第1話:学とは!
●先に始まりの日:「探求者誕生!」を読むよろし
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激しい雨が、獣病院の窓を叩いていた。
その音は、まるで過去からの亡霊が扉を叩く音のようにも聞こえた。
リビングのテーブルには、莫大な金額が記された請求書と、古びた一冊の魔導書が置かれている。
この魔導書一冊のために、エラーラ・ヴェリタスは今月の生活費どころか、病院の修繕費まで使い込んでいた。
「お母様……。正気?」
ナラティブ・ヴェリタスは、請求書の桁数を見て震えていた。
彼女の愛用する鉄扇の手入れも忘れ、信じられないものを見る目で、ソファで優雅に珈琲を啜る主人を見つめる。
「これ、希少本だかなんだか知らないけど……ただの紙の束よ?これがあれば美味しいお肉が一年分買えたじゃない!」
ナラティブの悲鳴に近い抗議。しかし、エラーラはカップを置き、静かに眼鏡の位置を直しただけだった。
「ナラ?お前は『価値』の換算式を間違えている」
「間違えてるのはお母様の金銭感覚よ!学者だからって!いい?『財』がなければご飯は食べられないの。ご飯がなければ死ぬの。学問なんて、お腹がいっぱいになってからやる道楽でしょ?」
ナラの言葉は、健全な正論だった。
だが、エラーラはその瞳を細め、冷たく、しかしどこか哀れむようにナラを見据えた。
「……道楽、か。」
エラーラは立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。
「違うな、ナラ。『財』は『学』を作らないが、『学』は『財』を作る。金貨は積み上げてもただの階段にしかならないが、知識は翼になる。そして何よりだ……」
エラーラの声が、一段低くなった。
「最後の修羅場で、己の命と尊厳を守るのは、金ではない。『知性』と、それを執行する『暴力』だけだ」
その言葉には、単なる説教以上の、血の匂いが混じっていた。
ナラティブは息を呑む。普段の偏屈な科学者としての顔ではない。その横顔に、底知れぬ深淵が口を開けているのを見たからだ。
「……座りなさい、ナラ。少し長くなるが……私がなぜ金に執着せず、信仰を持たず、ただひたすらに『事実』だけを求める悪魔になったのか。その話をしよう」
それは、エラーラ・ヴェリタスという人格が形成された、地獄の記憶だった。
・・・・・・・・・・
十年前。クライン王国。
まだ「賢者」などという名声もなく、ただの薄汚れた孤児だったエラーラは、スラムのゴミ捨て場で死にかけていた。
そんな彼女を拾い上げたのは、一台の豪奢な馬車だった。
降りてきたのは、初老の紳士。
テオ・ヴェリタス。
魔導の名門として知られるヴェリタス家の当主であり、王都でも有名な慈善家だった。
「可哀想に。こんなに痩せて……。おいで、今日から君は私の娘だ」
テオは、薄汚れたエラーラを抱きしめた。高級な服が汚れることも厭わず、その目には涙さえ浮かんでいた。
彼は「良心」の人だった。
エラーラが持つ異常な演算能力と魔力の片鱗を一目で見抜き、スラムで朽ち果てるには惜しい才能だと、養子に迎えたのだ。
ヴェリタス家の屋敷は、天国のようだった。
ふかふかのベッド。温かいスープ。美しい衣服。
屋敷には、テオの他に、美しい妻と、二人の実子がいた。
彼らは血の繋がらない、しかもスラム上がりのエラーラを差別することなく、家族として迎え入れた。
「エラーラ、今日学校で何を習ったの?」
「エラーラ、このドレス、あなたに似合うわ」
優しく、清らかで、愛に満ちた家族。
だが、9歳のエラーラは、常に胸の奥で小さな警鐘が鳴り響くのを感じていた。
(……この家は、脆い)
彼らは、あまりにも「主観的」だった。
テオは言う。「可哀想な人を助ければ、世界は良くなる」。
