? 感情がありますか?)


「ニャンチョウッ! ニャン! ッチョウッッッ!」


レクタは奇声を上げながら、金塊を床に叩きつけた。

鈍い音が響く。


「ニャンチョウ」……それは「軟調」か、「難聴」か、それとも幼児退行した「ニャン(猫)」の鳴き声か。

意味などない。意味などあってたまるか。

論理で塗り固められたこの世界に対抗できるのは、純粋な、混じりっ気のないピュアな「狂気」だけなのだ。


「暗いんだよーッ!」


レクタは泣き叫んだ。

金ピカの部屋の真ん中で。

何千人もの信者に囲まれた中心で。


「暗い! 暗い! 寒い! ここには誰もいない! 鏡しかない! 俺の顔をした鏡が、俺を笑ってるだけだ!」


彼は自分の顔を掻きむしった。

爪が皮膚を裂き、血が流れる。

赤い血。

そう、これだ。血が出れば痛い。痛ければ、俺は生きている。


「見ろよキリヒト! 赤いぞ! 俺は機械じゃねぇ! 赤い血が出るんだよォ!」


レクタは血まみれの顔で、キリヒトに詰め寄った。

だが、キリヒトは冷静にハンカチを取り出した。


「……自傷行為によるストレス発散。なるほど、精神衛生管理の観点から、一定の自傷は許容範囲です。すぐに自動包帯巻き機を手配します」


「ひーーーーーっ!!」


レクタは絶句した。

伝わらない。

自傷すら、「管理項目」の一つとして処理される。


「あ……あぁ……ありますか?、ありますのか?」


レクタは膝から崩れ落ちた。

もう、何をしても無駄だ。

彼が暴れれば暴れるほど、世界はそれを「レクタ様の崇高なパフォーマンス」として吸収し、システムの一部に組み込んでいく。


「うー……まい……ほ……」


レクタは、胎児のように丸まり、親指をしゃぶった。

今の彼に残されたのは、意味のない音素の羅列と、終わらない呼吸だけ。


「あらあら、レクタちゃんったら。今日は『赤ちゃんプレイ』の日なのね?」


母が嬉しそうに言った。


「よし、全員でオムツを用意しろ! 国家総出でバブバブするぞ!」


父が号令をかけた。

奴隷たちが一斉に動く。


「レクタ様! バブバブでございます!」


「マンマでございます!」


数千人の大人が、真顔で幼児言葉を使いながら、レクタを取り囲む。

それは、地獄よりも恐ろしい、絶対的肯定の牢獄。


『全肯定』。


レクタの瞳から、光が完全に消滅した。

彼は、心のシャッターを永遠に下ろした。

外の世界と関わることを諦め、内なる狂気の世界へと引きこもったのだ。


「……ニャンチョウ。……」


彼は呟き、虚空を見つめたまま、動かなくなった。

その顔には、恐怖も絶望もなく、ただ白痴のような、不気味な微笑みが張り付いていた。

世界は平和だ。

悪のカリスマは、システムの神輿の上で、今日も元気に狂っている。

効率化された地獄の中で、誰も傷つかず、誰も救われない日々が、永遠に繰り返されるのだった。

善と悪、右と左、美と醜。

世界を分かつ二元論は、あくまで表面的な分類に過ぎない。

人間を人間たらしめる「核」――それは、属性ではなく、『物語(ナラティブ)』である。


「私はこういう理由で、世界をこう変えたい」


「俺はこういう美学のために、人を殺す」


その強固な文脈(ナラティブ)持つ者だけが、他者を巻き込み、世界という舞台に立つ資格を得る。

たとえそれが、どれほど歪んだ悪の物語であってもだ。

キリヒト・ロジカルが、レクタによって追放された後も、別の場所で「効率化の悪魔」として崇められ、新たな組織の長として君臨できたのは、彼の中に「無駄を憎み、システムを愛する」という揺るぎない文脈(ナラティブ)があったからだ。周囲は彼の物語に納得し、あるいは恐怖し、彼を「役者」として認めた。

