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第7話:普通の中学生(3)

俺、本郷アキトは、眼前に広がる光景に言葉を失った。


「……なんだ、こりゃ……」


街の中央広場。

そこに、三人の少女がいた。

レクタとエラーラの娘たち。レム、ララ、ミミ。

彼女たちは、死体の山の上でキャッキャと笑っていた。

いや、死体ではない。

広場を埋め尽くす無数の「木」。その一本一本の幹には、苦悶の表情を浮かべた人間の顔が埋め込まれていた。

手足は枝となり、指先からは葉が生え、血管は根となって大地に食い込んでいる。

一人の男が、俺の方へ這いずってきた。

片足がない。義足も外れている。

彼の腹部から、不気味な蔓が蠢き出していた。


「お、腹が……熱い……! 中から……何かが……!」


俺が駆け寄ろうとした、その瞬間だった。

男の口から、極太の樹木の幹が突き出した。

眼球が飛び出し、その裏側から鮮やかなバラの花が咲く。

皮膚が急速に樹皮へと変質し、彼の肉体は内側から「植物」に食い破られた。

わずか数秒。

そこには、人間の形をした不気味なオブジェだけが残された。


「あはは! 大成功! 即効性の『種』だね!」


「人間なんて生きてても無駄だけど、木になれば役に立つもんねぇ!」


少女たちの無邪気な笑い声が、俺の鼓膜を揺さぶる。

俺の中で、何かが冷たく、重く沈んでいった。


「……テメェら……」


俺は立ち上がった。


「アキト! 待て! 奴らは危険だ! 策を練るぞ!」


スザクが背後から叫ぶ。

だが、俺には聞こえなかった。

俺は剣を抜き放ち、一直線に歩き出した。


「おやぁ? 誰か来たよ?」


「二本足だ! レアキャラ発見!」


「私が裁く! 死刑!」


三姉妹が俺に気づく。

三女ミミが、巨大な木槌を構えた。

次女ララが、トゲ付きのヨーヨーを回す。

長女レムが、毒入りフラスコを取り出す。


「死ねぇ! 養分!」


ミミが跳躍した。

小柄な体からは想像もつかない膂力で、自身の体ほどもある木槌を振り下ろす。

俺の肩に、木槌が直撃した。

骨が砕ける音。肉が潰れる感触。

普通なら即死だ。少なくとも、戦闘不能になるダメージだ。


「アキトッ!!」


スザクの悲鳴。

だが、俺は止まらなかった。

俺は、砕けたはずの肩で、さらに一歩前へ踏み出した。

俺の体から、黄金の光が漏れ出す。

《時間遡行》。

俺は自分自身の肉体の時間を巻き戻した。

砕けた骨が繋がり、潰れた肉が膨らみ、痛みという情報そのものが過去へと消え去る。


「え……?」


ミミが目を丸くする。

手応えはあったはずだ。なのに、目の前の男は無傷で、表情一つ変えずに歩いてくる。


「な、何よこいつ! 気持ち悪い!」


「ララ! やっちゃって!」


次女ララが、トゲ付きヨーヨーを射出した。

鋼鉄の糸が俺の首に巻き付き、鋭利なトゲが肉に食い込む。

頸動脈切断。鮮血が舞う。

だが、次の瞬間には、傷は塞がっていた。

血が逆流し、皮膚が繋がり、俺は何事もなかったかのように歩き続ける。


「効かない……? なんで!?」


「物理無効!?ルール違反だわ!」


長女レムが、フラスコを投げつけた。

