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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
通りすがりの王子

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第1話:王子ふたたび!

●前作「未来を守る探偵」を読んでおくと良いかも。

冷たい雨が、王都の石畳を濡らしていた。

魔導灯の光が水溜まりに滲み、行き交う人々の足元を頼りなく照らしている。

ナラティブ・ヴェリタスは、濡れた銀髪を苛立たしげに払いながら、裏路地を大股で歩いていた。その拳には、赤黒い血が僅かに付着している。自身の血ではない。たった今、しつこく絡んできた酔っ払いの男たちの鼻をへし折った時の名残だ。


「……ッ、最低。どいつもこいつも」


彼女は、ハンカチで拳を拭うと、それを汚物のようにゴミ箱へ投げ捨てた。

人間なんて、暴力と欲望の塊だ。

力で他人をねじ伏せようとする傲慢さ、品性の欠片もない視線。


「綺麗なものが見たい……。汚れのない、美しいものだけが……」


吐き捨てるように呟いた時だった。

ふわり、と甘い香水の匂いが鼻を掠めた。雨の匂いを塗り替えるような、濃厚で、それでいて気品のある薔薇の香り。


「お困りのようね?可哀想に……こんなに美しい手が汚れてしまって」


ナラティブが顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。

深紅のドレスに身を包んだ、陶磁器のように白い肌の美女。濡れたナラティブの頬に、彼女の温かい指先が触れる。


「……あなたは?」


「レイラよ。……見ていたわ。乱暴な殿方に絡まれて、大変だったわね」


レイラと名乗った女は、慈愛に満ちた瞳でナラティブを見つめた。その瞳には、ナラティブが嫌悪する「欲望」の色は微塵もない。あるのは、傷ついた同胞を労るような、深い共感だけだった。


「この社会で生きるのは疲れるでしょう?『彼ら』はいつだって、私たちを消費することしか考えていない」


「……ええ、その通りだわ」


ナラティブは、吸い寄せられるように頷いた。彼女の言葉は、今のナラティブの心に空いた穴に、あまりにも完璧に嵌まった。


「ね、いらっしゃらない? 私たちだけの『楽園』へ」


「楽園……?」


「そう。『消費』のない、美と安らぎだけの場所。『緋色の温室』……。あなたのような、強くて気高い魂を持つ女性にこそ、来ていただきたいの」


レイラの唇が、蠱惑的な弧を描く。

ナラティブの「人間嫌い」と「美しい女性への憧れ」。その二つの琴線を、レイラは完璧に弾いてみせた。

雨に濡れた子犬のように、ナラティブは小さく頷いた。


「……行ってみたい。その、楽園に」


それが、地獄への招待状だとも知らずに。


数日後。

ナラティブは、レイラから教えられた場所へと向かっていた。

王都の地下区画、会員制のクラブが集まる一角。胸が高鳴っていた。今日から私は、あの汚らわしい『彼ら』たちの視線に晒されることなく、美しい女性たちと優雅な時間を過ごせるのだ。