対して、レクタ・ファルサスはどうだったか。


「虐めたいから虐める」


「ムカつくから殺す」


そこには文脈がない。動機がない。未来への展望もない。

あるのは、動物的な反射と、瞬発的な快楽原則だけ。

彼は、物語の主人公ではなかった。ただの「災害」であり、物語をかき回すだけの「ノイズ」だったのだ。

そして、ノイズは除去される運命にある。

崩壊は、あまりにも静かで、あっけなかった。

先月。タワーマンションの一室で、異臭騒ぎがあった。

発見されたのは、父と母――ファルサス公爵夫妻の腐乱死体だった。

死因は、薬物の過剰摂取による心不全か、あるいは二人で首を絞め合った窒息死か。

詳細は不明だが、確かなことは一つ。

レクタの全能感を支え、資金を供給し、彼の奇行を「天才の所業」として世界に通訳していた保護者が、この世から消えたということだ。


「……腹減った」


レクタは、汚物にまみれた部屋で呟いた。

いつもなら、ママが最高級の食事を運んできた。

いつもなら、パパが新しい玩具を連れてきた。

だが、今日は誰も来ない。


「おい! 誰かいないのか! 飯だ! 飯を持ってこい!ぽちんきしますよ?うー?うー!うーうー!」


レクタは叫んだ。

しかし、自動ドアは開かない。

両親の死により、屋敷のセキュリティシステムへの生体認証が途切れ、外部からのアクセスも、物流も、全てがストップしていたのだ。

キリヒトが残した「完全自動化システム」は、登録された両親の承認がなければ、ただの鉄壁の牢獄となる。

レクタは、システムの解除方法を知らなかった。

そもそも、「自分が飯を食うために金が必要」だということすら、実感として理解していなかった。

彼は生まれてから一度も、財布から金を払ったことがないのだ。欲しいものは、指をさせば両親が用意したからだ。


三日後。空腹に耐えかねたレクタは、窓ガラスを椅子で叩き割り、非常階段を使って地上へと降りた。

喪服はボロボロで、悪臭を放っている。

彼は、王都の街へと踏み出した。


「おい、そこのお前! パンを寄越せ! 俺様はレクタ・ファルサスだぞ!」


彼は通りがかりのパン屋を怒鳴りつけた。

以前なら、市民はひれ伏しただろう。

だが、今の彼はただの薄汚い浮浪者にしか見えなかった。

それに、民衆はすでに「キリヒト派」のシステムに組み込まれており、「対価のない取引」を嫌悪するように教育されていた。


「……は?代金は?」


パン屋は冷たく言った。


「だ、代金?知るか!俺だぞ!世界の王だぞ!」


「身分証明書は?納税記録は?……ないなら帰れ」


パン屋は、野良犬を追い払うように水を撒いた。

冷たい水がレクタにかかる。


「つめたッ……! な、何すんだ!」


レクタは呆然とした。

恐怖されない。崇められない。

ただ、「社会的に無価値なゴミ」として扱われる。

暴力で奪おうにも、キリヒトのシステムで強化された警備ドローンが飛んできて、スタンガンでレクタを無力化した。

レクタは痙攣して路地裏に転がった。

両親という「最強の強化魔法」と「財布」を失った彼は、レベル1のスライムよりも弱かった。


レクタは、あっという間に乞食になった。

王都の地下道、湿った段ボールの上。そこが新しい玉座だった。

彼を最も苦しめたのは、空腹や寒さではない。

「退屈」と「無意味」だった。

他の乞食たちは、それなりに逞しかった。


「今日はあそこの残飯が美味いらしい」


「拾った雑誌を読もう」


「空き缶を集めて小銭を稼ごう」


彼らには、生きるための小さな目的と、ささやかな文脈(ナラティブ)があった。

だが、レクタには何もなかった。

金を恵んでくれる奇特な通行人もいた。

「ほら、これで何か買いな」と、硬貨を投げられた。

しかし、レクタはその硬貨を握りしめたまま、立ち尽くした。


(……何を買えばいい?)


彼は、自分の好きな食べ物を知らなかった。

両親が出すものを食べていただけだからだ。

「甘い炭酸ジュース」は好きだったが、それも「母が嫌がりそうだから」という理由で飲んでいただけだ。母がいなくなった今、その味が本当に好きなのかどうかも分からない。


趣味がない。

音楽も聴かない。

本も読まない。

絵も見ない。

「他人の嫌がる顔を見る」以外に、心の琴線に触れるものが何一つないのだ。


「……つまんねぇ」


レクタは、もらった硬貨をドブ川に投げ捨てた。

使い道のない金など、ただの金属片だ。

目的のない力は、ただの暴力だ。

そして、目的のない生は、ただの「死の先送り」でしかない。

彼は、かつて自分が支配していた世界を見上げた。

人々は忙しそうに歩いている。

仕事に行き、恋人と笑い、家族と食事をする。

善人も、悪人も、みんな「何か」のために動いている。

キリヒトは「効率」のために。

かつてのスザクは「革命」のために。

アキトは「帰宅」のために。

俺は?

俺は何のためにここにいる?


