第8話:普通の中学生(4)
床を転げ回っていたレクタ・ファルサスが、ピタリと動きを止めた。
彼は、涙で濡れた顔を上げ、アキトの背中を守るように立っているスザクを見つめた。
その瞳から、怯えの色がスッと消える。
代わりに宿ったのは、爬虫類のような、粘着質な光だった。
「……なんてな」
レクタが呟いた。
「え?」
スザクが眉をひそめる。
レクタは、ゆっくりと立ち上がった。その仕草には、先ほどまでの無様な幼児退行など微塵もない。
彼は、口元で手を組み、悲劇の主人公のように嘆いてみせた。
「ああ、スザク。私の愛しい剣よ。……ようやく、あの魔女の呪縛から解放されたよ」
「……は? 何を言って……」
「分からなかったのか? 私はずっと、あのエラーラに精神を操られていたんだ。彼女が私の体を乗っ取り、世界を滅茶苦茶にしたんだ! 私は被害者なんだよ!……ところでスザク?『生活』は保証するぞ」
それは、あまりにも白々しい嘘だった。
アキトは呆れた。
「ふざけんな! 全部お前の命令だっただろ! 俺たちは見てたぞ!」
アキトは叫んだ。当然だ。誰がどう見ても、レクタこそが諸悪の根源だ。
だが。
スザクの隻眼が、カッと見開かれた。
彼女の中で、記憶が、認識が、ガラガラと音を立てて組み変わっていく。
「レクタ様……! ああ、なんとお可哀想な!」
スザクが、刀を捨ててその場に跪いた。
頬を紅潮させ、涙を流してレクタを見上げている。
「おい!? スザク、何してんだ!?」
アキトがスザクの肩を掴む。
だが、スザクは恐ろしい形相でアキトを振り払った。
「触るな、無礼者ッ!」
スザクの裏拳が、アキトのみぞおちに入った。
アキトは呼吸を止められ、その場に崩れ落ちる。
「が……はッ……!? スザ、ク……?」
「レクタ様は被害者だ! 貴様、今まで騙していたな! レクタ様を殺そうとしていたな!」
「ち、違う……お前、何を……」
「黙れ!」
スザクはアキトの背中に乗り、その腕をねじ上げた。
圧倒的な腕力。歴戦の戦士である彼女に、消耗しきったアキトが敵うはずもなかった。
レクタは、その光景を見て、ニチャアと汚く笑った。
彼はアキトの前に歩み寄り、その顔を靴底で踏みつけた。
「よォ、犬。……惜しかったなァ。あと一歩でハッピーエンドだったのによォ」
「て、めぇ……! 騙したな……!」
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺は事実を言っただけだぜ? 俺みたいな善良な市民が、世界征服なんてするわけねぇだろ? 全部、死んだ犬女のせいさ!なあ、スザク?」
レクタは肩をすくめる。
アキトは絶望した。
エラーラの命がけの譲渡も、俺たちの戦いも、全て無駄だったのか。
この男の「嘘」一つで、全てがひっくり返るのか。
「さて、ワン公。お前に用がある」
レクタは、ズボンのベルトを外し始めた。
「あ?」
「俺の『息子』だよ。……ここ10年、遊びすぎてちょっと元気がなくてな。お前のその便利な魔法で、俺が一番元気だった頃……中学2年生くらいのカチカチの状態に戻せ」
「は……? ふざけん、な……」
「やれ。やらないと、この女に命じて、お前の手足を一本ずつ切り落とさせるぞ?」
レクタが顎でしゃくると、スザクが懐からナイフを取り出し、アキトの首筋に当てた。
その目に、迷いはない。彼女は完全に、レクタの信者だった。
「……くっ……!」
アキトは、屈辱に唇を噛み切った。
世界を救うための力を。エラーラが託してくれた希望の光を。
こんな、下劣な男の下半身のために使うのか。
「……うおおおおおおおッ!!」
アキトは絶叫し、レクタの股間に手をかざした。
黄金の魔力が溢れ出す。
《時間遡行》。
局所的な時間の巻き戻し。
レクタの下半身の細胞が活性化し、衰えが消え、十代の爆発的な活力が蘇る。
「おお……! おおっ! 来た来たァ! これだこれェ!」
レクタは狂喜乱舞し、ズボンを履き直した。
「へへっ、ありがとなワン公。お前、なかなかいい犬だな!……愛してるぜ!」
レクタは、アキトの頭をポンポンと叩いた。
そこには、敵意も殺意もない。
ただ、便利な道具を褒める飼い主の無邪気さがあった。
