第1話:親を脅して稼ぐ者!
午前七時。王都。高級住宅街の一角。
豪奢な大理石のテーブルに、トーストと、サラダと、そして、冷え切った沈黙が並んでいる。
カラスの獣人であるアスカ(17歳)は、向かいに座る父親を見据えた。
「ねえパパ。小遣い。追加。50,000クレスト。」
新聞を読んでいた父親の手が止まる。眉間に皺が寄り、露骨な不快感が漂う。
「……先週渡したばかりだろう。何に使うんだ」
「参考書よ。受験生だもの」
「嘘つけ。この前買った参考書、帯すら外されていないじゃないか」
父親は正論を吐く。だが、アスカにとって正論など、道端の石ころほどの価値もない。彼女は漆黒の翼をわざとらしく広げ、椅子の背もたれに掛けられた短いスカートの裾を直した。
「くれないんだあ。はいはい。わかった。もうわかった。じゃあもういい。」
アスカはトーストを皿に放り投げ、立ち上がった。
「駅前の裏路地に知り合いがいるの。カラスの獣人の女子高生って、『高く売れる』らしいから。『部長の娘が、路地裏で体を売ってた』なんて噂が流れても、パパはぜーんぜん気にしないもんね?」
キッチンで母親が皿を取り落とす音がした。
父親の顔色が、怒りから蒼白へと変わる。彼が恐れているのは、娘の貞操ではない。自身の社会的地位と、「世間体」という名の薄っぺらな鎧に傷がつくことだけだ。
「……ま、待ちなさい」
父親は震える手で財布を取り出し、新札の万札を5枚、テーブルの上に叩きつけた。
「……さっさと行け。近所の目がある。変な場所をうろつくな」
アスカは、その金を無造作に鷲掴みにし、スカートのポケットにねじ込んだ。
「ありがとうパパ。安心して、ちゃああんと『勉強』してくるから!」
アスカは口元だけで笑い、家を出た。
これは教育費ではない。
娘が売春婦というレッテルを貼られないための「手切れ金」であり、親が「自分は教育熱心な親である」という幻想を守るための「維持費」だ。
この家には、愛も教育もない。あるのは、金による「平和条約」だけだった。
放課後。アスカが向かったのは、駅ビルの中にある個別指導塾『アカデミア・フォレスト』だった。
「全員合格」
「夢を叶える場所」
極彩色で書かれたポスターが虚しく踊るこの塾は、実態としては「月謝さえ払えば誰でも入れる」豚小屋だ。
「ぃーす。アスカちゃん、早いにー。」
個室ブースのカーテンを開けて入ってきたのは、担当講師のカガミだ。
30代半ば。デブでブサイクで死んだ魚のような目をした非正規雇用のアルバイト講師。彼はかつて教員を目指していたらしいが、今はただ、時間を切り売りして生きている。
「……カガせん、今日どうする?」
アスカは鞄を放り出し、椅子に深く沈み込んだ。
「朝から親父と交渉して疲れたの。5万ゲットしたけど」
カガミは、アスカのポケットからはみ出した万札を一瞥し、興味なさそうにテキストを開いたフリをした。
「そんりゃー重労働だったなぁ。……りょかりょか。俺も昨日のゲームで寝不足なんよ」
カガミは、ブースの入り口が死角になるように座り直し、魔導端末を取り出した。
アスカは机に突っ伏し、自らの大きな黒い翼を毛布代わりにして、顔を覆った。
「90分後に起こして。……あーこれ、口止め料」
アスカは万札の中から千円札を一枚抜き取り、カガミに渡した。
「高いコーヒーでも飲んでよ」
「……わっりーね。助かるよ」
カガミは罪悪感のかけらもなく受け取った。
彼にとって、アスカは最高の生徒だ。
質問をしてこない。手がかからない。そして、座っているだけで時給が発生する。
真面目に教えて成績が上がらないと詰められるより、こうして「勉強しているフリ」をして、親に「順調です」と報告する方が、全員が幸せになれる。
アスカは目を閉じた。
空調の効いたブース。静寂。親の小言も、世間の目も届かない、完璧なシェルター。
(私は賢い。大人たちを手のひらで転がして、金を巻き上げ、好きなだけ寝ていられる)
そんな浅はかな優越感に浸りながら、彼女は泥のような眠りに落ちていった。
休憩時間。アスカは気晴らしに外へ出た。
塾の前の大通りは、帰宅ラッシュで混雑している。
ふと、人だかりができているのが見えた。高級な魔導車の列が、アカデミーの方角から滑るように走ってくる。
「おい見ろよ、あれ……『ヴェリタスの神童』だぞ」
「まだ12歳だって?信じられない」
通行人たちの噂話に、アスカは足を止めた。
黒塗りのリムジンが信号待ちで止まる。後部座席の窓が、少しだけ開いていた。