中身は、人間を木に変える即効性の変異薬。

液体が俺の全身に降り注ぐ。

皮膚から芽が生え、指が枝に変わろうとするが、俺が念じた瞬間、変異はキャンセルされた。

細胞の時間が、薬を浴びる前に戻る。

俺は、歩みを止めない。

剣で刺されても、矢で射抜かれても、毒を盛られても。

俺はただひたすらに、死体の山を踏み越え、彼女たちへと歩み寄る。


「ひッ……! 来るな! 来るなァ!」


三姉妹の顔から、加虐的な笑みが消えた。

代わりに張り付いたのは、底知れぬ恐怖。

自分たちが「おもちゃ」だと思っていた人間が、理不尽なルールで「おもちゃ」を壊しに来る恐怖。


「……遊びは終わりだ、ガキども」


俺は、彼女たちの目の前まで迫った。

間合いに入った。


「やだ! 死にたくない!」


「お姉ちゃん! 何とかして!」


「私がやるわ! 私は文部科学大臣よ!知能で負けるわけない!」


三人は半狂乱になりながら、一斉に俺に襲いかかった。

彼女たちは、腐ってもレクタとエラーラの娘。その戦闘技術は、一流の暗殺者すら凌駕する。

俺が振るった剣は、彼女たちの華麗な身のこなしによって躱された。

俺の剣は、彼女たちの頬や腕を、ほんの少し掠めただけだった。


「あはは! 遅い遅い!」


「ビビらせやがって! 攻撃が当たらなきゃ意味ないんだよ!」


「やっぱりバカね! 勉強し直してきなさい!」


三人は距離を取り、再び勝ち誇ったように嘲笑した。

俺の剣技は、所詮は部活レベル。

殺しの英才教育を受けた彼女たちには届かない。


「……ああ。当たってねぇな」


俺は剣を下ろした。

だが、その瞳は、彼女たちを憐れむように見つめていた。


「だが……『かすり傷』で十分だ」


「は? 負け惜しみ?」


「この程度の傷、唾つけときゃ治るし!」


レムが自分の腕の切り傷を舐めようとした。

その時だ。

三人の心臓が、嫌な音を立てた。


「え……?」


レムが、自分の手を見た。

滑らかで白かった肌に、みるみるうちにシミが浮き出てくる。

ハリが失われ、シワが刻まれ、老婆の皮膚のように垂れ下がっていく。

俺は、剣に込めた魔力を解放していた。

さっきまでは、自分の時間を「過去」に戻すために使っていた。

だが、今、俺が彼女たちに流し込んだのは、その逆。

『時間加速』。

ほんのかすり傷から侵入した魔力が、彼女たちの肉体の時間を、数十年分、一気に進めたのだ。


「あ、あがッ……! 腰が……痛い……!」


ミミが木槌を取り落とし、その場に崩れ落ちた。

骨密度が急速に低下し、自分の体重すら支えられずに大腿骨が折れたのだ。

関節が石灰化し、激痛が走る。

目は白内障で白く濁り、歯が抜け落ちていく。


「いやああああ! 見ないで! 私の顔を見ないで!」


ララが顔を覆う。

だが、その指は節くれ立ち、爪は黄色く変色し、髪は白髪になってバサバサと抜け落ちる。

かつて「可愛い」とチヤホヤされた美貌は、見る影もなく朽ち果てた。

肉体の苦痛だけではない。

俺の魔法は、時間経過に伴う「精神の摩耗」さえも疑似体験させる。


(誰も私を見てくれない……)


(私はもう若くない……)


(流行についていけない……)


(誰からも必要とされていない……)