浮き足立つ心で角を曲がった、その瞬間。


「っと、危ない」


ドン、と誰かとぶつかりそうになった。

避ける間もなくバランスを崩し、石畳へ倒れ込みそうになる。

だが、身体が地面に打ち付けられることはなかった。

しなやかな腕が、ナラティブの腰を抱き留めていたからだ。


「……怪我はないかい?子猫ちゃん」


頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような、しかし凛とした涼やかな声だった。

ナラティブは恐る恐る目を開けた。

そして、時が止まった。

そこには、月光を紡いだような銀髪の「少年」がいた。

いや、違う。

その線の細さ、漂う香りは女性のものだ。だが、その佇まいは、絵本の中から抜け出してきた王子様そのものだった。

長い睫毛に縁取られたアイスブルーの瞳が、至近距離でナラティブを覗き込んでいる。


「あ……」


ナラティブの心臓が、早鐘を打った。

美しい。

レイラのような妖艶な美しさではない。雪原に立つ一本の剣のような、研ぎ澄まされた清潔な美貌。

男装の麗人。エルフ特有の透明感。


「おやおや、顔が赤いよ? 熱でもあるのかな」


彼女――ヘレンは、ナラティブの額に自分の額をコツンと合わせた。

ひんやりとした肌の感触。吐息がかかる距離。


「ひゃ、う……っ!?」


ナラティブは沸騰しそうになった。

強い戦士である自分が、こんな華奢なエルフに支えられ、赤子のように扱われている。

だが、嫌ではない。むしろ、その腕の頼もしさに、腰が砕けそうだった。


「ふふ、元気そうで何よりだ」


ヘレンは悪戯っぽくウィンクすると、ナラティブを優しく立たせた。そして、ナラティブの服についた汚れを、指先一つで――生活魔法でサッと消し去った。


「急いでいるんだ。失礼するよ、レディ」


「あ、あのっ! お名前は……!」


「通りすがりの学生さ。……良い一日を」


ヘレンはマントを翻し、風のように雑踏へと消えていった。

後に残されたのは、残り香と、恋に落ちた一匹の獣。


「……す、好き……。」


ナラティブは頬を押さえ、その場に崩れ落ちそうになった。

なんて素敵な人なんだろう。あんな人がいるなら、この王都も捨てたもんじゃない。

世界がバラ色に見えた。

だが、その高揚感が、ナラティブの致命的な判断ミスを誘発した。

彼女は、今の「王子様」へのときめきを抱えたまま、レイラとの約束の場所――『緋色の温室』の重厚な扉をくぐってしまったのだ。

ヘレンが、実はその『温室』の周囲を嗅ぎ回っていた調査者であり、今まさにその闇を暴こうとしていたことなど、露知らずに。


『緋色の温室』の内装は、極彩色の悪夢のようだった。

壁一面を覆う真紅の薔薇。甘ったるい香の匂い。そして、シルクの寝台に横たわる美しい女性たち。

だが、ナラティブが通されたのは、そのさらに奥にある「特別室」だった。


「ようこそ、ナラティブさん。お待ちしていたわ」


レイラが、艶然と微笑んで出迎えた。

差し出されたのは、湯気を立てるハーブティー。


「これを飲んでリラックスして。私たちの『儀式』を始めましょう」


「儀式……?」


「ええ。永遠の美と、安らぎを得るための」


ナラティブは、何の疑いもなくカップを口にした。先ほどのヘレンとの出会いで心が浮ついていた彼女は、その茶から漂う微かな異臭――高度に精製された『魔導筋弛緩薬』の匂いに気づけなかった。

一口、二口。

カップが、手から滑り落ちた。

ガシャン、と陶器が砕ける音が響く。


「あ……れ……? 力が……」


足の力が抜け、その場に崩れ落ちる。視界が歪み、天井が回る。

指一本動かせない。

そんなナラティブを見下ろして、レイラは――嗤った。


「あらあら。やっぱり、薬の効き目が早いわ」


その声からは、先ほどまでの慈愛は消え失せていた。あるのは、商品を値踏みする商人の、冷徹で強欲な響きだけ。


「連れてお行き。新鮮なうちに『処理』するわよ」


「……え?」


屈強な女衛兵たちが現れ、動けないナラティブを引きずっていく。

連れて行かれた先は、優雅なサロンではなかった。

金属とガラス管が張り巡らされた、巨大な工場だった。


「な、なに……これ……」


ナラティブは絶句した。

そこには、無数のガラスカプセルが並び、その中には若い女性たちが閉じ込められていた。

彼女たちは裸にされ、全身に管を繋がれ、虚ろな目で液体の中に浮かんでいる。

管の中を流れるのは、血液ではない。

キラキラと輝く粒子――彼女たちの生命力、魔力、そして「若さ」そのものだった。


「ここはね、最高の化粧品工場なのよ」


レイラが、ナラティブの頬を冷たい指で撫でた。


「貴族の奥様方が大金を払ってでも欲しがる『若返りの秘薬』。その原料が何か知ってる?……幸せで、健康で、魔力に溢れた若い女のエキスよ」


社会で消費されるのが嫌?

他人の欲望が汚らわしい?

