第2話:過程とは!
冬の風が、割れた窓から吹き込んでくる。
死屍累々の広間で、エラーラだけが生き残っていた。
彼女には毒が配られなかった。カラスにとって、論理で武装した彼女は「救いようのない異端」であり、救済する価値すらない存在だったからだ。
エラーラは、テオの遺体の前に跪いた。
まだ温かい。
だが、その表情は、全財産を奪われ、家族を破滅させ、命まで奪われた被害者の顔ではなかった。
「幸福」の絶頂で死んだ、勝者の顔だった。
エラーラの中で、何かが音を立てて砕け散った。
そして、別の何かが、冷たく、硬く、再構築されていった。
(……優しい人だった。誰よりも清らかで、愛に溢れた人だった)
(だから、死んだ)
(『主観』が、彼を殺した)
エラーラの瞳から、涙が溢れ出した。
だが、それは悲しみの涙ではない。
人間の「心」という機能に対する、絶望的なまでの幻滅と、怒りの涙だった。
この修羅場で、彼らを守るものは何だった?
金か? 否、すべてカラスに譲渡された。
愛か? 否、愛ゆえに家族全員を道連れにした。
神か? 否、そんなものは最初からいなかった。
足りなかったものは、たった二つ。
『学』
相手が詐欺師だと見抜く論理的思考。洗脳のテクニックを見破る心理学。毒の成分を知る化学。
カラスの言葉を「感動」ではなく「情報」として処理する、冷徹な客観性。
そして……
『武』
洗脳された彼らを、殴って気絶させてでも止める物理的な力。
あるいは、元凶であるカラスを、問答無用でその場で殺せる暴力。
それらがなければ、どんな善人も、どんな愛も、ただ悪意に食い尽くされる「餌」でしかない。
「私は……二度と、信じない」
エラーラは、家族の死体を見下ろして誓った。
「言葉も、心も、神も、愛も。そんな不確かな『主観』には頼らない。私が信じるのは……『観測できる事実』だけだ!」
彼女は、屋敷に火を放った。
「清貧」という名のゴミ溜めと化した屋敷が、紅蓮の炎に包まれる。
エラーラは一人、雪の中を歩き出した。
この日、泣き虫で心優しかった少女エラーラは死んだ。
・・・・・・・・・・
「……それが、私が『信仰』を持たず、財に執着せず、ただひたすらに『学』と『武』を求める理由だ」
現在の獣病院。
語り終えたエラーラは、すっかり冷めきった珈琲を飲み干した。
「感情で世界を見れば、人は見たいものしか見ない。見たいものしか見ない人間は、カラスのような『見せたいものを見せる捕食者』の格好の餌食だ。だから私は、心を捨てて、事実だけを見る『悪魔』になった」
ナラティブは、震えていた。
エラーラが「冷たい」「人の心がない」と陰口を叩かれる理由。
それは、感情を否定しているのではない。
かつて愛した家族が
【主観によって、あまりにも無残な自滅を遂げた】
……からこそ、「もう二度と、大切な人を主観の檻の中で死なせない」という、血を吐くような愛の裏返しだったのだ。
彼女の膨大な知識も、時折見せる容赦のない攻撃性も、すべては「家族を守るため」の武装だった。
ナラティブは立ち上がり、エラーラの背中を強く抱きしめた。
「……分かったわ、お母様」
ナラティブの瞳に、新たな決意の火が宿る。
涙を流しながら、しかし声は力強かった。
「お母様は、そのままでいい。世界の全てを『客観』で冷たく見下ろしていて。真実を見失わないで」
ナラティブは、自らの鉄扇を強く握りしめた。
「その代わり……私が、お母様の『武力』になる。理屈じゃどうしようもない暴力や、言葉の通じない悪意が来たら、私が全部、叩き潰す。カラスみたいな奴がまた現れたら、お母様が分析する前に、私が頭をカチ割ってやるわ。お母様の知識を守るための、最強の牙になる」
「……フム」
エラーラは、少しだけ眼鏡の位置を直し、照れ隠しのように顔を背けた。
その目元が、わずかに潤んでいることを、ナラティブは見逃さなかった。
「……頼りにしているよ、ナラ」