若さという特権を失い、社会から見捨てられ、孤独に死んでいく老人の絶望。

それが、数秒の中に圧縮されて彼女たちの脳髄を焼き尽くす。


「いや……やだ……怖い……寂しいよぉ……」


レムが、震える手で虚空を掴む。

脳が萎縮し、記憶が混濁していく。

誇り高き大臣としての知性は消え失せ、ただのボケた老婆としての恐怖だけが残る。


「助けて……。誰か……」


彼女たちは、這いつくばりながら、広場の奥にある「高台」を見上げた。

そこには、豪奢なテントが張られ、一人の女性が優雅に紅茶を飲んで座っていた。

この虐殺ショーの、観客であり、主催者。


「お母……さん……」


ミミが、しわがれた声で呼ぶ。


「ママ……助けて……。痛いよ……怖いよ……」


ララが、涙を流して懇願する。


「お母様……私……いい子にするから……」


レムが、最後に手を伸ばした。

だが、高台の上の女性――エラーラ・ヴェリタスは、眉一つ動かさなかった。

彼女は冷ややかな目で、急速に老化し、汚い老婆となった自分の娘たちを見下ろしていた。


「若さと美しさを失ったお人形に、価値なんてないわ。……さようなら、失敗作たち」


その言葉が、トドメだった。

三姉妹の目から、最後の光が消えた。

彼女たちは絶望の中で、シワだらけの老婆の姿のまま、枯れ木のように息絶えた。

「母に見捨てられた」という、最大の呪いを抱いて。

静寂が戻る。

風が、老婆たちの白髪を揺らして吹き抜ける。


「……ひどすぎる……」


スザクの部下の一人が、嘔吐した。

あまりに惨たらしい最期。

だが、俺は剣を納めず、じっと高台を見据えた。

同情はしない。彼女たちが殺した数万人の命を思えば、これでも足りないくらいだ。

だが、許せないものが一つある。

あそこで紅茶を飲んでいる、あの女だ。

エラーラ・ヴェリタス。

彼女は、ドレスの裾を翻し、俺たちを見下ろして優雅に微笑んだ。


「あら、素晴らしい余興だったわ。時間操作の魔力……なるほど。あなたは特異点ね」


彼女の声には、母としての悲しみなど微塵もない。

あるのは、研究対象を見る冷徹な好奇心と、レクタへの狂信的な愛だけだ。


「レクタ様が喜ぶわ。新しい『実験動物』が見つかったって」


その瞬間。

俺の隣で、爆発的な殺気が膨れ上がった。


「エラーラァァァァァァァッ!!!」


スザクだ。

彼女は、隻眼から血の涙を流さんばかりの形相で、高台を睨みつけていた。


「貴様……ッ! よくも……! 自分の腹を痛めた子を! あんな風に見捨てて! 実験動物だと!?」


スザクの怒りは、三姉妹への同情ではない。

「親」という存在への冒涜に対する、根源的な憤怒だ。

彼女の刀が、共鳴してカタカタと震えている。


「貴様だけは……地獄の底まで追い詰めて、この手で殺すッ!」


スザクの絶叫が、廃墟の街にこだまする。

エラーラは、フフッと妖艶に笑い、指を鳴らした。


「おいでなさい、アキト君。そしてスザク。……タワーの最上階で待っているわ。最高の『おもてなし』を用意してね」


空間が歪む。

エラーラの姿が、陽炎のように揺らぎ、消えていく。

転移魔法だ。

後に残されたのは、森と化した死体の山と、三つの小さな老婆の死骸。

そして、煮えたぎるような俺たちの殺意だけだった。

「……行くぞ、アキト」

スザクが、低く唸るように言った。

「ああ!」

俺は頷いた。

もう、迷いはない。


・・・・・・・・・・


賢者の巨塔、最上階「天上の観覧席」。

最高級のベルベットが張られた玉座で、エラーラ・ヴェリタスは優雅に赤ワインを揺らしていた。

グラスの中の液体は、眼下の闘技場で流れる血と同じ色をしている。

彼女の脳裏を、先ほどの光景が過る。

自分の腹を痛めて産んだ三人の娘たち――レム、ララ、ミミ。

彼女たちが、急速に老化し、醜い老婆となって朽ち果てていく姿。

「おかあさん、助けて」

その悲鳴は、まだ耳に残っている。

だが、エラーラの心にあるのは、悲嘆ではなかった。

あるのは、奇妙なほどの「納得」と、微かな「安堵」。


(……あの子たちは、少しうるさすぎたわ)


エラーラは、無表情でそう結論づけた。

彼女にとって、娘たちはレクタとの愛の結晶というよりも、レクタの興味を引くための「ガジェット」に過ぎなかった。

それに、成長するにつれてレクタの寵愛を奪い合うライバルになりつつあった。

レクタ様が見ているのは、私だけでいい。

私だけが、彼の隣で、彼の狂気を理解し、理論化し、具現化できる唯一の存在であればいい。


「……ふふ。せいせいしたわ」


エラーラは呟き、隣に座る夫――レクタ・ファルサスを見つめた。


「どうした、エラーラ。退屈か?」


レクタが、涼やかな、しかし絶対的な響きを持つ声で問うた。


「いいえ、あなた。……娘たちの処分が済んで、ようやく静かにあなたとデートできると思って、嬉しくて」


「フッ。母性というノイズすら排除したか。……素晴らしいよ。お前は完璧な私の妻だ」


レクタがエラーラの髪を撫でる。

その冷たい指の感触に、エラーラは背筋がゾクゾクするほどの快楽を覚えた。

二人は口づけを交わした。

エラーラの心の中に、一瞬だけ、「あの日」の記憶がよぎった。

まだ賢者だった頃。


『魔法は、人々を幸せにするためにある』


そう言って、病気の子供を治した日。子供の笑顔。


(……馬鹿馬鹿しい)


彼女はその記憶を、飲み干した赤ワインと共に胃袋の奥へと流し込んだ。

そんなものは、今のこの「充実感」に比べれば、色あせた幻影に過ぎない。

今の私は幸せだ。

世界中が不幸になればなるほど、私とレクタの愛だけが、この世界で唯一の「正解」として輝くのだから。

その時。


ドォォォォォォォン!!!!!


