第1話:自殺を要求する社会!
その日、王都の空は、一度も瞬きをしない巨大な眼球のような、不快な晴天だった。
大聖堂の鐘が鳴り響き、予言が下されたのは正午のことだ。
『選ばれし3名の「器」が死ねば、世界を蝕む「魔瘴気」は晴れるであろう』
指名されたのは、何の変哲もない三人の市民。
下町のパン屋の店主、ハンス。
スラム街の孤児、ミコ。
そして、没落貴族の令嬢、エリス。
ナラティブ・ヴェリタスは、依頼を受けてエリスの屋敷――今は古びたアパートの一室――を警護していた。
鉄扇を構え、窓の外を睨む。
隣には、怯えるエリスと、同じく保護されたハンスとミコがいる。
ナラは覚悟を決めていた。
トロッコ問題だ。3人を殺せば世界が助かる。ならば、暴徒化した民衆や、過激な思想を持つ集団が、正義の御旗を掲げて殺到するはずだ。
血で血を洗う、思想と信念のぶつかり合い。それが人間の歴史だからだ。
しかし。
1時間が経過し、3時間が過ぎ、陽が傾き始めても――何も起きなかった。
デモ隊のシュプレヒコールも聞こえない。
爆発音もしない。
石一つ飛んでこない。
王都は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
「……どうなっているの?」
ナラは通信機を取り出した。
「お母様。状況はどうなってるの? 敵の動きは?」
『奇妙だ、ナラ。……誰も動いていない』
エラーラの声にも、困惑が滲んでいた。
『宗教団体は内部で神学論争を始め、分裂している。テロリストは疑心暗鬼になり、アジトから出てこない。人権団体は議論が紛糾し、硬直している』
「……は?」
『思想を持つ者たちは、思想ゆえに動けないのだ。思考の迷路にはまり込んでいる』
ナラは窓の外を見た。
通りには、日常の風景が広がっている。買い物帰りの主婦、遊ぶ子供。
誰もが予言を知っているはずなのに、誰もが「誰かがなんとかするだろう」と思って、見て見ぬふりをしている。
平和だ。
けれど、この静けさは、嵐の前のそれではない。もっと底知れぬ、真空のような恐怖。
「おかしい……。静かすぎる」
ナラの背筋に、冷たい汗が伝った。
人間は、こんなに理性的ではないはずだ。
何かが来る。
思想も、感情も、迷いもない「何か」が。
その静寂を破ったのは、絶叫でも銃声でもなかった。
規則正しい、ゴム底の靴がアスファルトを叩く音。
一つや二つではない。数百、数千の足音。
ナラが窓から身を乗り出すと、路地裏から、大通りから、そしてマンホールの蓋を押し上げて、無数の男たちが現れていた。
彼らは武器を持っていなかった。剣も銃もない。
全員が、同じ青い作業着を着て、ヘルメットを被り、手にはパイプレンチやツルハシ、高圧洗浄機のノズルを握っている。
その目は、死んでいるように暗く、疲れていた。
「……水道局?」
王都水道局・特別維持管理課。
彼らは無言のまま、アパートを取り囲んだ。
怒りも、憎しみも、殺気すらない。
ただ「面倒な仕事が増えた」という、倦怠感と義務感だけが漂っている。
「ここは私有地よ!」
ナラがバルコニーから叫ぶ。
先頭にいた、現場監督らしき男が、事務的にバインダーを開いた。
「王都水道局です。『配管清掃業務』を開始します」
「はあ? 清掃?」
「対象は、そこにいる『有機的詰まり』3名。……直ちに排除します」
男は、まるで「排水溝の髪の毛を取り除く」と言うような口調で、殺害を予告した。
「ふざけないで! 帰れ!」
ナラが鉄扇を振るう。
だが、作業員たちは動じない。
彼らは、アパートの鉄扉を、業務用の切断機で切り裂き始めた。
「障害物確認。撤去します」
「工期が押しています。急いでください」
躊躇いがない。
ナラは戦慄した。狂信者なら説得の余地がある。悪党なら脅しが効く。
だが、彼らは「仕事」をしているだけだ。
マニュアルに従い、上司の命令に従い、淡々と作業を進める公務員。これほど話の通じない相手はいない。
『ナラ! 聞こえるか!』
