第4話:普通の会社のつぶし方(4)
給湯室の空気は、純度100%の「可燃性の不満」で満たされていた。
「ふッざけんなよォォォんッッッ!!」
サヤマの絶叫が、狭い給湯室の壁を震わせ、廊下を抜け、事務所の空気をビリビリと振動させた。
彼の手の中で、空になった『ブルーマウンテン・ブレンド』のガラス瓶が握りしめられている。
彼の視界は真っ赤に染まっていた。
理屈ではない。論理でもない。
ただ、「深煎りのコーヒーが飲めるはずだという勝手な思い込み」が裏切られたという事実が、彼の幼児的万能感を木っ端微塵に粉砕したのだ。
「酸っぱいんだよ!俺は!俺は?……俺は深煎りが飲みてんだよ!なんでだよ!なんで俺の好みに合わせねぇんだ!気を使えよ!客は俺だろ!俺は!客!だろ!ゃぬゅあーーーーーッ!」
「……サヤマさん。ここは会社で、あたしは店員じゃありませんわ。そもそも、それは盗み飲み……」
ナラが冷ややかに指摘しようとした瞬間、サヤマの怒りは臨界点を超えた。
「うるせぇ!うるせぇうるせぇ!違う違う違う違う!言い訳すんじゃねぇよドロボウ猫ォッッッ!ネコッッッ!」
サヤマは、手に持っていたガラス瓶を、ナラの足元ではなく、給湯室のシンクに全力で叩きつけた。
破片が散弾のように飛び散り、ナラの頬をかすめる。
だが、サヤマは止まらない。彼の破壊衝動は、目の前の女ではなく、「自分を不快にさせたこの空間すべて」に向けられた。
「こんなッッッ!会社ッッッ!こんなクソみたいな職場!人をゴミみたいに扱いやがって!俺を舐めやがって!ううううううううッッッ!」
彼は給湯室を飛び出し、事務フロアへと踊り出た。
その目には、知性の光など微塵もない。あるのは、癇癪を起こした巨大な赤ん坊の、制御不能な暴力性だけだ。
「あ?、ああ……サヤマ君?」
ケイスケ社長が立ち上がる。
「ヤッ!ぃワーーッ!ウ!ワーーッ!なああああああッ!黙れ!黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!黙れ!無能社長ォッ!」
サヤマは、近くにあったパイプ椅子を掴み上げると、それを風車のように振り回し、窓ガラスに叩きつけた。
窓ガラスが一枚、また一枚と粉砕され、雨風が室内に吹き込んでくる。
湿った風が書類を巻き上げ、嵐のような惨状を作り出す。
「寒い! 雨が入ってくるじゃない!」
オノデラが悲鳴を上げる。
「知るか、よーーーッ!俺の心が!俺が心は!俺は一番寒いんだよ!──『心』──違う!お前は嘘だ!俺はゃはああァアーーーーッ!」
サヤマは、自分のデスクに走り寄った。
そして、積み上げられた書類の山――未処理の伝票、顧客リスト、契約書――を、両手で鷲掴みにし、天井に向かって放り投げた。
紙吹雪のように舞い散る重要書類。
彼はその下で狂ったように笑い、デスク上のモニターを床に突き落とした。
モニターが割れ、火花が散る。
彼はさらに、キーボードを膝でへし折り、マウスを壁に投げつけ、電話線を力任せに引きちぎった。
「──俺は被害者だ。──俺を、虐めるな。俺を見ろ。俺を見るなッ!俺は──。今まで、我慢してきた。コーヒーだぞ?安い、コーヒーで。マズいコーヒーを飲まされてッッッッ!こんな!劣悪な!環境で!は!た!らか!さ!れて!きたんッッじゃあああああッ───!」
彼は、破壊の限りを尽くしながら、自分を正当化する言葉を呪文のように叫び続けた。
備品を壊せば壊すほど、彼の脳内では「自分は正義の鉄槌を下している」という陶酔感が増していく。
「証拠だ!証拠を!……をををををッ!残してやる!」
サヤマは、ポケットから最新型の魔導水晶を取り出した。
動画撮影モードを起動する。
彼はカメラを自分に向け、演技がかった悲痛な表情を作った。