「……虐めたい……」


それしか出てこない。

だが、今の彼には誰も虐められない。

虐める相手を見つけるためには、自分が強者でなければならない。

今のレクタは、食物連鎖の最底辺だ。ネズミすら彼を避けて通る。


空っぽだ。


レクタ・ファルサスという人間の中には、欲望というエンジンはあるが、それを回すための燃料(情熱)も、ハンドル(思想)も、車輪(技術)もなかったのだ。


なぜ、こうなったのか。

理由は明白だ。レクタが「学ぶ」ことを拒絶し続けてきたからだ。

学ぶとは、知識を得ることだけではない。

「自分以外の何者か」を受け入れることだ。

歴史から学ぶとは、過去の他者を受け入れること。

技術を学ぶとは、先人の知恵を受け入れること。

そして、心を学ぶとは、他者の痛みや喜びを、自分のものとして想像すること。

レクタにとって、それは「敗北」だった。

他者を受け入れることは、自分の全能性にヒビを入れることだ。


「自分は知らないことがある」


「自分は間違っていたかもしれない」


それを認めることは、彼の肥大化したプライドが許さなかった。

だから、彼は絶対に言わなかった。

「ありがとう」と「ごめんなさい」を。

「ありがとう」と言うことは、相手に「何かを与えてもらった、つまり、自分には欠けていた」と認めること。

「ごめんなさい」と言うことは、相手の規範ルールに「自分が違反した、つまり、自分が劣っていた」と認めること。

それは、他人の支配下に置かれることと同義だと、彼は信じ込んでいた。

だから、彼は誰かに助けられても「当然だ」と踏んり返り、誰かを傷つけても「俺がルールだ」と開き直った。


その結果が、これだ。


誰も彼を助けない。誰も彼を許さない。

学びを拒絶した者は、成長しない。

成長しない者は、変化する世界の中で孤立し、腐っていく。

レクタは、腐りかけていた。

物理的にも、精神的にも。

風呂に入らず、皮膚病にかかり、歯は抜け落ち、言葉も忘れていく。

ただの「有機的なゴミ」になりつつあった。


雨の降る夜だった。

レクタは、路地裏のゴミ捨て場で、カラスと残飯を奪い合っていた。

かつての魔王の面影はない。

泥と垢にまみれ、四つん這いになり、「ウー、ウー」と獣のような唸り声を上げている。

そこへ、一台の高級魔導車が止まった。

降りてきたのは、仕立ての良いスーツを着た男。

キリヒト・ロジカルだ。

彼は、部下が差す傘の下で、無表情にレクタを見下ろした。


「……レクタ様」


レクタが顔を上げる。

濁った瞳。焦点が合わない。

だが、その男が誰かは分かった。かつて自分を「管理」しようとした、うっとおしい眼鏡だ。


「……キリ……ヒト……」


「噂は聞いておりました。ご両親が亡くなり、このような境遇になられたと」

キリヒトの声には、嘲笑も憐憫もなかった。ただの事実確認だ。

彼は、白い手袋をはめた手を差し出した。


「帰りましょう、レクタ様」


「……あ?」


「私が新たに構築した『ネオ・ロジカル・シティ』には、貴方様のような『象徴』が必要です。実権は私が握りますが、貴方様には『名誉顧問』としての地位と、清潔な衣食住、そして適度な娯楽を提供します」


それは、悪魔の契約だった。

自由はない。権力もない。

だが、この地獄のような飢えと寒さからは救われる。


「ありがとう」と言ってその手を取れば、レクタは再び、温かいベッドで眠ることができるのだ。

レクタは、差し出された手を見た。

清潔な白い手袋。

自分の手は、泥と糞と血にまみれている。

本能が叫ぶ。掴め。生きろ。

頭を下げろ。礼を言え。


「助けてくれてありがとう」


「お前を追い出してごめんなさい」


たった二言。それだけでいい。

レクタの唇が震えた。

喉の奥まで、言葉が出かかった。

だが。

その時、レクタの脳裏に、アキトの顔が浮かんだ。

スザクの顔が浮かんだ。

エラーラの顔が浮かんだ。

彼らは、敵だった。だが、彼らは最後まで自分の「物語」を持っていた。

アキトは「帰る」ために。スザクは「革命」のために。エラーラは「贖罪」のために。

俺は?

俺が、ここでコイツの手を取ったら、俺の物語はどうなる?

「他人に飼われて、餌をもらって生きるペット」になるのか?

「ごめんなさい」と言って、コイツの下につくのか?


