第1話:湿った孤独!
●普通のよくあるホラー回
絶え間なく降り注ぐ小雨が、煉瓦造りの街並みを黒く濡らしていた。
排水溝は許容量を超えてゴボゴボと不快な音を立て、路地裏には生温い湿気と、ドブ川の臭気が澱んでいる。
ナラティブ・ヴェリタスは、不快そうに鉄扇で口元を覆いながら、規制線の張られた路地裏へと足を踏み入れた。
そこには、奇妙な「ゴミ」が落ちていた。
いや、一見するとそれは、誰かが悪戯で放置した焦げたマネキンのようにも見えた。
だが、違う。
ナラは目を細める。それは、かつて人間だったモノだ。
「……何人目?」
ナラが問うと、先に現場にいたカレル警部が、青ざめた顔で首を振った。
「今週で七人目だ。……身元は判明している。近くの浮浪者だよ。誰にも関わらず、誰にも知られず生きていた男だ」
死体は、異様だった。
焼死体ではない。火傷の痕跡も、着衣の焦げもない。
ただ、肉体そのものが変質していた。
皮膚は黒く変色し、炭のように硬化している。水分が極限まで抜け落ち、収縮し、ひび割れた表面からは、どす黒い粉がこぼれ落ちていた。
最も恐ろしいのは、その表情だ。
苦悶も、恐怖も、驚愕もない。
ただ、膝を抱えてうずくまり、虚空を見つめたまま固まっている。
まるで、「自分はここにいてもいなくても変わらない」と悟り、自らの存在理由を放棄して、ただの「黒い炭」になることを受け入れたかのような、絶対的な諦念。
「……気味が、悪いわね」
ナラは呟いた。
死因は不明。魔力反応は微弱だが、確かに「呪い」の残滓が感じられる。
だが、それは誰かを害そうとする攻撃的な呪いではない。
もっと湿っぽく、粘着質で、静かな……「寂しさ」が凝縮されたような、気配。
カレルが声を潜める。
「妙なのは死体だけじゃないんだ、ナラ君。そこらの『反応』を見てくれ」
ナラは振り返った。
路地の入り口を、数人の市民が通り過ぎていく。
彼らは、規制線の向こうにあるこの異様な黒い死体を見ても、悲鳴一つ上げない。
「ああ、またか」
「邪魔だな」
そんな、道端の石ころを見るような「無関心」な目で一瞥し、そうして、何くわぬ顔で、去っていく。
恐怖すら抱かない。
関心を、持たない。
この「異常なまでの無感動」こそが、この呪いの真の恐ろしさなのかもしれない。
誰にも見てもらえない孤独が、伝染病のように広がっている。
その時。
湿った風に乗って、鈴を転がすような明るい声が響いた。
「――すみません、通してください」
人垣が割れた。
現れたのは、この陰鬱な路地裏には似つかわしくない、華やかなオーラを纏った少女だった。
亜麻色の髪を巻き、流行のドレスを着こなした可憐な姿。
王都で今、最も人気のある新人歌手、アリサだった。
「探偵の、ナラティブ・ヴェリタス様ですね?」
アリサは、ナラを見つけて安堵の表情を浮かべた。
彼女の瞳は大きく、愛くるしいが、その奥には隠しきれない怯えが宿っている。
「依頼があって参りました。……私、視線を感じるんです」
「視線?」
「はい。黒い、ねっとりとした視線が……ずっと、私の後ろをついてくるんです……」
アリサは身震いした。
そして、自分の横を向き、「誰か」に話しかけるように微笑んだ。
「ねえ、レイもそう思うでしょ? 怖いよね?」
ナラは、アリサの視線の先を見た。
そこには、もう一人の少女が立っていた。
レイ。
アリサとは対照的に、地味な灰色の服を着て、前髪で目を隠した無口な少女。
彼女はアリサの影のように寄り添い、ナラに向かってペコリと頭を下げた。
「……初めまして。私はレイ。アリサの幼馴染で、付き人をしています」
声が、小さい。
雨音にかき消されそうなほど、頼りない声。
ナラは、レイを見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
幽霊を、見たわけではない。
ただ、彼女の存在感が、あまりにも「希薄」だったからだ。