「……さ。はい。始まりましたオメガチャンネルの時間がやってーまいりましたよ!はいではね、今回のね、現場です。はいみなさん、見てくださいーっ。これは僕がー働かされている『タカムラ商会』のー、すべての、実態です……!」
彼はカメラを動かし、自分が破壊したオフィス、割れた窓、そして呆然と立ち尽くす社長とナラを映し込んだ。
「社長はー。僕たち社員を、奴隷ッ!のように扱っていましたー。今日なんてね。はい、これ。これね。カビの生えたね、毒入りコーヒー、のようなもの、を、飲まされそうになりましたー。抗議したらね、あの女にー、『嫌なら辞めろ』ーと、なんか暴力、振るわれて、部屋をめちゃくちゃにされたんです。あの女マジ、見てくださいよ。いかにも、って感じですよね。何かこの惨劇の裏に、何か、謎が待ち受けているのは間違いない!、みたいですよね。うッス。ではまたッ!」
嘘だ。
100%の虚偽だ。
だが、サヤマの目には涙が浮かんでいた。
彼は、自分の嘘を信じ込んでいた。「自分は可哀想な被害者だ」と思い込むことで、脳内麻薬を分泌し、罪悪感を完全に麻痺させていたのだ。
「もう限界です……。僕は……僕はああッ!……正義。そして、全ての虐げられている皆のために……人類のために戦う。労働者の権利のために!必ず、勝つ!」
サヤマは動画の送信ボタンを押した。
『送信完了』の文字。
世界へ向けて、毒が放たれた。
「……へっ。ざまぁみろ。あ、金ちょうだい?……オメーの金なんかいらねーよ!コーヒーはテイコープラントのエルフ豆が一番だかんな!お前らは飲めないだろうけどな!キキキッ!」
サヤマは、唾を吐き捨て、荒れ果てたオフィスの窓をぶち破って飛び出し、二度と会社へ戻ることはなかった。
背後には、物理的にも社会的にも破壊された会社のような残骸だけが残された。
ケイスケ社長は、割れたモニターの前で膝をついていた。
「……な、なんで……。どうして……」
彼は、サヤマを追わなかった。
「彼も辛かったんだろう」「僕の指導不足だ」。
そんな甘い温情が、彼の足を止めた。
だが、それは慈悲ではなかった。
「自殺」への同意だった。
それから数日。
タカムラ商会の周囲には、目に見えない、しかし濃厚な「殺意」のガスが充満し始めていた。
サヤマが拡散した動画は、魔導ネットの海で瞬く間に拡散され、変異し、増殖した。
真実など誰も求めていない。
大衆が求めているのは、「叩いても安全な悪」と、「自分たちの鬱憤を晴らしてくれる生贄」だけだ。
誰もが携帯する魔導水晶の画面には、サヤマの妄想を遥かに超えた、グロテスクな「物語」が映し出されていた。
『タカムラ商会の社長は、過激派宗教「ルガチム教団」の幹部らしい』
誰かが適当に書いた書き込みが、数時間後には「確かな筋からの情報」に変わった。
『隣国「ラルゴ共和国」のスパイで、王都の水道水に毒を混ぜようとしている』
ケイスケが輸入していた資材が「ラルゴ産」だったというだけの事実が、国家転覆の陰謀論へと飛躍した。
『社員に「覚醒作用のある違法薬物入りコーヒー」を飲ませ、不眠不休で働かせる人体実験を行っている』
サヤマの「毒入りコーヒー」という言葉が、最もセンセーショナルな形に脚色された。
これらは全て、荒唐無稽なデマだ。
少し調べれば分かる嘘だ。
だが、この王都の「中間層」は、調べない。
彼らは、「否定しないこと」を「肯定」と受け取る。
ケイスケが沈黙を守り、公式声明を出さなかった数日間。
その沈黙は、大衆にとって「罪の自白」と同義だった。
そして。
ついに、その時が来た。
曇天の午後。
タカムラ商会の上空に、巨大な魔法陣が展開された。
『我らは「友愛会」! 邪教ルガチムの走狗に、愛の鉄槌を!』