「スザク、もう離してやれ。こいつはもういらない。」
「ハッ! 仰せのままに!」
スザクが退く。
アキトは泥のように床に突っ伏した。
「さて、俺はこれから忙しいんだ。……スザク、俺の『復活』を祝ってくれるか?」
「はい……! 喜んで……!」
スザクが、とろんとした目でレクタに抱きつく。
レクタはアキトに背を向け、スザクの服に手をかけながら、興味なさそうに言った。
「ああ、そうだ犬。お前、帰りたいんだろ?」
「……」
「地下にデカい魔導盤があるだろ。あそこに魔力をぶち込めば、時間遡行でお前のいた時代に戻れるぜ。俺はかわいいいいいぬには優しいからな、特別に許可してやるよ」
「……なんで?……」
アキトは絞り出した。
「なんで、俺を殺さねぇんだ?……」
レクタは振り返りもせず、スザクの首筋に顔を埋めながら答えた。
「ああん? だって、『お前なんか生きてても死んでても、俺の人生に関係ねぇ』もん。俺は悪人じゃないからな。いいものには優しいし。……じゃあさっさと消えろよ、可愛い良い犬」
かわいい、いい、いぬ。
その言葉が、アキトの心を完全にへし折った。
そして、殺されるよりも残酷な、「無視」。
アキトは、レクタにとって敵ですらなかった。ただの路傍の石ころだったのだ。
背後から、衣擦れの音と、スザクの甘い吐息が聞こえ始める。
アキトは、よろめきながら部屋を出た。
地下最下層。龍脈の増幅炉。
巨大な石盤が、青白く輝いている。
アキトは、虚ろな目でその前に立った。
怒りも、悲しみも、もう湧いてこなかった。
あるのは、底なしの虚無感だけ。
(……帰ろう)
もう、どうでもいい。
アキトは、残った全ての魔力を石盤に叩き込んだ。
視界が、白く染まる。
そして、浮遊感。
・・・・・・・・・・
怒鳴り声と、湿ったアスファルトの感触。
アキトは、ハッと目を開けた。
夜だ。
ネオンサインが煌めいている。
車の走行音。客引きの声。酔っ払いの喧騒。
「……帰って……きた……?」
アキトは、ふらつく足で立ち上がった。
ここは、歌舞伎町だ。
あの日、CDショップへ向かった路地裏の近く。
「はは……やった……戻った……」
安堵で涙が出そうになった。
だが、すぐに違和感に気づいた。
「……なんだ、あれ?」
街行く人々の服装がおかしい。
厚底ブーツを履いたガングロのギャル。
ダボダボのスーツを着たホスト。
みんな、携帯電話を持っているが、それはスマホではない。アンテナのついたガラケーだ。
街頭ビジョンが、テレビが、すべての画面が、四角い。
アキトは、近くの電柱に貼られた風俗店のポスターを見た。
そこに書かれた日付。
『2000年 11月22日』
「……は?」
思考が凍りついた。
2000年?
俺がいたのは、2020年だ。
俺が生まれるよりも前。20年前の過去?
「嘘だろ……。虚無感で……適当に魔力を流したから?……」
目的地を定めずに時間遡行を行った代償。
俺は、自分の生きた時代すら飛び越えて、さらに過去へと漂着してしまったのだ。
「くそ……くそッ……!」
アキトは、とぼとぼと歩き出した。
魔力は空っぽだ。もう魔法は使えない。
金もない。身分証もない。頼れる人もいない。
完全に、詰んだ。
その時だった。
「キャハハハ! マジウケるんだけど!」
「おら、もっとシャキっと歩けよブス!」
前方から、一組のカップルが歩いてきた。
男は、紫色のダブルのスーツを着崩した、チンピラ風の男。
女は、露出の激しい服を着て、派手な化粧をした売女風の女。
アキトは、避ける気力もなく、ふらふらと彼らの前を横切ろうとした。
アキトの肩が、男の肩にぶつかった。
「ああん!?」
男が凄んで立ち止まった。
女が、ガムを噛みながらアキトを睨め付ける。
「ちょっとぉ! 何ぶつかってんのよ! 謝りなさいよ!」
「……あ、すみま……」
アキトが謝ろうとした瞬間。
男の拳が、アキトの顔面を捉えた。
アキトは無防備に殴られ、濡れたアスファルトに転がった。
「痛ってぇなぁオイ! 俺の大事なスーツが汚れちまったじゃねぇか!俺は被害者だからな!正当防衛だからな!」
