第2話:恋の探偵!
『緋色の温室』最深部。
ナラティブの意識は、抽出機への接続作業が進むにつれて、泥のように重くなっていた。
太い管が、首筋に当てられる。
ここから吸い出されるのだ。私の命も、誇りも。
(……お母様……ヘレン様……)
走馬灯のように浮かぶのは、偉大なる賢者の背中と、ほんの数分だけ恋をした銀色の王子の笑顔。
さようなら。私の、短くて愚かな人生。
その時。
天地がひっくり返るような轟音と共に、工場の天井が崩落した。
警報が鳴り響き、瓦礫の雨が降る。
舞い上がる粉塵の中、月光を背負って降り立ったのは――銀色の影。
「待たせたね、レディたち!」
凛とした声が、絶望に沈んだ工場に響き渡る。
ヘレンだ。
彼女は着地と同時に、エラーラから託された小瓶を地面に叩きつけた。
溢れ出した液体が瞬時に気化し、青白い霧となって広がる。
その霧を吸い込んだ瞬間、ナラティブの身体を縛り付けていた倦怠感が、嘘のように霧散した。
「……っ、あ……!?」
力が戻る。視界が晴れる。
ヘレンは、流れるような動作で指を振った。
「『解錠』!」
無数のカプセルと拘束具が、一斉に弾け飛ぶ。
ナラティブの拘束も外れた。彼女はよろめきながら立ち上がり、自分を助けてくれた人物を見上げた。
そこには、あの「王子様」がいた。
汚れ一つない白い手袋で、ナラティブの身体を支える。
「大丈夫かい? 子猫ちゃん。……酷い顔色だ」
ヘレンは、痛ましげに眉を寄せた。
だが、すぐに優雅に微笑んでみせる。
「でも、君のその瞳の炎は消えていないね。……立てるかい?」
至近距離で見る、心配と慈愛に満ちた瞳。
ナラの中で、解毒剤とは別の、もっと爆発的なエネルギーが炸裂した。
恋心と、感謝と、そして自分を嵌めた悪党どもへの怒り。それらが混ざり合い、最強の燃料となる。
「……はいッ!」
ナラティブの瞳に、野獣の光が戻った。
「侵入者よ!殺して!一人も逃がすな!」
レイラの金切り声が響く。
工場の奥から、武装した女衛兵たちが雪崩れ込んでくる。
ヘレンが一歩前に出ようとしたが、ナラティブがそれを制した。
「王子様……いえ、貴方は下がっていて」
ナラティブは、奪われていた愛用の鉄扇を、瓦礫の山から引き抜いた。
小気味よい音を立てて、鉄の扇が開く。
「この落とし前は……私が自分でつけるわ!」
「……フフ。頼もしいね」
ヘレンは背中合わせに立った。
「ボクが魔法で道を作る。君は暴れてくれ!」
「合点承知!あ。あ……愛してるわよ王子様!」
「えっ?」
ヘレンが聞き返す間もなく、ナラティブは弾丸のように飛び出した。
ここからは、一方的な蹂躙劇だった。
「よくも!乙女心を!踏みにじってくれたわねッ!!」
ナラティブの鉄扇が閃くたびに、高価な抽出機が紙屑のように粉砕される。
衛兵たちの剣劇を紙一重でかわし、カウンターで顎を砕く。
魔法が使えない?関係ない。
今の彼女には、愛の力と、底なしの殺意がある。
「氷結の檻!」
ヘレンの援護も完璧だった。
ナラティブの死角から迫る敵を、正確無比な氷魔法が凍りつかせる。
エラーラ譲りの「効率的」で「容赦のない」魔法制御。
即席のコンビとは思えないほど、二人の呼吸は噛み合っていた。
「ひ、ひぃぃッ! 化け物!?」
逃げ惑うレイラを、ナラティブが追い詰める。
ドレスの裾を踏みつけ、逃げ道を塞ぐ。
「化け物? 違うわよ」
ナラティブは、鉄扇をレイラの喉元に突きつけた。
「私はただの、恋する乙女よ。……ただし、牙付きのね」
ナラティブの鉄扇が、レイラの背後にあった巨大なタンクを叩き割った。
溢れ出した「若返りの秘薬」が、レイラを濁流のように押し流す。
悲鳴と共に、醜悪な欲望の城は崩壊した。
事件は解決した。
被害者たちは全員救出され、レイラと組織の幹部たちは、駆けつけたカレル警部率いる警察隊に引き渡された。
夜明け前の路地裏。
興奮冷めやらぬナラティブは、ヘレンの前に立っていた。
「あ、あの!ありがとうございました! あなたがいなかったら、私……」
ボロボロの服、乱れた髪。それでも、ナラティブの頬は薔薇色に染まっていた。
ヘレンは、そんな彼女を見て、爽やかに微笑んだ。
「困っているレディを助けるのは、当然さ」
ヘレンは、ナラティブの手を取り、手の甲に恭しく口づけを落とした。
