第1話:人気のある無名(1)
王都の獣病院。
平和な午後を切り裂くように、重たい音が響き渡った。
「見てくださいまし、ナラさん!わたくしの魂の叫びが、ついに製本されましたのよ!」
リウ・ヴァンクロフトが、辞書よりも分厚いハードカバーの本をテーブルに叩きつけた。
その衝撃で、あたしの飲んでいた珈琲がカップの中で荒波を立てる。
「……何よその鈍器は」
あたし、ナラティブ・ヴェリタスは、カップをソーサーに戻しながら冷ややかに尋ねた。
目の前には、金髪を揺らして仁王立ちする変態画家。その手にあるのは、極彩色の禍々しい表紙の本だった。
タイトルは金色の箔押しでこう刻まれている。
『色彩の暴走、愛の銀河へ』
「自伝ですわ! 先日、創作のインスピレーションが脳内物質と共に溢れ出して止まらなくなりまして、一晩で書き殴ってみましたの!」
「一晩でこの厚さ?……正気じゃないわね」
あたしは呆れつつも、その本を手に取った。
そして、帯に書かれた衝撃的な煽り文句に目を剥いた。
【王都書籍ランキング 第5位! 発売即重版! 今、最も熱い魂のバイブル!】
「はあぁ!? 5位!? この王都で!?」
あたしは素っ頓狂な声を上げた。
王都の出版業界は激戦区だ。名だたる文豪や学者の学術書、あるいは流行の恋愛小説がしのぎを削るランキングにおいて、ぽっと出の画家の、しかもこんなふざけたタイトルの自伝が上位に食い込むなど、異常事態である。天変地異の前触れか、王都民が集団催眠にでもかかったとしか思えない。
「当然ですわ!わたくしの生き様は、人々の心を揺さぶるアートそのものですもの!皆、わたくしの溢れ出るパッションに飢えていたのですわねっ!」
リウは高笑いし、絵筆を指揮棒のように振るった。
あたしは本を開いた。
一体、何が書いてあるというのか。一流のレディとして、流行には敏感でなくてはならない。もしこれが本当に名著ならば、あたしの目が節穴だったということになる。
あたしは数ページめくり、そして静かに本を閉じた。
「……リウ。これ、何語?」
「王都語ですわよ?」
「嘘おっしゃい!これを見てみなさい!」
あたしは適当なページを開いて指差した。
『今日はパンがおいしかった』
『色が弾ける』
『お姉さんの尻尾ハァハァ……毛並みの光沢が……』
「これのどこが自伝なのよ!ただの変態の妄想じゃない!」
内容は酷いものだった。
文法は崩壊し、主語と述語は家出し、唐突に挿入される意味不明なスケッチと、好みの獣人の尻尾についての熱烈なポエム。
文学的価値は皆無。情報の価値もゼロ。紙資源への冒涜と言ってもいい。
これを読んで「感動した」という人間がいるとしたら、そいつの脳味噌は絵の具で出来ているに違いない。
「おかしいわね……」
あたしの中の探偵としての勘が警鐘を鳴らした。
こんな産業廃棄物が、なぜ5位にランクインしているの?
あたしは立ち上がった。
「行ってくるわ。……この不可解な現象の裏に潜む、狂気を暴きにね」
あたしは王都中の主要な書店を回った。
結果は、予想通りであり……同時に、予想を遥かに超える異常なものだった。
どこの書店でも、『色彩の暴走』は売り切れていた。
だが、店員に話を聞くと、奇妙な答えが返ってきた。
「ああ、あの本ですか? ええ、入荷した瞬間に売れましたよ。……ただ、お客様は二人だけでしたが」
「二人?」
「はい。開店と同時に飛び込んできた、陰気な目をした男と、全身ピンク色の服を着た男が、在庫を半分ずつ買い占めていったんです。……殴り合いになりそうな勢いで」
あたしは頭痛を覚えた。
一般読者はゼロ。
ランキング5位の正体は、たった二人の人間による買い占め戦争の結果だったのだ。
あたしはその足で、二人の購入者の身元を特定した。
そして、それぞれの自宅――あるいは「魔窟」を――覗き見ることにした。
そこには、純粋なサイコ・ホラーが広がっていた。
一人目は、王都の北区に住む美術批評家、ガストンという男だった。
彼は以前、リウの絵画を「品性がない」と酷評し、リウ本人に「あんたの顔の方が品性がないわ」と一蹴された過去を持つ。それ以来、彼はリウを殺したいほど憎んでいる。
あたしは、彼の書斎の窓から中を覗いた。
「……わ」
部屋の中は、リウの自伝で埋め尽くされていた。
壁一面に、リウの自伝のページが切り取られて貼られている。そして、その全てに赤ペンでびっしりと書き込みがされていた。
ガストンは、机にかじりつくようにして、リウの本を読んでいた。
その目は血走り、爪を噛み、ブツブツと独り言を呟いている。
『……許さん。許さんぞリウ・ヴァンクロフト……!15ページ目、3行目。「パンがおいしかった」だと……?なぜここでパンなのだ? なぜライスではない?この唐突な炭水化物の提示……これは、我が国の食文化に対する挑発か? それとも、貧困問題への皮肉か……?』
ガストンは、リウが適当に描いたパンの染みを見つめ、髪を掻きむしった。
『この茶色の染み……わざと遠近法を無視している。これは古典派へのアンチテーゼだ! 彼女は、既存の美術体系を破壊しようとしているのだ! なんて傲慢な! なんて不遜な!
