第2話:One more time
主題歌:ワンモアタイム
https://youtu.be/wqEw44M5hFI?si=smT8eeUS4EGZyzL5
雨足が、強まっていた。
傘を叩く音が、不安な心音のようにリズムを刻む。
ナラ、アリサ、そしてレイの三人は、スラム街の奥深く、古びたアパートの前に立っていた。
壁には蔦が這い回り、窓ガラスは泥で曇っている。生活の気配がない。まるで、建物全体が巨大な墓標のように静まり返っている。
「……ここだよ」
レイが、夢遊病者のように呟いた。
アリサは震える手で、錆びついたドアノブに触れた。
「レイの家……。懐かしいな。……ごめんね、全然来られなくて」
アリサは、まだ気づいていない。
隣にいる親友が、なぜ鍵も持たずにドアの前に立っているのか。なぜ、自分の家なのに「他人の家」に入るような顔をしているのか。
蝶番が悲鳴を上げ、ドアが開いた。
むわっ、と濃厚な空気が溢れ出した。
それは、締め切った部屋特有のカビの臭いと、埃の臭い。
そして、その奥底に潜む、鼻の奥をツンと刺すような――タンパク質が腐敗し、乾燥した後に残る、独特の甘ったるい死臭。
「……くっ」
ナラは鉄扇で鼻を覆った。
アリサも顔をしかめる。
「うっ……変な匂い。レイ、掃除してないの?」
部屋の中は、暗闇に包まれていた。
ナラが指先で小さな灯りをともす。
光が、部屋の惨状を照らし出した。
床には、郵便受けから溢れた手紙が散乱している。督促状、チラシ、ファンレターの書き損じ。
テーブルの上には、カビの生えたパンと、蒸発して茶色いシミだけが残ったコップ。
壁に掛けられたカレンダーは、半年前の日付で止まっている。
そこは、時間が死んだ場所だった。
「……レイ? ねえ、これ、どういうこと?」
アリサが振り返る。
だが、入り口に立っていたはずのレイの姿がない。
代わりに、部屋の奥、窓際のベッドの方から、ギシッ、という音がした。
ナラは、灯りをそちらへ向けた。
「……見なさい、アリサ。それが現実よ」
光の先に、ベッドがあった。
薄汚れたシーツの上。そこに、「それ」は横たわっていた。
人間だったモノ。
路地裏で見かけた死体と同じだ。
皮膚は水分を失って革のように縮み、漆黒に変色している。眼窩は窪み、虚空を見つめたまま開いている。口元は、何かを言おうとした形で固まっている。
ミイラ化した遺体。
その遺体は、胸元に「何か」を抱きしめていた。
それは、枯れ果てた植木鉢だった。
茶色く萎びた蔓が、遺体の指に絡まり、まるで手錠のように一体化している。
「……ひ、っ……」
アリサの喉から、空気が漏れる音がした。
理解が追いつかない。
目の前にある黒い死体。その服は、見慣れたレイのパジャマだ。
抱えているのは、あの日二人で植えたマギカアサガオの鉢だ。
じゃあ、さっきまで隣にいたレイは?
私と話していたレイは?
水を飲んで、笑っていたあの子は?
