第2話:女王の愛娘と、魔女の母親!
ナラが獣医院に住み着いて数週間が経ったある日。
いつものように平和な昼下がり、ドアベルが鳴った。
「やあ、エラーラ君。いるかね?」
入ってきたのは、恰幅の良いトレンチコートの男。王都警察のカレル警部だ。
彼は帽子を脱ぎ、汗を拭いながら重々しい口調で切り出した。
「実はね、君に折り入って頼みがあるんだ」
「おや、カレル警部じゃないか。また厄介事かね? 警察の手に余る事件となれば、私の出番というわけだね!」
エラーラは顕微鏡から顔を上げ、嬉々として応じた。
その後ろで、ナラが優雅に紅茶を飲んでいる。
「あら、警部さん。また殺人事件? それとも魔獣の暴走?」
「いや……今回は少々、『色っぽい』事件でね」
カレル警部は、証拠品袋に入った小さな小瓶を取り出した。
中には、ピンク色に怪しく輝く液体が入っている。
「最近、貴族の間で『どんな相手も虜にする香水』というのが流行っていてね。……だが、これを使った者が、理性を失って獣のように暴れ回るという被害が多発しているんだ」
「ほう!強制発情と精神汚染を同時に引き起こす魔法薬か!興味深い!」
エラーラが身を乗り出す。
「被害者は、相手に見境なく襲いかかるらしい。……成分を分析して、中和剤を作ってほしいんだ」
「任せたまえ! 私にかかれば、成分解析など赤子の手をひねるようなものさ!」
エラーラは小瓶を受け取り、早速実験台へ向かった。
ナラも興味深そうに覗き込む。
「へぇ。……安っぽい色ね。三流の媚薬ってところかしら」
「触らないでくれたまえよナラ君。揮発性が高そうだ。……さて、まずは分光分析を……」
エラーラがスポイトで液体を吸い上げようとした、その時だった。
彼女の悪い癖が出た。考え事をしながら手元がおろそかになるのだ。
「ふむ、この分子構造は……おっと?」
スポイトがビーカーの縁に当たり、小瓶が倒れた。
ピンク色の液体がこぼれ、瞬く間に気化してピンク色の霧となる。
「しまっ……! 換気だ!」
エラーラが叫ぶ。
だが、ナラは逃げ遅れた。
彼女は、真正面からその甘い霧を吸い込んでしまったのだ。
「……っ! ゲホッ! ……な、なによこれ……甘ったるい……」
ナラが膝をつく。
視界が歪む。
体の中で、何かが熱く燃え上がるのを感じた。
ナラの理性のタガが、パチンと音を立てて外れた。
彼女の中に普段隠している、エラーラへの「深すぎる愛情」と「独占欲」、そして……「マザコン心」が、薬の効果で数百倍に増幅されたのだ。
「ナラ君! 大丈夫か!? すぐに解毒剤を……」
エラーラが心配そうに駆け寄る。
その瞬間。
ナラが、エラーラの両腕を掴み、床に押し倒した。
「うわっ!? なにをするんだい?…ナラ君!?」
エラーラが仰天する。
彼女の上に馬乗りになったナラは、トロンとした瞳で、しかし捕食者のような笑みを浮かべていた。
「……あぁ、お母様。……いい匂い」
ナラは、エラーラの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「なッ、なななッ!? いかん!く、首はやめたまえ!私は食べ物じゃないぞ!」
「黙ってて。……一流の娘たるもの、母親への愛も一流でなくてはなりませんわ!」
ナラは叫び、エラーラの頬ずりした。
その力は凄まじい。元々武闘派のナラだが、リミッターが外れた彼女はゴリラ並みの怪力を発揮している。
「愛してるわお母様! 誰にも渡さない! 髪も、肌も、そのおかしな喋り方も、全部あたしのものよぉぉぉッ!」
「ひぃぃぃッ! 誰か! 誰か剥がしてくれぇぇぇ!」
エラーラが悲鳴を上げる。
見かねたゴウ少年が止めに入ろうとする。
「ナ、ナラさん! 落ち着いてください!」
「邪魔よッ!!」
ナラの裏拳が、ゴウを吹き飛ばした。
ゴウは壁に激突し、気絶する。
「ゴウ君ーッ!?」
ケンジ院長も飛び込んでくるが、ナラは彼を締め上げながら、エラーラに頬ずりし続けた。