だが……この筆致の迷いのなさ……計算され尽くした狂気……。読めば読むほど不快だ……吐き気がする……!だが、読むのをやめられん! 貴様の思考回路を完全に解析し、矛盾点を洗い出し、いつか必ず論理的に抹殺してやる……!!』
彼は憎悪のあまり、リウの本を熟読し、暗記し、その哲学を理解しようと必死になっていた。
憎しみが行き過ぎて、もはや誰よりもリウに詳しい「リウ専門家」と化している。
彼はリウの適当な殴り書きから、存在しない「思想」を幻視し、それと戦い続けているのだ。
あたしは静かに窓から離れた。
あれに関わってはいけない。あれは、深淵だ。
二人目は、南区に住む謎の富豪、バロン・ロサ。
正体不明だが、資産だけは無限にあると言われる男。
あたしは彼の屋敷の窓から、中の様子を窺った。
「……わ」
思わずえずきそうになった。
部屋の中はピンク色だった。そして、壁も床も天井も、リウの自伝で埋め尽くされていた。
部屋の中央には祭壇があり、リウの盗撮写真と共に、自伝が祀られている。
ロサは、シルクのガウンを羽織り、リウの本を抱きしめてソファで悶えていた。
『ああ……リウ様……♡72ページ目、8行目。「色が……色が弾ける!」……なんて深遠なお言葉……。これは、宇宙を表していらっしゃるのですね……!日常の些細なインスピレーションを、神の領域へと昇華させていらっしゃる……!』
ロサは、リウがインクをぶちまけただけのページに頬ずりし、あろうことか舌で舐めた。
『このインクの味……少し苦い……。これがリウ様の苦悩の味なのですね……尊い……!この書き殴ったような文字の乱れ……「お姉さんの尻尾ハァハァ」……。ああ、これは暗号だ! 凡人には理解できない高次元の愛のメッセージだ!リウ様は、尻尾というメタファーを通して、種族を超えた愛の融合を説いていらっしゃるのだ!全てを知りたい……貴女が捨てた下書きの紙切れになりたい……貴女の筆洗いバケツの水になって飲み干されたい……愛しています……!』
彼は愛のあまり、リウの支離滅裂な文章を全て好意的に誤読し、神格化していた。
リウが鼻歌まじりに書いた「ハァハァ」という変態的な擬音すら、彼にとっては聖なる福音なのだ。
あたしは窓を閉めた。
あれもまた、深淵だ。しかも、粘着質の。
あたしは獣病院に戻ってきた。
リビングでは、リウがまだ上機嫌で自伝を眺めていた。
「おかえりなさい、ナラさん! どうでした? わたくしのファンの熱狂ぶりは!」
あたしはソファに沈み込み、深く、深く溜息をついた。
目の前の能天気な画家と、王都の南北で蠢く二人の狂人。
この三人が織りなす地獄絵図を理解しているのは、世界であたし一人だけだ。
「……ええ。わかったわ」
あたしは冷めた珈琲を啜った。
「あんたの本がベストセラーになったのはね……あんたを『殺したいほど憎む男』と『殺したいほど愛する変態』が、それぞれの情熱を暴走させて、在庫を買い占め合ってランキング争いをした結果よ。一般読者はゼロ。読んでいるのは、この二人の狂人だけ」
あたしは二人の写真をテーブルに投げ出した。
「一人は、あんたの描いたパンの染みから『社会への反逆』を読み取り、夜な夜なあんたへの呪詛を吐いている。もう一人は、あんたの書いた『尻尾ハァハァ』から『宇宙の真理』を読み取り、本のページを舐め回している。……どっちも、あんたの文章を一文字残らず暗記するほど熟読しているわ」
それを聞いたリウは、一瞬キョトンとした。
普通の人間なら、恐怖で震え上がるか、気持ち悪がるところだ。だが、リウ・ヴァンクロフトは普通ではなかった。
彼女は爽やかに、太陽のように笑ったのだ。
「ンンーッ! 素晴らしいですわ!」
「……はあ?」
あたしは耳を疑った。
「愛も憎悪も、突き詰めれば他者への強烈な関心!つまり、わたくしの芸術的魅力が、彼らの人生を狂わせるほど強大だったという証明ですわね!罪な女ですわ、わたくし!そこまで熱烈に求められるとは、アーティスト冥利に尽きますわーッ!」
リウは恍惚とした表情で、自らの自伝を胸に抱いた。
恐怖も嫌悪もない。あるのは、肥大化した自己愛と、狂気を養分にする芸術家の業だけ。
「……ポジティブね、あんた……」
「では、彼らの期待に応えねばなりませんわね!次は第二巻を書きますわよ!タイトルは『続・色彩の暴走』!より難解に!より官能的に!彼らの脳髄を刺激する新作アートを叩きつけて差し上げなくては!」
リウは既に新しいキャンバスに向かい始めていた。
その背中には、一切の迷いがない。
……あたしは頭を抱えた。
この変態画家は、二人のストーカーさえも「観客」として飲み込み、創作のエネルギーに変えてしまった。
狂っているのは、あの二人だけではない。
一番狂っているのは、この状況を楽しんでいるリウ自身かもしれない。
「……やめなさい。これ以上、王都の紙を無駄にするんじゃないわよ?」
あたしのツッコミは、リウの鼻歌にかき消された。
王都のランキングには、来週もまた、この世の終わりのような本がランクインするだろう。
そして、北と南の部屋で、二人の男が血走った目と恍惚の目で、それを買い占めるのだ。
あたしは決めた。
……とりあえず、今夜は強い酒を飲もう。