妻は言う。「神を信じれば、魂は救われる」。
子供たちは言う。「パパとママの言う通りにしていれば、間違いはない」。
彼らは、根拠のない「綺麗な物語」で世界を認識していた。
自分たちが富んでいるのは、神に愛されているから。
自分たちが幸せなのは、善行を積んでいるから。
だから、世界は自分たちを害さないはずだ。
対してエラーラは、スラムの汚泥の中で学んでいた。
「無から有は生まれない。奪わなければ奪われる。世界に慈悲などという機能は実装されていない」
彼女だけが、この幸福な家庭の危うさを、冷徹な「客観」で観測していた。
そして、その予感は、ある冬の日に現実となった。
屋敷に一人の男が招かれた。
カラスと名乗る、放浪の宗教家。
僧衣は継ぎ接ぎだらけで、足は裸足。しかし、その瞳には奇妙な熱が宿り、言葉には蜂蜜のような甘さがあった。
カラスは、テオの「弱点」を正確に射抜いた。
「ヴェリタス卿。あなたは素晴らしい方だ。多くの孤児を救い、寄付をしている。……ですが、あなたの心には、常に『晴れない霧』があるのではありませんか?」
テオは驚いた。
「なぜ、それを……」
「それは、あなたが『所有』という罪を犯しているからです」
カラスは静かに語った。
「外には、飢えている者がいる。凍えている者がいる。なのに、なぜあなただけが、こんな暖かな暖炉の前で、柔らかい肉を食べているのですか?その『格差』こそが、あなたの魂を重く縛り付けている鎖なのです」
それは、貴族が抱える根源的な「罪悪感」をえぐる言葉だった。
善人であるテオにとって、自分の幸福は、他者からの搾取の上に成り立っているという事実は、耐え難い矛盾だったのだ。
カラスは続けた。
「捨てなさい。財産を、地位を、執着を。すべてを手放し、無一文になった時……あなたは真に『清らかな魂』となり、神の隣に座ることを許されるでしょう」
テオは泣いた。
妻も、子供たちも、カラスの言葉に感動し、涙を流した。
「ああ、私たちは間違っていた。所有することが罪だったのだ」
エラーラだけが、戦慄していた。
(違う。これは、論理のすり替えだ!)
「所有」が悪なのではない。「分配の不均衡」が問題なのだ。
それを解決するには、感情的な放棄ではなく、システムによる再分配が必要だ。
カラスの言っていることは、経済学も社会学も無視した、ただの「略奪の方便」に過ぎない。
エラーラは叫んだ。
「義父上!騙されないで!この男は詐欺師です!『捨てる』と言わせて、自分の懐に入れるつもりよ!」
だが、テオは悲しげに首を振った。
「ああ、エラーラ。可哀想な子。お前は賢いが……『心』がないのだね」
テオは、エラーラの頭を撫でた。
「目に見える数字や理屈ばかり追って、大切な真実が見えていない。神の愛は、計算式では解けないんだよ」
テオは、自分を助けてくれた「知性」で、エラーラを否定した。
主観という檻に閉じこもった人間には、客観的な事実は「ノイズ」として処理される。
エラーラは「悪魔に心を食われた子」として、地下の書庫に監禁された。
そこからの崩壊は、静かに、しかし凄惨に進んだ。
鉄格子の隙間から、エラーラは観測し続けた。
屋敷から、まず高価な絵画や調度品が消えた。
次に、絨毯やカーテンが消えた。
カラスは、「私が代わりに処分して差し上げましょう」と言って、すべてを持ち去った。
食事が変わった。
肉や野菜は「贅沢という罪」とされ、カビの生えたパン屑や、カラスの食べ残しだけが「神の恵み」として与えられた。
テオたちは、それを涙を流して感謝し、分け合って食べた。
「美味しい……。これが、清貧の味なんだね」
「感謝します、カラス様……」
風呂に入ることが禁じられた。
「肉体を磨くことは、魂を汚すことだ」という教義のもと、彼らは垢にまみれ、体臭を放つようになった。服はボロボロになり、肌は荒れ、目は落ち窪んだ。だが、彼らの目は、異様なほど輝いていた。