空を埋め尽くすのは、白いローブを着た魔導師団。
ルガチム教団と敵対する新興宗教団体『友愛会』の狂信者たちだ。
彼らは、「悪を滅ぼす」という崇高な使命感に酔いしれ、眼下の小さなビルに照準を合わせた。
「浄化せよ! 聖なる光で焼き尽くせ!」
第一撃。
爆撃を受けた商会の屋根が、紙細工のように吹き飛んだ。
爆音と衝撃波が、オフィスの中を駆け巡る。
「きゃあああああッ!?」
オノデラが悲鳴を上げて机の下に潜り込む。
「な、何!? 戦争!?」
ナラが叫ぶ。
その直後、地響きと共に地上からも攻撃が始まった。
『ラルゴ共和国の豚どもを殺せ! 王都の誇りを守れ!』
貧相な古着を着た重武装の集団が、魔導ライフルと、どこかから調達したグリフォン用の対空ミサイルを構えて突撃してくる。
排他的右翼団体『護国魔導連盟』。
彼らにとって、真偽はどうでもいい。「敵国のスパイらしきもの」を攻撃できるという事実だけで、彼らの暴力衝動は満たされるのだ。
ミサイルにより外壁が粉砕され、弾丸の雨がオフィスを切り裂く。
コピー機が爆発し、書類が舞い散る。
「ひぃぃぃ! 助けてぇ!」
「俺は関係ない!バイトなんだ!」
社員たちが逃げ惑うが、外は完全に包囲されている。
玄関からは銃弾が、窓からは魔法が飛び込んでくる。
さらに、最悪なことに、一般市民たちも集まってきた。
彼らは特定の思想など持っていない。
ただ、「あそこは悪い会社らしい」「みんなが攻撃しているから、自分も石を投げていいらしい」という空気を読み取り、自宅から「家庭用魔導バズーカ」なるものを持ち寄ってきたのだ。
無関係な市民による、無責任で、それゆえに残酷な砲撃。
それは悪意ですらない。ただの「祭り」だ。
タカムラ商会は、王都中のストレスの掃き溜め、巨大なサンドバッグと化していた。
「……地獄だ」
ケイスケは、瓦礫の陰で震えていた。
理解が追いつかない。
コーヒーが酸っぱかった。
たったそれだけのことから、なぜ世界中から殺されなければならないのか。
「……あれは?」
ナラは、崩れた壁の隙間から外を睨んだ。
空の彼方から、重苦しいプロペラ音が近づいてくる。
軍用輸送機クラスの巨大な機影。
機体には、『ブルーマウンテン製薬』のロゴが描かれている。
「……せ、製薬会社?」
輸送機のハッチが開き、拡声器の声が響き渡った。
『我が社の高貴なるコーヒーを「劣悪な拷問器具」と呼んだのは貴様らか! 我が社のブランドイメージを毀損した罪、万死に値する!』
ナラが買ったコーヒーのメーカーだ。
彼らは、「自社製品が拷問に使われた」というデマを真に受け、激怒した株主たちと共に、私設制裁部隊を送り込んできたのだ。
『行け!カフェイン・キメラ!』
空から投下されたのは、巨大なコーヒー豆のようなカプセル。
それが地上で弾け、中から異形の怪物が這い出してきた。
全身が筋肉質の獣だが、その皮膚からは湯気が立ち上り、目はカフェイン中毒のようにギンギンに決まっている。
牙からは、エスプレッソのように黒い涎が滴り落ちている。
「グルルルル、ワン!……カフェイン…」
キメラたちが、涎を垂らして商会になだれ込んでくる。
「い、嫌だぁぁぁ! 食べられるぅぅぅ!」
四面楚歌。
空からは狂信者の焼夷魔法、地上からは愛国者の銃弾、市民のバズーカ、そして正面からはカフェイン・キメラ。
逃げ場なし。救いなし。理屈なし。
ここにあるのは、人間の「集団心理」が生み出した、強大なエネルギーの奔流だった。
「……社長」
ナラは、瓦礫の下敷きになりかけたケイスケを引きずり出した。
「ここで死ぬ気?」
「……もう、ダメだ……。全部、終わりだ……。僕が、弱かったから……」
ケイスケの目は死んでいた。
「ふざけないでッ!!」
