第2話:人気のある無名(2)
王都のオープンカフェ。
そのテラス席の一角だけ、時空が歪んでいるかのような異様なオーラが漂っていた。
「……ありえないわ」
通りの向こうからその光景を目撃したナラ・ヴェリタスは、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
隣を歩くリウ・ヴァンクロフトは、いつものように能天気な笑顔でなんらかを叫んでいる。
ナラの視線の先には、二人の男が座っていた。
一人は、神経質そうな眼鏡の男。北区の美術批評家、ガストン。
もう一人は、全身ピンク色のスーツを着た小太りの男。南区の謎の富豪、バロン・ロサ。
リウを「殺したいほど憎む男」と「殺したいほど愛する男」。
本来なら水と油、出会えば殺し合いが始まってもおかしくない二人が、なぜか同じテーブルで紅茶を飲み、熱っぽく語り合っているのだ。
「……聞き耳を立てるわよ」
ナラはリウの腕を引いて、近くの植え込みの陰に隠れた。
ガストンが眼鏡の位置を直しながら、低い声で唸る。
「……しかしだ、ロサ君。134ページの『インクの染み』については、君の解釈は甘いと言わざるを得ない。あれは宇宙の誕生などという希望に満ちたものではなく、社会構造の崩壊を示唆する『虚無』の表現だろう」
ロサが紅茶のカップを置き、うっとりとした顔で反論する。
「ノン、ノン、ガストン氏。貴方は理屈っぽすぎるのです。あの染みの飛散角度を見てください。あれはリウ様が筆を振るった際の、右肘の角度と遠心力が生み出した『愛の飛沫』……つまり、生命への賛歌なのですよ」
「ふん、相変わらずロマンチストだな。だが、昨夜君が送ってきた論文……『リウ・ヴァンクロフトにおける筆圧と感情の相関関係』については、認めざるを得ない。あの分析は見事だった」
「光栄ですわ。貴方の『リウ・ヴァンクロフトの色彩選定における狂気の構造』も、非常に興味深い考察でした。特に『赤』の使い方に対する批判的アプローチは、逆説的に彼女の情熱を浮き彫りにしていましたね」
ナラは絶句した。
(……仲が良い)
ベクトルは真逆だが、「リウ・ヴァンクロフトという難解なテキストを解読する」という一点において、彼らは誰よりも通じ合っていたのだ。
一般人が誰も読まないあの奇書を、一文字一句読み込み、議論できる相手は、世界でこの二人しかいない。
彼らは「同志」だったのだ。
その時。
「あら!わたくしの熱心な読者様たちではありませんの!!」
リウが植え込みから飛び出していった。
「ちょ、バカ! 待ちなさい!」
ナラの制止も虚しく、リウは二人のテーブルへと特攻した。
「リ、リウ様……!?」
「リウ・ヴァンクロフト……ッ!!」
二人の男が同時に立ち上がった。
ロサは恍惚の表情で震え、ガストンは憎悪で顔を歪める。
「ンンーッ! こんなところでわたくしの自伝について語り合っているなんて! 作者として鼻が高いですわ! どうでした? あの『パンの絵』は!」
リウが屈託なく笑いかける。
その圧倒的な「陽」のオーラに、二人の狂人は一瞬たじろいだ。だが、すぐにそれぞれの情熱が爆発した。
「貴様ッ!!」
ガストンがテーブルを叩く。
「あの『パン』は何だ! なぜクロワッサンでもバゲットでもなく、ただの茶色い丸なんだ! あの描写には、小麦農家への冒涜と、既存の静物画へのアンチテーゼが込められているのだろう!? 答えろ!」
「ああ、リウ様……!」
ロサが跪き、リウのドレスの裾を掴もうとする。