レイラは嘲笑う。


「ここではね、女も女を消費するの。美しさを維持するために、他者の美しさを搾取する。これこそが究極の自給自足だと思わない?」


「ふッ……ざけ……んな……ッ!」


ナラティブは抵抗しようとしたが、身体はピクリとも動かない。

衣服を剥ぎ取られ、冷たい診察台に拘束される。太い針が、血管を探るように肌に押し当てられる。


「あなたは特上よ。あなたの生命力……。死ぬまで、最後の一滴まで絞り取ってあげるわ」


絶望が、ナラティブを包み込んだ。

私は馬鹿だ。

美しいものに憧れて、汚い現実から目を背けて、その結果がこれだ。

お母様……ごめんなさい。

あの銀髪の王子様……もう一度、会いたかったな。


その頃。

王都の外れにある、古びた獣病院の裏口を叩く者がいた。

銀髪のエルフ、ヘレンである。

彼女は、行方不明になった学友の足取りを追って『緋色の温室』に辿り着いたものの、その堅牢な魔法結界と、入り口で感知した未知の「毒」に阻まれ、攻めあぐねていた。


「先生!いらっしゃいますか!」


扉を開けたのは、白衣をだらしなく着崩した褐色の美女、エラーラ・ヴェリタスだった。


「おや、ヘレン君。また私の実験の邪魔をしに来たのかね?」


「いえ、知恵をお借りしたいんです!」


ヘレンは、エラーラの実験室に上がり込み、早口で事情を説明した。

女性を拉致し、違法な薬物を精製している疑いのある組織のこと。そのアジトに潜入するための解毒剤が必要なこと。


「フム。……未知の魅了毒、か」


エラーラは眼鏡を光らせ、興味深そうに顎を撫でた。


「被害者の特徴は?」


ヘレンは、入り口ですれ違った一人の女性のことを思い出しながら答えた。


「……入り口で、一人の女性が連れ込まれるのを見ました。

黒服の女性で……とても強そうで、綺麗な人だったのに……男装のボクに顔を赤らめて転びそうになるような、少し……その、『脇の甘い』感じの人でした」


「……」


エラーラの手が止まった。

黒服。強そう。綺麗な顔立ち。そして、致命的に脇が甘く、男装の麗人に弱い。


(……まさか、な)


エラーラの脳裏に、今朝「買い物に行ってくる!」と元気よく出かけていった、自分の助手兼娘のような存在――ナラティブの顔が過った。

あの子は極度の「面食い」で、特に中性的な美人に弱い。

そして、学習能力に関しては……戦闘以外では少々残念なところがある。


「……その被害者、髪の色は?」


「えっと、赤……いや、黒髪でした」


ナラティブの髪色は深い赤系の黒色だ。特徴は一致する。

エラーラは、こめかみを指で押さえた。

確定だ。あの馬鹿娘、また騙されおったか。


「……なるほど。その『馬鹿な被害者』を救いたいと?」


「はい! 彼女もきっと、ボクの友人と同じ目に遭っている。放っておけません!」


ヘレンの瞳は、純粋な正義感に燃えている。

彼女は、自分が助けようとしているのが恩師の「娘」だとは夢にも思っていない。

エラーラは、ため息を一つ飲み込み、ニヤリと笑った。

ここで「それは私の助手だ」と言うのは簡単だ。だが、それでは面白くない。それに、ナラティブにも少しはお灸を据える必要があるだろう。そして何より――このかつての教え子が、どれほど成長したかを見る絶好の機会だ。


「よろしい。力を貸そう」


エラーラは、即座に薬品棚から数種類の薬瓶を取り出し、調合を始めた。その手際は魔法のように速い。


「その毒は『女の情念』と『陶酔』を触媒にしている。論理で中和すればイチコロだ。この『覚醒の霧』を持って行きたまえ」


完成した小瓶をヘレンに渡す。


「それと、結界破りの術式だ。この座標に『反転』の魔力をぶつければ、ザルのように崩れるはずだよ」


「ありがとうございます、先生! さすがです!」


ヘレンは小瓶を握りしめ、深く頭を下げた。


「必ず、全員助け出して見せます!」


「ああ、期待しているよ。……特にその『脇の甘い娘』を、よろしく頼む」


ヘレンは風のように去っていった。

エラーラは、静かになった実験室で、淹れたてのコーヒーを啜った。


「……さて。ナラがどんな顔をして帰ってくるか、楽しみだねぇ」

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