ナラは、ケイスケの胸ぐらを掴み上げた。
その瞳は、襲い来る軍勢よりも熱く燃えていた。
「あんたが終わりでも、あたしは終わらないわ! ……バイト代、まだもらってませんもの!」
ナラは立ち上がった。
ドレススーツはボロボロだが、その背中は凛としていた。
彼女は、鉄扇を抜き放った。
「下がってなさい、無能ども! ……ここからは、あたしの残業よ!」
ナラは、崩壊したオフィスの中心に立った。
前方から、キメラが飛びかかってくる。
窓からは魔法弾が、扉からは銃弾が殺到する。
「来るなら来なさい! ……全員まとめて、物理的に教育して差し上げますわ!」
そこからの光景は、伝説となった。
キメラの爪が届く寸前、彼女の鉄扇が閃き、キメラの顎を粉砕する。
魔法弾が着弾する瞬間、彼女は瓦礫を蹴り上げ、盾にして防ぐ。
銃弾の嵐の中を、彼女は優雅に、舞うようにすり抜ける。
数時間後。
疲れ果てた暴徒とキメラたちは、ただの一度も暴力を振るったことがないかのような済ました顔をして、どこかへそそくさと撤退していった。
タカムラ商会は、瓦礫の山となっていた。
建物は半壊し、在庫は燃え尽きた。
だが、社員たちは全員無事だった。
夕暮れの光が、廃墟を照らす。
ナラは、瓦礫の上に座り込み、肩で息をしていた。
全身血まみれ。鉄扇はひしゃげている。
「……ふぅ。……定時を、過ぎてしまいましたわ」
ナラは、壊れた時計を見上げて呟いた。
そこへ、ケイスケが這い出してきた。
オノデラも、震えながら顔を出す。
「……助かった……のか?」
ナラは、彼らを見下ろした。
罵倒もしなかった。殴りもしなかった。
ただ、静かに言った。
「……これで、満足?」
その一言が、彼らの心に突き刺さる。
彼らが望んだ「祭り」の結末が、これだ。
ケイスケは、崩れた社屋を見つめ、そして笑った。
憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔で。
「……ああ。スッキリしたよ」
彼は、ネクタイを外し、風に飛ばした。
「父さんの会社を守らなきゃって、必死だったけど……。物理的に無くなっちゃえば、もう守りようがないね!」
彼は、財布の中身を全て出し、ナラに渡した。
「退職金だ。……ありがとう、ナラ君!君が壊れるまで戦ってくれなかったら、僕は一生、この呪いの中で生きていた」
「……いただきますわ」
ナラは金を受け取り、背を向けた。
「……元気でね、社長。……次は、もっとマシな部下を雇うことね!」
「ああ。……次は一人でやるよ。珈琲も、自分で淹れることにする!」
ケイスケは、瓦礫の中に残るデスクに向かって歩き出した。
そこから、彼自身の、誰のせいにもしない新しい物語が始まるのだ。
・・・・・・・・・・
夕暮れ。
ナラは、ボロボロの姿で獣医院に帰ってきた。
「おかえり、ナラ君」
エラーラが出迎えた。
彼女は何も聞かなかった。ただ、ナラの汚れた手を拭うための、温かいタオルを用意していた。
「……お母様」
ナラは、その場に座り込んだ。
「……人間って、バカなのですわね」
「ああ。論理的じゃない」
「些細な不満を、世界の終わりのように喚き散らして……。その結果、本当に世界を終わらせてしまう」
「だが、君は生き残った」
エラーラは、ナラの頭を撫でた。
「君が『物語』を持っていたからだ。……真空の中でも、君だけは呼吸をしていた」
「……そうね」
ナラは、エラーラの胸に顔を埋めた。
「……お腹が空きましたわ」
「今日は、特製サンドイッチだ。君の好きなコーヒーに合うやつをね……」
エラーラが取り出したのは、あの『ブルーマウンテン』の新しい瓶だった。
「……ふふ。気が利きますわね」
二人の笑い声が、獣医院に響く。