「……嘘、嘘よ……だって、レイは……」
アリサが後ずさる。
背中に、何かが触れた。
冷たく、ぬるりとした感触。
「……アリサ」
耳元で、声がした。
それは、親友の声ではなかった。
地底の泥が沸騰するような、湿ったノイズ。
「……やっと、来てくれたんだね」
アリサが悲鳴を上げて振り返る。
そこには、黒い人影が立っていた。
輪郭が定まらない。タールのような黒い泥が、人の形を模して蠢いている。
顔の部分には、目も鼻もない。ただ、ぽっかりと空いた闇のような「口」だけがある。
「い、嫌ぁぁぁぁッ!! 何これ!? レイ!? レイどこ!?」
アリサがパニックに陥り、ナラの後ろに隠れる。
影が、一歩近づく。
ズルリ、と床を這う音がする。
『ずっと、待ってたんだよ……?』
影から、レイの声が聞こえる。
『アリサが来るのを。毎日、毎日。……水がなくなっても。お腹が空いても。身体が動かなくなっても』
その言葉が、アリサの脳裏に突き刺さる。
半年前。忙しさを理由に、連絡を絶った時期。
レイは、病弱で、魔力が少なかった。一人では生活もままならなかったはずだ。
アリサが来ることを信じて、助けを呼ぶこともせず、ただこの部屋で、枯れていく花と共に衰弱していったのだ。
『約束したよね? 咲かせてくれるって。……ねえ、アリサ』
影が膨れ上がる。
黒い泥が、部屋中を侵食し始める。
床から、壁から、天井から、無数の黒いアサガオの蔓が伸びる。
『私の魔力は、もうないの。……だから、アリサのをちょうだい?』
殺意ではない。
「融合」への渇望。
一つになれば、もう二度と離れ離れにならない。もう二度と、忘れられることはない。
寂しさが極まって生まれた、純粋すぎるエゴイズム。
「……来るなッ!」
ナラが鉄扇を抜き放ち、前に出た。
影の触手が、アリサを捕らえようと伸びてくる。
ナラは、神速の抜刀術でそれを切り払った――はずだった。
手応えがない。
鉄扇の刃は、黒い泥を素通りし、虚空を切った。
魔法による斬撃も、物理的な衝撃も、何一つ干渉しない。
「なっ……!?」
ナラが驚愕する間に、泥の触手がナラの足元をすり抜け、アリサへと殺到する。
『物理干渉無効だ、ナラ!』
通信機から、エラーラの焦った声が響く。
『その怪物は、霊体ですらない! アリサの「罪悪感」と、レイの「主観」のみで構成された、閉じた世界の現象だ!』
「どういうこと!?」
『つまり、「後悔」そのものだ! 第三者である君がどれだけ暴れようと、他人の「心の後悔」を物理的に破壊することはできない!』
ナラは歯噛みした。
最強の探偵も、世界を救う魔導師も、ここでは無力だ。
これは事件ではない。二人の魂の精算なのだから。
「……くっ! アリサ!」
ナラは、腰を抜かしているアリサの胸ぐらを掴み、立たせた。
「逃げるんじゃないわよ! 自分で向き合いなさい!」
「無理!無理よ!あんなのレイじゃない!」
「レイよ!あんたが見ないふりをして、置き去りにして、殺した親友の成れの果てよ!」
ナラは、残酷な真実を突きつけた。
「あんたが彼女を忘れていた間、彼女はずっとここで、あんたを待って腐っていったのよ! ……その痛みから目を逸らすな!」
アリサは、涙でぐしゃぐちゃになった顔を上げた。
目の前には、巨大な黒い花のように変貌した怪物が迫っている。
その中心にある空洞が、アリサを呼んでいる。
『アリサ……一緒ニ……イコウ……』
怖い。飲み込まれたら死ぬ。
でも、それ以上に。
胸が張り裂けそうに痛い。
(私が……殺したんだ)
思い出されるのは、幼い日の約束。
『ずっと一緒だよ』。
その言葉を信じて、レイは死ぬ瞬間まで、ドアを見つめていたのだ。
私がスポットライトを浴びて歌っている間、彼女は暗闇の中で、喉が渇いて、寒くて、寂しくて……。
「……う、あぁぁぁ……」
アリサは、ナラの手を振りほどいた。
そして、よろめきながら、怪物の方へと歩き出した。
「アリサ!?」
ナラが呼ぶが、アリサは止まらない。
怪物の触手が、アリサの首に、腕に、足に巻き付く。
ドレスが汚れ、黒い泥が皮膚を侵食していく。
冷たい。死の冷たさ。
だが、アリサは逃げなかった。
彼女は両手を広げ、その泥だらけの怪物を、正面から抱きしめた。
「……ごめんね、レイ!!」
アリサの絶叫が、部屋に響き渡った。