(……ふざけんな)


レクタの中で、最後の最後に残っていた、ちっぽけで、歪で、どうしようもない「何か」が燃え上がった。

それは「プライド」と呼ぶにはあまりに醜く、「意地」と呼ぶにはあまりに理不尽なものだった。

ただの、白痴なりの拒絶。

レクタは、口の中に溜まっていた血と痰を、思い切り吸い上げた。


「……ぺっ!!」


汚い唾が、キリヒトの磨き上げられた革靴に吐きかけられた。

キリヒトが眉をひそめる。

部下たちが色めき立つ。


「貴様ッ! キリヒト様に何を!」


レクタは、ニタリと笑った。

歯の抜けた、汚い口で。


「……うーまいほ」


「はい?」


「うーまいほ! ……バーカ! 誰がテメェなんかの世話になるかよ! 俺はレクタ・ファルサスだぞ! 世界の王だぞ!うーまいほ!わーーーー!」


レクタは、震える足で立ち上がった。

そして、中指を突き立てた。


「俺は謝らねぇ! 感謝もしねぇ! 誰も愛さねぇし、誰にも愛されねぇ! ……それが俺だ! 文句あっか!」


それは、彼が人生で初めて、自分の意志で選び取った「物語(ナラティブ)」だったのかもしれない。

「誰の助けも借りずに、野垂れ死ぬ」という、最低最悪のバッドエンド。

だが、それは誰かに押し付けられた「管理された幸福」よりも、彼にとっては価値のあるものだった。

キリヒトは、しばらくレクタを見つめていた。

そして、ふっと口元を緩めた。


「……なるほど。腐っても魔王、ですか」


キリヒトは、汚れた靴を気にする様子もなく、踵を返した。


「分かりました。その『孤高の無能』という生き様……尊重いたしましょう」


「行こう」と部下に告げ、キリヒトは車に乗り込んだ。

魔導車が走り去っていく。

レクタは、雨の中に残された。


「……へへ……へへへ……」


レクタは笑った。

勝った。俺は勝ったぞ。

アイツに頭を下げなかった。アイツの施しを受けなかった。

俺は、俺のままだ。

だが、勝利の代償は死だ。

寒さが骨身に染みる。空腹で胃が痙攣する。

レクタは、ゴミ捨て場の奥へと這っていった。

そこには、誰かが捨てた壊れた鏡があった。

鏡に映るのは、泥だらけの化け物。


「……お前、誰だ?」


レクタは鏡に問いかけた。


「……俺だよ。レクタだよ」


「レクタって誰だ? ……ああ、あの偉そうなバカか」


「バカじゃねぇよ。……俺は、特別なんだ」


「何が特別なんだ? 何もできないくせに」


「うるせぇ……うるせぇ……」


レクタは鏡を抱きしめた。

もう、誰もいない。

自分自身と会話することしかできない。

意識が遠のいていく。

走馬灯のように、過去の景色が流れる。

両親の笑顔。泣き叫ぶ奴隷たち。アキトの怒った顔。


(……楽しかったなぁ……)


楽しかった。

だが、「何」が、楽しかったのか。

物語(ナラティブ)がないから、何が楽しかったのか、思い出せないのだ。

でも、確かにレクタは、あの日、あの時、あの場所で、笑っていた。

誰かを踏みつけにして、誰かの不幸を食らって、王様気取りで笑っていた。


「……腹減った……」


それが、彼の最後の言葉だった。

翌朝。

ゴミ収集車が路地裏に入ってきた。

作業員が、大きなボロ布の塊を見つけた。


「うわ、くっせぇ。なんだこれ、犬の死体か?」


「いや、人間じゃねぇか? ……まあいいや、焼却炉行きだ」


作業員たちは、レクタの死体をゴミ収集車に放り込んだ。

レクタ・ファルサス。

かつて世界を恐怖で支配し、時空を超えて人々の運命を狂わせた男。

彼は、名前も確認されず、誰にも看取られず、ただの「可燃ゴミ」として処理された。

その死体は、焼却炉の炎の中で、あっけなく灰になった。

彼が愛した「他人の不幸」も、彼が固執した「プライド」も、全て煙となって空へ消えた。

後には何も残らない。

物語を持たざる者の最後は、いつだってこうだ。

歴史の教科書にも載らず、人々の記憶にも残らず、ただ世界というシステムの新陳代謝によって、静かに排泄されるのみ。

キリヒトが支配する「効率的な世界」は、今日も平常運転を続けている。

誰もレクタのことなど語らない。

ただ、路地裏の壁に、誰かが下手くそな字で書いた落書きだけが残っていた。


『うーまいほ』


それが、かつての魔王がこの世に残した、唯一の、そして無意味な遺言だった。

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