「お母様との愛の時間を邪魔する不届き者は、処刑ですわ!」
カレル警部は、その地獄絵図を見て、そっと帽子を目深に被った。
「……これは、私の手に負える事件じゃなさそうだ」
「見捨てないでくれたまえ警部ゥゥゥッ!!」
エラーラが涙目で叫ぶ。
「とにかく! この香水の出処を突き止めて、解毒剤の材料を手に入れないと、君が死ぬ!」
その時、裏口から一人の少女がひょっこりと顔を出した。
乱雑な服装の陰気な少女、ルルだ。
「あ、あの……。なんか騒がしいですけど……。じ、情報、持ってきたんですけど……」
「ルル君! タイミングがいい! その香水の売人の場所を知っているかね!?」
エラーラが必死の形相で問う。
「あ、はい……。う、裏通りの『黒薔薇館』っていう怪しい店で……ひっ!何ですか、この、変な人……」
ルルは、エラーラに吸い付いているナラを見て凍りついた。
「よォーし! 行くぞナラ君! デートだ!」
エラーラは、とっさの機転を叫んだ。
「デート!?」
ナラが反応し、顔を上げる。
「そうだ! その『黒薔薇館』とやらで、私と熱い夜を過ごそうじゃないか!」
「きゃあああッ!素敵!さすがお母様!エスコートはお任せくださいまし!」
ナラは立ち上がり、エラーラを「お姫様抱っこ」した。
「行きましょう! 愛の逃避行へ!」
「ちがーう!捜査だ!……ルル君、さ!ささ!案内したまえ!急げ!」
「は、はいぃぃ……」
暴走するナラに抱えられたエラーラ、そして怯えるルル。
奇妙な一行は、王都の夜の闇へと消えていった。
残されたのは、気絶したゴウと、腰を痛めたケンジ院長だけだった。
王都の裏路地。怪しげなネオンが輝く会員制クラブ「黒薔薇館」。
そこは、違法香水を密売する犯罪組織のアジトだった。
「おい、誰だお前らは!」
「ここは会員制だぞ!」
屈強な見張りたちが立ちはだかる。
その前に現れたのは、白衣の女性をお姫様抱っこした、黒ドレスの美女だった。
「どきなさい、三流のゴミ屑ども」
ナラティブ・ヴェリタスは、恍惚とした表情のまま、冷酷に言い放った。
「あたしは今、お母様とのハネムーンの最中ですのよ。……邪魔をするなら、ミンチにして差し上げますわ」
「は?何言ってだこの女……」
見張りが棍棒を振り上げた瞬間。
ナラは、エラーラを抱えたままハイキックを放った。
見張りの男は、ボールのように吹き飛び、ドアを突き破って店内に転がり込んだ。
「素晴らしいぞ、ナラ君!その脚力!」
腕の中でエラーラが、恐怖と感心が入り混じった声を上げる。
「お母様に褒められたわ! ……もっと、もっと褒めて!」
ナラは店内に突入した。
中は、香水の密売人や、薬でラリった客たちで溢れかえっていた。
「な、なんだ貴様ら!」
組織のボスらしき男が、魔導銃を向ける。
「お母様、危ない!」
ナラはエラーラを庇うように背を向けた……のではなく、エラーラを小脇に抱えたまま、超高速でジグザグに走り出した。
「一流の愛は、弾丸ごときには止められませんわ!」
ナラはテーブルを蹴り飛ばし、シャンデリアに飛びつき、ボスの目の前に着地した。
「ごめんあそばせッ!」
強烈な頭突き。
ボスが鼻血を吹いて倒れる。
「ひ、ひぃぃ! 化け物だ!」
手下たちが一斉に襲いかかってくる。
「うるさいわね! あたしはお母様の匂いを堪能したいのよ!」
ナラは片手でエラーラを抱きしめ、もう片方の手と足で、襲い来る敵を次々となぎ倒していく。
その戦い方は、優雅でありながら、凶暴そのものだった。
「お母様の肌はマシュマロのようですわ~!」
「この白衣の煤の匂いも最高ですわ~!」
「ナ、ナラ君! 集中したまえ! 戦闘中だぞ!」
エラーラは生きた心地がしない。
「集中してますわ! お母様の全てに!」
敵は壊滅状態だった。
だが、部屋の奥から、香水の原液が入った巨大なタンクを持った男が現れた。
「ええい! こうなったら、この原液をばら撒いてやる! 全員狂ってしまえ!」
男がタンクのバルブを開けようとする。
