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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
破滅した実家
187/193

第1話:学とは!

●先に始まりの日:「探求者誕生!」を読むよろし

https://ncode.syosetu.com/n8833lb/137/

激しい雨が、獣病院の窓を叩いていた。

その音は、まるで過去からの亡霊が扉を叩く音のようにも聞こえた。

リビングのテーブルには、莫大な金額が記された請求書と、古びた一冊の魔導書が置かれている。

この魔導書一冊のために、エラーラ・ヴェリタスは今月の生活費どころか、病院の修繕費まで使い込んでいた。


「お母様……。正気?」


ナラティブ・ヴェリタスは、請求書の桁数を見て震えていた。

彼女の愛用する鉄扇の手入れも忘れ、信じられないものを見る目で、ソファで優雅に珈琲を啜る主人を見つめる。


「これ、希少本だかなんだか知らないけど……ただの紙の束よ?これがあれば美味しいお肉が一年分買えたじゃない!」


ナラティブの悲鳴に近い抗議。しかし、エラーラはカップを置き、静かに眼鏡の位置を直しただけだった。


「ナラ?お前は『価値』の換算式を間違えている」


「間違えてるのはお母様の金銭感覚よ!学者だからって!いい?『財』がなければご飯は食べられないの。ご飯がなければ死ぬの。学問なんて、お腹がいっぱいになってからやる道楽でしょ?」


ナラの言葉は、健全な正論だった。

だが、エラーラはその瞳を細め、冷たく、しかしどこか哀れむようにナラを見据えた。


「……道楽、か。」


エラーラは立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。


「違うな、ナラ。『財』は『学』を作らないが、『学』は『財』を作る。金貨は積み上げてもただの階段にしかならないが、知識は翼になる。そして何よりだ……」


エラーラの声が、一段低くなった。


「最後の修羅場で、己の命と尊厳を守るのは、金ではない。『知性』と、それを執行する『暴力』だけだ」


その言葉には、単なる説教以上の、血の匂いが混じっていた。

ナラティブは息を呑む。普段の偏屈な科学者としての顔ではない。その横顔に、底知れぬ深淵が口を開けているのを見たからだ。


「……座りなさい、ナラ。少し長くなるが……私がなぜ金に執着せず、信仰を持たず、ただひたすらに『事実』だけを求める悪魔になったのか。その話をしよう」


それは、エラーラ・ヴェリタスという人格が形成された、地獄の記憶だった。


・・・・・・・・・・


十年前。クライン王国。

まだ「賢者」などという名声もなく、ただの薄汚れた孤児だったエラーラは、スラムのゴミ捨て場で死にかけていた。

そんな彼女を拾い上げたのは、一台の豪奢な馬車だった。

降りてきたのは、初老の紳士。

テオ・ヴェリタス。

魔導の名門として知られるヴェリタス家の当主であり、王都でも有名な慈善家だった。


「可哀想に。こんなに痩せて……。おいで、今日から君は私の娘だ」


テオは、薄汚れたエラーラを抱きしめた。高級な服が汚れることも厭わず、その目には涙さえ浮かんでいた。

彼は「良心」の人だった。

エラーラが持つ異常な演算能力と魔力の片鱗を一目で見抜き、スラムで朽ち果てるには惜しい才能だと、養子に迎えたのだ。

ヴェリタス家の屋敷は、天国のようだった。

ふかふかのベッド。温かいスープ。美しい衣服。

屋敷には、テオの他に、美しい妻と、二人の実子がいた。

彼らは血の繋がらない、しかもスラム上がりのエラーラを差別することなく、家族として迎え入れた。


「エラーラ、今日学校で何を習ったの?」


「エラーラ、このドレス、あなたに似合うわ」


優しく、清らかで、愛に満ちた家族。

だが、9歳のエラーラは、常に胸の奥で小さな警鐘が鳴り響くのを感じていた。


(……この家は、脆い)