そこにいるのに、いないような。
風景の一部に溶け込んでしまいそうな、危うい透明感。
「……わかったわ。話を聞きましょう」
ナラは、二人を促して獣病院へと向かった。
去り際、ナラはもう一度、黒い死体を振り返った。
死体の空洞になった瞳が、じっとこちらを見ている気がした。
いや、違う。
死体が見ていたのは、ナラではない。
ナラの前を歩く、二人の少女の背中だった。
依頼の内容は、典型的なストーカー被害の相談だった。
だが、ナラが気になったのは、犯人よりも、依頼人たちの奇妙な関係性だった。
カフェでのことだ。
ナラとアリサ、そしてレイの三人でテーブルを囲んだ。
ウェイトレスが水を持ってくる。
コップは二つ。
ナラの分と、アリサの分。
「……あ、あの。もう一つお願いします」
アリサが笑顔で注文する。
ウェイトレスは、「え?」という顔をした。
彼女の視線は、ナラとアリサの間を往復する。
そこには、レイが座っているはずだ。
だが、ウェイトレスは困惑したように首を傾げた。
「……お客様、お連れ様は後からいらっしゃるのでしょうか?」
見えていない。
ナラは息を呑んだ。
レイは、確かにそこに座っている。俯いて、膝の上で手を握りしめている。
なのに、ウェイトレスの目には、そこが「空席」に見えているのだ。
「何言ってるの? レイはここにいるじゃない!」
アリサがムッとしてレイの肩に手を回す。
すると、ウェイトレスはハッとしたように目をしばたたかせた。
「あ……失礼いたしました! 影になっていて、気づきませんでした……」
慌てて水を持ってくるウェイトレス。
レイは、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんね、アリサ。私、影が薄いから……」
「もう、レイったら。もっと堂々としてなきゃダメだよ」
アリサは笑ってレイの背中を叩く。
ナラは、グラスの水を一口飲んだ。冷たい水が、食道を落ちていく。
嫌な予感がする。
今のウェイトレスの反応。単なる見落としではない。
脳が、レイという情報を「認識」することを拒否したような、不自然な空白。
(……この子、本当に「生きて」いるの?)
ナラは、テーブルの下でこっそりと魔力探知を行った。
反応はある。微弱だが、生命反応のような波長を感じる。
だが、それは人間のそれとは微妙に異なっていた。
体温がない。脈動がない。
まるで、古い録画映像を見ているような、ノイズ混じりの気配。
帰り道、さらに決定的なことが起きた。
人混みの中を歩いている時だ。
向こうから歩いてきたサラリーマンが、スマホを見ながら突っ込んできた。
彼は、避けることなく、レイの身体を『すり抜けて』いった。
ナラは目を見開いた。
ぶつかったのではない。霧の中を通るように、男の肩がレイの胸部を通過したのだ。
だが、レイはよろめきもしない。男も気づかない。
そして何より恐ろしいのは、隣で腕を組んでいるアリサが、それに気づいていないことだった。
「ねえレイ、あのお店の服、可愛くない?」
アリサは、ショーウィンドウを指差して楽しそうに話しかけている。
レイは、すり抜けた身体のまま、何事もなかったかのように微笑む。
「うん。……アリサに似合いそうだね」
ナラは、全身の毛穴が開くのを感じた。
これは、悪意ある怪物の仕業ではない。
もっと根源的な、認識と存在の揺らぎ。
アリサは気づいていない。自分が話しかけている親友が、この世の理から外れた存在であることに。
彼女は、死体を連れて歩いているのだ。
翌日。ナラは調査を兼ねて、二人人に同行していた。
花屋の前を通りかかった時、アリサが足を止めた。
店先に並ぶ、紫色の花。
「あ、マギカアサガオ……。懐かしいな」
アリサは目を細めた。
マギカアサガオ。持ち主の魔力を吸って育つ、魔導植物。
その花言葉は「固い絆」。