「幸福」だったのだ。
自分たちは選ばれた。自分たちは修行をしている。自分たちは、日に日に神に近づいている。
その「物語」の中にいる限り、現実の飢えや寒さは、すべて「試練」という名の快楽に変換された。
ある日、テオの妻が広間に呼ばれた。
「奥方。あなたのその美しい髪、そして整った顔立ち。それもまた、現世への執着です。捨てられますか?」
妻は微笑んだ。
「はい。喜んで」
彼女は、暖炉で焼いた鉄の火箸を手に取り、躊躇なく自分の顔に押し当てた。
ジュッ、という肉の焦げる音と、鼻をつく異臭。
だが、妻は悲鳴を上げなかった。
「ありがとうございます……! これで私は、ただの魂になれました」
爛れた顔で、彼女はカラスに感謝した。
子供たちは、「未来への執着を捨てる」と言って、通っていた学校を辞め、教科書を焼き、ピアノを弾くための指を自ら石で砕いた。
「もう、迷いません。私たちはカラス様に従います」
カラスは、手を下さない。暴力も振るわない。
ただ、優しく「捨てろ」と囁くだけ。
ヴェリタス一家は、競うようにして人間としての尊厳を捨て、財産を捨て、自分を壊していった。
それが「善行」だと信じて。
地下室のエラーラは、声を枯らして叫び続けた。
「やめて! お願いだから! 目を覚まして!」
だが、その声は届かない。
彼らはもう、同じ世界に住んでいなかった。
そして、冬の終わり。
ヴェリタス家の全財産の名義が、法的にカラスに移された日。
最後の儀式が行われた。
ガランとした、冷え切った屋敷の広間。
骨と皮だけになり、膿と垢にまみれたテオたちが、床に正座していた。
カラスは、荷物をまとめて出て行こうとしていた。
「よく頑張りました、ヴェリタス卿。あなたたちは完成した」
テオが縋りつく。
「カラス様! 私たちを置いていかれるのですか! 私たちはどうすれば!」
カラスは、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、最後の宣告をした。
「もう、あなたたちを縛るものは何もありません。ただ一つ……『肉体』という最後の檻を除いては」
テオたちは、ハッとした。
「肉体……。そうか、これが最後の壁だったのか」
カラスは、テーブルに一本のワインと、四つのグラスを残した。
「この聖酒を飲めば、あなたたちは肉の檻から解放され、永遠の楽園へ行けるでしょう。……さようなら。良き魂たちよ」
カラスは出て行った。
残されたのは、毒入りのワインと、狂信に満ちた家族。
地下室の鍵は、すでに壊れかけていた。
エラーラは魔力で扉をこじ開け、広間へと走った。
階段を駆け上がり、扉を開ける。
「やめてッ!!」
だが、遅かった。
テオは、震える手でグラスを持ち上げ、爛れた顔の妻と、指の潰れた子供たちに配り終えていた。
エラーラが飛び込むと、テオは振り返った。
その顔は、極限の飢餓状態にあるはずなのに、今まで見たこともないほど穏やかで、満ち足りていた。
「ああ、エラーラ。可哀想な子」
テオは、愛おしげにエラーラを見た。
「お前にはまだ、神の声が聞こえないんだね。私たちは、捨てられるんじゃない。……選ばれたんだ」
テオは、妻と子供たちと乾杯した。
「ありがとう。愛しているよ」
「幸せね。やっと、本当の自由になれるのね」
「パパ、ママ、ありがとう。一緒だね」
彼らは、一斉にワインを煽った。
数秒後。
強烈な神経毒が回った。
彼らは喉をかきむしり、床に転がり、血を吐き、激痛にのたうち回った。
内臓が溶けるような苦しみのはずだ。
だのに。
「……あ……ひかり……が……」
「……うれ……しい……」
彼らは、泡を吹きながらも、恍惚とした笑顔のまま、動かなくなった。