「あの『パン』……あれは母なる大地、そして貴女自身の豊満な精神性のメタファーですね!? 私はあの茶色の染み一つで、三日三晩ご飯が食べられました……! 正解を! 私に愛の正解をください!」
憎悪と愛。二つの極端な感情が、リウに「正解」を求めて殺到する。
ナラは鉄扇を構え、いつでも介入できるように身構えた。
だが、リウは動じなかった。
彼女は、キョトンとした顔で二人を見つめ、そして――
「……はあ?」
と首を傾げた。
「アンチテーゼ? メタファー?……何を言っていますの? あれはただ、執筆中にお腹が空いて、手元にあったパンを食べこぼした染みですわよ?」
「……は?」
二人が凍りついた。
「それに、あの文章も。眠くて適当に書いたものですわ。意味なんてありませんの」
「な、なんだと……」
ガストンが震え出した。
「意味がないだと……? 我々が夜を徹して議論したあの哲学は……全て、貴様の気まぐれだと言うのか!?」
「ええ、そうですわ!」
リウは堂々と言い放った。
そして、彼女は二人の目を見据え、かつてないほど真剣な、澄んだ瞳でこう言った。
「【あの本に書いてあることなど、信じてはいけませんわ】」
風が吹いた。
リウの金髪がなびく。
「文字になった瞬間、それはもう『過去のわたくし』の抜け殻。つまり。今のわたくしは、一秒前とは違う色をしていますの。だから……わたくしの言葉を鵜呑みにしてはいけません。ただ見て、自分の頭で考えて、ときには信じ、ときには疑うのです」
リウは自らの胸に手を当てた。
「わたくし自身でさえ、昨日のわたくしを疑っていますもの。『なんでこんな変な絵を描いたのかしら?』って。……自分自身に対してさえ中立に、批判的になる。それこそが、自分を進化させる、唯一の道ですわ」
その言葉は、奇人リウ・ヴァンクロフトにしては珍しくまともで、そして、奇妙に深淵だった。
いや、彼女にとっては「気分が変わった」というだけの話なのだが、この二人の狂人には、それが雷鳴のような啓示として響いた。
ガストンとロサは、雷に打たれたように立ち尽くしていた。
(書いてある思想を信じるな……疑え……)
(自分自身さえも批判的に見る……)
その言葉が、彼らの中で化学反応を起こした。
彼らの歪んだ情熱が、新たな形へと変異していく。
ガストンが、ガタリと椅子を倒して後ずさった。
彼の目から「盲目的な憎悪」が消え、代わりに冷徹で鋭利な光が宿る。
(……そうだ。私は今まで、彼女の表面的な作品を批判することに躍起になっていた。だが、彼女自身がそれを否定した。つまり、彼女は『常に自己否定を繰り返すことで進化する怪物』なのだ。……ならば、生半可な批判など彼女には届かない。彼女を殺せるのは……彼女の進化の先を読み、論理の刃でその喉笛を掻き切れるのは……この世界で、私しかいない)
ガストンの中で、結論が出た。
『彼女を守らねばならない』
(他の有象無象や、薄っぺらい批評家に、彼女を傷つけさせてはならない。彼女を完成させ、そして最後に殺すのは……私だ)
一方、ロサもまた、天啓を受けていた。
(リウ様は仰った。信じるな、疑えと。……ああ、私はなんて愚かだったんだ! 盲目的に全てを肯定し、愛することこそが、リウ様への冒涜だったのだ!愛ゆえに疑い、愛ゆえに否定する。それこそが真の愛!……ならば、世の中に溢れる『好き』も『嫌い』も、全て間違っている!)
ロサの中で、結論が出た。
『私が調停せねばならない』
(リウ様を盲目的に好く者、盲目的に嫌う者……その全ての偏った思考を、私が正さねばならない。中立という名の愛で!)