「それに……君の戦いぶり、野性的で美しかったよ。まるで踊っているようだった」
「き、きゃああああ!!(心の声絶叫)」
ナラティブは完全に落ちた。
とろけるような笑顔で立ち尽くすナラティブに、ヘレンはウィンクをした。
「名乗るほどの者じゃないよ。……気をつけて帰るんだよ? もう、変な誘いには乗らないようにね」
そう言い残し、ヘレンは朝霧の中へと消えていった。
ナラティブは、その背中が見えなくなるまで、熱っぽい瞳で見送っていた。
数時間後。
獣病院のリビングにて。
ナラティブは、全身に包帯を巻かれながらも、上機嫌でエラーラに報告していた。
もちろん、自分が「騙された」という恥ずかしい経緯は、都合よく改変して。
「それでね、お母様!私、怪しい組織の匂いを嗅ぎつけて潜入したの!そしたら……そしたらば、そしたら、そこに素敵な『銀髪の王子様』が現れて……そう!二人で悪を倒したのよ!ああ、まさに運命の出会いだったわ……!」
エラーラは、コーヒーカップを片手に、生温かい目で娘を見ていた。
「フム……。銀髪の、王子様、ねぇ」
(潜入、ねぇ。……まあ、そういうことにしておいてやろうか)
そこへ、カランコロンとドアベルが鳴った。
「失礼します! 先生、昨日はありがとうございました!」
元気な声と共に、菓子折りを持ったヘレンが入ってきた。
瞬間、ナラティブの動きが凍りついた。
「ッ!?!?」
(う、嘘……なんで王子がここに!? 私の夢!? 幻覚!?)
「やあ、ヘレン君。……昨日の『潜入』は上手くいったかね?」
エラーラが平然と出迎える。
ヘレンは笑顔で頷き、そして――部屋の奥で固まっている包帯姿の女性に気づいた。
「あ!君は昨日の……!」
ナラティブの心臓が止まりかけた。
バレる。
私が、あの時助けられたマヌケな被害者だとバレる。
そして、あんなにカッコつけて戦っていたのが、実は騙された腹いせだったとバレる!
「えっ、えっ、あ、あの……!」
ナラティブは顔から火が出るほど赤くなり、挙動不審に手を振り回した。
「ち、違います! 人違いです! 私は昨日、ずっと家にいました!
こ、これは、階段から落ちた怪我で……!」
ヘレンはキョトンとして、ナラティブの顔をまじまじと覗き込んだ。
「そうかな?髪の色も、雰囲気もよく似ているけど……」
ヘレンは首を傾げ、真面目な顔で言った。
「昨日の人は、もっとこう……野性的で、脇が甘くて、騙されやすそうで……でも、とびきり可愛い人だったな」
「ぐはっ」
ナラティブは、精神的ダメージと恥ずかしさのあまり、テーブルに突っ伏した。
「可愛い」と言われた嬉しさと、「脇が甘い」と言われた事実が、同時に襲いかかってきたのだ。
エラーラは、肩を震わせて笑うのを必死に堪えていた。
全てを知っているのは、この賢者だけだ。
ヘレンが助けた「馬鹿な被害者」が、目の前の娘であることも。
ナラティブが惚れ込んだ「王子様」が、かつての教え子であることも。
「……フム。そうか、人違いか」
エラーラは、あえて知らぬ存ぜぬを決め込んだ。
ここでバラすのは無粋というものだ。
この奇妙な三角関係を、もう少し観察するのも悪くない。
「ヘレン君。紹介しよう。この子は私の助手で、家族のナラティブだ。……少々『男運』と『女運』が悪くてね。世話が焼けるんだ」
「お母様ッ! 余計なことを!」
ナラティブが涙目で抗議する。
ヘレンは、そんなやり取りを見て、優しく微笑んだ。
「はじめまして、ナラティブさん。ボクはヘレン。エラーラ先生には、命を救ってもらった恩があるんだ。よろしくね」
ヘレンが、あの時と同じように、爽やかに手を差し出す。
ナラティブは、震える手でその手を握り返した。
「は、はひ……よ、よろひくお願いひます……!」
握手した手から伝わる体温。
ナラティブの顔は、熟れたトマトのように真っ赤だった。
ヘレンは不思議そうに、しかし親愛を込めて握り返す。
エラーラは、窓の外を見た。
雨は上がり、澄み渡るような青空が広がっている。
緋色の温室は枯れ果てた。
代わりに、この獣病院には、甘酸っぱく、そして騒がしい春が訪れようとしていた。
「……やれやれ。私の周りには、手のかかる『子供』ばかり集まるようだ」
賢者はカップを傾け、隠し味のスパイスのように、誰にも聞こえない声で呟いた。
「だが。……悪くないデータだ」