足元から、巨大な振動が伝わってきた。


「……なんだ?」


レクタが眉をひそめる。

警報が鳴り響く。


『警告! 警告! 廃棄区画より侵入者あり! 防衛システム突破! 第一、第二ゲート消滅!』


モニターに映し出された映像。

そこには、全身から黄金の光を放ち、あらゆる罠と兵士をなぎ倒しながら進む、一人の少年の姿があった。

黒髪の少年。

その目は、この腐りきった世界で唯一、死んでいない。

怒りに燃える、反逆の瞳。

エラーラは、グラスをテーブルに置いた。

口元に、冷笑を浮かべる。

彼女はドレスの裾を翻した。


・・・・・・・・・・


巨塔内部。螺旋階段を駆け上がり、ついに辿り着いた最上階「天上の間」。

重厚な扉を蹴破ると、そこには異様な静寂があった。


「……遅かったな。待ちくたびれたよ」


広大な空間の奥。

ステンドグラスから差し込む月光の下、二つの影があった。

玉座に座るレクタ・ファルサス。

その傍らに寄り添う、エラーラ・ヴェリタス。


「ようこそ、私の城へ。……そしてさようなら、物語の端役たち」


レクタが指を鳴らす。

瞬間、エラーラが動いた。


「……排除する」


彼女の姿がブレた。

転移魔法。

次の瞬間、彼女はアキトの目の前に現れていた。

その手には、漆黒の魔力で形成された鎌が握られている。

腐っても大賢者。その魔法技術は、アキトの素人剣術とは次元が違う。

間一髪、スザクの大剣が鎌を受け止めた。


「アキト! ボサっとすんな! 死ぬぞ!」


スザクが弾き飛ばされる。

エラーラは表情一つ変えず、流れるような動作で追撃の炎魔法を放つ。

エラーラの瞳。

それは、冷たく、深く、底知れぬ闇を湛えていた。

だが、アキトは見た。

その奥底に、微かな揺らぎがあるのを。


(……なんだ? 今の目は……)


戦いの中、アキトの直感が囁く。

彼女は、本気で俺たちを殺そうとしている。手加減などない。

だが、その魂が「悲鳴」を上げているように見えた。


「スザク! レクタを狙え!」


「分かってる! だが、この女が邪魔で近づけねぇ!」


エラーラは、レクタを守る鉄壁の盾であり、最強の矛だった。

彼女を突破しない限り、レクタには指一本触れられない。


「なら、やるしかねぇ!」


アキトは覚悟を決めた。

防御を捨て、エラーラに特攻をかける。


「死に急ぐか」


エラーラが鎌を振り上げる。


「消えなさい」


その刃が、アキトの首を刎ねようとした瞬間。


「アキトォォォォッ!!」


スザクが、横から体当たりをしてきた。

彼女はアキトを突き飛ばし、自らその鎌の前に身を晒した。

ズシュッ!!


「がはッ……!?」


スザクの肩から腹にかけて、深々と刃が食い込む。

鮮血が噴き出し、床を赤く染める。


「スザクッ!?」


「行けェッ! アキトッ! 今だァァァッ!!」


スザクは、刺さった鎌を素手で掴み、エラーラの動きを封じた。

決死の覚悟。自らの命を代償にした、一瞬の隙。


「……ッ!!」


アキトは走った。

涙で視界が歪むのを無視して、全速力でエラーラの懐へと飛び込む。

レクタが玉座から魔法を放とうとするが、遅い。


「うおおおおおおおおッ!!」


アキトの手が、エラーラの顔に届く。

殺す?

いや、違う。

この距離で、アキトは彼女の瞳を完全に捉えた。

そこにあったのは、殺意ではなかった。

侮蔑でもなかった。

それは、涙だった。

音のない、誰にも見えない、魂の涙。


(……泣いてる……?)


アキトは理解した。

彼女は、俺たちに殺意を向けているのではない。

彼女が憎んでいるのは、世界でも、俺たちでもない。

自分自身だ。

かつて世界を救うと誓ったのに、自分を陵辱し、尊厳を踏みにじった男を「愛してしまった」自分。

知性を売り渡し、怪物の母となり、子供すら見殺しにした自分。

その矛盾。その自己嫌悪。その絶望。


『非合理』


彼女の心は、とっくの昔に壊れていたのだ。


「殺して……」


エラーラの唇が、音もなく動いたように見えた。

彼女は、断罪を待っている。

この汚れた自分を、消し去ってくれる誰かを。


(……ふざけんなよ)


