第1話:弁護人は大賢者!
聖都の第三法廷は、処刑場のような熱気に包まれていた。
傍聴席を埋め尽くす市民たちの瞳には、正義感という名の残虐な光が宿っている。彼らが求めているのは真実ではない。生贄だ。
被告人席に座る青年、アルドは、青ざめた顔で震えていた。
貧しい工学生である彼の服は薄汚れ、頬には逮捕時に市民から投げられた石の傷跡が残っている。
「私はやっていません……! 信じてください! 私はただ、通りがかっただけなんです!」
アルドの悲痛な叫びは、怒号にかき消される。
「黙れ、強姦魔!」
「鬼畜め! 八つ裂きにしろ!」
彼にかけられた容疑は、魔法社会において最も忌み嫌われる犯罪――『時間加速による強制出産』だった。
被害者の時間を局所的に加速させ、妊娠から出産までの10ヶ月を一瞬に圧縮する。快楽と責任を放棄し、女性の身体を苗床として使い捨てにする、極悪非道な魔法犯罪。
現場からはアルドの魔力痕跡が検出されており、状況証拠は完璧だった。
検察官が、勝ち誇った顔で証言台を指し示した。
「静粛に! ……では、被害者であるミナ嬢に入廷していただきます」
扉が開き、車椅子に乗った少女が現れた。
ミナ。敬虔な教徒の家の娘。
彼女は蒼白な顔で俯き、その腕には、産まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。
会場が水を打ったように静まり返り、次の瞬間、嗚咽と同情の溜息が漏れた。
検察官が、芝居がかった口調で問いかける。
「ミナさん。辛いでしょうが、あの日起きたことを証言してください。被告人は、あなたに杖を向けましたか? 何か光を見ましたか?」
ミナは……答えない。
唇を噛み締め、赤ん坊を抱く手に力を込め、ただ震えているだけだ。
「恐ろしいのですね。無理もありません。しかし、その沈黙こそが何よりの雄弁な証言だ!彼女は恐怖のあまり声も出せない! 16歳の少女が、一瞬にして母になる苦痛と恐怖! それを与えたのが、この男なのです!」
検察官の言葉に、傍聴席のボルテージは最高潮に達した。
沈黙は肯定とみなされた。
少女の涙と赤ん坊の存在、それ以上の証拠など、感情論の前では不要だった。
「異議あり」
熱狂する法廷の空気を、冷徹な声が切り裂いた。
弁護人席から立ち上がったのは、黒いコートの女探偵、ナラティブ・ヴェリタス。
そしてその隣には、不機嫌そうにホワイトボードをセットする白衣の魔女、エラーラ・ヴェリタスがいた。
「弁護側の特別技術顧問として、エラーラ・ヴェリタスが反証を行います」
検察官が鼻で笑う。
「反証だと? 現場の魔力反応、被害者の出産事実、そしてこの赤ん坊。これ以上、何の議論が必要だと言うのかね?」
エラーラは、検察官を一瞥もしなかった。
彼女はチョークを手に取り、ホワイトボードに巨大な数式を書き殴った。
『E = mc²』
『ΔU = Q - W』
「議論ではない。講義をする」
エラーラは法廷全体を見回し、言い放った。
「諸君は魔法を『奇跡』だと勘違いしているようだが、魔法とて物理法則の支配下にある」
エラーラは指示棒で、証言台のミナを指した。
「検察側の主張はこうだ。『アルドは時間魔法を使い、受精から出産までの10ヶ月を数秒に圧縮した』。なるほど、魔法学的には可能だ。だが、その赤ん坊3000グラムは、どこから来た?」
法廷がざわめく。
「質量……?」
エラーラは淡々と解説を始めた。
「胎児ほぼ0グラムから、3キロの新生児に成長するには、約80,000キロカロリーのエネルギーと、数キログラムのカルシウム、タンパク質、水分が必要となる。通常、母親はこれを10ヶ月間の食事によって外部から摂取する」