あれだけの量が気化すれば、王都中が大パニックになる。
「いかん! ナラ君、あいつを止めろ!」
「はい、お母様!」
ナラは、エラーラをソファに放り投げると、弾丸のように男へ突っ込んだ。
「一流のレディの前で、異臭騒ぎを起こそうなんて……」
ナラは、男の手首を掴み、ギリギリと締め上げた。
「マナー違反にも程がありますわよッ!!」
「ぎゃあああああ!」
男が悲鳴を上げてタンクを手放す。
ナラは落ちてくるタンクを、華麗な回し蹴りで窓の外へと蹴り飛ばした。
「ホームランですわ!」
「……すごい。物理法則を無視しているぞ!……」
エラーラは呆然と呟いた。
敵は全員のびていた。
静寂が戻る――わけもなく。
「さて、お母様」
ナラは、ゆっくりとエラーラの方へ向き直った。
その目は、ハートマークになりそうなほどトロトロに溶けている。
「邪魔者はいなくなりましたわ。……さあ、続きを致しましょう?」
ナラが、よだれを垂らしそうな顔で迫ってくる。
壁際に追い詰められるエラーラ。
「ま、待てナラ君! 君は今、薬の影響で認知機能がバグっているのだ! 正気に戻りたまえ!」
「正気ですわ。……あたしの本能が叫んでますの。あんたを食べちゃいたいって!」
「ひぃッ! 物理的な意味じゃないだろうね!?」
ナラがエラーラを押し倒そうとした、その時。
「……そこまでだ」
エラーラが、隠し持っていた注射器をナラの首筋に突き立てた。
「え……?」
ナラの動きが止まる。
エラーラは、戦闘のどさくさに紛れて、店内にあった解毒剤の成分を採取し、簡易中和剤を調合していたのだ。
「……ふぅ。間一髪だったよ」
エラーラは冷や汗を拭った。
ナラの瞳から、狂気が消え、焦点が戻ってくる。
「……あ、あれ? あたし、何を……?」
ナラは周囲を見回した。
転がる男たち。
そして、自分の下敷きになっているエラーラ。
自分の手は、エラーラのシャツのボタンを外しかけており、顔はキスの直前まで近づいている。
記憶が、走馬灯のように蘇る。
『愛してるわお母様!』
『匂いを堪能したいのよ!』
『食べちゃいたい!』
「……わ。」
ナラは、顔から火が出るほど赤面し、マッハの勢いで飛び退いた。
「い、いやぁぁぁぁぁッ!!」
ナラは頭を抱えてうずくまった。
死にたい。今すぐこの世から消滅したい。
普段、必死に隠していた感情を、これでもかと暴露してしまった。
「おや?正気に戻ったかい? 素晴らしいデータが取れたよ!ナラ君!」
エラーラは服を直しながら、無神経に笑った。
「君の深層心理における『マザー・コンプレックス』と『独占欲』が、薬物によってリミッター解除されると、戦闘力が向上することが判明した! これは……論文が書けるぞ!」
「か、書くなぁぁぁッ!! 忘れなさい! 今すぐ記憶を消去しなさいッ!!」
ナラは涙目で叫んだ。
「なぜだね? 君の愛は、実に熱烈で、あやうく私が窒息するほどだったよ?」
「うるさいうるさいうるさい! ……もう、お嫁に行けない……」
そこへ、カレル警部率いる警官隊が突入してきた。
「確保ォ! ……って、終わってる?」
カレルは、壊滅した店内と、うずくまるナラ、高笑いするエラーラを見て、深く帽子を被り直した。
「……報告書には、『ガス爆発』とでも書いておくか」
後日。
獣医院にて。
ナラは一週間ほど部屋に引きこもったが、エラーラが「美味しいコーヒーが入ったよ」と呼ぶと、のこのこと出てきた。
「……あの時の、勘違いしないでよね」
ナラは、そっぽを向きながらコーヒーを啜る。
「あ、あれは薬のせいで……本心じゃなくて……その……」
「分かっているとも?」
エラーラは優しく微笑んだ。
「だが、君に守られるのも、悪くない気分だったよ。……ありがとう、私の騎士様」
その言葉に、ナラは耳まで真っ赤にして、カップに顔を埋めた。
「……バカ。……お母様のバカ」
ナラのつぶやきは、湯気の中に溶けていった。
こうして、ヴェリタス親子の騒がしい日常は、今日も続いていくのである。




