第1話:英雄の代行!
●前作エラーラ・ヴェリタス「孤狼の挽歌」を読んでおくと良いかも。
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雨の匂いがした。
空は突き抜けるような青空だというのに、あたしの鼻腔の奥には、錆びついた鉄と、腐った果実の湿った臭いがこびりついて離れない。
あたしの「野生の勘」が、サイレンのように警鐘を鳴らしていた。
「素晴らしいデータだねぇ」
獣病院のリビングで、お母様――エラーラ・ヴェリタスは、差出人不明の手紙を片手に上機嫌だった。
白衣の裾を翻し、コーヒーを啜るその横顔は、新しい玩具を与えられた子供のように無邪気だ。
「見てごらん、ナラ。北の『聖域』から、極めて興味深い生体反応のデータが送られてきた。これは以前、私が蒔いた『種』が、素晴らしい進化を遂げたという報告に違いない!」
お母様は天才だ。この世界の理を数式で解き明かす「神の頭脳」を持っている。
……だけど、決定的に「悪意」への耐性がない。世の中には、数式では割り切れない腐りきったドブネズミがいることを知らない。
だから、あたしがいる。
ナラティブ・ヴェリタス。魔力なき前衛。この清らかな天才を守るための、最強の「牙」。
「……お母様。それ、誰から?」
「さあ? 署名はない。だが、この論理的な筆跡……きっと熱心な研究者だろう。今すぐ準備を……」
「待って。」
あたしは、お母様の手から手紙をひったくった。
インクの匂いじゃない。紙の繊維の奥から、吐き気を催すような「罠」の臭いがする。
隣国の過激派か? それとも、禁忌に手を染めたカルト教団か?
いずれにせよ、お母様の知識を狙うハイエナの仕業だ。
「……あたしが先に行くわ」
「ナラ? 心配性だねぇ。ただのフィールドワークだよ」
「いいから! お母様は家で『遠足の準備』でもしてなさい。現地の安全確認と、『害虫駆除』が終わったら呼ぶから」
あたしは鉄扇を掴んで飛び出した。
胸騒ぎが止まらない。
北の山奥。地図にない空白地帯。
そこには今、あたしたちが足を踏み入れてはいけない「何か」が口を開けて待っている。
・・・・・・・・・・
魔導バイクを飛ばして数時間。
獣道すら消えた原生林の奥深く。
その場所、「聖域」に足を踏み入れた瞬間、あたしは嘔吐感をこらえるのに必死になった。
「……なによ、これ」
そこは、森ではなかった。
地面も、岩肌も、樹木も、視界に入るすべてのものが、半透明の桃色の粘膜で覆われていた。
大地そのものが脈打っている。
空気はねっとりと重く、胃袋の中に放り込まれたような不快感。
「……誰かいるの?」
返事はない。鳥の声もしない。
あるのは、濡れた肉が擦れ合うような、湿った環境音だけ。
粘膜の中に、何かが埋まっているのが見えた。
あたしはしゃがみ込み、鉄扇の先端でそれを突く。
ズブ、と膜が裂け、中からとろりと溶け出したもの。
誰かの、警察手帳だった。銀色のバッジが、消化液で焼かれて黒ずんでいる。
その横には、黒いシャツの切れ端。
さらに奥には、無数の白い貝殻で作った首飾り。
「……胸糞悪い」
あたしは吐き捨てた。
これらは「遺品」だ。
ここには、人がいた。何人も。男も、女も。
それらが全員、この巨大な「胃袋」の中で溶かされ、消化され、この気色悪いピンク色の風景の一部にされたのだ。
カルト教団の人体実験か。それとも、禁術の暴走か。
どちらにせよ、こんな汚らしい場所に、お母様を一歩たりとも入れるわけにはいかない。
「出てきなさいよ! 隠れてないで!」
あたしの怒号に応えるように、粘膜の奥、巨大な洞窟の入り口から、ぺたり、ぺたりと素足の音が聞こえてきた。
現れたのは、一人の少女だった。
肉塊と骨で作られた祭壇のような場所に、ちょこんと座っていたその子は、あまりにも異質だった。
透き通るような銀髪。宝石のような青い瞳。褐色の肌。
その顔立ちは、あたしが写真で見たことのある、幼い頃のエラーラに瓜二つだった。
「……ッ!」
一瞬、息が止まった。
だが、すぐに激しい怒りが湧き上がった。
似せている。あえて、お母様の容姿を模倣している。
これは「整形」か? それとも「複製」か?