そこに、彼女はいた。
エラーラ・ヴェリタス。
スラム出身の孤児でありながら、その異常な頭脳ひとつで飛び級を繰り返し、10歳で初等部を卒業、現在は12歳にして王都アカデミーの高等研究院に籍を置く、生ける伝説。
まだあどけなさの残る少女だが、その瞳は、アスカが見たこともないほど冷たく、澄んでいた。
アスカは、無意識に息を飲んだ。
自分より5歳も年下。スラム上がり。
なのに、彼女が纏っている空気は、アスカが親から巻き上げたブランド服や、小手先の悪知恵とは次元の違う「本物」の輝きを放っていた。
(……なにあの子)
アスカの中に、ドス黒い嫉妬と、形容しがたい敗北感が渦巻いた。
彼女は、自分が「賢い」と思っていた。親を騙し、講師を買収し、楽をして生きている自分が、世の中を上手く渡っている「勝者」だと思っていた。
だが、あの少女の前では、自分の「賢さ」など、ゴミ箱漁りのカラスの悪知恵に過ぎないと思い知らされる。
エラーラの視線が、ふと窓の外に向けられた。
アスカと目が合った――いや、違った。
エラーラの青い瞳は、アスカを通り抜け、その背後にある建物の構造か、あるいは空の雲の動きを見ているようだった。
彼女にとって、アスカという存在は、路傍の石や、背景のノイズと同じ。
「認識する価値すらない」存在。
信号が変わり、リムジンは音もなく滑り出した。
アスカは、その場に立ち尽くしていた。
握りしめたポケットの中の5万クレストが、急にただの紙切れのように思えた。
「……ムカつく。なにあれ。どうせ身体売ってるんでしょ」
アスカは、そう呟くことでしか、自分のプライドを守れなかった。
無から有を生み出す「学」を持つ者と、ある所から掠め取るだけの「寄生虫」。
その決定的な断絶が、17歳の少女の胸に冷たい杭を打ち込んでいた。
塾に戻ったアスカは、不機嫌そうにブースの椅子を蹴った。
「……カガせん。さっさと報告書書いて」
カガミは、ゲームの手を止め、慣れた手つきでタブレットを操作し始めた。
これは、親に送信される『授業報告書』だ。
『本日、アスカさんは二次関数の応用問題に取り組みました。集中力も高く、志望校合格に向けて順調なペースといえます』
完全なる、虚偽。
アスカは90分間、1秒たりともペンを握っていない。
だが、この嘘が、このシステムの潤滑油だ。
親は、「娘が勉強しているはず」という『安堵』に金を払う。
講師は、「自分の指導力不足を隠蔽」し、給料を貰う。
生徒は、「頑張っている自分」というポジションを親への交渉材料にできる。
全員が嘘をつき、全員がその嘘を「信じたがって」いる。
真実を直視すれば、この幸福なサイクルは崩壊するからだ。
「……はい、送信完了」
カガミはあくびをした。
「アスカちゃん、来週模試、どうすん?」
「白紙。どうせE判定だもん」
アスカは冷笑した。
「結果出たら『今は基礎固めの時期だから、点数は気にしなくていい』ってママに言って。あの人バカだから何でも信じるから」
「りょかりょか。……お互い、楽な商売だな」
二人は、薄暗いブースの中で、共犯者の笑みを交わした。
それは、底なし沼に沈んでいく者同士が、互いの足を引っ張り合いながら「まだ大丈夫だ」と言い聞かせているような、醜悪な安らぎだった。
授業終了のチャイムが鳴った。
アスカは塾を出て、夜の街を歩いた。
冬の風が冷たい。黒い翼が寒さに震える。
ふと、ショーウィンドウに映る自分の姿を見た。
派手なメイク。短いスカート。ブランド物のバッグ。
そして、背中には立派な翼があるのに、空を飛ぼうともしない姿勢。
あのアカデミーの少女、エラーラは、今頃何をしているのだろう。
きっと、世界の真理を解き明かすような研究をしているのだろう。
彼女の翼は、どこまでも高く、自由に羽ばたいている。
……対して、自分は。
親という飼い主を脅し、餌をねだり、狭い鳥籠の中で「私は賢い」と鳴いているだけ。
アスカは、頭を振って思考を追い払った。
考えるな。考えたら負けだ。
金はある。時間もある。
……若さも、ある。
私は幸せなはずだ。
「もしもしパパ?塾終わったよ。うん、すごく頑張った。お腹空いたから、帰りに何か食べて帰るね」
魔導端末越しに、甘えた声を出す。
親は喜んでいるだろう。「勉強熱心な娘」の声を聞いて。
アスカは、夜の闇に溶け込むように歩き出した。
彼女が向かう先は、未来ではない。
ただ、今日と同じ明日が繰り返されるだけの、閉ざされた飼育箱だ。