彼らは、あまりにも「主観的」だった。

テオは言う。「可哀想な人を助ければ、世界は良くなる」。

妻は言う。「神を信じれば、魂は救われる」。

子供たちは言う。「パパとママの言う通りにしていれば、間違いはない」。

彼らは、根拠のない「綺麗な物語」で世界を認識していた。

自分たちが富んでいるのは、神に愛されているから。

自分たちが幸せなのは、善行を積んでいるから。

だから、世界は自分たちを害さないはずだ。

対してエラーラは、スラムの汚泥の中で学んでいた。


「無から有は生まれない。奪わなければ奪われる。世界に慈悲などという機能は実装されていない」


彼女だけが、この幸福な家庭の危うさを、冷徹な「客観」で観測していた。

そして、その予感は、ある冬の日に現実となった。

屋敷に一人の男が招かれた。

カラスと名乗る、放浪の宗教家。

僧衣は継ぎ接ぎだらけで、足は裸足。しかし、その瞳には奇妙な熱が宿り、言葉には蜂蜜のような甘さがあった。

カラスは、テオの「弱点」を正確に射抜いた。


「ヴェリタス卿。あなたは素晴らしい方だ。多くの孤児を救い、寄付をしている。……ですが、あなたの心には、常に『晴れない霧』があるのではありませんか?」


テオは驚いた。


「なぜ、それを……」


「それは、あなたが『所有』という罪を犯しているからです」


カラスは静かに語った。


「外には、飢えている者がいる。凍えている者がいる。なのに、なぜあなただけが、こんな暖かな暖炉の前で、柔らかい肉を食べているのですか?その『格差』こそが、あなたの魂を重く縛り付けている鎖なのです」


それは、貴族が抱える根源的な「罪悪感」をえぐる言葉だった。

善人であるテオにとって、自分の幸福は、他者からの搾取の上に成り立っているという事実は、耐え難い矛盾だったのだ。

カラスは続けた。


「捨てなさい。財産を、地位を、執着を。すべてを手放し、無一文になった時……あなたは真に『清らかな魂』となり、神の隣に座ることを許されるでしょう」


テオは泣いた。

妻も、子供たちも、カラスの言葉に感動し、涙を流した。


「ああ、私たちは間違っていた。所有することが罪だったのだ」


エラーラだけが、戦慄していた。


(違う。これは、論理のすり替えだ!)


「所有」が悪なのではない。「分配の不均衡」が問題なのだ。

それを解決するには、感情的な放棄ではなく、システムによる再分配が必要だ。

カラスの言っていることは、経済学も社会学も無視した、ただの「略奪の方便」に過ぎない。

エラーラは叫んだ。


「義父上!騙されないで!この男は詐欺師です!『捨てる』と言わせて、自分の懐に入れるつもりよ!」


だが、テオは悲しげに首を振った。


「ああ、エラーラ。可哀想な子。お前は賢いが……『心』がないのだね」


テオは、エラーラの頭を撫でた。


「目に見える数字や理屈ばかり追って、大切な真実が見えていない。神の愛は、計算式では解けないんだよ」


テオは、自分を助けてくれた「知性」で、エラーラを否定した。

主観という檻に閉じこもった人間には、客観的な事実は「ノイズ」として処理される。

エラーラは「悪魔に心を食われた子」として、地下の書庫に監禁された。

そこからの崩壊は、静かに、しかし凄惨に進んだ。

鉄格子の隙間から、エラーラは観測し続けた。

屋敷から、まず高価な絵画や調度品が消えた。

次に、絨毯やカーテンが消えた。

カラスは、「私が代わりに処分して差し上げましょう」と言って、すべてを持ち去った。

食事が変わった。

肉や野菜は「贅沢という罪」とされ、カビの生えたパン屑や、カラスの食べ残しだけが「神の恵み」として与えられた。

テオたちは、それを涙を流して感謝し、分け合って食べた。


「美味しい……。これが、清貧の味なんだね」


「感謝します、カラス様……」


風呂に入ることが禁じられた。


「肉体を磨くことは、魂を汚すことだ」という教義のもと、彼らは垢にまみれ、体臭を放つようになった。服はボロボロになり、肌は荒れ、目は落ち窪んだ。だが、彼らの目は、異様なほど輝いていた。