「やっちゃいなよ! こんな襲ってくるくせにナヨナヨしたガキ、悪者だから、シメちゃえ!このガキ、アタシに関係ないから殺していいよ!」
男が、倒れたアキトの腹を蹴り上げる。
容赦のない暴力。ただの因縁。憂さ晴らし。
アキトは抵抗できなかった。
体も心も、もう限界だった。
されるがままに蹴られ、踏まれ、泥水を啜る。
男はアキトのポケットをまさぐり、財布を抜き取った。
「ケッ、中学生かよ。シケた額しか入ってねぇな!」
「マジ? うわぁ、貧乏くさーい」
男は中身を抜くと、財布をアキトの顔に投げつけた。
そして、ペッとツバを吐きかけた。
「おいガキ。世の中な、強ぇ奴が正義なんだよ」
男は、髪をかき上げながら言った。
その目には、狂気じみた自己陶酔が宿っている。
「俺はな、『正義』のために生きてんだよ! 自分の正義に正直に生きる、それが俺の正義だ! 文句あっか!」
「そうよ! 私、弱い男って大っ嫌い! 生きてる価値ないよねー!」
女が、アキトの頭をヒールの踵でグリ、グリ、グリ、グリと執拗に踏みつけた。
アキトは、霞む視界で二人を見上げた。
街灯の光が、二人の顔を照らし出す。
だが──
その顔。
その声。
アキトの記憶の底にある、アルバムの写真がフラッシュバックした。
『パパとママの若い頃よ』と笑って見せてくれた、あの写真。
『私たちは昔から真面目で、悪いことなんて一度もしたことないのよ』と言っていた、優しい両親。
目の前にいるのは、まさに、その「若い頃の二人」だった。
紛れもなく、俺の父さんと母さんだ。
「……とう……さん……? かあ……さん……?」
アキトは、血の泡を吹きながら呟いた。
二人の動きが止まる。
「あ? 今なんて言った?」
「父さん? ……はあ? 何言ってんのこいつ? 私たちまだ結婚もしてないし!」
「まさかお前、隠し子か!? 誰の子だオラァ!」
男――若き日の父が、激昂してアキトの襟首を掴んだ。
「ち、ちが……俺は……アキト……あんたたちの……」
「知らねぇよそんな名前! 気持ち悪ィんだよ!」
父は、アキトをアスファルトに叩きつけた。
そして、狂ったように笑い出した。
「ギャハハハハ! こいつ頭イカれてるぜ! 俺たちの子供だってよ!」
「ウケる〜! 私、こんなブサイクな子供産まないし! 死ねばいいのに!」
母も笑う。
その笑顔は、レクタ・ファルサスの笑顔と同じだった。
他人の痛みを理解せず、自分たちが楽しければそれでいいという、純粋な悪意の笑顔。
「ヤバ。こいつ路地裏に連れてくぞ。ここでやるとサツがうるせぇ」
「賛成〜! もっとボコボコにしよ!」
二人は、アキトの両足を引きずり、暗い路地裏へと連れ込んだ。
雨が降り始めた。
冷たい雨が、アキトの顔を打つ。
(……嘘つき)
アキトは心の中で泣いた。
『パパはね、正義感が強くて、私を守ってくれたの』
嘘だ。こいつはただの暴力男だ。
『ママはね、俺の優しさに惚れたんだ』
嘘だ。こいつはただ、強い暴力に寄生するだけの女だ。
俺の人生は、『全部』嘘だった。
俺の信じていた「平和な日常」は、こんなクズたちが、過去を隠して作った「メッキ」の上に成り立っていたんだ。
レクタの世界と、何も変わらない。
ここは、地獄だ。
「オラオラオラァ!」
「死ね! 死ね! 弱虫!」
鉄パイプか何かで殴られる衝撃。
骨が砕ける音。
意識が遠のいていく。
アキトは、薄れゆく意識の中で、最後にレクタの言葉を思い出した。
『お前なんか生きてても死んでても、俺の人生に関係ねぇ』
無関心。
無関係。
ああ、その通りだ。
俺は、父さんにとっても、母さんにとっても、レクタにとっても、スザクにとっても、何の関係もない「異物」だったんだ。
「……痛ぇ……よ……」
アキトの呟きは、雨音にかき消された。
父と母は、動かなくなったアキトを見て、「飽きたな」「行こうぜ」と言い捨て、笑いながら去っていった。
彼らは明日には、このことを忘れているだろう。
「悪いことなどただの一度もしたことがない」という顔をして、群衆に紛れて、善人の顔をして、そうして、未来で俺を産み、育てるのだ。
路地裏のゴミ捨て場。
本郷アキトは、自分が生まれる20年前の世界で、若き日の両親に殺され、誰にも知られずに冷たくなっていった。