なんて悪趣味な冗談だ。お母様をおびき寄せるために、こんな泥人形を作ったのか。
「……あんた、どこの組織の回し者?」
あたしは殺気を隠さずに問う。
少女の背中からは、人間の腕や肋骨が複雑に絡み合った、歪な「翼」が生えていた。それが意思を持った触手のように、空気を掻いている。
少女は、無邪気な笑顔で首を傾げた。
「あれ?エラーラじゃない」
「お母様の名を気安く呼ぶな、偽物が」
「偽物じゃないよ。私はお姉ちゃんの最高傑作!」
少女は、自分の膨れ上がった腹部を愛おしそうに撫でた。
「ねえ見て。みんなここにいるよ。ここに来た男の人たちも、おばあちゃんも。みんな私のことが大好きで、私もみんなが大好きだったから……混ぜてあげたの!」
ぞわり、と肌が粟立つ。
少女の腹部の皮膚が半透明に透け、その中で、ドロドロに溶解しかけた男の顔が、苦悶の表情で浮かび上がっては沈んでいくのが見えた。
「バラバラだと寂しいでしょ? すぐ死んじゃうし。だからね、食べて、溶かして、ひとつにしたの。これで永遠に一緒だよ。痛みもないし、喧嘩もしない。これが『最適解』!」
狂っている。
言葉が通じない。こいつは人間の形をした、純粋な「廃棄物」だ。
「……あんた、誰にそんな狂った思想を吹き込まれたの」
あたしは、震える声を抑え込んで問う。
「『あの人』が教えてくれたの」
少女は恍惚とした表情で天を仰いだ。
「『世界はデータであり、感情はノイズだ』って。『最も効率的な形を目指せ』って。だから私は、この星で一番効率的な『愛』の形を実践したの!『あの人』の教えは絶対だよ!」
『あの人』。
やっぱりだ。背後に黒幕がいる。
どこぞの国のイカれた魔導科学者か、カルト教祖だろう。
こんなあどけない子供を洗脳して、人体改造を施し、殺戮兵器に仕立て上げたのだ。
反吐が出る。
「……ふざけるな」
あたしは地面を蹴った。
一瞬で距離を詰め、鉄扇を振るう。
問答無用。こんな化け物を、お母様の目に触れさせるわけにはいかない。
あたしの鉄扇が、少女の背中から伸びた「腕」に受け止められた。
「え?」
重い。岩のような重さだ。
さらに、別の「腕」が、鞭のようにしなり、死角からあたしの首を狙ってくる。
あたしはバックステップで回避する。
その動き。ただの触手攻撃じゃない。
洗練された体術。無駄のない軌道。
まるで、熟練の武闘家と戦っているようだ。
「すごいすごい!見て、これが『レン』の体術だよ! こっちの力は『ユウゴ』の筋肉!」
少女は、取り込んだ被害者たちの「戦闘技能」までも、自分のものとして使っていた。
犠牲者たちの魂を燃料にして、犠牲者たちの技で殺戮を行う。
「あんた……!食った人間を道具みたいに……!」
「道具じゃないよ、パーツだよ! 最適化された私の機能!」
少女の口から、ピンク色の粘液弾が吐き出される。
あたしは側転で避ける。粘液が着弾した岩が、ジュワワワと音を立てて溶解した。
あれに触れたら終わりだ。
「お姉ちゃん、遅いなぁ……」
少女は、あたしに攻撃を加えながらも、視線は入り口の方を向いていた。
「早くお姉ちゃんを食べたいな。大好きなお姉ちゃんを食べれば、私はお姉ちゃんの『頭脳』と一つになって、『完全な存在』になれるんだから!」
それが目的か。
お母様を呼んだのは、お母様という「パーツ」を取り込んで、自分が神になるため。
カルト教団の狙いは、最初からお母様の「頭脳」だったのだ。
「……上等じゃない!」
あたしは、鉄扇を構え直した。
恐怖は消えた。あるのは、冷え切った殺意だけ。
こいつは敵だ。
あたしの愛する家族を、あたしの世界を脅かす、駆除すべき害虫だ。
「お母様には、指一本触れさせない……!」
あたしは、思考を捨てた。
論理はいらない。計算もいらない。
必要なのは、喉笛を食い破る「牙」だけ。
あたしは正面から突っ込んだ。
「わあ! 食べごろ!」
少女が歓喜し、背中の無数の腕を槍のように突き出してくる。
全方位からの刺突。回避不可能。
だが、あたしは避けない。
鉄扇を開き、回転させながら、嵐の中心へと飛び込む。
襲い来る骨の槍を、最小限の動きで弾き、逸らし、砕く。
腕が裂ける。頬が切れる。血が舞う。
構わない。
肉を斬らせて、骨を断つ。
「え……?」
少女の笑顔が凍る。
あたしは、彼女の懐、ゼロ距離まで肉薄していた。
「食事の時間はおしまいよ!」
少女が、エラーラと同じ顔で、防衛本能から大口を開けた。
そこから溶解液のブレスを吐こうとする。
その口の中に。
あたしは、閉じた鉄扇を、全力で突き込んだ。
「あ……が……っ?」
硬質な鉄の塊が、少女の口腔を突き破り、後頭部へと貫通した。
溶解液が口の中で暴発する。
あたしは、突き刺したまま、鉄扇を一気に展開した。
少女の首が、内側から弾け飛び、切断された。
あたしは鉄扇を引き抜き、血を払った。
首を失った少女の体が、ぐらりと揺れ、崩れ落ちた。
地面に転がった生首が、まだ何かを呟いている。
体は少女の形を保てなくなり、黒いヘドロとなってドロドロと溶け出した。
その中から、消化されかけた男たちの骨や、遺品が吐き出される。
(……すごい。この人は、私を『物理的に分解』してくれた……)
(これもまた……データ還元の一つの形……)
(私は……『あの人』の教え通り……最後まで論理的でいられた……)
(褒めてくれるかな……お姉ちゃん……)
少女の生首は、自分が殺されたことすら「実験の成功」と解釈し、恍惚とした笑みを浮かべたまま、動かなくなった。
その笑顔は、あたしが見たどんな悪人よりも、おぞましく、そして哀れだった。
洗脳とは、ここまで人を壊すのか。
周囲の桃色の粘膜が、主を失って急速に腐敗し、乾燥して崩れていく。
聖域は死んだ。
残ったのは、ただの腐った肉の山と、静寂だけ。
あたしは、肩で息をしながら、空を見上げた。
空は青いのに、世界はこんなにも汚れている。
「……片付いたわよ、お母様」
あたしは一人、血塗れのドレススーツのまま、呟いた。
これでいい。
お母様は、こんな汚いものを見なくて済む。
あたしが全部、掃除したから。
こんなカルトの被害者は、あたしの記憶の中にだけ留めておけばいい。
遠くから、魔導車のエンジン音が聞こえてきた。
お母様が到着したのだ。
あたしは、いつものように胸を張って、出迎える準備をした。