「幸福」だったのだ。

自分たちは選ばれた。自分たちは修行をしている。自分たちは、日に日に神に近づいている。

その「物語」の中にいる限り、現実の飢えや寒さは、すべて「試練」という名の快楽に変換された。

ある日、テオの妻が広間に呼ばれた。


「奥方。あなたのその美しい髪、そして整った顔立ち。それもまた、現世への執着です。捨てられますか?」


妻は微笑んだ。


「はい。喜んで」


彼女は、暖炉で焼いた鉄の火箸を手に取り、躊躇なく自分の顔に押し当てた。

ジュッ、という肉の焦げる音と、鼻をつく異臭。

だが、妻は悲鳴を上げなかった。


「ありがとうございます……! これで私は、ただの魂になれました」


爛れた顔で、彼女はカラスに感謝した。

子供たちは、「未来への執着を捨てる」と言って、通っていた学校を辞め、教科書を焼き、ピアノを弾くための指を自ら石で砕いた。


「もう、迷いません。私たちはカラス様に従います」


カラスは、手を下さない。暴力も振るわない。

ただ、優しく「捨てろ」と囁くだけ。

ヴェリタス一家は、競うようにして人間としての尊厳を捨て、財産を捨て、自分を壊していった。

それが「善行」だと信じて。

地下室のエラーラは、声を枯らして叫び続けた。


「やめて! お願いだから! 目を覚まして!」


だが、その声は届かない。

彼らはもう、同じ世界に住んでいなかった。

そして、冬の終わり。

ヴェリタス家の全財産の名義が、法的にカラスに移された日。

最後の儀式が行われた。

ガランとした、冷え切った屋敷の広間。

骨と皮だけになり、膿と垢にまみれたテオたちが、床に正座していた。

カラスは、荷物をまとめて出て行こうとしていた。


「よく頑張りました、ヴェリタス卿。あなたたちは完成した」


テオが縋りつく。


「カラス様! 私たちを置いていかれるのですか! 私たちはどうすれば!」


カラスは、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、最後の宣告をした。


「もう、あなたたちを縛るものは何もありません。ただ一つ……『肉体』という最後の檻を除いては」


テオたちは、ハッとした。


「肉体……。そうか、これが最後の壁だったのか」


カラスは、テーブルに一本のワインと、四つのグラスを残した。


「この聖酒を飲めば、あなたたちは肉の檻から解放され、永遠の楽園へ行けるでしょう。……さようなら。良き魂たちよ」


カラスは出て行った。

残されたのは、毒入りのワインと、狂信に満ちた家族。

地下室の鍵は、すでに壊れかけていた。

エラーラは魔力で扉をこじ開け、広間へと走った。

階段を駆け上がり、扉を開ける。


「やめてッ!!」


だが、遅かった。

テオは、震える手でグラスを持ち上げ、爛れた顔の妻と、指の潰れた子供たちに配り終えていた。

エラーラが飛び込むと、テオは振り返った。

その顔は、極限の飢餓状態にあるはずなのに、今まで見たこともないほど穏やかで、満ち足りていた。


「ああ、エラーラ。可哀想な子」


テオは、愛おしげにエラーラを見た。


「お前にはまだ、神の声が聞こえないんだね。私たちは、捨てられるんじゃない。……選ばれたんだ」


テオは、妻と子供たちと乾杯した。


「ありがとう。愛しているよ」


「幸せね。やっと、本当の自由になれるのね」


「パパ、ママ、ありがとう。一緒だね」


彼らは、一斉にワインを煽った。

数秒後。

強烈な神経毒が回った。

彼らは喉をかきむしり、床に転がり、血を吐き、激痛にのたうち回った。

内臓が溶けるような苦しみのはずだ。

だのに。


「……あ……ひかり……が……」


「……うれ……しい……」


彼らは、泡を吹きながらも、恍惚とした笑顔のまま、動かなくなった。

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