エラーラの切迫した声が通信機から響く。
『彼らを止めろ! だが……彼らの言い分は、物理学的には100%、正しい!』
「どういうことよ!?」
『解析が完了した。選ばれた3人の体質だ。彼らは生まれつき魔力親和性が異常に高く、無自覚に大気中の魔素を吸着してしまう特異体質だ』
エラーラが早口でまくし立てる。
『この世界は、巨大な魔力循環システム――いわば「配管」の上に成り立っている。彼ら3人は、その配管の中で肥大化した「生きたヘドロ」なのだ!』
「ヘドロ……!?」
現場監督が、アパートのドアを蹴り破りながら叫んだ。
「そうだ! あんたたちには見えないだろうがな、俺たちのモニターでは真っ赤な警告灯が点きっぱなしなんだよ!」
監督の目が血走っていた。それは残業続きの会社員の、狂気を孕んだ目だった。
「あいつら3人が生きて呼吸しているだけで、魔力圧が上昇し、王都の浄水システムのポンプが逆流を起こしかけている! このままじゃ30分以内に下水管が破裂して、王都の市民全員が汚物にまみれて死ぬんだよ!」
テロリストは世界征服を狙うため、世界が壊れては困る。だから慎重になる。
宗教団体は神の意志を解釈しようとして、時間を浪費する。
だが、現場の水道屋は違う。
彼らは「今そこにある危機」と直面している。
「議論してる暇なんてねぇんだよ! 今すぐ『詰まり』を抜かなきゃ、みんな死んじまうんだ!」
「市民に水を届けるのが俺たちの仕事だ! 邪魔する奴は、公務執行妨害で排除する!」
作業員たちが、パイプレンチを振り上げて雪崩れ込んでくる。
これは殺人ではない。
「メンテナンス」なのだ。
都市機能を維持するための、必要経費としての排他処理。
「逃げるわよ!」
ナラは3人を庇いながら、裏口から飛び出した。
だが、外にはさらなる絶望が待っていた。
路地裏を走るナラの前に、黄色いヘルメットの集団が立ちはだかった。
高圧電流が流れるスタンバトンを構えている。
「電力局です。対象の生体電流が送電網にノイズを走らせています。大規模停電回避のため、絶縁します」
屋根の上には、灰色のベストを着た集団。
「通信局です。対象の存在が魔導回線を圧迫しています。パケットロス防止のため、データごと削除します」
さらに、大通りに出ようとした瞬間。
大型トラック、バス、タクシーの車列が、壁となって道を塞いだ。
「運輸連合だ。お前らが逃げ回ると、避難民の移動に支障が出る。物流が止まれば経済が死ぬ。……轢き殺してでも、ダイヤを守る!」
インフラストラクチャーの叛逆。
水道、電気、ガス、通信、交通。
王都の血管とも言える社会基盤そのものが、ナラと3人のターゲットを「ウイルス」として認識し、総力を挙げて排除にかかってきたのだ。
街の明かりが消える。
通信機がノイズにまみれる。
水道が止まる。
それを見た一般市民たちが、窓を開けて叫び始めた。
「おい! 水が出ないぞ!」
「魔導通信が繋がらない! どうなってるんだ!」
「あの3人のせいか!? 殺せ! 早く殺して復旧させろ!」
民衆は、思想では動かなかった。
だが、「生活の不便」には耐えられなかった。
トイレが流れない恐怖。スマホが使えない不安。冷蔵庫の中身が腐る焦り。
それらが、「人権」や「倫理」を瞬時に凌駕した。
さっきまで平和だった市民が、鬼の形相でナラたちを指差している。
社会全体が、3人の死を渇望している。
「……なんてこと」
ナラは、震えるエリス、ハンス、ミコを抱き寄せた。
敵は悪の組織ではない。
この「生活」というシステムそのものだ。
呼吸をするように、水を飲むように、当たり前のこととして、彼らは3人を殺そうとしている。
「ここへ!」
ナラは、閉鎖された地下鉄の入り口を鉄扇でこじ開け、3人を押し込んだ。
だが、そこは袋小路だ。
上からはインフラ連合軍が、重機を使って掘削を始めている。
「……どうすればいいのよ、お母様」
ナラは呻いた。
戦う相手がいない。全員が「正当な業務」を行っているだけなのだから。