アキトの中で、激しい感情が爆発した。

死んで終わり? そんな都合のいい話があるか。

お前は天才なんだろ。最強なんだろ。

なら、自分でケツを拭けよ。

アキトは、剣を捨てた。

そして、両手でエラーラの頭を鷲掴みにした。


「なッ……!?」


エラーラが見開く。


「戻れェェェェェッ!!!」


アキトは叫んだ。

肉体の時間を戻すのではない。

傷を治すのでもない。

対象は、エラーラ・ヴェリタスの「魂」。

彼女がレクタに出会い、堕ちる前。

絶望を知り、諦めを覚え、狂気に染まる前。

10年前。いや、もっと前。

彼女が、純粋に魔法を愛し、世界を救おうと希望に燃えていた、あの頃へ。


「……あ……ぁぁ……!?」


黄金の光が、エラーラの頭部を包み込む。

虐殺の記憶が、陵辱の痛みが、屈辱の涙が。

薄皮を剥ぐように、一枚、また一枚と消去されていく。

そして、辿り着いた。

青い空。白い雲。

魔法アカデミーの図書館。


『私は、この力で、誰もが笑える世界を作りたい』


そう誓った、若き日の情熱。

汚れを知らない、高潔な魂。


「……私……は……」


光が収束した時。

エラーラの瞳から、昏い闇が消えていた。

そこにあるのは、澄み切った、しかし深い悲しみを湛えた賢者の瞳。

彼女は、自分が何をしたのかを理解した。

「現在の記憶」を持ったまま、「過去の人格」を取り戻したのだ。

自分が犯した罪。愛した男の正体。世界の惨状。

その全てが、清廉な魂にのしかかる。


「……なんてこと……。私は、なんてことを……」


エラーラは、アキトの腕の中で崩れ落ちた。

精神が戻った代償として、彼女の体は限界を迎えていた。

レクタと繋がっていたパスが、人格の変質によって拒絶反応を起こし、魂そのものを焼き尽くそうとしていたのだ。


「エラーラ! おい、しっかりしろ!」


アキトが抱きとめる。

エラーラは、血の気を失った顔で、しかし優しく微笑んだ。


「……ありがとう、少年……」


彼女の手が、アキトの頬に触れる。


「あなたが……思い出させてくれた。私が……何者であったかを」


「死ぬな! お前が戻れば、世界は……!」


「ええ。……だから、最後の仕事を、するわ」


エラーラは、視線を玉座のレクタに向けた。

レクタは、呆然と立ち尽くしていた。


「レクタ……」


エラーラが名を呼ぶ。

それは、愛の言葉ではなく、決別の言葉だった。


「貴方は、私から全てを奪った。……だから、私も貴方から全てを奪うわ」


エラーラは、残った最後の力を振り絞り、虚空に術式を描いた。

それは、攻撃魔法ではない。


『魔力譲渡契約・強制破棄』。


「や、やめろ……! 何をする気だエラーラ!!」


レクタが絶叫した。

彼の体から、黒い魔力が噴き出す。

それはレクタの意思に逆らい、奔流となってエラーラの体へと吸い込まれていく。


「返してもらうわ。貴方のその力も、知性も、神としての全能感も。……全て、元はと言えば、私のものだったのだから!」


「いやだ! いやだぁぁぁ! 俺の力が! 俺の才能がァァァァッ!!」


レクタは玉座から転げ落ち、床をのたうち回った。

全ての魔力を吸収し終えたエラーラは、静かに息を吐いた。

彼女の体は、魔力の過剰負荷で、光の粒子となって崩れ始めていた。


「ごめんなさいね。世界を直す力までは、残せなかったわ」


彼女の指先が、アキトの胸に触れる。

そこへ、彼女が取り戻した全ての魔力――レクタから奪い返した分も含めた、膨大なエネルギーを流し込んだ。


「託すわ。……この力と、私の最後の『希望』を」


「おい……やめろよ……! 生きて償えよ! 勝手に死んでんじゃねぇよ!」


初めて会った時は敵だった。最悪の魔女だった。

でも、今の彼女は、誰よりも気高く、悲しい目をしている。

エラーラの体が、光に溶けていく。

最後に、彼女はアキトの耳元で囁いた。


「この非合理な世界の再生を、任せたぞ!少年!」


その声は、かつて世界を救った英雄の響きだった。


「……ああ。任された」


光が弾けた。

エラーラ・ヴェリタスは消滅した。

後に残されたのは、彼女の意志を受け継ぎ、莫大な魔力を宿した本郷アキトと、

床で這いつくばり、失禁しながら泣き叫ぶ、抜け殻となったレクタだけだった。


「うわぁぁぁぁん! 母ちゃん! 怖いよぉ!」


アキトは立ち上がった。

その背中には、スザクが傷だらけの体で立ち上がり、寄り添っていた。


「……行こうぜ、アキト。仕上げだ」


「おう!」

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