それからの日々、ナラの頭痛は悪化の一途をたどった。
リウの周囲に、二人の「守護者」とも「厄災」ともつかない存在が常駐するようになったからだ。
ある日の午後。リウが街でスケッチをしていると、柄の悪い男たちが絡んできた。
「おい姉ちゃん、いい体してるな。俺たちのモデルになれよ」
ナラが鉄扇を取り出そうとした瞬間。
どこからともなく、批評家ガストンが現れた。彼は手にした分厚いリウの自伝の角で、男の顔面を迷いなく殴打した。
「グアッ!?」
「失せろ、下郎ども!!」
ガストンは鬼のような形相で叫んだ。
「貴様らごときが、彼女の視界に入るな!彼女の精神を追い詰め、その才能を枯渇させ、絶望の淵に叩き落として『死』を与えるのは……この私だ!!」
「ヒッ、ヒィィ! なんだこいつ!」
男たちは逃げ出した。
ガストンは肩で息をしながら、リウを睨みつけた。
「……勘違いするなよ、ヴァンクロフト。貴様を守ったのではない。貴様という獲物を、他のハイエナに横取りされたくなかっただけだ。……さあ、今の恐怖を絵にしてみろ。まあ、どうせ陳腐なものしか描けんだろうがな!」
リウは「あら、助かりましたわガストンさん!」と笑い、ガストンは「チッ!」と舌打ちして物陰に消えた。
彼は24時間体制でリウを監視し、リウに近づく「質の低い敵」を排除し続けている。リウを殺す権利を独占するために。
またある日。リウの個展にて。
ファンの一人がリウに駆け寄った。
「リウ先生! 大好きです! 先生の絵を見ると元気が出ます! 最高です!」
すると、ピンク色のスーツを着たロサが、ぬるりと二人の間に割って入った。
「……貴方、本当に『最高』だと思っていますか?」
「え? はい、思ってますけど……」
「それは思考停止です。盲目的な肯定は、対象への理解を放棄した怠慢です。貴方はリウ様の絵のどこがいいと思いましたか? 色使いですか? 構図ですか?なぜ『元気が出る』のですか? それは貴方の体調によるバイアスではありませんか?疑いなさい。リウ様を疑い、自分の『好き』を疑いなさい。それが真のファンというものです」
ファンはドン引きして去っていった。
直後、今度はアンチが通りかかった。
「なんだこの絵、下手くそだな。ゴミじゃねえか」
ロサは即座に振り返り、アンチに詰め寄った。
「ノン、ノン。……貴方、本当に『ゴミ』だと思っていますか?」
「は?どう見てもゴミだろうが?」
「それは思考停止です。盲目的な否定は、自身の感性の欠如を露呈する恥ずべき行為です。貴方はこの絵の意図を理解しましたか? 下手に見える線が、実は計算された崩しである可能性を考慮しましたか?疑いなさい。自分の『嫌い』という感情の起源を疑いなさい。中立にご覧なさい」
アンチも気味悪がって逃げ出した。
ロサは満足げに微笑んだ。
「ああ……今日も世界を『中立』に保ちました。これぞリウ様への愛……!」
獣病院のリビング。
ナラは窓の外を見た。
向かいのビルの屋上には、双眼鏡でこちらを監視しながら、近づく不審者を撃退する準備をしているガストンの姿がある。
そして、病院の玄関先では、郵便配達員に対して「この手紙は本当にリウ様に必要ですか? 疑いなさい」と説教をしているロサの姿がある。
「……地獄ね」
ナラは呟いた。
敵だったはずの二人が、今は歪な形でリウの「環境」の一部になっている。
ガストンはリウへの物理的・精神的干渉を排除する最強の盾となり、ロサはリウへの無責任な評価を弾くフィルターとなっている。
結果として、リウ・ヴァンクロフトは、誰にも邪魔されることなく、誰の評価も気にすることなく、ただひたすらに創作活動に没頭できる「完全な自由」を手に入れてしまった。
「ンンーッ! ナラさん! 見てくださいまし!」
リウが新しいキャンバスを持ってきた。
そこには、ガストンの鬼のような形相と、ロサの恍惚とした笑顔が、混ざり合って渦を巻いているような、凄まじいエネルギーの絵が描かれていた。
「彼らのおかげで、わたくしの筆は止まりませんわ!愛も憎悪も、全てはわたくしの養分!世界はこんなにもカオスで、こんなにも美しい!!」
リウは高らかに笑った。
その笑顔は、あまりにも無垢で、そして誰よりも狂っていた。
ナラは冷めた珈琲を飲み干し、諦めの境地で溜息をついた。
「……まあ、いいわ。あんたが幸せなら、それで」
ナラは知っている。
この奇妙な均衡も、リウの一言でまた崩壊するかもしれない。
「やっぱり飽きましたわ」とか言って。
けれど、それまでは。
この異常なコメディを、特等席で眺めるのも悪くはないかもしれない。
「……でも、ロサが玄関で説教してるせいで、ピザが届かないのだけはどうにかしなさいよ」
「承知しましたわ! ガストンさんに排除させますわね!」
「そういうことじゃないのよ……」
王都の片隅で、今日も芸術と狂気が、仲良く喧嘩をしている。
それがリウ・ヴァンクロフトという台風の目が生み出した、奇跡のような日常だった。