「私とレイ、昔この花を育てたことがあるんです」
アリサは、隣のレイに微笑みかけながら、ナラに語り始めた。
「私たち、同じスラムの出身で。貧しくて何もなかったけど、ある日、この花の種を拾ったんです。二人で半分こして、どっちが綺麗に咲かせられるか競争したんです」
幼い日の記憶。泥だらけの二人。
アリサの花は、彼女の豊富な魔力を吸って、大輪の花を咲かせた。
けれど、病弱で魔力の少なかったレイの花は、芽を出してもすぐに枯れかけてしまった。
「レイ、泣いちゃって。……だから私、約束したんです」
アリサの声が、少し湿り気を帯びる。
『私の魔力を分けてあげる。毎日レイの家に行って、私が咲かせてあげるよ!』
『ずっと一緒だよ。私がスターになったら、レイも一緒に連れて行ってあげるから!』
「……子供の約束ですけどね。でも、あの時の私たちは本気でした」
アリサは、遠い目をした。
しかし、その直後、彼女の表情に微かな陰りが差した。
「でも……私、歌手としてスカウトされて、忙しくなっちゃって。養成所に入って、デビューして、毎日レッスンで……」
言葉が途切れる。
……言わなくても、わかる。
約束は先延ばしにされ、足は遠のき、やがてレイの家に行くこと自体が、日常の忙しさの中に埋没していった。
悪気はない。ただ、光のあたる道を歩き始めたアリサにとって、影の中にいるレイの存在は、無意識のうちに「過去のもの」になっていったのだ。
話を聞いていたレイが、寂しげに、しかし優しく微笑んだ。
「……いいんだよ、アリサ。アリサが夢を叶えたんだから。私は、待ってるだけで幸せだったよ」
その言葉を聞いた瞬間。
ナラの視界の端で、路地裏にうずくまっていた老婆が、ビキビキと音を立てて黒く変色した。
「!?」
ナラは振り返る。
老婆は、誰にも気づかれることなく、一瞬にして炭のような黒い彫像へと変わり果てた。
膝を抱え、誰かを待っているような姿勢のまま、硬直している。
周囲の人々は、それに気づかない。
「ああ、ゴミがあるな」程度の認識で、黒い塊を避けて通っていく。
ナラは、レイを見た。
レイは、老婆の方を見ていなかった。
ただ、アリサの横顔を、愛おしそうに、そして底知れぬ執着を含んだ瞳で見つめていた。
(……間違いない)
ナラは確信した。
あの黒い死体事件の犯人は、レイだ。
いや、レイという存在から漏れ出す「何か」だ。
彼女の抱える「寂しさ」「孤独」「誰にも見てもらえない悲しみ」。
その感情が伝染し、街中の孤独な人々を共鳴させ、物理的に「黒い影」へと変質させているのだ。
だが、本人はそれに気づいていない。
彼女は自分が「生きている」と思っている。アリサの隣にいると思っている。
しかし、その実体は――。
ナラは、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
この事件は、ナラの手に負えるものではないかもしれない。
犯人を捕まえれば終わる話ではない。
これは、二人の魂の間に横たわる、精算されなかった「時間」の物語なのだから。
「……ねえ、アリサさん」
ナラは、覚悟を決めて切り出した。
この残酷な真実を、彼女に突きつけるために。
「久しぶりに、行ってみない? ……レイさんの家に」
アリサが、キョトンとした顔をする。
隣のレイが、ピクリと肩を震わせた。
「え? でも、レイはずっとここに……」
「思い出の場所でしょう? マギカアサガオ、まだ咲いているかもしれないわよ」
ナラは、レイの目をまっすぐに見つめた。
その瞳の奥にある、深淵のような闇を覗き込むように。
「……そう、ですね」
レイが、静かに答えた。
その声は、地獄の底から響くような、冷たい響きを含んでいた。
「行こうか、アリサ。……私の、本当の家に」
雨が、降り始めた。
ポツリ、ポツリと。
アスファルトを黒く染めていく雨粒は、まるで弔いの涙のように、王都を濡らしていく。