「ごめんなさい!忘れててごめん!待たせてごめん!寂しかったよね、痛かったよね……!」
泥が、アリサの顔を覆う。
口の中に泥が入る。腐敗の味。
それでも、アリサは離さなかった。
これは、レイが味わった苦しみの一部だ。なら、私が受け止めなきゃいけない。
『魔力ヲ……チョウダイ……』
怪物が囁く。
アリサは頷いた。
「あげる……!全部あげる!」
アリサは、自身の体内の魔力回路を全開にした。
それは、彼女の「歌声」の源泉。
歌手としての才能、未来、生命力。
それを全て、代償として差し出す。
アリサの身体から、目も眩むような光が溢れ出した。
膨大な魔力が、黒い泥の中へと奔流となって注ぎ込まれる。
怪物が、光に包まれる。
黒い泥が、剥がれ落ちていく。
同時に。
ベッドの上の遺体が抱きしめていた、枯れ果てた植木鉢。
その土から、急速に緑の芽が吹き出した。
蔓が伸び、葉が広がり、蕾が膨らむ。
死の部屋に、生命の爆発が起こる。
次々と、花が開く音がした。
部屋中を埋め尽くす、鮮やかな青色。
マギカアサガオ。
かつて二人が夢見た、満開の花園が、そこに現れた。
光の中で、黒い影は消え失せていた。
代わりに、そこに立っていたのは、あの頃のままのレイだった。
地味な服。前髪で隠れた目。
でも、その顔は、穏やかに微笑んでいた。
「……ありがとう、アリサ」
レイの声は、透き通っていた。
「やっと、咲いたね」
「うん……うん……!」
アリサは、泣きじゃくりながらレイに触れようとした。
だが、指先は光の粒子をすり抜けた。
レイの身体が、花びらのように解けていく。
「もう、行かなくちゃ」
レイは、満開のアサガオを見渡した。
「私はね、アリサが輝いているのを見るのが好きだったよ。……だから、もう泣かないで」
「レイ……行かないで……!」
「大丈夫。私は、アリサの中で咲いてるから」
レイは、最後にアリサの頬に口づけをした。
そして、無数の青い光となって、天井へと昇っていった。
同時に、王都の路地裏にあった黒い彫像たちも、一斉に崩れ去った。
彼らは生き返ることはない。だが、その魂を縛っていた「誰にも気づかれない」という呪いは解け、安らかに土へと還っていった。
部屋に残されたのは、ベッドの上の静かな遺体と、部屋を埋め尽くすアサガオ。
そして、魔力を使い果たし、声が出なくなったアリサだけだった。
事件から数ヶ月後。
王都の片隅、あのアパートがあった場所に、小さな花屋がオープンした。
店先には、季節外れの美しいマギカアサガオが、一年中咲き乱れている。
店主は、アリサ。
彼女は歌手を、引退した。
魔力を失い、喉を痛め、もう二度と歌うことはできない。
華やかなドレスも捨て、今は地味なエプロン姿で、土いじりをしている。
だが、その表情は、トップスターだった頃よりもずっと晴れやかで、満ち足りていた。
ナラティブ・ヴェリタスは、花屋の前を通りかかった。
店の中には、笑顔で客に花を包むアリサの姿が見える。
そのカウンターの横には、黒いリボンのかかった写真立てが置かれている。レイの写真だ。
彼女はもう、忘れない。
毎日花に水をやり、親友に「おはよう」と話しかける。その日常こそが、彼女の新しい歌なのだ。
「……探偵の出番は、なかったわね」
ナラは、店の前で立ち止まり、苦笑した。
結局、ナラは何も解決しなかった。ただ、二人の結末を見届けただけだ。
「ああ。心の幽霊を払えるのは、本人だけだ」
隣で、エラーラが呟く。
「だが、君が彼女をあそこへ連れて行かなければ、彼女は一生、偽りの光の中で腐っていただろう。……君は『文脈』を繋げたのだよ」
ナラは、店先のアサガオを一輪、指先でそっと触れた。
冷たくて、瑞々しい感触。
「綺麗な花ね。……ちょっとだけ、塩辛い水の匂いがするけど」
それは、涙を吸って咲いた花だ。
悲劇は終わった。失われた命は戻らない。
だが、その傷跡に根を張った花は、王都のどんな宝石よりも美しく、強く、誇り高く咲いていた。
ナラは、花を買うことはしなかった。
ただ、その青さを瞼に焼き付け、背を向けた。
「行きましょう。……今日は、誰かに手紙でも書こうかしら」
雨上がりの王都。
空には虹がかかっていた。
忘れないこと。見続けること。
それが、残された者が死者へ手向けられる、唯一の花束なのだと知りながら、ナラは雑踏の中へと消えていった。