かつて無力だった少女は今、最強の「学」を持ち、最強の「武」を隣に置いた。
ヴェリタスの悲劇は繰り返さない。
二人は、本当の意味での「家族」となったのだ。
ナラティブは涙を拭い、晴れやかな笑顔で言った。
「私、よーく分かったわ、お母様!『学』がなければ『財』も『武』も守れない。だからこそ、まずは『形』から入るのが最適解よね!」
「……ほう? 感心だな。具体的には?」
「これよ!」
ナラティブは、懐から一枚のカラフルなチラシを取り出し、テーブルにバンッ!と叩きつけた。
『超魔導国際グローバル大学!試験なし!授業なし!入学金だけで最短3日で学位授与!』
そこには、胡散臭い笑顔の学長の写真と、見るからに詐欺まがいの文言が躍っていた。
右下には、「今なら入学金30%オフ!」の文字。
「これよ! お母様!私が今までコツコツ貯めたお小遣い全額を振り込めば、私も『賢者』のライセンスが手に入るの!これなら、知識ゼロの私でも、お母様と肩を並べて戦えるでしょ!?」
ナラティブは目をキラキラさせて同意を求めた。
彼女は本気だった。
エラーラの話を「学があれば騙されない」ではなく、「金を払って『肩書き』を買えば強くなれる」と、脳筋理論で逆転解釈したのだ。
中身のない紙切れ一枚に、何の価値もないことも理解せずに。
それはまさに、テオがカラスに「救済」という名の実体のない言葉を買わされたのと、同じ構図だった。
エラーラの目から、先ほどの涙の湿り気が、瞬時に蒸発した。
代わりに宿ったのは、絶対零度の虚無。
そして、殺意。
「……ナラ」
説明はなかった。
エラーラの指先から放たれた極大の魔力弾が、ナラティブの心臓部分を正確に貫通し、胸に風穴を開けた。
「…………?」
ナラティブは、自分の胸に空いた穴を見下ろし、訳が分からないまま、ドサリと倒れた。
即死である。
数秒後。
蘇生魔術の光が収まると、ナラティブは床の上で、ヒックヒックと引きつけを起こしながら息を吹き返した。
「ッ!?は、ひぃっ……!し、死……死んだ……!」
恐怖で震えるナラティブを、エラーラは冷徹に見下ろしていた。
その手には、先ほどのチラシが握られている。エラーラはそれを青い炎で焼き尽くしながら、氷のような声で言った。
「いいか、愚か者。よく聞け」
「は、はいぃッ!!」
「金で買える『学』などただの『領収書』だ!中身のない権威!実体のない肩書き!それはカラスがヴェリタス家に売りつけた『救済』と同じ、破滅への切符だ!お前は今、自ら進んで『カモ』になろうとしたのだぞ!」
エラーラは、ナラティブの顔を両手で挟み、至近距離で睨みつけた。
その瞳の奥には、トラウマを刺激された本気の怒りがあった。
「お前が買うべきは、紙切れではない。その足りない脳みそに叩き込む、本物の経験と知識だ、【『学』とは過程】だ。……けして、金で買うものではない。時間をかけて、苦痛を伴って、自らの血肉にするものだ。……次、こんな詐欺案件を持ってきたら、蘇生はしない。」
「も、申し訳ございませんでしたぁぁぁ!!」
ナラティブは土下座した。額を床に擦り付け、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら謝罪した。
感動的な過去話も、決意の抱擁も、すべて吹き飛んだ。
残ったのは、「お母様は『学』を冒涜すると本当に殺す」という、身に染みた教訓だけだった。
「……フン。まったく」
エラーラは呆れて溜息をつき、新しい珈琲を淹れ直すためにキッチンへと向かった。
「やはり、お前の教育には、まだまだ時間がかかりそうだ。……まずは……そのチラシの『論理的破綻』を見つけるところから始めろ。提出期限は明日だ」
「は、はい……精進します……!」
悲劇は、二度と繰り返さない。
ナラティブ・ヴェリタスの受難と学習の日々は、まだまだ終わる気配がないのであった。