エラーラは、ホワイトボードを叩いた。
「では、それを『数秒』で行ったらどうなるか?外部からの摂取が間に合わない以上、胎児は母体そのものを分解して材料にするしかない。骨からカルシウムが瞬時に溶け出し、筋肉は分解されてアミノ酸になり、血液は枯渇し、水分は搾り取られる。さらに、爆発的な細胞分裂による代謝熱で、母体の体温は沸点近くまで上昇するはずだ!」
エラーラは、証言台のミナに歩み寄った。
ミナがビクリと身をすくめる。
エラーラは、ミナに触れることなく、その容姿を冷ややかに観察した。
「見ろ!彼女の肌は艶やかだ。髪も抜け落ちていない。頬もふっくらとしている。歯もしっかり生え揃っている。もし検察の言う通り『数秒で出産』したなら、彼女は今頃、全身の骨がスカスカになり、髪と歯が抜け落ち、ミイラのように干からびた廃人になっていなければ、物理的に計算が合わない!」
静寂。
誰もが、ミナを見た。
車椅子に乗ってはいるが、彼女は確かに健康的だった。やつれてはいるが、「身を削って一瞬で赤ん坊を作った」姿ではない。
「事実は、彼女の口ではなく、彼女の『脂肪』が語っている。彼女の体には、赤ん坊一人分の『質量欠損』が見られない。つまり、彼女は10ヶ月かけて、普通に食べて、普通に栄養を摂り、普通に育てていたのだ。魔法などは使われていない。これは、ただの自然分娩だ。」
検察官が狼狽して叫ぶ。
「ば、馬鹿な! ではあのお腹はどう説明する! 目撃者は『平らなお腹が急に膨らんだ』と言っているぞ!」
エラーラは即答する。
「恐らく、認識阻害だよ」
ナラが、証拠品リストから、現場で回収されたミナの衣服の切れ端を提示した。
「現場から検出されたのは、断じて時間魔法の類ではない」
「ミナさん。あなたは襲われたんじゃない。……隠していたのがバレて、怖くなって、目の前にいた男の人のせいにしちゃっただけじゃない?」
すべての視線がミナに集まった。
今度の視線は、同情ではない。疑念と、困惑だ。
「嘘なのか?」
「アルドを陥れたのか?」
検察官さえも動揺して詰め寄る。
「ミナさん! 何か言ってください! 貴女は魔法をかけられたと言ったじゃないですか!」
ミナは……それでも何も言わなかった。
唇を噛み切りそうなほど強く閉じ、赤ん坊を抱きしめて、ただボロボロと涙を流すだけ。
ナラは、その姿を見て理解した。
彼女は、稀代の悪女ではない。ただの、弱い少女だ。
望まぬ妊娠。親への恐怖。世間体。
彼女は必死に隠してきた。けれど、白日の下に晒されてしまった。
その時、世間が勝手に「悪い魔法使いにやられた悲劇の少女」というシナリオを用意してくれた。
彼女にとって、それは渡りに船だった。
自分が「ふしだらな女」ではなく「被害者」でいられる、唯一の蜘蛛の糸だったのだ。
だから、彼女は沈黙を選んだ。
肯定も否定もせず、ただ被害者の顔をして俯くという選択を。
判決は、無罪。
物理法則という絶対的な証拠の前に、魔法の濡れ衣は晴れた。
アルドは釈放された。彼はナラたちの前で泣き崩れた。
「ありがとうございました……。『本当』に。」
閉廷後。
ミナは、赤ん坊を抱いて裏口から出ていった。
彼女は最後まで一言も発さなかった。
赤ん坊の父親が誰なのか。『なぜ』そこまでして隠さなければならなかったのか。
その真実は、彼女の沈黙と共に闇に消えた。
彼女を迎えに来た父親らしき男が、彼女の頬を叩くのが見えた。
ナラは、夕焼けに染まる裁判所の階段で呟いた。
「……物理学は『正しい』わ。でも、時々、冷たすぎるわね」
エラーラは答えた。
「嘘をついていたのは、彼女の『口』ではない。彼女の『弱さ』だ。……我々は真実を暴いた。それ以上の救済は、探偵の仕事ではない……」




